やられたら「やられっぱなし」

人気ドラマ『半沢直樹』の決めゼリフが、「やられたらやり返す。倍返しだ!」だった。

この「幼稚園児」が言いそうな言葉に、当初違和感があったけど、何度も見聞きしていくうちに、「無感覚」になるばかりか、水戸黄門の「印籠」のごとく、どのタイミングで「言うのか」に興味が移った。

つまるところ、視聴者の「幼児化」という策に「まんま」とはまっているわけである。

やられたらやり返す、というのは、難しい言葉にすれば、「意趣返し」である。
これの究極が、「仇討ち」ということになる。

世の中が「単純」で「素朴」であったけど発展していた江戸時代には、「仇討ち」も高度化して、「許可証」の有無が、犯罪と正義の境界線になっていた。
つまり、「私怨」は「法」として許されず、「公(おおやけ)」の仇討ちこそが「名誉」となったのである。

もちろん、「公・私」に関係なく、相手によって「返り討ち」されることだってある。
それでも、「仇討ち」を実行して死んだということの「名誉」は残った。

この「名誉」の価値が、「家(名)」の価値だったのである。
個人は連綿と続く組織としての「家」に属するので、「家名を穢す」ことは許されない、という「制約」がもっとも身近なものであった。
なお、「けがす」が、「汚す」でなくて「穢す」なのは、「神仏に対して」も含むからである。

封建制の世の中が「単純」だったことの理由のひとつに、「身分社会」という常識があった。
人々は、自分が属する「身分」の中で生きていたので、他の身分の出来事はある程度無視できた。

これが「単純」な社会を作ったのである。
だから、身分が取り払われると、社会は必然的に複雑化する。

そして、身分社会では「ない」のに、持てる者と持たざる者の「差」ができて、持てる者が持たざる者を支配するということが「暗然と」行われれば、その複雑性が内向きにもっと増すのである。

この意味で、共産主義は、持たざる者の政府になるという「複雑」が、一方で「かつての」持てる者を「排除」しながら、持たざる者の内輪における「複雑」も増させるのである。

メカニズムとして、共産主義は思想「だけ」ではないからである。
一般的に、「マルクス・レーニン主義」と言われる理由がこのことを指すのだけれど、一般人は用語としてだけを聞いていて中身をしらないものだ。

思想は、「マルクス主義」のことをいう。
そして、重要なのが「組織化して革命を実行する」方法を「レーニン主義」というのだ。
この「方法」が、「まずい」のである。

レーニンは、「革命のため」という理由があれば、「なにをしても正当化できる」という無茶苦茶を「理論立てた」のだ。
この「なにをしてもいい」には、殺人も含まれる。
「生きている人」も「物」として考えるのが、「唯物論」なのである。

そんなわけだから、政治権力「すら」持たざる者は、完全に支配される身分に「固定される」のは、その世代だけのことではない。
政治権力を持つものは、必ず自分の一族を優先させて「固定化させる」から、ポストを独占するのも必然なのである。

こうして、支配される者は、やられたらやられっぱなし、という身分に永遠にとどまる。
全員が平等の共産社会に、「格差」がないとは、支配される者の階層のこと「だけ」をいうのである。

無論、支配する側には、権力闘争という別次元がある。

これに比べたら、民主主義の方は、ずっと「流動的」だ。
このことが、たとえ表向きであっても身分制がない社会の場合に、民主主義に代わる「ベター」な制度が見つからない理由であるし、旧東側諸国のひとたちが、「反共」で一致する理由でもある。

やっぱり、やられたらやり返す、という可能性を排除していないことに「魅力がある」からだろう。

さて、スエーデンという小国で、この国を代表する大手新聞社が、「反省」の大見出しを掲げた記事を出して話題になっている。

この2年間、自社の「コロナ報道」について、政府発表の数字や対策「しか」書いてこず、新聞として「政府に批判的な情報」を読者に提供しなかった、ことへの「反省」だという。

それは、政府が発表する「感染者数」の「根拠」とか、「対応策」の第三者的立場(たとえば「科学」)からの「妥当性」とかという、生活密着の「重要情報」であるから、これを読者に提供しなかった、ことの「反省」に読者が驚いているという。

もちろん、もっと驚いているのは「政府」であるけれど、「プロパガンダ機関ではない」という新聞社としての歴史的宣言となっている。

さては、「なにを今更」という「国内読者」からの意見に対して、各国からのコメントが寄せられていて、それぞれの国の「ダメさ加減」大会になりつつも、「ニューヨークタイムズよりはマシ」という意見で締め括られている。

きっとニューヨークタイムズの読者が投稿した、「意趣返し」に違いないけど、世界中に「いいね!」という輪が広がっているのに、ニューヨークタイムズは「沈黙」するしかないという体たらくを、これまた世界に示しているのであった。

日本語の特異性から、日本の新聞社が「やり玉に挙がらない」のは、「ローカル」の証拠で、それだけでも「意趣返し」にはなるかもしれない。

果たして、ニューヨークタイムズの発行部数の「倍返し」になっている。

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