命令に従う訓練

犬のはなしではない。人間のはなしである。

犬ならば、人間の命令に従うように訓練(しつけ)をするのは、人間社会という空間で一生を暮らすための「必要条件」になるからである。
それは、その「個体の安全」にかかわることになる。

だから、むだ吠えしてうるさいから、とか、トイレをまちがえて後始末がたいへんだから、とか、フード・アグレッシブだから、とか、散歩で引っぱるから「しつけ」が必要になる、という理由ではなく、人間が群れの「ボス」であることを習得させることが、もっとも重要な「しつけ」になるのは、すべてがここからはじまるからである。

残念なことに、犬をしつけるためには「暴力」や「痛いめ」にあわせることが必要だとかんがえるひとがいて、これがゆえに「しつけしない」で「犬の自由」にさせることを意識的にして、最後は飼い犬に手を噛まれて大けがし、あげくに愛護センターに持ちこむことすらある。

やっぱり、犬が不幸になるのだ。

つまり、犬の幸福とは、安心できる群れのボスに守ってもらえることが第一条件になっている。
これが、動物としての「犬の本能」なのだから、その本能を育むことが「しつけ」であれば、虐待でもなんでもなく、当然に「暴力」や「痛いめ」にあわせる必要性などどこにもない。

これが意味するのは、飼い主の人間がどう考えているのか?次第であることに尽きる。
つまるところ、プロの訓練士がいう「犬を訓練するのではなく、飼い主を訓練するのだ」ということになる。

訓練士のもとでは「いいこ」なのに、飼い主にもどされるとかえって態度が悪化してしまうことがあるのは、飼い主が犬の扱い方を訓練されていないから、犬が混乱をきたすのである。
バカなのは犬ではない。

ここから学べることは、なにか?
まず、「相手をしる」ということの重要性である。
相手が犬なら、犬とはなにか?
相手が人間なら、ヒトとはなにか?

子犬の売買における法的規制が厳格なのは、ヨーロッパにおけるドイツ語圏である。
ドイツやスイスがこれにあたる。

誕生してから母犬と兄弟たちとの生活による、「社会化訓練期間」を経ない個体としての取引は「禁止」されている。
この「社会化訓練期間」に、親犬等からの引き離し自体が「虐待」だという認識を人間社会の方がしているのである。

つまり、三つ子の魂百までということわざどおり、親犬等による「犬社会」という世界における「しつけ」すら子犬時に経験がないと、その犬の将来に「精神不安」がおそってきて、とうとう犬が精神病を発症してしまうことの可能性が高まることがわかっているからである。

わが国の「自由主義」は、この事実を無視しているが、それは、けっして「自由主義がいけない」のではなくて、商業主義重視、つまるところ産業優先・業者優先の「重商主義」がいけないのである。
結局それで、飼い主という個人がリスクを負担させられているのだ。

つまり、犬も人間も不幸になるようにしている。
ドイツ語圏の合理性重視という価値観からしたら、「ありえない」という状況がわが国では「常態化」しているのだ。

すると、こんなことが「常態化」している、わが日本社会とはどんな社会なのか?
ようやく、人間のはなしになる。

「自由の取り違え」を根本としているのである。
さらに、発想の原点が明治期の成功体験をいまだに基礎にしていて、これを戦後の高度成長の体験とダブらせている。

つまり、発想方法が「帰納法」によっている。
すなわち、類似の事実の積み重ねから、原理や法則を導きだす「推論」のことをいう。
たとえば、明治のひとは頑張ったから成功した。戦後も頑張ったから成功した。だから、頑張れば成功する(はず)だ、という論法である。

これが、「頑張ろう日本」になっている。

けれども、なにを頑張るのかがあいまいでわからない。
わかっているのは、うつ病のひとに「頑張れ」といってはいけないことだ。

そこで、反対の発想方法に「演繹法」がある。
これは、前提となる「事柄」から確実にいえる「結論」を導きだすものだ。すると、前提となる事柄がぜんぶただしいとなると、結論も必ず正しいものを導くことができる。
よくいう「三段論法」がこれにあたる。

たとえば、犬は必ず縦社会をつくって安定する動物だ。人間がボスになると犬は従う。ゆえに、人間がボスになると犬は安心する習性があるからそのようにしつける必要がある。

すると、わたしたち自身が、犬あつかいされるのは、人間社会としていかがか?ということが問題になる。
支配したい為政者は、人間を犬あつかいしたい。
支配される側は、犬あつかいは嫌だ。
これが、人類史における「興亡」となった。

そんなわけで、ふるい教育とは、為政者の命令に従うように一般人の子どもを訓練することであった。
いま、マスコミに出てくる医者のいうことや、政府のいうことに盲目的かつ忠実なひとたちは、この部類の訓練を受けてきたのだとわかる。

しかして、人間という動物の精神や心理を研究すると、命令しなくても命令に従うようになる。
さて、それはどんな方法で、はたして為政者だけに都合がよいものであるか?

自分にも都合がよいから、自分から従うのである。
それが「マネジメント」なのである。

日本人にいま、もっとも欠ける素養になっている。

トイレがない家

流通が脆弱だっただけでなく、特定国での製造依存が脆弱だった。

そんなわけで、一般住宅用の設備機器が不足という事態になって、とうとう受注も止まりだしたという。
つまり、メーカーに申し込んでも受注してくれないから、納品もなにもあったもんじゃない。

がんばって、国内製造でふんばってた会社は供給ができるというけど、陶器製のトイレがない。
風呂桶がない。換気扇がない。エアコンがない。
部品がないから完成品がない。

自動車産業についで、すそ野が広いのが住宅産業である。
一軒の家は、さまざまな「部品」からできている。
むかしの家ならかんがえられない、設備機器が快適な住環境をつくっているから当然でもある。

いまようの「エコな家」とは、高密度・高断熱を旨とする。
これを、家の「基本性能」ともいうようになって、阪神淡路からの震災経験をふまえての法改正も何回かあったから、30年前の家といまとでは、まったくちがう性能の家が法律上でも建っている。

ヨーロッパを中心に、家の価値は数百年にわたって保たれるようになっていて、わが国の、建てた瞬間から減価がはじまるものとはちがうといわれてきたが、そのヨーロッパに学んだひとたちが、日本の気候風土にあわせた高品質住宅をつくりはじめている。

年間の光熱費が数万円で済む家などは、ちょっと前ならかんがえられなかったけど、いまではふつうに供給されている。
真夏、外気が35度を超えるのに、木造の家の中は25度をたもっているというような性能である。もちろん、冬もおなじ室温になる。

そのための断熱資材や高密度資材も、国産ではないことがある。
とくに窓のサッシは、残念ながら国産よりも外国製が優秀だという。
国産は外枠方式、外国製は内枠方式というちがいがあって、施工は困難だが、外壁を傷めず内側から交換できる外国製は、建物寿命にたいへん配慮されている。日本製が世界最高ではない事例のひとつだ。

本来ならば、こうした技術を利用した、モデル・ハウス的「旅館」があっていいのだが、設備投資をまともにできる経営状態ではなくなっている。これも外国人依存の負の効果だけではない。
それでも、旅館の経営者は、一般人の住宅がこういう性能になっていることを無視できないのは、お客様の家がそうなっているからだ。

いま、「端境期」といわれているのは、中古住宅取引における「建物の価値」をいくらに見積もるのか?がほとんどできていないためである。つまり、「目利き」なら、良質の中古物件を格安で購入できる可能性があるのだ。

しかし、中古住宅なら、やっぱり「リフォーム」が欠かせない。
新規に入居するなら、水回りは気になるところだ。
こうしたこともふくめて、今回のウィルス禍は、住宅の重要部品がなくなるという大問題になっている。

一戸建てであろうが、集合住宅であろうが、新築であろうがなかろうが、最後のパーツとなる「トイレの便器がない」状態なら、引っ越すこともままならない。

やさしいけれど、世間に興味がない行政のひとたちは、そんな事情はお構いなしに、「完成検査」をやってくれるという「特別な配慮」をしてくれる。
トイレがない家が、「完成」したと書類をくれるのだ。

すると、金融機関は住宅ローンを「実行」する。
新居に引っ越しても住めないから、賃貸に住んでいるなら退去もできないのに、従来の家賃とローンの二重払いがやってくる。
いまの家を売却して手放す予定だったなら、いきなり住む家を失うことになりかねない。これは、新規入居者がきまっていたら、賃貸でも退去期限までにでていかないといけないから、おなじである。

そんな状態になったら、「完成」していても、ローンが実行されてはこまる。
ところが、トイレの便器がない「だけ」で、建築費用の支払が全部実行されないと、工事を請け負った大工さんが、各種材料の代金も支払えなくなる。

あっとおどろく「連鎖」があるのだ。
だから、「すそ野が広い産業」だというのである。

元の原因は、製造業の国内空洞化にある。
しかし、いまさらこれをいっても、ないものはない。
いかなる「依存」状態だったか、いまさらながらにわかるけど、だからといって、開き直られてもこまる。

日本株へのてこ入れで、ハゲタカたちにみすみす資金を吸い取られるなら、こうしたひとたちの救済をかんがえたほうがよほどいい。
それは、本人たちだけでなく、日本経済のすそ野を守る意味もある。

放置すれば、施主と施工者との、信頼関係すら壊れてしまう問題だ。
はたして、残ったトイレの便器だけを設置するだけの仕事を、大工さんが積極的にやってくれることもないだろう。
何十年かのメンテナンスもかんがえたら、完成時のトラブルはえらく長引くはなしになってしまう。

あるはずのモノがないが転じて、おカネがないになって、互いの信頼関係が崩壊する。
この図式でなら、まずはおカネをもって一助とするしか、方法がない。

完成してないのに完成したことにするのなら、このくらいの配慮をするのが人間というものである。
政治が死ぬと、こういうことが頻発して、他人を信用できないことになる。それで、とうとう社会そのものが崩壊してしまうのだ。

モグラたたきゲームがはじまった。

たまに「名作」にぶつかる

テレビを観なくなってひさしい。
ニュースも天気予報も一切観ないで、ちゃんと社会生活ができるから、受信機があるというだけで受信料を徴収するのは、「なくてはならないもの」に対する勘違いでしかない。

ものがない時代と情報もない時代の賜だった「放送」が、すっかりコモディティ化してしまったので、「受信料問題」という「問題」が、顕在化してきたのだ。
その意味で、制度も「古い」が、かんがえ方がもっと「古い」。

何回か書いたが、観るのは「YouTube」である。
こちらは、事実上の「アーカイブス」にもなっている。
いい悪いの議論はあるが、よく観る傾向をAIが判断して、そのひとが好みそうな動画ばかりを提案してくる。

それで、仕方ないから、なるべく興味がない動画も選ぶようにしている。
すると、なんだかいろんな動画を提案してきて、たまに「ヒット」するから、AIもまだまだのレベルなのだとわかるのである。

わが国を代表するゲーム機メーカーに成長した、もとは「花札」や「トランプ」をつくっていた会社がつくったゲーム機のために、不思議な「番組」もつくっていた。
このゲーム機は、動画を観ることができる機能があって、その機能紹介のために製作されたものだとわかった。

初代のゲーム機と後継機種は持っていたが、複雑化するゲーム内容についていけず、ぜんぜん興味をうしなってしまったから、いまどんなゲーム機がどうなっているのかをほとんどしらない。
スマホでゲームをしているひとをみると、その時間の読書をすすめたくなる悪い性分もある。

たとえ「サンプル動画」だとしても、あらためて検索したら、なかなかの話題になっていた。
10分ほどで短いけど、内容がよく吟味されている良質の「シリーズ」は、全部でたったの「15本」で終了している。

『修理 魅せます』

ナレーターは、石坂浩二による。
彼は、プラモデルのおそるべきファンだというから、この手の「番組」のナレーションは、楽しくて仕方なかったにちがいない。

「修理」という分野は、「ものづくり」とはちがうジャンルなのだとよくわかる。
しかも、それは、新製品をつくるよりよほど難易度が高い。
これを、15の製品で「魅せ」ている。

それは、出演する職人全員のもっとも重要視していることが、「依頼主の思い出」だからである。
かれらはものを修理しているのではない。依頼主の「こころを修復」している。
だから、かれらは、製造業ではなくて「感情産業」のひとたちなのだ。

日本がかつて世界を席巻した「テレビ受像機の製造」は、もはや壊滅的である。
いわば、当時のアメリカ人が味わった家電製造業の壊滅を、いま、われわれが追体験している。

失業はこまるけれども、アメリカ人はお構いなしに、日本製のテレビを購入したのは、安くて性能がよかったからである。
いま、われわれだって、安くて性能がよければ、日本製にこだわることはないとかんがえて、購買行動をしているのだ。

むしろ、あたかも「日本製のような」製品がおおくなって、なにがなんだかわからないから、いっそうこだわりがなくなっていく。
その代表がテレビ受像機である。
メーカー名が「ブランド」としてあつかわれるから、わが国伝統の電器メーカーがつくったものだとおもわせる「怪」がある。

4Kだろうが8Kだろうが、解像度が高くなっても、これにみあうコンテンツがない。
だから、買っても無駄だとおもうけど、どうしてみなさんがほしがるのか?

テレビを売りたかったら、その機能にみあった番組が放送されないと意味がないのである。
「日曜劇場」や「水戸黄門」を電器メーカーの提供でやっていたのは、このためでなかったか?

それで、ゲーム機メーカーが、驚きの番組をつくってしまったのだ。

しかし、この「シリーズ」は、できがよすぎた。
およそ、このシリーズを観て感激するひとたちなら、はたして最新のゲーム機を自宅に購入するのか?
いや、こうした番組に敏感なひとたちが、ゲーム機を購入すると意図したのか?

けれども、ゲーム機を購入しないと観られないのなら、やっぱり「順番」がちがう。
「おまけ」なのである。

すると、なんて贅沢な「おまけ」か?
儲かりすぎて税金をおさめるぐらいなら、思いっきり「無駄遣いしてやる」と意気込んだのかもしれない。
それで、業績にかげりがでたら、企画も中止になったのか?

それなりに製作されてからの年月がたっているけど、こんなシーリーズをつくったことに、とても好感がもてる。
このゲーム機メーカーを見直させられたのである。

ならば、今度はテレビ・メーカーが、後継番組の権利を得て、これぞという新シリーズをつくってほしい。
それが、最新の映像技術とどう結びつくのか?
ただ「きれい」な画面ではなく、ドキュメンタリー番組として成り立つ手本を示してほしい。

テレビを売りたいなら、ほしくなる番組がなければならない。

まさか、こんなことも、メーカーは忘れてしまったのか?

ダメ上司考

世の中の「組織」には、ダメ上司が「たくさんいる」とかんがえられる。
その理由はいたって単純で、業績が振るわない組織がたくさんあるからである。

人間というものは、「思考」する動物だから、その思考の奥にある「価値観」や「思想」といったものが、じつはかなりおおくの「行動」を支配している。
これが、本能で生きるだけの「動物」と、決定的にことなる点である。

そんな人間があつまってできるのが、「集団」である。
しかし、集団には、はっきりした「目的」がないという特徴がある。
たとえば、相撲の観戦だって、広い会場に集まったひとたちは、「観戦」するだけで、あとはとくになにか参加することがない。
たまに、座布団を投げることぐらいであるけど、これも全員の義務ではない。

プロ野球観戦がつまらなくなったのは、内野席であっても、なんだか「応援を強制させられる」ことがあるからである。
ここに座るのは、こちら側のチームのファンしかいないという発想がその場の周辺におよんで、おそろしく気分を害したことがある。

それから、あまりプロ野球をみなくなった。

こうした、ひとつの場にいるだけの状態を、「集団」というのだ。
だから、わが国の特徴といわれた、「集団主義」というのは、あんがいと「虚無的」で、なんだかわからないけどみんなでやる、というイメージがある。

これが、成功体験になったのは、「粗っぽい製品」や「一律のサービス」がゆるされた時代背景があったからではなかったか?
つまり、「不足」を前提としていたので、あまねく販売・普及させることに重点をおけば十分に業績があがったし、それ以上はコスト高になったのである。

そうなると、組織としては、集団を引っぱることができれば、中間管理職としては上出来である。
すなわち、職場の構成員たちの「成熟度」は問われないばかりか、むしろ、がむしゃらに命令に服従することがよしとされてきた。

しかし、規模の大小を問わず、現代の優良企業にみられる組織は、第一に職場の成熟度からしてぜんぜんちがう。
このときの「成熟度」とは、ベテランから新入社員まで、正社員からパート・アルバイトまで、じぶんたちのやるべきことを全員が理解している状態の有無をいう。

もちろん、「成熟している」状態とは、この理解度が「広く・深い」のである。
だから、このような組織での上司の役割とは、職場の構成員の邪魔をしないことであるし、積極的に彼らをフォローすることになる。

これが、その職場のパフォーマンスを最大にするからである。
つまり、優良企業の優秀さの本質である「生産性の高さ」は、ここに源泉があるのである。

最優秀な人材を結集しても失敗するのは、これができていないからで、最優秀ではないひとたちが、ときに大逆転の成果をだすのは、これができているからである。

すなわち、職場を成熟化させることができるかできないかは、企業の命運すら左右する重大な分岐点なのである。
会計でいう「損益分岐点」などは、たんなる現象にすぎないから、まったく比較にならない小事である。

では、新入社員やパート・アルバイトまで、どうやって短期間で「成熟させる」のか?
これが、上司の役割のもっとも重い仕事になるのだ。

上司の「できる」、「できない」、「ダメ」は、ここで決まる。

・職場を成熟化させることが「できる」。
・職場を成熟化させることが「できない」が、悪化もさせない。
・職場を成熟化させることができないばかりか「ダメ」にする。

「できない」なら、その上の上司や経営者が、「できる」ようにするように差し向ければよい。
けれども、「ダメ」ならば、即座に配置転換をさせなけれなならない。

これができないなら、それは「ダメ」なひとのせいではなく、その上の上司や経営者の責任である。
ところが、「ダメ」なひとがいる理由は、その上の上司や経営者も「ダメ」だからである。

このような職場にいたら、
若ければ、転職を視野にいれる。
転職ができないなら、業務改善をじぶんでしないといけない、と覚悟する。
という、二択になる。

放置すれば、最悪「倒産」という事態になって、職場ごとなくなるから、業務改善をする覚悟はそんなに「悲壮」ではなく、むしろ、結果が最悪でも、給料をもらいながら業務改善の実験ができるとかんがえれば、無理矢理の転職にも有利になる可能性だってある。

もはや、正職員であろうがなかろうが、関係ない。

ふつう、職務契約で、パートタイムやアルバイトには、職務範囲が定められているが、「ダメ」やその上の上司や経営者が、このことを忘却していることがある。

職業訓練も含めるとかんがえれば、あんがいとパートタイムであれ、アルバイトでも、かんがえによって「都合がよい」ことにもなる。

それにしても、「ダメ」を放置する「ダメ」が、目立つのである。

パソコンメーカーからの電話

購入者への意見聴取というふれこみで、昨年秋に購入したパソコンのメーカーからの電話があった。

本音は、年度末決算の値引き販売の案内をしたかったらしい。
けれども、ついこの前に新品を購入したばかりなのだから、当分の間、購入予定はないと告げると、いろいろと遣い勝手の質問に切り替わった。

顧客への電話において、「販売」と「情報収集」という二つの目的をもたせるとは、「さすが」とおもった。
こういう「技」を、日本企業はできなくなっている。
「電話調査」という分野で一日の長がある、「外資ならでは」だとおもいながら、それに回答することにした。

ちなみに、「電話調査」で成功したのはアメリカだ。
アメリカ人の陽気さが、いきなりかかってくる他人からの電話でも、あんがい気まずくさせないのだ。
それで、紙を送りつけるアンケート調査より、電話調査の方が主流になった。

ただし、質問は「二問までが原則」だから、今回の電話も、このルールにしたがっているのである。
おそらく、初期のころ、三問も四問も質問して、さすがに怒りをかった経験があっての「ルール」になったはずだ。

アメリカ人の経験則なので、日本人に適用できるのか?ということは十分に検討されたはずでもある。
医薬品だと、アメリカ人の一回分の半分がおおよそ日本人向けになっているのは体格のちがいだが、生活習慣すなわち文化のちがいは、みえない分、難易度がたかい。

わが国の人的サービス業すなわち「接客業」で、この「難易度の高さ」が議論されない。
その「安易さ」が、収益や生産性の低さになってあらわれているのである。

「サービスの難易度」のことではない。
相手の文化や習慣についての研究のことである。

世界的にみて「貧乏国」だったわが国は、ヨーロッパ人からすれば、身分の差はあったけど、めったに所得の差があったようにはみえなかった。
それは、日露戦争勃発前の駐日フランス公使がのこした文章にもみられる。

高貴なる日本人が、ロシアという大国と戦ったら、滅亡してしまうだろうと嘆いたのである。
それは、国民全体が「高貴」であったが、国全体が「貧しい」からであった。

けれども、国民の側は視点がミクロになるので、フランス公使のようなマクロの比較対象をもっているわけではない。

そんななか、当時の「接客業」におけるサービスの「粒度」をかんがえると、だいたい「おなじ」すなわち「一律」なのである。
つまり、相手の身分によって一定の変化をさせれば、それでよかった。

かつての「文豪」たちの小説をそれぞれ読めば、主人公たちが接客業者にどう扱われたのか?がよくわかる。
つまり、ワンパターンなのである。

高度成長期の「一億総中流」時代こそ、もっとも「一律」が優先されて、全国の有名旅館やホテルも、だいたい「おなじ」なのであった。
これが、総崩れになったのは、直接的にはバブルの崩壊ではあったけど、その底辺には、高度成長の産物としての「多様化」があった。

それでいま、ようやく宿の形態も「多様化」してきてはいるが、むかしからの宿が、「多様化」の研究をしっかりしているといえるのか?
と問えば、なかなか「肯定」できないのである。
これが、衰退の主たる原因なのだ。

そんなわけで、購入したパソコンについての感想をきかれたので、大不満の「キーボード」について語ることにした。

「軽さ」を強調するのはいいが、「薄さ」はいかがか?
そのために、キーボードが貧弱になる。
これは、「入力機能」として致命的で、遣い勝手評価の8割ぐらいにあたらないか?と。

それがため、古いノート・パソコンをサブ・マシンとしていまでも愛用しているのは、頑丈なゆえに重いけど、キーボードの打ち心地について、他の追随をゆるさないからである。
しかも、このメーカーさえも、いまではこんな丁寧なキーボードを装備した機種を販売してはいない。

つまり、全メーカー全滅という状態になったので、快適なキーボードを持ち歩くことにした。
すると、ノート・パソコンのキーボードが不要になる。
しかし、タブレットPCのスペックにおける「貧弱」と、立てかけるときの不便は、がまんできない。

つまり、キーボード・レスだが、画面の角度調整ができて、二画面の携帯パソコンがほしいという意見をのべたのである。

どういうふうに、企画設計につながって、どういうふうに議論されて、それが採用あるいは却下されるのか、知る由もない。
けれども、日本メーカーのパソコンがたった数社で、事実上ほとんどなくなったいま、アメリカの老舗に期待したいのは本音である。

しかも、このメーカーは、「東京生産」をうたっていて、都下の工場で組み立てている。
日本人が働く場所があるから、いいたいことをいわせてもらった。

こんなことを、消費者がかんがえる時代になった。

全国一律の安心とムリ

どんな地方に行っても、「全国一律」がある。
コンビニと百均がそれだ。
コンビニをコンビニせしめているのは、最大手にしてわが国で最初のコンビニの物語がかたるように、「配送」にこそ仕掛けの「タネ」がある。
つまり、じつは「コンビニ」とは、「流通の完成形」なのである。

さいきんのコンビニは、コーヒーにその「オリジナル」を求めている。
どちらのコンビニ・ブランドでも、販売する商品のおおくは、「ナショナル・ブランド」を主体とするから、看板ごとに「ちがい」を訴求するには、さいしょは「弁当」や「おにぎり」だった。

ところが、どちらさまもこれを用意して行き渡ったので、つぎは「おでん」になった。
それから、「揚げ物」になって、プライベート・ブランドの商品群開発へと進化した。
そして、昨今は、「コーヒー」になったのである。

コーヒーは嗜好品だから、ひとによって好みがわかれる。
それで、熾烈な競争が勃発した。
「販売競争」というよりも、「品質競争」になったのは、「万人向け」にこだわると、コンビニ・ブランドとしての主張が減ってしまうし、特徴的な味と香りにこだわれば、選択肢から除外される可能性もでてくる。

この、相容れない関係の、どこを自社の「コーヒー」として設定するか?は、集客における重大問題になったのである。

これにくわえて、学校の教室にも職場にも、水筒を持ちこむことが許される時代になった。
持ち運びに適した、魔法瓶機能のあるさまざまな水筒が、さまざまなメーカーから販売されている。
ペットボル飲料の手軽さはあるが、これが、「エコじゃない」という価値観がうまれて、マイボトルの水筒へとシフトした。
わが家では、紅茶用とコーヒー用にわけて、350ミリリットルと500ミリリットルの二種類があるから、水筒大尽である。

大手コーヒーショップがそうしたように、マイボトルを持ちこんだひとには10円ほどの値引きがある。
これが、「エコ」になったのは、エコロジーのエコではなくて、エコノミーのエコである。

はたして、セルフでコーヒーマシンを操作するタイプと、店員が用意するタイプに、サービス・スタイルも分離した。
マイボトル持ち込み派としては、ボトルの容量に応じられる、店員が用意するタイプが便利である。
セルフ対応だと、マイボトルが直接セッティングできないからである。
つまり、店の紙コップを注ぐためにだけつかうことになる。

そんなわけで、全国に出張しても、宿泊先の近所にたいがい存在する、コンビニのコーヒーをマイボルにて購入するのは、安心なことのひとつである。
けれども、じぶんで淹れることもある。
百均の四角いビーカーにレギュラーコーヒーとドリップ用の漏斗とペーパーがあれば、どこでも好みのコーヒーが客室で淹れることができる。

唯一のネックが、客室設置の湯沸かし器で、これが用量がすくないと、ほしい量がまかなえない。
電気ポットがあると、便利なのである。
すると、いったい、どのくらいのひとが自室でコーヒーを淹れているものか?
かなり「レア」かもしれない。

その「レア」さを、清掃係が発見して、どのくらい「情報」として客室販売の責任者に伝わるのだろうか?

昨今の、ホテル等における客室清掃は、ずいぶんと専門会社に業務委託するのがふつうになったけど、客室の使用方法についてのレポートをあげることは、「清掃業務」に含まれないだろうから、宿側が宿泊客の客室における使用状況をしることができなくなっている。
はたして、これで「宿泊業」といえるのか?

レギュラーコーヒーを淹れれば、「コーヒーかす」がでる。
だから、わたしは、ゴミ箱にハッキリした痕跡を残している。
これが、客からのメッセージでもあるのだ。
すなわち、朝食のコーヒーへの不満表明である。

さいきんは、ビジネス・ホテルの「無料朝食」でも、レギュラーコーヒーのサービスがあって、客室への持ち帰りもできる配慮がある。
すると、朝食の場が「味見」となって、気に入ればマイボトルに入れることができる。
つまり、むかしからの宿よりもコンビニエンスになっている。

こうしたことが、「ムリ」だというなら、いったいどんなことをやっているのか?
宿の独自コーヒーがあっていい。

そういう時代になっていることを、全国一律のコンビニがおしえてくれている。
あんがい、宿の経営にかかわるひとたちの感覚に「ムリ」があるのである。

不思議なことである。

「技術」と「技能」の喫茶店

うまいコーヒーがのみたい。

むかし、「味」でのませる喫茶店がたくさんあった。
けれども、点在していた。
それで、電車に乗って行ったものだった。

どういうわけか、よく父とふたりで出かけたのは、母を出しぬく理由をつくっていたのかもしれない。
コーヒー好きの父は、喫茶店のコーヒーを飲んではその店で豆を買って、自宅でサイフォンをつかって再現していた。

これを、母に飲ませていたのは、種明かしなしの「勝負」を楽しんでいたのだろう。
子どものわたしは、もっぱらケーキがうれしかった。
店名にもなっている、自由が丘のモンブランの味はわすれられない。けれども、ここの洋酒たっぷりのサヴァランがたまらなく好きだった。

注文すれば、かならず「呑兵衛」になるな。と呑兵衛の父にいわれたものだ。

コーヒーについてくる、クリームがはいった小さなカップは、その小ささが妹のママゴト用食器ににていて、区別がつかなかった。
それに、牛乳とクリームの区別もつかなかった。
ブラックで味見して、クリームをいれたときの交わりかたが、なんだか不思議な模様をしていて、じっとみているとスプーンでかき混ぜられた。

おとなに近づいて、友人に誘われたのがカウンターだけの喫茶店だった。
「ここのコーヒーが横浜でいちばんうまいんだ。」
どうしてそんなことをしっているのか?けっきょくわからずじまいになったが、たしかに「うまかった」。

しかも彼は、カウンターのなかの主人と親しげに話している。
豆のことや焙煎方法、それに挽き方。
それぞれにうんちくがあって、とてもついていけない。
わかったのは、その組合せの無限さが、喫茶店という「店」をつくっているということだった。

同年代で、あんなコーヒー好きに出会ったことがなかった。
もしや、彼は喫茶店のおやじになったか?
ふと入った店で、「おう、ひさしぶり」と声がかかたっら、と想像するとそれは愉快でもある。

生豆から販売する、コーヒー豆専門店ができてきた。
生前の父が、近所にできたことをしってずいぶんかよっていた。
若かったら、彼とおなじぐらいに凝ったことだろう。

はたして、ホテルのコーヒーはどうか?
あんがいぞんざいにあつかわれているのは、大量生産大量消費のためである。
一日で、何百人ものひとたちがコーヒーをすすっている。

サービス業のえらいひとたちは、工業をバカにする傾向があるけれど、ことコーヒーに関していえば、まったく工業的なのがホテルである。
しかも、いまではとっくに時代遅れになった、大量生産大量消費そのものだから、たちがわるい。

ホテル内高級レストランの業績改革で、よくいらっしゃる常連客の好みをきいて、それを管理し、自由にブレンドが可能にしたらどうかと提案したことがある。
食事の最後のコーヒーを、じぶんの名前がついた番号で、今日は5番で、とかいえたら素晴らしくないかと。

これは、米屋の発想で、店内で各ブランド米をブレンドしてあげて、お客の好みのごはんが炊けるようにする。
スーパーの袋入りではない、「専門店」の生き残り作戦だ。
この技術を応用したらどうか?と。

けれども、ここは高級レストランで喫茶店ではないといわれて、この案は却下された。
それからしばらくして、この店自体が業績不振で営業を終了してしまった。

東京の南千住に、喫茶店の世界でしらぬものはいないという名店がある。
平均律を採用した大作曲家、あるいは「ドイツの三B」の筆頭のひとの名前がついている店で、ロゴもこの作曲家の肖像をデザインしている。

オーナーは、元ボイラー技士。
よって、焙煎は自作の焙煎機をつかっておこなう。
いまや、電器メーカーと自動コーヒーメーカーの開発までおこなっている。

「技術」と「技能」のちがいはなにか?
「技術」は、再現性で数式などに置き換えることができるもの。
「技能」は、人間の能力のことなので、パーソナルなものになる。
そこで、技術者に技能がくわわると、だれにもできない世界がつくれる。

このお店のオーナーが、それである。
もてる技術と技能を、「うまいコーヒー」という主観に集中させたら、だれにもまねできないことになったのだ。

あぁ、理系の力。

店名がついた「ブレンド」をいただいた。
渾身の一杯。
つぎから次に訪れるお客の注文をこなす手際の、惚れ惚れする「切れ味」も観賞しながら、この一杯にいたる「組合せ」をみつける作業はどんなものだったのか?

百杯も、千杯もつくっては「ちがう」として、廃棄する。
そんなことを通過してできたのだとおもえば、お客はとんでもないノウハウを買っているのである。
さも簡単にコーヒーを淹れていることで、この値段ではない。

しかも、この店は、ケーキやパンも自家製なのだ。

けっして立地にすぐれているとはいえない場所に、どこからともなくお客がやってくる。
しかし、このひとたちは「長居」しない。
まるで「寿司屋」のごとく、コーヒーで一服してさっと帰る。

江戸っ子だねぇ。

お店の趣旨を理解したお客とともに、別世界がつくられている。

政府がホテルの品質をきめる

昨年暮れに官房長官から発表されたので、業界人なら知らぬものはいないだろう。
まったく「とち狂った」としかいえない日本政府は、客室の「スイート・ルームが多いこと」を「世界レベル」といい、それをやる「高級ホテル」を各地に50カ所「新設」するそうである。
しかし、主だった「反対」がなかったのでどうしたとおもっていたら、やっと昨日「ビジネスホテル大手」のオーナーが異論を発表した。

残炎ながら、この異論は、問題の核心を突いたモノではない。
その意味で、「政府に配慮している」ともいえる。
このひとの主張は、面積なら自社のように「狭いホテル」が外国人観光客に好まれていること。
そして、それこそが「エコ」である、と。

わたしが指摘している問題とは、「政府の介入」のことである。
「自由であるべき経済」を政府が介入してコントロールする。
これこそが、社会主義なのである。
わが国の著名経済学者たちも、思い切った表現として、社会主義「的」といって、「的」をつけて政府に配慮する。
しかし、もはや現行の安倍政権(=官僚政府)にはちゃんと「社会主義だ」と決めつけてあげた方がいい。

たまたま、桜のはなしかなにかが「内閣支持率を下げている」ようにみえるからといって、おおくの国民が、野党を支持しているわけでもない。
それは、「社会主義の薫り」に、体質的な違和感があるからである。
けれども、あまりにも「社会主義」が浸透してしまったので「薫り」ぐらいにしか反応できなくなっている。

本来、こうした「政府」に対抗すべきは、経営者たちがつくる「経済団体」のはずである。
初期のころの「経団連」は、その意味で「自由主義の牙城」で、官僚出身なのに石坂泰三は立派だった。
おかしくなったのは、「稲山会長時代」からか?
理論をもって支えたのが「日経連」(日本経営者団体連盟)だったが、2002年に経団連と「合併」した。

これから、日経連時代にあった「財界の理論」が陰を薄くするようになったと感じるのは、偶然ではあるまい。
すると、ライバルをうしなうと、うしなった側も衰退する、という原理から、労働組合側も弱体化するのだ。
これは、なにも「労使対立」をあおっているのではない。
むしろ、労働組合も「理論」を鈍化させてしまったといいたいのである。

労使の双方が、政府に寄り添って依存する。
これぞ、完全なる社会主義である。
国による公的社会保障制度の維持のため、という消費増税に、財界も労働組合も「賛成」したのは、確かにそれぞれの思惑はあるけれど、果たしてこの一致点の示すものはなにか?

わが国の経済界が、「国営企業化」しているのだ。

冒頭のホテル・オーナーはいう。
ホテルというものは建設すれば、何十年もホテルとして経営・運営されるものだ。
だから、投資には慎重かつ緻密な計画がひつようだと。

すなわち、需要と供給、という原則から、投資の決定をおこなうのが「経営」の本質なのである。
これを、政府が推進するとは、一体どういう意味があるのか?
投資リスクについて、政府保障をするということである。
すると、これは投資家にとって「ノー・リスク」ということになる。

こんなことが現実におきていいものか?
つまるところ、こうしてできたホテルの経営リスクを、「国民が負う」という意味だ。
そして、おそらく役人たちは次のようにいうはずである。
「わたしたちが責任をもって経営を監視する」と。

ちょっとまってほしい。
相手は、「需要と供給」という原理なのだ。
役人が経営を監視したところで、ホテル経営が成功するという保障などどこにもない。
むしろ、既存のホテル経営者たちを、徹底的にバカにしている態度である。

かつて、絶対王政の時代でも、王様が「景気よ良くなれ」と命令したところで景気は良くならない。
それで、経済学という学問が発達したのである。
いま、わが国政府は、役人が「景気よ良くなれ」といえば、良くなるものと信じている状態だ。

はたして、これはまともな思考であるか?

財界も労働界も、目を覚ますべきだ。
賃金が下がりつづけている理由は、生産性が落ちているからである。
なぜ、生産性が落ちるのか?
政府が経済に介入して、社会主義経済になってしまったからである。

そうしたら、生産性革命を政府がやるといいだした。
政府にやらせてはならないのに、財界も労働界も政府に期待している。
「働き方改革」という愚策で、どんどん働きにくくしているのは誰だ。
まるで、レジ袋有料化で、どんどん生活を不便にするのとおなじ、無駄な努力をさせるのが政府だ。

もはや「ソ連共産党」が「自民党」になった。
こんなやつらに任せてはおけぬ。
けれども、見渡したところで政界に替わりがいない。

あぁ、ポーランドの自由化を果たしたワレサ大統領がなつかしい。
彼が委員長を勤めたのは「独立自主管理労働組合『連帯』」だった。
当時「グダニスク」といわれた『連帯』本拠地の地名も、いまは「グダンスク」になった。
「レーニン造船所」が、この労組の職場である。

いまは、自由化運動の記念公園にもなっている。
そこには、この「革命」の犠牲者がたたえられた碑があって、賛同するわが国の労働組合名もその名簿に刻まれている。
何に「賛同」したのか?
ワレサ(いまは「ヴァウェンサ」)氏が1994年に国賓として来日し、帰国後に「ポーランドは日本のようになるべきだ」と発言したことは、現地では有名な逸話になっている。

はたして、いま、わが国は自由化したポーランドよりも社会主義経済の国になった皮肉がある。
「自由主義革命」が、わが国で必要なのだ。

MTP公認インストラクター

5日間の合宿を二回、合計で10日間。
昨日、この日程を終了し、公認インストラクターに認定された。
資格の元締めは、一般財団法人日本産業訓練協会である。
略して「日産訓」。あの自動車会社とは関係ない。

詳細は、協会のHPをご覧いただくとしても、「MTP」について書いておこうとおもう。

Management Training Program の略である。
カタカナにすれば、マネージメント トレーニング プログラム。
これの「先生」に認定されたわけである。

日本におけることの発端は、アメリカ空軍立川基地だったというから、終戦直後である。
占領軍として、東京の立川市にあった立川基地で、日本人従業員を募集し、たくさんのひとが就職した。

しかし、それは「烏合の衆」で、ぜんぜん効率がわるい。
こんなひとたちと死闘を繰り広げていたのかと唖然としたのは、アメリカ人将校たちであったという。
そこで、「教育」することになった。

対象者は、日本人でも管理職になった、あるいは、管理職にしたいひとたちで、組織運営のかんがえ方を体系立てて教える、というものだった。

それが、基地へ航空機の部品などを納入する企業にもひろがって、ついには「マッカーサー指令」にもなる。
すなわち、わが国製造業への学習指導が「命令」になったのである。

基地に納入する物品の品質基準を守らせるには、その会社のなかで、マネジメント体系のルールに従った活動がきっちりできなければ、製品の質に影響するとかんがえられたからである。
いまの日本からすればウソのようなはなしだが、「安かろう悪かろう」とは、メイドインジャパンの証だった時代のことである。

OECDの資料によれば、日本経済の伸び率とMTPの企業への普及率が一致していた時期が、一般に「高度成長」といわれる時代である。

バブル経済の頂点のとき、MTPの導入企業も頂点だった。
さすれば、MTPをわすれた日本企業の衰退とは、理屈どおりの事象であるともいえる。

基地での逸話がしめすように、MTPは、「初級管理者向け」の研修プログラムである。
しかし、だからといって侮ってはいけない。

それには「順番」が隠れているからだ。
立川基地という組織のトップは、当然だがアメリカ空軍の「将官」である。
その下の「佐官」や「尉官」たち将校は、みなMTPをしっている。
だから、日本人従業員のうち、初級管理者に実施して効果があがったのである。

つまり、組織のトップをふくむ上位者たちがMTPをしらないで、自社の初級管理者だけに実施すると、問題が発生する。
このプログラムの精密な設計は、組織のマネジメントについて網羅しているから、受講すれば組織マネジメントの「あるべき姿」がかならずインプットされるのだ。

それで、自社にもどれば、トップや上位者(上級管理者)が、マネジメントの「素人」にみえてしまうのである。
もちろん、それは「事実」だ。
この訓練を受けていない、トップや上位者は、まちがいなくマネジメントの「素人」である。

これは、「滑稽」でもある。
昨日まで上位と信じたひとたちが、たんに権威をかざしているだけで、中身がないことが歴然とする。
こんな素人たちに、なんで自分が従属しなければならないのか?

こういう「副作用」が、このプログラムにはある。
だから、本来の順番における対象者は、トップや上位者が先に受講していることなのである。

まるで「織物」を織るように、トップや上位者が、すでに織り上がっていて、そこに、新任管理職の横糸が一本織り込まれる、というイメージだ。
わが国を代表するメーカーは、数十年もこれをくり返してして、MTPを企業文化という「織物」にしている。

逆にいえば、トップや上位者が別の模様で織り上がってきているのに、新任管理職の横糸が別の素材や色だったら、浮き上がってしまう「ノイズ」になる。
どちらの立場からも、不幸をつくることになるのだ。

だから、この「順番」は、ものすごく重要である。

MTPの「凄み」は、組織の活性化にある。
つまり、組織が良い(上手な)方法で運営されれば、当然に企業目的や目標が達成される度合いが高まる。
裏返して、組織が悪い(下手な)方法で運営されれば、当然に無駄がふえて効率が落ちるから、業績も自助によって向上しない。

単純な原理なのである。

これは、MTPが「あらゆる組織に有効」な理由だ。
営利目的の民間企業はもちろん、町内会から部活まで、はては労働組合だって、「組織」なのだから有効なのは当然である。

すると、あとは「やる気」だけだ。
トップがみずから率先垂範して、幹部とともに受講してもよし、業界団体として、トップ同士だけで受講するもよし。

先ず隗より始めよ。

ご相談はお気軽に。

教育出張

製造業にはあるという「教育出張」は、人材育成のツールとなっている。

内田百閒の名作とも迷作の『阿房列車』のごとく、「なんにも用事はないけれど、出張に行く」ことで、大きな会社なら全国の工場見学、小さな会社なら社会見学に社員が出かけるのである。
自社工場ばかりではなく、全国の他社工場でもいい。
とにかく「見聞をひろげる」ことが目的だから、べつに工場見学でなくてもいいから、「教育出張」なのである。

予算があろうがなかろうが、行きたいと思ったら社員が手を挙げる。
上司が「必要性」をみとめるので、ちゃんと「日当」もでるのである。
ただし、通常出張の「半額」が相場のようである。

しかして、どんな「必要性」を上司が感じるのか?は、かなりあいまいだ。
内心で「そろそろ順番だ」ということもあるし、見学先がユニークだから、ということもある。
このご時世なのに、続いているのは「無駄」ではないからなのだ。

マーケットの状態をみにいくから、マーケティングの担当者が行く、ということではない。
技術者だろうが、工場勤務者だろうが、はたまた事務屋だろうが、「行く」と言ったひとが行く。
そこに「新鮮な発見」が期待されているからである。

たとえば、鉄鋼メーカーのひとなら、ある意味どこでも対象があるから、どこへでも行く。
「鉄」は、文明生活のあらゆる場所にあるモノなので、どこでもいいのである。
それで、メーカーでは考えつかないようなアイデアがみつかれば、それはもう「儲けもの」である。
逆に、どこでもいい、ということがないと「発見できない」リスクが生じる。

鉄という製品は硬いけど、頭脳は柔らかさが要求されている。

ひるがえって、ソフト産業であるサービス業で、「教育出張」という用語を聞いたことがない。
あんがい、石頭なのがサービス業である。

さいきんでは、業績のよい旅館が、「休館日」をもうけて、全館で休んでいる。
予約の問い合わせに、「満室です」といって断るから、ふつうの利用客にはわからない。
むしろ、「満室なんて人気の宿の証拠」とおもわれて、いっそう都合がいい。
休んで都合がいいとは、なかなかの「発見」である。

それで、オーナー一家だけでなく、従業員も引き連れて、競合あるいは評判の宿にお客として宿泊するのである。

むかしからの旅館は、年中無休があたりまえだったから、ほんとうは自分がお客になったことがない。
それを「おもてなしの宿」とかいっておだてられた。
はりきって新しいサービスを追加するけど、自分がお客としての素人なもんだから、余計なサービスを自画自賛する神経がある。
季節労働で、あちこちの宿での勤務経験がある女子学生のほうが、よほどこのへんの価値基準はしっかりしている。

そんなわけで、休館日があって「教育出張」する宿と、そうでなく年中無休で「貧乏暇なし」の宿の差が目に見えて開いてきた。
そのうち、どちらさまもまねっこして、わが国から年中無休の宿がなくなってしまうのではないか?

中途半端に開けておくなら、閉めてしまったほうが楽でかつ経費もかからない。
けれども、どのあたりのレベルが判断の基準になるかは、ちゃんと「計算」しないとわからない。
じっさいに、こうした「計算」ができないでやってきた。
それで、やっぱり「計算しない」で、横並びにするだけしても、元の木阿弥ではないか?

こんな心配をしないといけないのが、宿である。

まだまだ、工業の世界から学ぶことがたくさんある。