現代の栄養失調

半世紀前なら,青ばなをたらした「欠食児童」が典型的な栄養不足の象徴だった.
いまは,カロリー過多でありながらの栄養失調が指摘されている.
ようは「かたよった食事」で,かんじんの栄養バランスがグズグズになっているという指摘である.
推奨される料理は,洋の東西を問わず「伝統食」であるから,旅館における地域の伝統料理がそれにあたる.

ところが,その伝統的料理にも問題がみつかりはじめた.
材料となる野菜や穀類に,ほんの数十年前にはなかった変化がではじめたというのだ.
それは,おもに化学肥料による栽培で,土壌がやせてしまい,ほんらいあるはずの栄養がなくなっているらしい.

つまり,見た目のかたちは以前のママだが,なかみが薄まっているとの指摘があるのだ.
これは由々しき問題で,「栄養成分表示基準」が狂ってしまうことを意味する.
栄養士という専門家の栄養計算だけでなく,一般人もあるはずの栄養がとれない,となれば,なにをどのくらい採ればいいのかわからない.

薄まっているのなら,かつての成分量を摂取するには,当然に「量」をふやさねばならないが,それでは「過食」のすすめになってしまう.
なるほど,食事制限をともなう「ダイエット」で,栄養失調になるのはうなずける,などというばあいではない.

これは,現代人全員にあてはまる.
それに気づいた医師たちが,本流の学会からはなれて,不足している栄養を強化する医療をはじめた.
これらの医師の主張は一貫していて,がんをふくめた慢性病のおおくが栄養バランスの欠如が原因だとしている.
急性の症状には,直接「対処」することが得意な西洋医学がよい.しかし,生命・動物としての人間が,慢性的に患う原因が栄養バランスの欠如とするのは,理にかなっているようにおもう.

もっとも深刻に「欠如」している栄養素は,「ミネラル」だという.
「ミネラルウォーター」の「ミネラル」とは,中学高校でならう「元素の周期表」にあるなかで,「H(水素)」,「C(炭素)」「O(酸素)」,「N(窒素)」の四つ(有機物)をのぞいた,のこりすべて(無機質)をいう.
そして,「ミネラル」摂取が重要といわれるのは,これらの物質を体内で合成することができないからだ.
けだし,「ミネラルウォーター」だけで,欠乏している「ミネラル」がとれるというほど安易なものではない.ボトルにある成分と含有量をみれば,これも「かたよっている」のがわかるだろう.

日本では13元素をさだめているが,これは「分析可能」という基準でもある.
「必須ミネラル」は,以下のとおり.
ナトリウム,マグネシウム,リン,硫黄,塩素,カリウム,カルシウム,クロム,マンガン,鉄,コバルト,銅,亜鉛,セレン,モリブデン,ヨウ素

「周期表」から四つを除いたものすべてが「ミネラル」というのは,つまり,「地球」ではないか?
そもそも,ミネラルから除かれる四つは,「有機物」だから,これらがなければ人間としてのからだが存在できない.これに,「ミネラル」がないと「栄養失調」になるのだから,地球を食べよ,ということになる.

すなわち,なんとなくの「知識」にすぎなかった,太陽系のはじまりから「生命の誕生」を経て,われわれ人間にいたるものは,地球のなかから生まれた,という単純さに回帰しているにすぎない.

農地が痩せるのは,むりやり作物をつくるからで,そのために化学肥料が投入される.これに農薬も加わるから,土壌のなかの微量な成分はとっくにうしなわれている.
そもそも,化学肥料は植物の成長にひつようなおもな成分だけしかふくんでいないからである.
だから,形がおなじでも中身がちがう,ということになる.

もちろん,昔ながらの農法でつくるものはよいだろう.
しかし,化学肥料や農薬をつかって大量につくることも否定はできない.そうでなければ,安く大量に,すなわち便利な生活ができないからだ.
その見返りに,わたしたちは,「ミネラル」という栄養を欠乏させ,病気になっている.
なんとも因果なはなしなのだ.

だから,そう遠くない将来,「ミネラル強化」というサービスや食品が,ふつうになるにちがいない.
「ミネラル療法」は,そのさきがけなのだろう.

しかし,一方で,デカルトの動物機械論のようになると,それはそれで不気味である.
ほどほど,をかんがえなければならない.

もうすぐトランス脂肪酸が話題になる

アメリカでは,ことしの6月から,水素添加のトランス脂肪酸含有食品が禁止になる.
あと二ヶ月ほどだから,もうすぐ日本でもトランス脂肪酸が話題になるはずだ.
なお,水素添加ではない反芻動物のトランス脂肪酸は自然にできてしまうので規制の対象ではない.つまり,人工的・工業的に油脂(おおくは植物性)に,圧力をかけて水素をくわえると固まることでつくるものが対象になるということだ.
代表的なものは,マーガリンや,パンの原料になるショートニングである.
これらをつかった,あんがいすごい量があるのは,ポップコーンやドーナッツである.

ちょっとだけ化学のはなしをすると,不飽和脂肪酸の分子構造は二種類ある.
「シス型」と「トランス型」である.
シス型は,二本ある水素分子の枝がおなじ方向についているから,「SIS」といい,トランス型はこれらが対象になって「横切る」ようについているから,「TRANS」という.シス型は棒の両端からアンテナがでている格好で,トランス型はカギ状になる.

それがどうした?ということだが,トランス型は動脈硬化の原因になるという証拠がでてきた.それは,HDLコレステロールを減らしてLDLコレステロールを増やすからで,心臓疾患につながるというのだ.

それで,WHOも,カロリー摂取量の1%以内という指針をだしている.
アメリカ人は,ポップコーンやドーナッツが大好きだから,この指針をおおきくこえてしまって摂取している.それで「禁止」という最強の規制をうちだした.
この規制によって,年間4000人とかの心臓病患者数がへると期待されている.

アメリカのほかに,すでにデンマークなどで規制されているし,EUも規制の方向で検討している.豪州では「自主規制」をかけていて,効果をだしている.

で,日本は?となる.
この問題のまえに,平成14年に「健康増進法」ができて,「健康日本21」というのがあるのをご存じだろうか?
それで,「国民大会」とか「推進国民会議」などというものがおこなわれている.
これは,むかしさかんだった「国民運動」というやつだ.
だから、正式名称は,「21世紀における国民健康づくり運動(健康日本21)」となっている.

ヒトラーのナチス(‎国家社会主義ドイツ労働者党 )が,選挙によって政権与党になったのには,当時のドイツ国民から支持された人気政策があったからだ.それが,「健康推進」だった.
ナチス党員のパン屋は,お客の健康のため,黒パンしか焼かなかった.白いパンは害となるからだ.こうして,お客は白いパンをたべることができなくなったが,健康のためと自分にいいきかせた.

ついでにいえば,ヒトラーは個人的にたばこが嫌いだった.
それで,ナチスはたばこ撲滅運動を熱心にやった.
第二次大戦の戦争映画で,ドイツ軍側の登場人物がたばこを愛好していたら,それはナチスにさいごまで抵抗した国軍の意地を表現しているはずだ.
くわしくは,「健康帝国ナチス」を参照されたい.

 

それでか,「健康日本21」には,「政府が国民に押しつけるものではない」と,Q&Aにて説明している.全体主義は,「個人の自由」をとなえながら奪うものだ.
語るに落ちるとはこのことか?

神奈川県を嚆矢に「禁煙条例」ができたが,罰則をともなうその原案には「家庭内」もあって,これはすぐに削除された.しかし,東京都の「禁煙条例」では,その「家庭内」を柱とするというものになったから,そうとうの「進歩」である.
ひたひたと国家や公権力が家庭に上がり込んでくる時代になった.

この条例を通した女性知事は,「保守政治家」と分類されるらしいが,すくなくても公権力が家庭にくることを拒否する「個人主義」や「自由主義者」ではないだろうから,いったいなにを「保守」するというのか?防衛大臣を経験すると,自動的に「保守」になるのだろうか?
日本における「保守」の定義は,英国の「保守」とは正反対なのだろうから,用語に乱れがある.

というわけで,大がかりな「国民運動」が10年以上もおこなわれているのだが,トランス脂肪酸のはなしとなると,急速にトーンダウンする,というより「運動」の対象になっていない.
農林省のHPには,欧米人の摂取量より日本人の摂取量がすくないから,とくに問題なしとしているし,もしもおおく取っているとおもうひとは「自分で注意して」,国としては「留意する」としている.「留意」とは,「放置」のことだ.

つまり,WHOがいうように「危険は承知」だが,「だいじょうぶ」気にするな,ということにしているのだ.
それで「なにもしない」ときめたから,「表示義務」もしない.
明治以来の伝統的な「産業優先」という,わかりやすい態度である.

それでか,業界の一部が「自主公表」という行動をとっている.おそらく,消費者からの問合せがおおいのだろう.だから,食を提供する側は,消費者の敏感さに注意をはらう必要がある.
各社のHPをあたると,公表している企業とそうでない企業がわかる.
あんがい有名どころが公表していないから,「へぇー」とおもうものだが,「情報リテラシー」のないひとは,しらべることもできないから,気にしないで食べるのだろう.

それが,お国の方針だから,しらずに国家依存していることになる.
公表していない企業がつかう広告費がおおきいから,マスコミはもしかしたら6月になっても大々的な話題にしないかもしれない.英字紙かBBCやCNNなど英語ニュースしか扱わないのか?

さて,どうなるのか?
いろんなことを観察できそうな6月になる.

みんなで貧乏になりたい

「貧乏物語」というと,あの河上肇教授のものが有名だ.
「あの」というのは,「本物の共産主義者」であって,「あの人」近衛文麿が師事した人物だからだ.

五摂家筆頭の近衛家のお坊ちゃまが,共産主義に賛同する,というところが日本的である.
これは,戦後にもみられる現象で,「あの」連合赤軍事件でつかまった吉野雅邦の父は東京丸の内にある大企業の役員だった.

お坊ちゃまに「やさしさ」と「社会正義」がくっつくと,「活動家」になるという化学反応である.
近衛は河上肇をしたって東大から京大に移籍し,学生時代にオスカー・ワイルドの「社会主義下における人間の魂」を翻訳し、それを『新思潮』に発表している.

河上肇版にくらべると地味だが,その内容がいまでも色あせないのは,大河内一男教授の「貧乏物語」である.
さいきんの「格差もの」がいう論点の薄さがわかる.

日本に「労働市場」がない.
これはおおくのひとが気づいていない重大なポイントである.
「労働市場」とは,「市場経済」のなかの「商品市場」のはなしである.
いわゆる,ふつうの物質的「商品」ではなく,「労働」という商品をさす.

労働者はじぶんの「労働力」を売っている.雇用者は,その「労働力」を買っている.
この関係を,「労働市場」という.
労働者の人格をふくめたすべてを売り買いするというのは,「労働市場」にはなじまないから,これを,「人身売買」といって区別する.
だから、ほんらいの「就活」というのは,学生がはじめて自分の労働を売ろうとする活動をいう.

ところが,「就『職』」を,企業組織に自分を引き渡すような意味としてとらえれば,それは「人身売買」になるから,嫌がこうじると「病気」になったりみずからの命を絶ったりする.
そんな企業組織が,「反省」して「残業抑制」をしようとすると,午後10時にオフィス内の照明電源を落とすことで解決できると思い込む.

そして,それが「ニュース」になって報道されるが,だれだってそんなやり方が「残業抑制」になるとはおもわない.おもわないのに,それを命じるえらい人がいる.
きっと命じるえらい人も,「根本対策」とはおもっていない.
しかし,ほかにどうしたらよいかが思いつかないのだろう.だから,命じるしかない.
どうしたらよいかが思いつかない人が,えらい人になっている.
えらい会社である.

しかたがないから,社員は深夜喫茶にいって仕事をする.
そうでないなら,はやく帰宅して自宅で仕事をしたり,早朝に出社して仕事をする.
不思議なことに,深夜まで残業するのはいけないが,始発できて始業までの時間に仕事をするのは残業ではないらしい.

社内で「業務の棚卸し」ということをやるとそれなりの効果がある.
ところが,取引先の業務まで「棚卸し」はできないから,取引先もふくめた一斉見直しをしないといけない.
そんなことはできないから,なにもしない.
取引先との取引条件もしらべない.

もしかしたら,「市場経済」の根幹の「市場」が機能不全をおこしているかもしれない.
「市場」のルールは,「取引条件」のことである.
「取引条件」に理不尽なことがあれば,それは修正されなければならない.
だれが「修正」するかといえば,取引の当事者たちである.

しかし,当事者で「修正」できない邪魔がはいることがある.
それが,政府だ.
鳴り物入りできまった「民泊」も,さまざまな「規制」の「法制」になったから,これまで「ヤミ」(法律がないから全部「ヤミ」になる)でやっていた「業者」も,「法治」を旨とするところほど「撤退」「廃業」するはずである.
年間180日しか営業できないから,この「規制」だけでも採算がとれないだろう.

お願いだから,政府はなにもしないでください.
そうおもっていたら,大阪の私立小学校の土地問題で,ほかになにも議論しない国会になった.
これ見よがしに追求する野党も,追求されるひとびとも,もうどうにも止まらない.
えらい国に住んでいる.
お金持ちほど外国移住がさかんになった.
のこされたその他おおぜいは,みんなで貧乏になるしかない.
「希望」がないから,「希望」が「政治用語」になるわけである.
納得.

天邪鬼のススメ

「片意地をはる」とかという意味ではあるが,ここでは「他人とちがうことをする」としてはなしをはじめたい.

「他人」があつまると「マス」になる.
「マスコミ」とは,「他人の集団の意見」ことである.
ところが,ほんらいたくさんあるはずの「他人の意見」を,集約してしまっているから,あたかも「それしかない」とか「みんながそうおもっている」と勘違いをうながすことになる.
これが,「偏向報道」といわれることの原理である.

マイケル・ポーター教授の「競争の戦略」では,いかに他人とちがうか?,が重要なテーマとして語られている.ぜひエッセンシャル版ではないオリジナル版をおすすめしたい.

日本人の特性として,他人とおなじでいたい,というものがある.
不思議なもので,他人とおなじだと「安心」するのだ.
だから,「就活」の学生は,まるで「制服」のようにおなじ服装で面接にのぞむ.
さらに,世にある「面接攻略本」をかならず読んでくるから,わずかな時間で自己PRをすべき「面接」で,おなじことばをはき出すから,「面接官」には拷問のような時間になる.

もちろん,「面接官」にもしっかり勘違いしたひとがいて,「選ぶのは自分だ」とおもっている.
それで,パワハラ面接とか,圧迫面接とかいう手法も生まれているようだ.
しかし,これも「緊急事態」を演出することで,どんな反応や回答を示すのかをみる,ということをしないと,コピーのようなひとたちの評価ができないとして,正当化されているふしがある.
それこそが,「緊急事態」なのだろう.

なぜ,わたしたちは,他人とおなじであると安心するのか?
厳しいいいかただが,思考力が退化したのではないかとおもっている.
これは,オルテガのいう,「大衆の反逆」そのものではないか?

わたしたちは,人類史上かつてなかった世界最先端の「大衆社会」に生きているのではないか?
おそらく,疑問の余地はないだろうから,確定してよいだろう.

だからこそ,他人とちがうことを探すことが重要なのだ.
「コピー」として扱われるということは,消耗品になる,ということを意味する.

どうして国(文科省)も,地方(自治体)も,高等教育をしたがるのか?
「多様性」ということばをつかいながら,じつは「コピー」をつくろうとしていないか?
わたしは,これからの人口減少社会をかんがえると,義務教育は二段階に分けるとよいとおもっている.

第Ⅰ段階が,必修の初等教育である.これは,いまの小学校である.
第Ⅱ段階は,選択必修として,文字どおりの「選択」ができることが重要だ.
「進学コース」なら中学校へ.
「職業コース」なら,職人のもとに預けながら,「中学必修」を受講させる.
「職業コース」は,中学あるいは高校,大学級でも「選択」可能とする.
これは,職業人をリスペクトするような方策である.
もちろん,いったん「職業コース」を選択しても,高等教育の門戸は開いているから,相互に行き来できる.

「ローテクの最先端は実はハイテクよりずっとスゴイんです。」という本があった.

その通りである.
高等教育のひとには,高等教育なりのアイデアの創出が要求される.これが,新しい価値を産むからだ.
それをじっさいにつくろうとすると,「ローテク」は欠かせない.
「設計図どおりにものがつくれたら,倒産する工場はない」
「どうやったらこの形がつくれるのか?それが問題だ」
下町のカリスマ,岡野工業の岡野雅行氏のことばである.

すべての人間に「選択肢」をあたえないで,高等教育へ一直線で進めるという発想は危険である.
とにかく,豊富な選択肢が用意されていること.
これが,天邪鬼の発想である.
1980年(昭和55年)の大ベストセラーは,ミルトン・フリードマンの「選択の自由」だった.

この本が主張している,「自由主義」は,もはや世界の常識である.
ところが,日本で「自由主義」は,忌み嫌われている「主義」なのだ.
「みんな平等」というありもしない幻想が,最優先の価値観になってしまった.
なるほど,「就活」の学生の服装が,「人民服」にみえるのは気のせいか?

漁協レストランに行ったら

春の風にのって,たまにはどこかにでかけよう.
それで,ドライブがてら「漁協レストラン」にいってみた.
「漁協」だから、ふつうの飲食店とはおもむきがちがうのは予想どおりなのだが,ちがいすぎた.

ランチの定食を二人で食べたら,6,000円を超えた.
もちろん,味は「さすが」である.
とくに魚の味は,格別であったことはいうまでもない.

しかし,どこかがちがう.
それは,価格とサービスが一致していないことだ.
つまり,とびきりの「魚」だけが強調されてはいるが,それ以外が欠如している.
「商品」としてかんがえている姿ではない.

これは,かつての「工業」に似ている.
「いいもの」であれば「売れる」という発想そのものだ.
しかし,VHSとbe-taの闘いがそうであったように,工業の世界は,とっくに「いいもの」は「売れる」という発想を捨てざるをえなかった.

しかし,だからといって「工業」が順調なわけではなく,むしろ苦悩はつづいている.
「顧客志向」を見失ってしまったからだろう.
それは,「顧客側」の変化である.
かんたんにいえば,同じ価値観の「顧客」のおおきなかたまりが,なくなってしまったのだ.

大量生産におけるコスト・メリットに固執すると,それを消化できるおおきなかたまりが不可欠だが,国内にそんなものはもう存在しない.
では,海外はどうかといえば,現地生産など直接生産をしないと,かんじんのコストがもはや見合わない.
それで,「顧客」がだれだかわからなくなってしまった.

このレストランの「発想」も,「いい魚」をだせばよい,から抜けきれない.
その「魚」の価値があがってしまった.かつてのように「獲れない」からだ.
だから,「原価」から単純に「売価」をきめると,一人前3,000円以上の「定食」になる.
そんなにするのなら,お茶,ごはん,みそ汁,漬物といったパーツをどうするのか?
それに,案内方法,店内内装といった雰囲気作りはどうするのか?

これらが,まったく考慮されているとは思えない.
「この商売はなにか?」
いまや結果的に,上から目線になってしまっているのだ.

こうした「店」が,各地に存在する.
反面教師として,参考になる.
「漁協」ならではの店である.
しかし,「農協」も似たようなことをしているから,「漁協」だけのことではない.

個人経営だったら,おそらく存立しないビジネスモデルである.
存立しないものが存立している.
ここに,この国の「文化」がある.
残念な「文化」のひとつのである.

マニュアルを参照

「マニュアル」は役に立たない,という常識がまかりとおっている.
ほんとうに,そうだろうか?
では,「マニュアル」とはなにか?をいえるのか?
残念ながら,おおくのひとが勘違いしている.それも,おおきな勘違いである.

さぁこれから「業務マニュアル」をつくりましょう.
となったとき,かなりの企業組織で,「現状の仕事のやり方を書き出す」作業をはじめてしまう.
ところが,現状のやり方では,それなりのクレームやミスが発生しているだろうから,それを「業務マニュアル」にしてしまうと,現状のクレームやミスがそのまま再現されることになる.
これでは,なんのためにマニュアルをつくるのかわからない.

だから,「マニュアル」は,現状の仕事のやり方を書いたものではない.
「現状でかんがえられるもっともうまいやり方」を書いたものが「マニュアル」である.
すると,マニュアルの前提には,理想の姿があるのだ.
その理想の姿にするための方策が,マニュアルの本質になる.

どんな業務でも,開始と同時に時間のながれにのっていく.
そこでは,数々の業務ルールの発動があり,経過のチェックポイントを通過するたびに,業務内容の確認がおこなわれ,理想とのギャップが発生していれば,これを修正するというサブ業務ルーチンにむかうようにする.これで,業務の結果品質が守られる.

以上の「ながれ」は,どの産業にもあてはまるから,ものをつくらないサービス業でも逃げられない.「サービス」も,時間のながれにのっていくから,むしろチェックポイントをつくることから難易度がある.
それで,これまではその難易度がひくい工業でさかんに研究された.サービス業では,難易度の高さゆえに,ないものとしてあつかわれたのではないか?

「脱工業化」という,工業からのサービス業への進出は,ものづくりがものづくりだけで生きていけなくなったことからはじまる.
つまり,工業をやめたのではなくて,すそ野にこそ価値があることに気がついたのだ.
それを,「スマイル・カーブ」という図で表現している.

人間が笑っているような図になるから「スマイル・カーブ」という.
70年代にはやったマーク「スマイル」の,凹形をした口にあたるカーブだ.これが凸型になると,怒ったような図柄になる.
左右の端が高く,真ん中にむかって低くなるのは,左端が「企画」や「設計」で,右端が「アフターサービス」をしめす.低い中心部は,「製造」にあたる.

製造業で,もっとも価値が低いのは「製造」になってしまった.
宿泊業なら,「客室清掃」にあたろうか.おおくの宿は,この業務を他社に委託してしまった.「してしまった」というのは,本質をかんがえずに,とにかく業務単価をさげたという意味だ.
その証拠に,委託契約に「業務仕様書」すらないことがあるのでわかる.

どんな製品をつくるか?の「企画」や,技術や洗煉されたデザインを詰め込んだ「設計」,そして,つぎの商品企画のための情報収集をふくめた「アフターサービス」こそが,価値の源泉になったのだ.これを実践しているのが,アップルであり,日本ではキーエンスである.

「清掃業務仕様書」が,受託先清掃会社の原本のままという事例をなんどもみたことがある.
これでは,「企画」も「設計」もない.丸投げである.
「客室」という宿泊業にとっての主力商品の製造が,他社に丸投げで平気の平左でいられる神経がわからない.

工業側が,これらの価値の高いしごとはなにか?とかんがえたら,じつは「サービス業」に似ているどころか,サービス業とかわらないことを理解した.
それで,工業のひとたちが,サービス業への進出ということになって,「マニュアル」の問題に気づいたというわけである.

しかし,かんじんのサービス業側がこのことにまだ気づいていない不安がある.
おそろしいことに,そのことが人類史に汚点をのこす甚大な悲劇をつくりだしてしまった.

福島第一原発事故である.
スリーマイル島事故の真摯な分析からつくられたマニュアルが,福島にもあった.
発電所の所長以下の現場,東電本社,原子力保安院,経産省本省,内閣官房,国会,そして学会などもろもろ,これら関係者全員が,その「マニュアルを参照しなかった」のである.

このにわかに信じがたい現実を知った,福島から東京に避難している知人が,全国の有権者,最低でも福島県民の成人全員に,政府あるいは東電は復興費からわずかばかりのお金をさいて,つぎの図書を配付すべしと小さな声で主張している.
齊藤誠「震災復興の政治経済学」日本評論社(2015)

「マニュアルを参照」できないと,たいへんなことになるばかりか,この本で指摘されたことを,反省すらしないのなら,それは人類にたいする確信的敵対行為である.

25年間も復興増税されているのだから,当然に全国民に配付すべしとおもうのだが,待っていても政府はなにもしないから,支援金を寄付するつもりで上述の本は読むべきだろう.

部下は自分の鏡である

「子は親の鏡」という.それで.いよいよとなると,「親の顔をみてみたい」になって,恥をさらすのは,やっぱり親だ.
GHQの一員としてよばれて来日し,いまの労働法の基礎をつくった,ヘレン・ミアーズが書いた「アメリカの鏡・日本」は,ニッポンという子の親がアメリカだという立場でかいたが,マッカーサーは,この本を「日本人に読ませてはならない」として,日本語での出版を発禁にした.

日米は,黒船から断絶していたのではなく,マッカーサーによって断絶してしまったということがわかるから,いまの日米をかんがえるときの基本としても読める.
日本は,「親」から見捨てられた「不肖の子」であった.

企業において,部下を育てる,というテーマは,ふつう上司の仕事として認識されている.
だから,経営者は使用人である幹部従業員を,幹部従業員は中堅従業員を,中堅従業員は新入社員を,というぐあいにピラミッド構造を地でいく順位で面倒をみることになっている.
すると,いちばん問題なのが,経営者はだれに面倒をみてもらうのかがはっきりしない.

まず,この順番が正しいとすれば,経営者の面倒をみるのは新入社員がのぞましい,ということになる.
本来,経営者は会社全体の面倒をみなければならないが,そうはいかない,というなら以上のようになるだろう.

接客業において,おおくの企業はものすごいことが「常識」になっている.
それは,お金をくれる「お客様」の接客をするのが,新入社員とその先輩たちという,社歴がみじかいひとたちばかりが「兵隊」として存在するのだ.
かんたんにいえば,素人をお客様にあてがって,それでよしとしているのだ.

こうした業界の常識に異議をとなえたのが,いまではすっかり「古典」あつかいになっている,「逆さまのピラミッド」である.

この本は,当時のアメリカで,「サービス革命を引き起こした」といわれるものだった.
いまのアメリカでも,この本の影響力はつよいのではないか?
しかし,日本ではあまり高い評価はされなかったかもしれない.
「なんとなくピンとこない」というのが,一般的な感想だったと記憶している.

おそらく,日本の読者はいまでも「ピンとこない」かもしれないが,その前に,サービス業従事者の読書嫌いも半端ない状態だということは認識しておきたい.

この本が,日本で「ピンとこない」といわれる理由はかんたんだ.
日本人のはたらきかたは,「集団主義」といわれて久しいが,その「集団」が,組織だっていないという特徴がある.
つまり,「なんとなく組織」なのである.

「フラットな組織」といえばそうなのだが,もっとも重要なことは,仕事のやり方のなかにふくまれる数々のルールが不明確なのである.
だから,仕事にムラができる.
しかし,これを,経営者も放置するから,組織の意思疎通が苦手という組織になる.

もっとも,読書嫌いなサービス業従事者には,経営者もふくまれる.
製造業では大変な効果をだした,TWI(Training Within Industry)という現場責任者向けの研修をほとんどのひとが知らないだろう.
これは,現場責任者が後輩を教育するための「研修」である.

欧米は,人種も言語もバラバラだったから,意思疎通に苦労した.
そこで,仕事のルールを明確にするという努力がなされた.
日本は,これらの問題がほとんどないから,「有利」だとされてきた.
ところが,個人の価値観が「発散」する時代になって,この「有利」さがぐらついている.

むしろ,見た目でかんがえ方がちがうと思われるひとたちが集まった組織のほうが,個人への許容量がおおい.
見た目がおなじだと,自分とおなじだとかんたんに錯覚する.

だから、どんな働きかたをしたいと思うのかを,新入社員にきくと,接客上の訓練のありかたにもアイデアがあるかもしれない.
将来を背負うことがきまっている新入社員から面倒をみてもらうのは,経営者にとってもチャンスなのだ.

定義の変更

かんがえ方の出発点が,「定義」である.
なにもかたくかんがえなくても,じぶんでじぶんを「定義」で縛ってしまうことがある.
どうもうまくいかない,といったとき,「定義」を変更するだけで,はなしはおおきくかわる.

新津春子さんというひとの講演をきいた.
テレビで有名になったが,本人はちょっと迷惑そうだった.
彼女は,ビル清掃の達人である.
しかし,ビル清掃のしごとが,社会から低くみられていることもしっている.
「わたしたちはお客様の目にはっていない」
「でも,それでいい」

中国残留孤児二世の彼女は,日本語ができず,ビル清掃のしごとしかなかったという.
それで,「ビル清掃人になっちゃった」.
募集しても募集しても,ひとがこないから,法律違反だといわれようが,管理職として一日18時間はたらいた.

「日本人だって,みんな『ビル清掃人になっちゃった』ってがっかりするの」.
唯一,彼女がふつうでなかったのは,「ビル清掃人になっちゃった」けど,「ビル清掃『職人』になる」と意識したからだ.
国家資格もある,奥深いしごと,なのである.

こうして,コンテストで日本一となり,職場の羽田空港は世界一清潔な空港に毎年連続して選ばれている.
彼女は,羽田でただ一人の「清掃マイスター」になった.

山形新幹線の社内販売のカリスマ,斉藤泉さんも似ている.
彼女は,短大生時代にこのアルバイトをはじめる.
ふつうは,ワゴンを押しながら社内を往復して,お客さんから声がかかればとまって,お客さんのいう通りの商品をわたせばいい,とかんがえるだろう.

彼女は,「日本一小さなお店の店長になった」と定義した.
店長だから、なにを売りたいかは自分できめる.
そのために,乗車前にはかならずホームを往復して,お客さんの年齢や職業,それに手荷物をみて客層を確認し,さらに,天気に気温や湿度を自分でも「感じる」という.

こうやって,ワゴンに積み込む商品とレイアウトをきめる.
そして,販売しながらも,購入してくれたお客の意見を収集した.
それで,いまでは伝説となった,地元の老舗駅弁屋さんと「お弁当を開発」してしまう.
これが,駅弁の人気全国二位になる.

これらは,個人の世界のはなしであるが,よくかんがえれば,これぞ「事業コンセプト」なのだ.
あまたいる同僚とは,一線どころかぶっちぎりの成果をたたきだす.

仕事のノウハウを解説した書籍や動画もたくさんあるが,なかなかドンピシャにあたらない.
それは,方法論ばかりがかたられて,「定義の変更」という「思想」がないからだとおもう.
「自分はなにものなのか?」
という問いに,漠然としたイメージしかないひとと,明確なイメージがあるひととでは,まったくちがう成果になるのは当然どころか必然である.

こんなことはあたりまえ,わざわざ書く必要もなかろうに,というのはもっともである.
しかし,あんがいそうでもないひとがおおくなったようにおもう.
そういうひとたちは,かならず誰かや何かに「依存」する.
国や自治体がなにかをしてくれるという「政府依存」が蔓延しているし,その政府がゆるそうとしているカジノでは,「ギャンブル依存」が話題になっている.

「自立して生活できる国民を育てる」はずの義務教育も,いつのまにか「依存してしか生きられない」ようにしているのが滑稽だ.
高等教育ばかりが「いい教育」と定義しているひとたちがいるが,「職人」ならば年齢的に中学校卒業でも遅いと断言する「名工」がたくさんいる.

人間に備わった「五感」の各種センサーを,一生つかえるレベルまで研ぎ澄ますには,10歳ぐらいから訓練するのが理想というから,「若年労働」どころのさわぎではない.
こうして,あと数年もすれば,最新鋭工機でもつくりえないものづくりも絶えるだろう.
そのころ,小学校では「プログラミング」が必修になっているはずだ.

「プログラミング」を小学生におしえても「児童の職業訓練」とみなさない.
こんな都合のよいはなしを,よろこぶ親は,どんな「定義」で生活しているのか興味がわく.
職人になりたいと志すこどもを,職人にしてあげられないことのほうがよほど問題だ.
技術は文化とおなじで,一度絶えると復活できない.

台湾の故宮博物院収蔵の「青磁」を例にしても,いまだその製造方法は解明されていない.
人間の手がつくり出す業を,録画保存しても,職人の感覚を保存することはできないから,絶えれば情報がないよりはまし,という程度だろう.

あらゆる場面で,「定義の変更」が必要なのではないか?

清掃のプロ

新津春子氏の講演を聴いてきた.
彼女のはなしは,「経営センス」に満ちていた.
それは,これまでの半生でのはなしにも,これからやりたいことを決めているはなしにも,みごとに表現されていた.
ただものではない.

 

自分はなにものなのか?

彼女の原点は,中国残留孤児二世である,という出生からはじまる.
毛沢東時代に生まれ,働いても働いても食べるのがやっという生活だから,子どもでも手伝いはあたりまえだった.家の掃除はご母堂から訓練されたという.
学校にはいると,日本人である,という理由でいじめられた.
祖父がいじめっこの家に怒鳴り込んで,その親に猛抗議したという.
当時,50年はすすんでいる日本を残留孤児の父が見てきた.それで,一家で移住を決意した.
日本語ができないことで学校で,中国人だ,といじめられた.
「わたしはなにものなのか?」

日本での生活も苦しかったが,物資がなんでもあって,努力すれば自分も買える.
一家の生活を支えるために,高校生アルバイトをはじめるが,ことばが不自由なので清掃のしごとしかなかった.
選択の余地がなかったが,自分にはこのしごとしかない,ときめた.
それは,自分の価値をみとめてもらう闘いでもあった.

世襲の企業のばあい,自分(自社)はなにものなのか?という疑問をスルーしていることがよくある.よくいえば「伝統」であり,わるく言えば「惰性」である.
だから,自分(自社)はなにものなのか?という問いにたいする回答は,たいへん重要だ.
それが,企業理念,である.
その企業理念を,いかに他人(他社)からみとめてもらうかの闘いが「経営」である.

彼女は,高校生にしてこの根本法則を体得していた.

アルバイトなのに社内研修にでる

学校をでてから,かずかずの清掃会社をわたりあるいた.
それは,さまざまな「清掃」を体得するためであった.ひとくちに「清掃」といっても,専門とする業務の種類・バリエーションがたくさんあるからだ.
しかも,清掃技術のための学校もある.
彼女は,この学校に入校する.

ここで,生涯の「師」と出会う.
そして,師からさそわれて,師が常務をつとめる羽田空港の清掃会社にアルバイトとして入社する.しかし,彼女は,これまでの経験から,清掃技術のおおくはマスターしている.それで,いきなりアルバイトなのに指導員をやらされた.

アルバイトで指導員はいなかったから,社員から変なめでみられた.
日本人は,自分のできがわるいと,紹介者のわる口を言うという特性があるから,師に迷惑はかけられない,とおもったという.
それに,羽田空港はひろすぎた.自分一人では,とうていできない.チームワークという,中国人には不得意なことが,もっとも重要だと気づく.

それで,清掃技術をみがく社内研修にも積極的に出席した.
彼女はアルバイトという身分だから,この研修費用は会社から借金をしているとおもいこんだ.それで,どうやって返済するのか?が気になったという.
「あなたが習得した技術で会社に貢献してください.だから無料です.」
十何社を渡り歩いた彼女が,一生この会社にきめた瞬間のことばである.

これぞ「カンパニー」の真髄ではないか.
従業員のたしかな技術がなければ,会社は競争に勝てない.社員だろうがアルバイトだろうが,従業員にはちがいない.たしかな戦力をそろえることが優先される.
このはなしを聴いて,チェスター・バーナードの「バーナード理論」を思いだした.

バーナードはいう.「会社は,従業員を採用しようとして応募者を選択しているとおもいこんでいるが,ほんとうは応募者から選ばれているのだ.」
人口減少ゆえの人手不足に悩む日本政府と日本企業のおおきな勘違いがこれでわかる.

清掃の肝心要は「心をこめる」ことという精神

清掃技術日本一をきめる大会が年一回ひらかれている.
師から出場するように命じられた彼女は,特訓をうけることになるのだが,師は「あなたの清掃には心がこもっていない」としかいわない.なにを言っているのだ?とおもいながら出た予選会で,当然とおもっていた優勝ではなく,二位だった.

とうとう我慢ができなくて,「先生,心をこめるってなんですか?」と聞いた.
それは相手を敬う「精神」だった.ただ机をタオルで拭くのではない.机が人間だったらどうして欲しいかをかんがえればわかる.
「タオルで拭く」のは「作業」であって,それは「清掃業務」という「仕事」ではない.

仕事には精神がなければならない.その精神を実現するためには,かんがえて行動しなければならない.
これを習得した彼女は,みごと全国大会で優勝する.
師は,「あなたが優勝することはわかっていましたよ」といってくれた.
彼女は,自分の存在を尊敬する人から認められた,とおもったという.

チームワークには,コミュニケーションが必要だが,そのコミュニケーションにも心をこめるという精神がなければ,けっしてうまくいかない.
無口なひとには,なるべく声をかける.ことばがわかるヒトならば,かならず通じるという.

経営者へのメッセージ

この講演には,経営者のひともおおくきているだろうからとことわって,つぎのひとことがあった.
「事故・事件がなにもなかった日は,社長が従業員に感謝すべきですね」だって,「事故・事件があったら,社長はおしまい,辞めなきゃならなくなるかもしれない」でしょ.

社長が従業員に感謝できるという「精神」は,どこからくるのかをいいたいのだろう.
従業員から社内昇格して社長になった経営者に,よほど問いたいことである.
「おれは偉いんだ!」という気持が態度になる.
そんなひとほど,えらいめにあって退陣するはめになる.

しかし,のこされた従業員はさらなるえらいめにあう.
これをコンプライアンスの強化でなんとかできるものではない.
次期社長や役員を選択するための役員会メンバーが,遡及して責任を負うルールがひつようだ.
最低でも候補者から「理念」とその実現方法についての回答内容を吟味すべきだ.これが,役員をうみだすひとが負う製造物責任というものであろう.

十数社の転職体験からえた,するどくもふかい指摘である.

冴えるプロフェッショナルのことば

「心をこめる」とどうなるか?
「手順」がふえるのだ.

いかに手順を減らして,合理的に改善するか?つまり,コストを下げるか?
これが,バブル崩壊後の「正解」とされてきたことだ.
しかし,品質を向上させて単価をあげないと,新興国の製品にかなわない.
じつは,すでに「いいものを安く」ではなく,「いいものだから高く」しないと生きのこれないことになっている.

「手順がふえても,『いかに早く』というチャレンジをたのしむ」

手順がふえることを否定するどころか,前提にしているのだ.
それで,以下のような質問があった.
洗剤の残り具合をどうやって確認しているのか?
彼女は即座に,「ph試験紙をつかう」とこたえた.
そして,「phが中性になるまでやる」と.

人手不足でも,管理職としての責任だから、といって一日18時間はたらいた.法律違反,といわれても,どうにも清掃スケジュールがこなせない.
彼女が日本一になって,テレビにでると状況がかわったという.

ひとは,プロフェッショナルのしごとを尊敬するから,ひとが集まる.
これが,バーナードの「選ばれる」ということだ.

問題を発見できない

問題がいっぱいあってどこから手をつけていいのかわからない.
よくきく経営者の悩み事である.

いっぱいある,というのが本人の実感なら,いっぱいあるにちがいない.
それで,紙にランダムに書き出してもらうと,モヤモヤして三つも書くとペンがとまることがある.
どうやら,そのモヤモヤが問題なのだ.

紙とペンはそのままに,雑談をしていると「出てくる」ことがよくある.
忘れないように書き出して,さらに雑談をつづけると,何日目かでスッキリしてくる.
けっこう時間をようするが,スッキリしないことにはわからないから,なるべくスッキリするまで根気よく雑談をする.

さて,その「雑談」だが,これまでの事例をはなすことが大切だ.
どんなことが起きてこまったのか?記憶を呼び起こす作業である.
すると,だんだんとパターンがみえてくる.
それは,問題を放置したパターンのことだ.

日報がない

なんらかの書式がきまっているものもあれば,ふつうのノートに書き出すだけのこともある.
だから、「日報」といっても範囲がひろい.堅くかんがえてはいけないのだ.
現場には,かならず「日報」を用意するとよい.
人数や金額などの数字は,なるべくあったほうがいいが,「目的」によっては必要ないこともある.

経営者がほしい「日報」には,どんなことがかいてあるといいだろう?
いちど,白紙から項目だけでも書き出してみることをおすすめしたい.
数字の情報,記号の情報,文章をふくむ文字の情報,そしてビジュアル情報.
これを,だれが記入するのかをかんがえる.
担当部署はもちろんだが,担当者まできめたほうがよい.そこで,あんがいわすれがちなのは,経営者本人の記入すべきことと,確認すべきことの整理である.

宿事業や飲食事業は,基本的に「日銭商売」だから,日々の「日報」こそが,もっとも重要な一次資料になる.
そして,経営にはこれらの日報から「将来を読む」という重要な役割がある.
ただ記録するのが目的ではない.

問題発見が問題解決の第一歩

問題がわからなければ,解くことはできない.
小学校の学年があがると,算数にも「応用問題」がふえてくる.
「国語」がわからないと,解くべき問題が理解できないから,計算力のまえに国語力がとわれている.

企業のなかの業務には,おおきく二つの系統がある.「作業」と「仕事」である.
「作業」は,一見して「単純作業」というものと,「熟練作業」がある.
「単純作業」をこなして時間がたてば,だれでも「熟練」するかといえば,そうではない.
「作業」のなかにひそむ,問題発見ができて,それをみずから解決できるひとを「熟練工」といい,ひとは「職人」とよぶ.

「仕事」とは,「問題解決」のことをいうから,「熟練工・職人」の作業の結果を「仕事」という.単純作業のばあいは,たんに「作業結果」といって区別する.
「いい『仕事』してますねぇ」の「仕事」は,以上のことを指す名言である.

「作業」しかしていないのに,それを「仕事」だとかんちがいしてはならない.
たとえば,つかう道具がたとえ最新の高速処理ができるパソコンというものであっても,紙にあるデータを入力するとか,表計算のシートを作成する,というのは「問題解決」をしていないから「作業」である.その作業に,「熟練の技」もなければ,ひとは「単純作業」とよぶだろう.

だから、正規雇用だろうが非正規雇用だろうが,業務が「問題解決」であれば,「仕事」をしていることになり,その解決方法を独自にみつけるひとを「プロフェッショナル」という.
過去に話題になった「すごいひと」は,みなこの部類である.
かつての山形新幹線で,社内販売のカリスマと称された斉藤泉さんは,パートタイマーだったことが印象的だ.

いかにして,カリスマになったのか?
それは,問題を整理して理解し,仮説をたて実行する,という意識と行動のたまものである.
だれにでもできることではないが,本人にすれば,だれにでもできることなのだろう.

こういうひとを,いかにふやすのか?
それが,経営手腕である.