旅館業後継者は理系が望ましい

「サービス工学」という学問分野がある.
文字どおり,サービスについて「工学」する学問であるから,実務の参考になる.

 

研究者ではなく,実務者としての「経験」をかんがえれば,従来,旅館業の後継者は大手ホテルへ率先して就職したものだ.
ところが,この作戦には落とし穴があって,分業化された大手ホテルでは,配属される部署によっては,将来の経営者としての経験としては不足になってしまうことがある.

もちろん,その大手ホテルすら,「経営者」不足に悩まされているから,社内昇格という日本的システムが十分機能しているとはいえない.
つまり,経営のプロを育てる,という意志と環境が脆弱なのではないかと疑われても仕方ないのが実態であろう.

問題は,修行の場としての就職先を選ぶまえに,「理系」であることが重要ではないかとかんがえる.
すなわち,「工学的」に発想する訓練の有無が,決定的に重要ではないかとおもうからだ.

むかし,生命保険と損害保険の壁が撤廃された直後のころ,巨大な契約をもっている生保に対して,損保のひとたちは畏れをもっていた.
ところが,誤解をおそれずにいえば,その感覚はあっという間に崩壊した.
「相互交流」とかいう流れで,生保のひとは損保を,損保のひとは生保を売る,という業務経験が原因だ.

おなじ「保険」ではあるが,テクニカルな分野での決定的ちがいがある.
それは,損保にある「事故査定」業務である.
いうまでもなく,交通事故や火災での「査定」は,保険金支払いに対しての根拠になる最重要事項である.

簡単にいえば,生保勧誘員の「保険のおばちゃん」に,これができないことが判明したのだ.
くわしくいえば,勉強についてこれないひとがおおかったのは,主婦兼業の限界といわれた.
また,生保のばあい,加入者の健康状態や,保険金支払いにかんしての実際の病状や死因について,医師という専門家がかならずかかわるため,自分で「査定」することはない.

それで,すっかり損保側が生保側をバカにしだしたのだ.
なぜ,いままで,生保と損保には「壁」があったのか?をかんがえると,「保険」という二文字は共通するが,「本質」という二文字がことなっていた.
もちろん,生保の業務が「ちょろい」といいたいのではないので念のため.

外食業界で,イタリアンレストランを全国展開している大手企業は,大卒新入社員の採用にあたって「理系」しか対象にしていない.
「大卒」という学歴のもつ「幹部候補」の意味合いが,はっきりしているから,けっして「兵隊」として社歴を積んでもらおうという意思もないだろう.

つまり,幹部ないしその候補者が,全員「理系」ということの意味をかんがえれば,自社ビジネスモデルの改善をふくめた業務の評価を,日常的に「数字」をつかっておこなっていると予想させるのだ.
そこには,「工学的アプローチ」があるとかんがえるのは自然である.

日本のホテル業界で,本格的に海外進出を果たしているのは,大手高級ホテルでは数社・数カ国という実績状態で,さいきん大手ビジネスホテルが積極的展開をはじめている.
これは,ビジネスモデルが比較的単純なため,「工学的アプローチ」にも余裕があるからだとかんがえられる.

「単純なビジネスモデル」は,重要な要素だ.
広く浅くに対して,狭く深く,が可能になる.
消費者がとっくに「本物志向」になっているから,広く浅くが通じにくくなった.
これが,国内高級ホテル苦戦の原因だとおもう.

従業員の「広く浅く」を,「本物」というキーワードで「狭く深く」させなければならないが,幹部ないしその候補者が,「広く浅く」だったから,なかなか変換ができないのだとかんがえられる.
このブログでも複数回指摘している,個人の価値感と企業組織のあるべき要請が混同されている証拠でもある.

こうした「転換」の困難にあえぐ高級ホテルに,旅館業の後継者を就職させる意味は薄いばかりか,本人の人生目標にたいして時間のムダでもある.
しかし,その前に,高校段階で「理系」を選択する素質がもとめられるという認識が重要だろう.
つまり,中学がことのほか重いということだ.

すると,間に合う間にあわないをこえて,いまの幹部ないしその候補者にたいする「再教育」という点で,「理系的発想」の訓練は必須であることに気づくだろう.
「理系的発想」とは,「ロジカル・シンキング」をいう.

「後継者」からみれば「先代」にあたる,いまの経営者が,自社内に理系的発想の「下地をつくる」ということが,未来の収穫をえるための条件になるのである.

360億円のヨット

報道によると,ロシアの富豪が所有する全長119m,5959トン,乗組員50人のモーターヨットが,台風25号を避けるため,天橋立がある京都宮津に寄港した.家族は,内部にあるクルーザーに乗り換えて上陸し,丹後の海の幸を楽しんでいるという.

ありがたいことである.
外国の「超お金持ち」が,わが国を訪れることはめったにないから,こうしたニュースにもなる.
訪日客の「人数」ばかりを,なぜか「目標」にしている観光行政にかかわる役所の存在価値がいかにないかの示唆でもある.

日本の沿岸には,2866の漁港があるが,「漁港」なので,プレジャーボートの入港はできない,と思いがちだが,水産庁はこれを否定しているし,公益社団法人全国漁港漁場協会で「フィッシュアリーナ」という漁港をレクリエーションの場にしようという試みがおこなわれている.

しかし,以上のはなしは建前で,個別の漁港では,漁協が事実上の管理をしていて,つまり,裏を返せば役所が管理を漁協に丸投げしていて,おいそれと利用できないのが実態のようである.
事前に申し込めば,根拠不明な利用料が請求され,入港時に「現金での支払い」をその場で要求されて,領収書もくれない,などということがあるそうだ.

税金でつくったコンクリートのかたまりである堤防をふくめた漁港は,いったい誰のものであるのか?をかんがえると,占有者が所有者になる,という鎌倉時代の習慣がそのまま残っている.

また,高圧的態度で接するから,楽しいはずの入港がだいなしになるとも聞く.
一方,漁協の言い分にも一理あって,ボートオーナーの我が物顔での横柄な態度や,業務に差し障る場所への勝手な立ち入りなどがあるというから,ある意味どっちもどっちであるが,ボートオーナーの全員が対象者にはなるまい.

それで,これを「分離」するための,「フィッシュアリーナ」ということなのだろうが,これも例によって例の如く,建設予算がつくから,「事前の利用ルール確立」による,紳士的でおだやかな利用をいたしましょう,というお金をかけない「おとな」の発想がない.
さすがは「子どもの国 ニッポン」である.

だから,特定の漁港しか利用できないように仕向けているのは,役所の方になる.
水産庁のHPは,自己矛盾も甚だしい.
こういうのを「マッチポンプ」というのだ.

入国のための交通手段で,主たるモノが航空機になってひさしいが,そのなかでも贅沢なのは「プライベートジェット」といわれる,小型のジェット旅客機だ.
ホンダジェットが,販売開始してすぐに100機の注文があったというのは有名なニュースなったが,どんなひとが注文したのかの突っ込みがない.

一機3億円以上する「自家用機」だから,陸を走る超高級車が10台以上買えるお値段である.
しかし,自動車のガレージは自宅にも持てるが,飛行機の格納庫を自宅に用意できるひとは,すくなくても日本ではいないだろう.飛行機だから,動かすには飛行場が必要だ.
だから,結局どこかの飛行場に用意しないといけない.

すると,駐車場ならぬ駐機のための費用もばかにならず,運転免許ならぬ操縦免許だって,取得するには大変な訓練を受けなければならないし,そもそも,オーナーはプライベートジェットの客室に乗ることを想定するから,運転士ならぬ操縦士を雇わなければならない.
ビックリするほどの維持費がかかるのが,プライベートジェットだから,高級車のオーナーがちいさく見えるのも納得できる.

外国人の成功したビジネスマンは,「見せびらかしの消費」のために,こぞってプライベートジェットを購入するという.

 

ところが,スピードでは亜音速の最新大型ジェット旅客機にぜんぜんかなわないから,太平洋を横断して日本に来るには,それ相応の割増時間をかけてやってくる.

それでも,たとえファーストクラスをつかっても,一般人扱いされる入国審査とはちがって,プライベートジェットには国賓向けの特別室の利用もできるから,この「特別感」がたまらないのだという.用意した自動車が玄関に待機しているから,人目につかずにすばらしく快適な入国,および出国ができるというのは,たしかに特権である.

ところが,羽田や成田の駐機場がいっぱいで,なおかつ駐機料がこれまた「日本特別価格」で高いから,さすがのオーナーもひるむそうだ.
そこで,東京に用事があるオーナーが降りると,機体は「富士山静岡空港」にむかうという流れができた.

この飛行場も県知事の鳴り物入りでつくられたものだが,定期便がほとんどこないので,格納庫に空きがあったのだ.
いまでは,プライベートジェット用の格納庫があるというから,収入という「カネ」は重い腰のはずの行政だってかんたんにうごかすのだ.

あるとき,オーナーが機長に,どこに「駐車」しにいくんだ?と質問して,「SIZUOKA」とこたえたら.「Where is(Izu) SIZUOKA?」となって,地図をみた.
地元にくわしくなった機長が,「ONSEN」があると言ったから,たちまちオーナーがくらいついた.

伊豆半島の修善寺には,むかし修善寺町営の有名な「菖蒲園」があったが,菖蒲が咲く季節だけでは勝負にならないと,第三セクターという破滅的な組織で「修善寺虹の郷」というテーマが不明のテーマパークをつくった.

先に「修善寺町」が合併で行政地域として消滅したが,ふつうの「町名」になって残った.
パークの方はいじらしく,いまも営業している.
それで,第二駐車場をヘリポートにして,静岡空港からの連絡便を飛ばしたのは正解だった.

こうして,修善寺の高級温泉旅館は,プライベートジェットのオーナーが常連客になったので,一般客をとらなくなった.
超お金持ちの「一組」に全力をかけて接遇すれば,一晩で十組以上の売上よりも得るものがおおきいからだ.
正しく,楽して儲ける,とはこれをいう.

これが,生産性革命になる,ということを政府は絶対にみとめない.
たくさんの数を,いかに「効率的」にさばくかが「生産性向上」だと,高度成長期の製造業(大量生産大量消費)しか頭にない.
その製造業はとっくに,多品種少量生産に移行したのをしらないのか?

半世紀前の製造業の成功を,サービス業でやらせようと躍起になっている姿は,じつにお気軽で,しかも邪魔である.
その政府の介入を受け入れようと努力する「業界」も,どうかしているとおもうがいかに?

民間に「智恵」はめったにない

役所がこまったときにつかう逃げ口上に,「民間の『智恵』の活用」がある.
ふだんは上から目線で,民間をバカにし尽くしているので,これほど歯が浮くはなしもないが,そらみたことかと言われた民間がよろこんだりするから,役人はうしろを向いてベロをだすばかりだ.

この国の民間企業のたいはんは「赤字」である.
だから,きっちり納税している企業の数は,おどろくほどすくない.
もちろんなかには「智恵」をつかって赤字にして,税金をはらわない企業もあるだろうけど,その智恵とは「悪知恵」だから論外である.

お役所のアルバイト仕事に,各種の「現業」がある.
たいがいが,実質子会社の財団や公社などが直接運営するか,その財団などをつうじて指定管理者に孫請けさせている.
おおきな都市になれば,直営の交通局などもある.

バブル前後に流行って設立された,「第三セクター」はみごとに全国で全滅状態で,とうとう一例も「黒字」はなかった.
第三セクターこそ,民間の智恵の活用ではなかったか?
つまり,これでわかるのは,民間に智恵がなかったことである.

しかし,一方で,官営事業の特徴に,「儲けてはいけない」という妙な決まり事がある.「民業圧迫」というまっとうな批判をかわしたいだけなのだろうが,儲けなくてはいけない「民」からすれば,儲けてはいけない「官」は,たんなる「楽勝事業」になって,やっぱり民業圧迫をする.
だから,共同事業者に「官」がくわわると,とたんに儲けることが「罪」になってしまう.

収支トントンをもってよしとする.
赤字なら,血税の投入で,より価値がたかい事業にみえる.
指標が「収支」というフローだけだから,土地や建物といった不動産にくわえ,業務に要する設備などの動産といったストックになる「資産」は,設立時にしかみない.

「官」には減価償却という概念がないから,ときがたてば修繕だけではすまない更新が発生するけれど,その積立というかんがえもない.
なぜなら,それは別会計の予算という,財布がもともとちがうからである.
ところが,いざとなるとその予算が組めない.税収不足と社会保障制度が,自治体にも重くのしかかるからである.結局は,一緒の財布なのだが,そんなことは事業のあいだ気にしない.
こうして,官営事業のほとんどが,最初の投資の償却がおわるころに,だいたい息絶える運命がまっているのである.

では,智恵があるはずの民間はどうか?
わかっているのは一部の企業である.
たとえば,トヨタ自動車.
もはや,わが国をささえる唯一の業種であるなかのトップ企業だ.

トヨタ自動車の影響力は自動車業界だけでなく,わが国製造業に多大な貢献をした.
もっとも有名で重要なのは,故大野耐一副社長による「トヨタ生産方式(脱規模の経営をめざして)」だろう.1978年の初版で,40年たったいまでも新刊書として入手できる名著である.

ホテル勤務時代に手にして,衝撃をうけた一冊である.
あたかもよくあるノウハウ本のようなタイトルだが,とんでもない.
これは、技術の本ではない.中身は深遠なる経営思想と哲学にあふれているから,「人文科学」の本である.
だからこそ,観光立国とおだてられ,人手不足になやむ人的サービス業に,重要な示唆をあたえてくれるだろう.サブタイトル「脱規模の経営をめざして」がそれを物語っている.

ところで,いい旧されてはいるが,トヨタ生産方式といえば「ジャスト・イン・タイム」で,在庫を持たないことが有名であり,各企業がこれを真似ようとして,おおくが挫折を強いられていることでも有名だ.
その理由が,「なぜを5回繰り返す」という思考法の実践における成否なのである.

現場における問題を解決するにあたって,とにかく「なぜを5回繰り返す」.
これを愚直に50年間やってきたら,かってに世界一の自動車会社になっていた.
世界一という結果がすごいのではなく,「なぜを5回繰り返す」ことを全社でつづけたことがすごいのだ.

かんたんに真似ができない理由である.
3回までならなんとかなるが,あと2回がでてこない.
宿泊業の場合,とりあえず3回でもいいから「なぜ」を繰り返すことを指導している.
じっさいにやってみると,はじめはとにかく「苦痛」なのだ.

しかし,これを全社でやって,それを自社の「社内文化」にまで昇華できるかとなると,さらなる苦痛がやってくる.
おおくはその苦痛を経営者があじわうことになるから,つづかない.
こうして,智恵のある企業とない企業が分岐して,残念だが苦痛に耐える企業が圧倒的にすくないから,智恵のある企業がかぎられるのだ.

昨今の不祥事も,智恵を絞り出す苦痛ではなく,相手を罵倒してこころを疵付ける苦痛のほうになってしまった.
それは,安易さというぬるま湯が変容した苦痛だろうから,企業文化の劣化にほかならない.
経営者の劣化を鏡に映したものだろう.

それで,役所がパワハラを禁止する法案をつくるときた.
民間に知恵などないとかんがえている証拠である.
これに財界が反発しないのは,自らの知恵のなさを認めたも同然である.
むしろ,パワハラをするような不逞のやからを自社から排除できるとよろこぶのか?
雇用主としての責任放棄もはなはだしい.

そうかとおもえば,トヨタの社長は自動車保有に関する消費者の税負担が世界標準に照らしても高すぎると政府に文句をいってくれた.
これぞ,民間の智恵というものだ.
トヨタしかないとは,嘆かわしいばかりである.

「放送事故」がわからない

ネット配信専門という「番組」ができた.
地上波とはちがうターゲット層で,かなり絞り込んでいるのが特徴だ.
だから,マニアのための番組になる.

いまや世界最大のショッピングサイトになった「アマゾン」では,年会費を支払うと本の配送料が無料になるサービスがどんどん足し算されて,おなじ会費で音楽も映画やテレビ番組もネット配信で視聴できるようになった.
これに,アマゾンオリジナル制作の作品も加わったから,地上波でもレンタルでも視聴することができないものまで用意されている.

娯楽だけでなく,ニュースだってBBCやCNNが選べるから,とくだん地上波の放送をみなければならないという積極的な理由がうすまっている.

昨年末のNHK受信料にかんする最高裁判決について,このブログでもコメントしたが,こんどは大手ビジネスホテルチェーンの受信料訴訟で,支払命令の判決がでた.
「稼働率」ではなく,「部屋数」に応じてのはなしだから,宿泊業界には激震が走ったのではないか?

いよいよテレビがないホテルが普及するかもしれない.
ネット動画が観られるモニター端末があれば,想定顧客によってはかえって重宝がられるのではないかとおもう.

政治家もNHKを「敵にしたくない」から,国会でNHK問題は議論されないというが,それは本当か?
だとしたら,国民にとって放送局が「脅威」となる事態であって,社会の木鐸でもなんでもなく,たんなる恣意的な政治勢力であることになってしまう.

これも情報リテラシーに欠ける高齢者が,地上波,なかでもNHKを信じていることがおおきな原因なのだろうか?
もちろん,テレビだけでなくラジオという存在も無視できないものの,民放の信頼性が低いなら,本来NHKに対抗するはずの民放の姿勢も間接的ではあるが,NHKの応援をしていることになる.

わたしはテレビを観ないので,旅先の宿でもテレビリモコンのスイッチを入れることはない.
残念だが,ご当地番組で,役に立ったという経験もないから,とくに気にしない.
この何年間,ニュースも天気予報も観たことがないけれど,ぜんぜん困らない.
しかし,テレビがついていないと安心できないというひともいる.
観ているわけではないが,ついている状態が「ふつう」だというから不思議だ.

そういうわけで,たまに食堂などで観るニュースや天気予報は,なにか珍しさすら感じるが,その内容のなさにやっぱり観なくても大丈夫という,安心感さえ得ることができる.

天気予報(気象情報ともいう)では,なぜか天気図をしめさなくなった.
小学校の理科で習うものをみせないで,晴れや雨の図柄や衛星画像だけで解説するのは,天気図をみせて視聴者の頭でかんがえることをさせないという意味だから,これは愚民化である.
だから,新聞やネットの天気予報で天気図をみるほうが,自分の判断と解説記事とを比較できるので納得できる.

あるとき驚いたのは,季節の変わり目ではあるが,女性お天気キャスターが「明日おすすめの服装」といって,こんな服がいいですねと具体的に紹介して,後を受けた女性アンカーが,「いいこと聞きました,明日はわたしもそれを着ます」とまじめにいったのを目撃したことだ.
これは、放送事故ではないか?とドキドキしたが,この国ではだれもそうは思わないらしい.

どんな服を着るのかはまったくの「個人の自由」だ.
これに対して,テレビ放送でやんわりとではあるが具体的な指示をするというのは,「自由の侵害」である.この場合の自由とは,「選択の自由」のことである.
その具体性から,受け手からしたら「命令」にだってとることができる.それを,アンカーがダメ押ししたのだから,欧米なら抗議の電話が殺到しそうな放送であった.

「個人の自由」をつよくもっている国ならば,天候の変化がはげしい日になると予報するなら,その情報をしっかり伝えて,「おしゃれの工夫がいろいろできる日になりそうです」といえばよい.
これもあれも,それからこんなのも,と具体的に言うだけでなく画像で見せたら,完全なるすり込みである.
ようは,おおきなお世話なのだが,「放送」だから,「あちら」ではおそらくこの程度では済まないだろう.思考停止を意図的にさせる悪意すらかんじるからである.

直接の衣服のはなしではないが,カーライルの「衣装哲学」は,欧米人の思想のふところの深さと広さが,難解ながらもわかる一冊である.

軍隊と警察とスポーツチームや医療チームなどの職務上の要請,それにそもそも自由がない囚人以外,おなじ服は着ない,という欧米自由主義精神の深淵に「宇宙」まで思考して近づけるだろうから,寝不足の秋の夜長にピッタリだ.
よく眠れる可能性が高い,と同時に,日本人の発想とのちがいをあじわいたい.

先祖帰りした部下育成の精神

OJT(On-the-Job Training)は,おおくの企業で採用されている教育方式であるが,ここから「TWI(Training Within Industry)研修」がうまれている.
「Industry」という語がはいっているため,製造業と一線を画したがるサービス業ではなじみが薄いかもしれない.

TWIとは,職場教育(企業内教育)の手法の一つで、主に、監督者向けのものをいう.
監督者とは,「現場」がつきものだから,いわゆる「現場責任者」の育成手法のことだ.
英語表現がはいっていることでわかるが,人材育成手法として戦後,米軍が日本に伝えたものである.
これは,「進駐軍」の功罪のうち,確実に「功」となったもののひとつであった.

当時の日本企業が,どのくらいの驚きと衝撃でこの手法を受け入れたかについては,導入した企業内では「伝説」になっているはずである.
だから,導入しなかった企業には,なにもないのは当然で,さいきんはOJTやOFF JTでさえ主旨をとり違えたあやしい企業はたくさんある.

その証拠に,目的と内容の合致ではなく,入札方式という「金額の多寡」で研修講師を選定している本末転倒を散見することができる.もちろん,単に安いほうが落札できる.
経営者が「人財」という経営資源に無頓着で,人事や研修担当に丸投げしているのがよくわかる事例である.
業界はなんであれ,利益をだしたければ人財育成「しかない」ことをしらない人物の所業でもある.

「後進の育成」という名目で,役職定年制や定年退職者の再雇用がおこなわれたが,かなりの企業でそれは文字どおりの「名目」であって,「実質」がともなっていないことが認められる.
「後進の育成」ではなく,引き続き現役時代と同程度の「作業」を命じられ,しかも年収は半減させられるのが実態だろう.
「方便」もここまでくると「うそ」になる.

過日は,ベテランドライバーが再雇用によって命じられた,社内清掃業務への従事を「不当」と訴えた裁判で,原告敗訴の判決がでていることでも,「名目以下」の状態を国が認めたかたちになっているから嘆かわしい.

高齢者雇用で人手不足の「人手」が,安く手に入から「得」だとかんがえる愚かさは,社内の高齢者層がひととおりいなくなったときに気がつくだろう.
そのときの若年者数は,数年前の半減レベルになっているから,争奪戦もはげしいだろう.そうなれば,選ぶのは若者のほうになるはずで,その企業で高齢者がどんな境遇におかれているかも将来の自分にてらして選択基準となるのは必定だから,愚かな企業は採用が困難になってしまう.

そのうち,人材紹介業界が,高齢者の働く満足度や企業内文化の比較調査をやって,ランキングをつくるはずだ.それが,株価に反映されてもおかしくない社会になる.
だから,いまの経営者が引退して逃げ切れたとしても,後任から突きつけられる経営判断の甘さの汚名だけは避けられない.
もっとも,いま「得」だとうそぶく人物は,自己の名誉すら気にしない神経だからできるだろうから,本人はさしおいて,組織の傷はより深くなるだろう.

はたして,「後進の育成」とはいかにあるべきなのか?

TWIが現場責任者向け,ということで,以下の四つのポイントを骨子にしている.
TWI-JI(Job In-struction):仕事の教え方
TWI-JM(Job Methods):改善の仕方
TWI-JR(Job Relations):人の扱い方
TWI-JS(Job Safety):安全作業のやりかた

どの項目も,みただけで「ハッ」とさせられるような気がする.
この四点がさいきんの「不祥事」の発生ポイントにもなっているからである.

本稿では,最初のJI:仕事の教え方の「精神」に注目したい.
それは,つぎのことばに集約されている.

「相手が覚えていないのは自分が教えなかったのだ」

これをアメリカ軍が教えてくれた.
スポーツ根性ものよろしく,日本人は「スパルタ式」がだいすきで,できないのはできない本人が悪い,という思想の真逆にあることにも注目したい.

名将ということになっている山本五十六提督の名言.

「やってみせ,言って聞かせて,させてみせ,ほめてやらねば,人は動かじ.
話し合い,耳を傾け,承認し,任せてやらねば,人は育たず.
やっている,姿を感謝で見守り,信頼せねば,人は実らず.」

最初の一行が「有名」で,一瞬,TWIのようなのは,さすが当代随一の親米派のいったんをみるようだが,ごらんのように下に「余計な」二行がつづく.
よく読むと,米軍の「相手が覚えていないのは自分が教えなかったのだ」という思想とはぜんぜんちがう,上から目線であることに注意したい.
つまり,教える側は「つねに正しい」というかんがえがにじみ出ていて,そこに「反省」の精神がないのだ.

山本提督の名言は,いまでも「名言」としてしられており,学のある管理職ならよく口にすることばであろう.
つまり,この名言の思想が,精神基盤の深いところに染み込んでいるのが日本人の本質ではあるまいか?
であればこそ,米軍がもたらした「TWI研修」の真逆が,衝撃的だったのだ.

昭和20年代の半ばから,「TWI研修」がはじまるから,受講したもっとも若いひとたちは国民学校世代になる.
戦後の製造業の発展につくしたこの世代が,定年したのはバブル崩壊後の95年あたりからなので,TWI研修の精神も,バブルのイケイケで傷ついたのではないか?

そしてその後,企業が自社研修の余力をうしなって,とうとう山本提督への先祖帰りをしてしまった.
「名言」が名言たるゆえんは,凡人には実際にできないからである.
ことばだけが空虚をかさね,「部下の手柄は上司のもの,上司のミスは部下のせい」という本質があらわになっただけでなく,それが「外資のよう」だと勘違いする.

アメリカは,いまだに世界最大の製造業大国であることをわすれているのも,勘違いの深さである.
そのアメリカで,TWI研修は三洋電機から逆輸入されて息を吹き返し,近年では医療というサービス分野にもひろがって実績をあげている.
反省の「精神」が健全な証拠なのだ.

今日は秋分の日.
秋のお彼岸である.
これからの四半期は,冬至にむけて昼がみじかくなっていくから「秋の夜長」になる.
先祖帰りさせてはいけない,後進の育成について,じっくりかんがえるのにもよい時期だろう.

ハイテクだけがイノベーションか?

先端分野の高度な技術体系のことを「ハイテク」という.
一方,対義語には「ローテク」があって,こちらはいかにも地味だが,重要度ではけっしてハイテクにひけはとらない.
2000年に出版された「ローテクの最先端は実はハイテクよりずっとスゴイんです.」が参考になる.

サービス業にとって「イノベーション」というと知の巨人,シュンペーターのお家芸だから,なにやらむずかしいものとおもいがちだが,そんなことはない.
むしろ,わが国では理系の先端技術である「ハイテク」の開発と一緒くたになって,間口がせまくなっているとかんがえられる.

ふつう,人的サービス業では「接客」を重視するから,伝統的な日本旅館などで「イノベーション」といってもピンと来ないだろう.

しかし,どうしたらお客様がより快適に過ごせるか?をかんがえ,その結果,あたらしいやり方を開発したら,それは「イノベーション」である.
また,どうしたら従業員が楽してお客様の快適さを確保できるか?をかんがえ,その結果,あたらしいやり方を開発しても,それは「イノベーション」である.

だから,あんがい「イノベーション」は身近にあるものだ.
それを発見する努力が,組織的におこなわれていれば,それこそ「革新的」なのだといえる.
不思議なことに,昨今,こうした努力がないがしろにされている傾向がみられるのはどうしたことか?
伝統的な大組織にこそ,この傾向があるようにおもえるのも特徴だ.

それは,「現状維持」という価値感のまん延であり,「組織防衛」ともいえそうだ.
つまり,コンサバ,すなわち「保守的」といってよい.
問題は,なにを保守するのか?ということの定義あるいは合意が組織的になく,個々の構成員にまかせられているから,かならず一体感をうしなって,結果的に組織が崩壊の危機にさらされる.

疑心暗鬼をうむのだ.
あつく語るひともいれば,冷めているひともいる.
あつく語るひとからみれば,冷めているひとは「保守」すべきものを持っていないと映り,冷めているひとからみれば,あつく語るひとのことばが,あるべきものに対してうわついているとおもえるものだ.

だから,リーダーが必要なのだが,昨今の大組織にふさわしい見識のあるリーダーが不在だから,基盤となる価値感の共有さえできないでいることがある.

こんなときにこそ,外部コンサルタントの出番なのだが,リーダー不在の伝統的大組織ほど外部に依頼したがらず,また,依頼のポイントが整理できない.
依頼したがらないのは,リーダーがビジネスではなく「恥」とおもうからだ.
依頼のポイントが整理できないのは,問題山積で,優先順位すらつけられないからである.そしてそれが,恥の上塗りになって,さらに状況が悪化してしまう.

一方,コンサルタントの方は,いよいよ状況が悪化してから登場する.
それが金融機関や支援機関からの依頼になるから,あろうことかいつもの「経費削減」プログラムの策定と実行になってしまう.依頼者が理解できる安易な方法の提示こそ,成約のパターンだからだ.

こうして,本来のイノベーションとはほど遠い,患部摘出がはじまるのだが,痛みの割に効果がないのは当然でもある.
依頼者がなぜこんな効果が薄いのにワンパターンでの方法を選ぶのか?
それは,外部コンサルタントの経費を負担するのが,依頼者ではなく対象企業だからである.
つまり,依頼者に責任はない.

むしろ,本来のイノベーションが対象企業の業績を回復させようものなら,依頼者の依頼前の経営指導が問われてしまう.
安易な方法で,そこそこの成果がちょうどよいのである.
だから,バカをみるのは経営者になる.
それでそんなコンサルタントへの支払が無駄だと気がつくのだ.

こうして,近所の同業の様子をながめれば,ますますイノベーションをうながす外部コンサルタントの存在には気づかず,現状維持につとめてしまうのは人情だ.
しかし,なによりも,自らかんがえてイノベーションを起こすことが大切である.

グランドツアーを許せない国

「グランドツアー」は,おもに18世紀英国における「卒業旅行」のことである.
英国貴族の子弟だけでなく,ひろくヨーロッパ文化人にもひろがった「旅」で,目的地はなんといってもいまの「イタリア」であった.
もっとも,われわれがいま知っている「イタリア」は,第一次大戦のあとに統一されたから,「グランドツアー」時代は小国ばかりであったことに注意したい.

ヨーロッパ人にとっての「ローマ」は,都市としてのローマよりも「ローマ帝国」のローマをさす.それで,都市の「ローマ」がふくまれないけど,西ローマ帝国の後継として「ローマ」と名付けた帝国が「神聖ローマ帝国」として誕生し,ナポレオンによって消滅してもハプスブルク帝国として生きのこって,そのハプスブルク帝国が第一次大戦で終わると,今度は「ローマ」をふくむイタリアが統一されるというややこしさである.

長靴半島とシチリア島の歴史の複雑は,日本史の素直さとは一線を画すが,芸術の奥深さは小国の繁栄を背景にするから,日本の各藩のご城下が栄えたごとく,パトロンの存在なくしてはかんがえられない.その意味では,地方分散に利があるというものだ.

英国がグランドツアーの発祥といわれる理由に,大学の質の悪さ,といういまでは信じがたいはなしがある.その質が悪い大学とは,とうぜんケンブリッジやオックスフォードのことで,ある貴族の記録に,英国の大学に進学するくらいならイタリアへの旅行がよほど将来の役に立つとして,子息を進学させず旅行にだしたとある.

どうやら,当時の大学は新しいことを教えるのではなく,伝統的な決まりごとを教えるだけになっていて,教授職で積極的な態度をとると職が危ぶまれるほどだっという.
それで,当時としては月に行くような危険をもともなうけれど,人類遺産の宝庫であるイタリアを目指したらしい.そして,若様にはかならず教師が同行したから,知的刺戟としてかなりの成果もあったのだ.

もちろん,ダメ大学の卒業旅行としてもグランドツアーは行ったから,それなりの年齢幅がある青年たちが,ある意味大名旅行をしていた.そうなると,家格というものも幅をきかせて,随行員の人数もきまったというから,参勤交代の格式のような暗黙のルールもできた.
長男は二年から数年,次男以下は数ヶ月という待遇差も,日本とかわらない.

日本では,「卒業旅行」として,80年代に大ブームになった.就職がきまってから卒業式前の期間に二週間から一ヶ月程度の外国旅行をこぞってしたものだ.インド旅行で人生が変わった若者の話題もにぎやかだった.
60年代からはじまったというが,当時は国内旅行が主で,貧しい学生たちのつつましい旅だったろう.21世紀のいまは,小旅行を何回かするようで,海外旅行よりも国内がえらばれるという.

投資銀行勤務時代,英国人学生の「卒業旅行」のことを聞いた.
就職がきまると,人事担当者からどのくらいの期間の旅行にでるのか質問されるのがふつうで,たいがいの学生は「二年」とこたえるのもふつうだといっていた.長いと四年や五年もいるが,驚くことにおおくは許可されるらしい.
彼は,お金がなかったので「半年」とこたえたら,人事担当者が不思議そうな顔をしたという.

それで,どこに行こうが勝手だが,月に一回かならず会社に連絡をいれるというのが条件で,出社日も指定されるから,まさに現代にも「グランドツアー」の伝統はいきている.
どうしてそんなに長い期間,入社の延長が許されるのかを聞いたら,会社の経費とは関係なく本人が世界を観に行って経験することは,会社にとって悪いことはひとつもない,というかんがえだそうだから,「グローバル」が前提になっている.大英帝国の残滓であろう.

それにしても,二年でも驚くが四年や五年も海外を歩いて,入社が遅れても問題ないことがピンと来なかった.すると,「会社もしっかりしていて,ときたまレポートを要求している」から,あんがい無料で現地調査をやらせている.犯罪や事故以外,めったなことで採用中止にはならないが,あまりにひどいレポートだと,旅行期間の途中でも会社への出頭命令がでるから,放任はしても放置ではないのが立派だ.

会社としては,大学では得られない知識と経験値をもった新入社員に期待していて,本人の人生で家族がないまま外国を渡り歩くチャンスは一度だけだから,互いにメリットがある制度だとして成り立たせている.まさにグランドツアーの伝統だ.

つまり,たとえ新入社員でも対等あつかいなのである.
だから,常識として学生もふざけたレポートなど書きはしない.それこそ,人事記録に汚点をのこしてしまうと知っている.それで,旅先で知り合った他国の学生とネットワークをつくって,情報網として利用しようと行動するが,それを会社も期待しているという構図だからしたたかだ.

日本企業でこんなことをする会社はあるのだろうか?
一斉入社で取り囲み,網から洩らすまいとするのが日本企業だ.
どうやら,心理学でも負けている.
「同期」の競争という発想すらない.

日本でも,グランドツアー,おおいに結構,という文化になってほしい.

野菜を買うとプラゴミがふえる

海洋生物にもプラゴミの悪影響が報告されてきている.
なかでも深刻なのは,「マイクロプラスチック」や「ナノプラスチック」で,食物連鎖からヒトへも影響がでているという.
歯磨き粉の研磨剤にもふくまれていて,それが海洋に流れ出るというから,知らないうちに海を汚している.

ひとは見えないモノを「なかった」ことにする傾向がある.
それで,たまにまじまじと見つめると,妙にがてんするものだ.

「一族郎党」で一緒に住む生活など,とっくに歴史のかなたにおいやって,いつの間にか三代以上の同居すら「大家族」といわれるようになってしまった.
だから,順番どおりなら,同居の祖父母の「死」に直面する経験は,孫にはあんがい希になって,お葬式がイベント化する.

十年前の映画「おくりびと」がヒットし日本アカデミー賞を受賞したのは,むしろ「遅い」感もあった.
おなじ意味で,日本版タイトル「おみおくりの作法」(2013年)は,より突っ込んだ内容になっている.

人糞を堆肥にする,というのは日本の風習で,畜産がさかんだったヨーロッパにはみられない.
彼らは,川に流すのがふつうだった.
日本の田舎にいけばたいがいあった「肥だめ」は,発酵過程をとおして「発熱消毒」もかねたから,おそろしく科学的な設備で,完成したものは水でうすめて使用したが,なんと千年の歴史がある.
納豆や醤油・味噌だけが,わが国の発酵文化ではない.

ところが,「水洗」というヨーロッパ文化に席巻されて,同時に「化学肥料」の普及もあって,「下肥」は絶滅過程に入っている.
それで,レバーを押せば水とともに消えてなくなるから,「なかった」ことになった.
だから,「下水処理場」は,現代文明をささえる重要施設にまちがいなく,小中学校の生徒にはかならず見学させるとよい.
消えてなくなったのではないから,「なかった」ことにはならないことが学べる.

「地球環境」などという壮大な環境よりも,身近な生活環境がどのようにして人為的に「作られている」か?は,おとなだって知りたいだろう.
その「下水処理場」すら,電気がなければ稼働しない.
平凡な日常という,現代文明は,強固なようでじつは脆弱だ.

石油という便利な物質は,エネルギー資源であると同時に材料資源でもある.
燃料として燃やせば,電気ができたり自動車が動く.
一方で,さまざまな化学反応から「プラスチック」や「タンパク質」までつくることができる.
燃料としての石油が,ほかの方法に置き換えられても,材料としての石油がほかの物質に置き換えられるかといえば,素人でもそうはいかないとわかる.

現代文明が石油に依存しているのは,以上のことで確認できる.

「現職で将来ある科学者だったら絶対に発言しない」といって「発言した」のは,武田邦彦教授である.研究費の配分を確実にしなければ,科学者としてやりたい研究ができない.その研究費は,国から支給されるので,国にさからったことを発言をしない.つまり,「沈黙は金」なのだ.
自分は研究者としては「引退」し,いまは「教育者」に専念すればよいから,科学をもとに発言するのだ,という意味である.

「リサイクル幻想」(文春新書,2000年)は,記憶に残る武田教授の著書である.
なぜかというと,1975年の「海洋投棄に関するロンドン条約」(日本は80年に批准)の,あたらしい議定書が96年に結ばれて,まさに海洋投棄の全面禁止となった時代背景があったからだ.

当時勤務していたホテルの排水溝にたまった汚物は,海洋投入処分の対象だったから,この議定書による対策を研究していた.それは,陸上処理の方法の模索で,費用負担増の予測が主だった.
そんなこともあって,事務からのふつうゴミ,調理場からの生ゴミについても,対策の検討をしていたのだ.

この本が出版されて18年.
武田教授の発言はとまらないが,なかなか教授のいう「科学」が,浸透していない.
「科学」よりも「制度」を優先させる体質が変わらないからだろう.
その「制度」が「利権」と直結するから,絶望的なのだ.

野菜を買うとプラゴミがふえる.
消費者は,そろそろ声をあげるべきではないか?

鳴り物入りではじまった「民泊」だが,オーナーにとって最大の問題が「ゴミ分別」なのである.
外国人が「分別できない」.
また,都区部でも分別のルールがちがうから,おなじオーナーの「民泊」でも「区」がちがうと,リピートした外国人客が「混乱」するのだ.

そうして,マンションの管理組合や自治会から目の敵にされる.

「科学」を基準に「制度」にしないツケでもある.

財政難は「救い」となるか?

福井県の県庁所在地である福井市が,財政難から396施設の廃統合と,補助金の一律10%カットを検討する,というニュースがはいってきた.
「箱物」である「施設」は,来年10月までに廃統合と民間譲渡がきまり,譲渡先がないばあいは廃止して土地を売却・返還する方針だという.

一目見て,たいへんよいことであると感心した.
高度成長期,全国で一斉に公共施設が建設されたから,だいたい「更新時期」もおなじだろう.
すると,このニュースは,決して「ローカル」ではなく,かなりどこにでもある話だ.
その地域しか見なければ「寝耳に水」かもしれないけれど,そんなことはぜんぜんない.

しかし,一方で,福井「県」は,福井市を「中核都市」にすることが「悲願」だとして,「突き進む」というニュースもあるから,どうもチグハグしている.
だいたい行政の「悲願」というもので,住民によいことはないからだ.

上述の廃統合と補助金カットの件は,市議会でも質問が相次いでいるという.
役人側は「無い袖は振れない」という答弁だろうし,議員のほうは「存続が地元の悲願だ」と言っているはずだ.

しかし,報道されている396施設がどんな施設なのか詳細がわからない.
福井市のHPをみたら,「福井市施設マネジメント計画」(素案)平成26年11月,という文書があった.
それと,今回の「福井市財政再建計画」平成30年8月があった.
便利な時代である.ご興味のある向きは,一読されたい.
似たようなことが,読者の地元でもかならず検討されているはずである.

さて,もっともらしくまとめるのが役人の仕事だから,細かく指摘はしない.
これは,地方官僚がかいた「官庁文学」で,要は「こんなに使ってお金がないの」と言っているだけだ.
経営破綻した「宿屋」と,ほとんどかわらない分析と方策なのだ.

なんのことはない,だって人口も収入も減っちゃうから,しょうがないじゃないか,と.
それに,東京とちがって,大企業もないし,しょーもない中小企業ばっかりだから,ろくに税収もあがらないしぃ,である.

この国は中小企業でできていることをまだしらないふりをする.
補助金漬けでしょーもなくしているのはだれなのか?
それを「産業政策」だというから,思考回路は昭和のままで停止している.
こんなことを飽きずにつづけたから,お金がなくなったのだ.

こういう役人の大軍と,「無い袖でも振れ」というしかない無能な議員ばかりだから,住民はとにかく我慢するしかない.
市長だって,「なんで自分の時代に」とぼやくしかないだろう.

くわえて,「県」と「国」という上位の行政組織からの命令がある.
つまり,経営破たんした「宿屋」の再生に,損益計算書しかみれない「自称」投資家が乗り出すようなもので,ろくな再生もできないのとにている.
抜本的な対策が,後手後手になるのだ.それに,けっして再生を成功にみちびかない「経費削減」しかしないから,基礎体力も消耗する.

「今のままならいまのまんま」
危機感の欠如である.

「業務の評価」を避けて,経費削減に邁進すると,民間企業でもかならず「一律カット」という手法しか選択肢がなくなる.これを企業内官僚は「事務屋の敗北」と認めている.
このばあいの「業務の評価」とは,キャッシュを産むか産まないかであって,「必要の有無」ではない.
「外資」なら,当然の検討手順である.

だめな日本企業のおおくが「必要の有無」という泥沼議論にはまって,時間を浪費し,結果的に自己判断ができなくなっている.
行政の補助金なら,「一律全額カット」が望ましい.そうして,浮いた財源を,住民税で「寄付金控除」に振り替えてこそ,民間活力の活用になる.

住民が「必要」とする事業だから,そんな乱暴なことはできない.
かならずそういうが,誰も「必要」となんかしていない.
くれるというからもらっている.いや,もらえというからもらっている,程度である.
しかも,いちど補助金をもらうと,もらった側の魂が抜かれるから,もらいつづけないとやっていけない.
そんな,「補助金依存」こそ,世の中に必要がないのだ.
有力閣僚経験者も地元にいるから,所得税「特区」にでもしてもらって,寄付金控除を国税にも適用できないものか?

本来は,「財政再建のため」ではないが,オリンピック「のため」ならなんでもできるように,利用するなら利用すればよい.
そういえば福井県は,ことし「国(民)体(育大会)開催県」だったから,「国体のため」といって,いろんなお金を「必要だ」といって使ったろう.

オリンピックはたまたまだが,国体は確実に50年にいちど順番がくる.
「国」がオリンピックにことよせていろいろ使うなら,「県」だって負けてはいられない,という住民からしたら意味不明の理屈が役所にはある.
次回の50年後,住民の人口がどうなっているかをかんがえたら,おぞましいだろう.

大きくいえば,行政と民間の「棲み分け」をすることが「必要」なのだ.
「行政にしか」できないことはなにか?
じつはほとんどない.
バッサリ切り捨てれば,そのうちこの国でもっとも可能性にあふれ活気のある「市」になるだろう.
そうすれば,自然に中核都市に「なっちゃう」のである.

わたしが尊敬してやまない,橋本左内を産んだ街である.
日本中がびっくりするような「妙策」を,深くかんがえて実行されることを切に願う.

安ものではなく,いいものを買う

先日の資生堂が業務用品からの撤退を決めたコメントで,「儲かっている企業」の行動の説明がわかりにくいという声を頂戴した.
どいうことか,くわしくご紹介したい.

おなじ業界内でも,儲かっている企業とそうでない企業が混在している.
30年もたったバブル前なら,景気がいい業界とそうでない業界で区分できたから,ずいぶんとミクロ化したものだ.
これは,「情報」のキメの細かさという変化が原因だとおもう.

つまり,取引形態が B to B だろうが,B to C だろうが,顧客志向を追求しているという情報が手に入ると,そちらの会社の発注がふえる.そうやって,下請けからの脱却に成功した会社とそうでない会社に分離したのがこの30年だった,ともいえる.
インターネットがこれを可能にさせたのは,いうまでもない.
こうして,業界全体の浮沈から,企業単位の浮沈へと変化した.

すると,儲かっている企業にあって,そうでない企業にないものはなにか?をかんがえると,「経営戦略」ではないか?とおもいつく.
実際に,儲かっている企業は,たいへんな苦労をして,「勝ちパターン」を編み出している.
これを,ふつう「経営戦略」という.

裏返せば,儲かっていない企業には,「勝ちパターン」がないか,編み出されていない.
こういう会社ほど,あんがい社長はいい人で,かんがえるより手を動かすのが好きなことがある.
しかし,社長の最大の仕事は「勝ちパターン」を編み出すことだから,とにかくこれに集中してほしい.

さて,その勝ちパターンの「根底」のひとつに,相手が買っているもの(価値)を識っている(つきとめた),ということがある.
だから,自社ではそれを「追求した」商品を提供すればよい,というパターンになる.
相手が商売人であろうが,消費者であろうが,相手にとって「役に立つ」を自社で追求するのだ.

だから,想定顧客は重要なきめごとであり,その想定顧客がよろこぶ「価値」がなにかを追求することが必要になる.
こうした,「思考」をしていると,自社が他社からモノを購入するとき,「安い」だけでは選定基準になりえない.

この目的に合致したモノ「でなければならない」のである.
だから,どんなに値段が安くても,その目的に合致したモノでなければ購入しない.
ムダになるからである.
これが,「儲かっている企業」の思考と行動である.

たとえば,店舗の内装や備品類.
「想定顧客」という概念を無視すると,オーナーの「趣味」や「センス」での決定になる.
たまたま,それが「想定顧客」と合致すればよいが,そうでなければほぼ「残念なこと」になると想像するのはやさしい.

だから,これらをプロのデザイナーに発注するときには,かならず発注側が「要件書」を作成し,事業イメージを伝えるのだ.また,「プロ」であれば,これを発注側に要請する.
ところが,これを丸投げにするひとがいる.
発注側がなにも用意せず,いきなり予算を伝えて,絵を描いてくれ,と.

それではできない,といって仕事を断る「プロ」がいたら立派である.
しかし,現実には,仕事がほしいから,絵を描いてしまう.
工務店にいる社内デザイナーなら,材料を「工夫」して,すくない予算内におさめた提案をしてくれる.
それが,本来この店舗のコンセプトに合致するか問題なのだが,「プロ」はコンセプトまで作文してくれるから,こんなことを依頼する発注側は「有難い」とおもうのだ.

「プロ」からすれば,たとえ「仮」でも,コンセプトがなければ絵が描けない.
それで,発注側の意見を参考に作文する.
こうして,なにもかんがえなくても店舗はできる.
それでいまどき「儲かる店」ができたら奇跡である.
だから,それなりの店はできるが「成功」はしない.

もちろん,なかには凄いプロがいて,「儲かる店」をつくってしまうひとがいる.
しかし,これは、その「プロ」の店であって,発注したひとの店ではない.
だから,経年して「安くしようと」自己流に店舗をアレンジすると,もうちがう店になる.
「他人依存」の末路はさびしい.

「儲かっている企業」は,戦略があって事業コンセプトがある.
それに従った買い物をするから,「安い」でも「センス」でもないのである.