国民の祝日に関する法律の特例だってさ

7月なのに4連休になったのは、コロナのせいではなく、オリンピックのせいだったことを覚えているだろうか?
こうした、「祝日」を定めているのが、『国民の祝日に関する法律』(昭和23年法律第178号)である。

あっさり読み飛ばしてしまうのが、( )の中なのだが、わざわざ( )で括る意味もある。
昭和23年とは、いわゆる占領中にあたるので、何気ない法律だけれど
GHQの意向をたっぷり忖度している法律とも読める。

わが国の適当さ、あるいは、当時のおとなの事情があって、占領が終わって独立を回復したとき、占領下での法律の根本的見直しを「しなかった」ので、そのまま占領されっぱなし状態が続いている。
もちろん、このなかには『日本国憲法』もある。

どうして「祝日」にならないのか不思議だが、日本が「主権を回復した日」が忘れられている。
それは、1952年(昭和27年)4月28日である。
ふつうなら「独立記念日」なのだけど、自助努力で独立を勝ち取ったというよりは、なんだか「許可された」感がある。

念のためだが、安倍内閣は2013年(平成25年)に、閣議決定という形式で「主権回復の日」を定めたが、国民の祝日に至ってはいない。
主権回復=独立国、になるのが嫌なひとがたくさんいるからだろう。

ただ、日本人としての矜持をみせたのは、戦犯の身分回復であった。
これには4回も国会決議がなされていて、ぜんぶが「全会一致」であった。
昭和27年6月9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
同年12月9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
昭和28年8月3日「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
昭和30年7月19日「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」

そんなわけで、法的にわが国には「戦犯:戦争犯罪人」は存在しない。
「戦犯」についてこのような根性ある決議がなされたのに、そのほかのものが修正もされないで今日に至っているのは、これもGHQ(=アメリカ)の意向が反映されているからとかんがえるのがふつうではないのか?

裏返せば「戦犯」という概念のつくりかたに無理があったことをアメリカ側も知っていて、「やりすぎ」だと思った可能性があるし、冷戦による味方としての日本の取り込みのための方策だったのかもしれない。
戦犯の名誉回復は、あたかも主権を回復したという、本当は方便にすぎないものを信じ込ませる心理戦の一環だったとも思われる。

だから、正々堂々と今日も『国民の祝日に関する法律』なるものが存在し続けているのだろう。
戦中・戦前期にあった「祝日」と「祭日」の区分がなくなったことをかんがえてみればよくわかる。

『皇室祭祀令』廃止という前提がある。
皇室が行う神道の大事な行事(祭祀)の日を「祭日」として、それ以外の「祝日」と分けていた。
つまり、『皇室祭祀令』が廃止された理由である、「占領」ということがここでも首をもたげるのだ。

だから、接続的な意味として、「新嘗祭」を「勤労感謝の日」に言い改めためて、明治6年以来の11月23日と定めたのだ。
しかし、『国民の祝日に関する法律』では、「ハッピーマンデー」と称して連休化させるという「飴」の改正を用い、徐々に「その日」の意味を薄めることを謀っている。

すなわち、物理的な「休日」としての意味しかないような、薄っぺらな日にすることを推進しているともいえる。
たとえば、今年から「体育の日」はなくなり「スポーツの日」へと名称が変わるけど、とっくに「体育の日」は10月10日ではなくて、10月の第二月曜日になってしまった。

前回の東京オリンピックをいつ開会するのか?という問題は、「快晴の秋晴れの日にしたい」ということから、観測以来の「晴れの得意日」として、10月10日に決めたのだ。
その甲斐あって、当日は青空のキャンバスにブルーインパルスが描く五輪が映えたのだった。

開会日を自分たちで決められる。

この何気ないことが、じつは「主権回復」に対する当時の国民の喜びと合致しているのだ。

果たして、今回のオリンピックは、だれが開会日を決めたのだっけ?
延期になっても、やっぱり「酷暑」にやるという。
わが国衰退の象徴的イベントに成り下がっている。
二次関数のグラフのように、昇りと降りの局面がイメージになっている。

法律だから、国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の特例、として、「海の日」が23日、「スポーツの日」を24日にすることで、4連休をつくったのが平成30年6月20日(施行日)である。
こんな前に決めておいて、まさかの延期に、対応できない。

この機動力のなさこそが、国家衰退の原因なのである。
これぞ、国民主権なき国家依存の強烈な副作用なのだ。

果たして、昨日、初めての「スポーツの日」を消化したから、ことしの10月に祝日はない。
だから余計に10月10日が、今年も晴れるのか?に興味がわく。

国家主権の源泉に国民主権があるものを、外出するなという為政者に、今日はなんの日?と聞く気もしないのであった。
スポーツの日に外出するなとは、ブラックジョークにもならない。

大雨の理由がほしい

ひとは、見えるモノをみて、見えないモノはみない。
楽だからである。
なので、見えないモノをみえるように継続的に努力すると、どんな分野でも本来の「専門家」になる。

裏返せば、見えないモノをみないままでいたら、いつまでたっても「素人」のままだから、年齢や人生経験との関係がなくなってしまう。
困った老人は、こうやってつくられるのだ。
だからこれを、「安逸な人生」ともいう。

豊かな時代には、だれでも安逸な人生を送りやすい環境が整っている、という意味もある。
それが、5歳児を前提とする「チコちゃん」が生まれた背景だろう。
安逸な人生を送ってきたひとたちが、よろこんで『チコちゃんに叱られる!』のを観るのは、安逸な人生の仲間の多さに安心するからである。

「ボーっと生きてんじゃねぇよ」

この決め言葉の汚さは、公共放送が「日本語の守護神をやめてしまった証拠」でもある。
しかし、この決め言葉に「安心する」視聴者の多さこそ、安逸な国であることの証左なのである。

そんなわけで、安逸なひとたちは、情報に対してパッシブ(積極的ではなく受動的)である。
いわゆる、「ボーっ」として情報を受けとめているだけだから、受けとめた情報について「考えない」という癖がついている。

ただし、記憶にはのこる。
それで、脳内の情報整理も整頓もできないから、支離滅裂な情報に接しても、ただ漫然と受けとめて、ただ漫然と記憶してしまうのだ。
そして、それがなんとなく「トレンド」だとすれば、よろこんで記憶する。

あたかも、時代の先端をしっている気がするし、そんなひとの数が多いので、仲間うちの話題に事欠かないという利便性すらあるのである。
果たして、その「トレンド」とは、テレビでやっていた、というだけの理由なのである。

老眼がすすんで、読書が面倒になれば、優良図書を購入もしない。
時間があるので近所の図書館にでかければ、今日の新聞をただで読める。
こうしたひとたちだからといって、若いときに本を読まなかったのではなく、むしろ積極的に勉強もした。

そうでないと、会社で「乗り遅れる」からである。
しかし、それでも「トレンド」には敏感で、この世代のひとたちは、『カモメのジョナサン』(日本語版は1974年)をぜったいに購入して読んでいる。なぜだか突然「世界的ブーム」になったと宣伝されて、それに反応したのである。

世界的に感染者が増えているという報道に、右往左往するのは、きっとこの本のヒットの理由とおなじ、おそろしく長い「延長」なのだ。

今年の九州の大雨も、「地球温暖化」が原因だといえば、なんとなく納得する。
それで、ダムを造らない政策が災害の原因だということになる。

しかし、ダムを造らない政策を掲げて選挙にでたひとが何期も知事に選ばれているから、被災者には申し訳ないが自業自得である。
残念ながら、これが民主主義なのである。

ところで、地球はほんとうに温暖化しているのだろうか?
そして、それが原因で、大雨が降って地上での災害になっているのだろうか?

科学のこたえは、「あやしい」のだ。
ほんとうに「温暖化ガス(一般に二酸化炭素)の増加」が原因なのか?
先日紹介した、『日経サイエンス8月号』に、宇宙気候学のトップランナー、宮原ひろ子武蔵野美術大学准教授の研究を紹介した記事がある。

太陽活動と地球の気候の関係には、深いものがあるのだ。
太陽の活動周期と地球の磁場の関係、放射線と地球の雲の生成の関係、もちろん、太陽活動が活発なら地球も暖かで、そうでないと氷河期になる。
いま、200年ぶりの太陽活動の異変が起きている可能性があるという。

それは、地球にどんなことをもたらすのか?
本ブログ『太陽が弱っている』で昨年書いたことだ。

お天道様を無視して、傲慢にも人間活動で惑星の環境が悪化するとかんがえて大騒ぎする。
あたかも、モーゼが十戒を賜って山をおりたら、乱痴気騒ぎをしていた人々のごとくである。

東京理科大の渡辺正教授は、これまで100兆円を投じたわが国の「温暖化対策」について、「ムダ」だったと指摘している。
このうちのわずか数パーセントでも、九州の治水に用いたらずいぶんと災害が防止できるだろうに、と。

古来からの太陽信仰や自然信仰をやめて、エセ科学に利権を見出した日本という国家の大失敗である。
しかし、いまや、大雨の理由がほしい安逸な人生を貪ったひとたちこそが、100兆円をムダだと認識せずに、かえってムダだとする正論に攻撃的になるのである。

見えるモノをみたがって、見えないモノはまじめに排除する。

これこそが、安逸な人生の秘訣なのである。

ぼーっと生きてんじゃねーよ、といいたい。

科学からの提言はシンプル

ようやく「科学」からの提言がでてきた。
発言者は、京都大学ウイルス・再生医科学研究所の宮沢孝幸准教授である。
その提言とは、「100分の一作戦」だ。
先生は3月から提唱しているというけれど、ようやくしることができたので書いておこうとおもう。

ウィルス感染の仕組みのなかで、肝心要なことは、「一個」だけではぜんぜん感染しないという事実である。
ではどくらいの数かといえば、1万個とか100万個なのである。
これだけの数のウィルスに私たちの細胞が触れることで、「感染成立する」という。

さて、ウィルスや細菌などが原因となる感染症には、「再生産数」という「感染力」を示す数値がある。
面倒なのが、二種類の「再生産数」があって、省略して使われると、素人には混乱が生じやすい。

経済でいわれる「生産性」は、「労働生産性」とも「付加価値生産性」ともいうけれど、略して「生産性」といっても混乱が少ないのは、意味が同じだからだ。
しかし、感染症の「再生産数」はそうはいかない。

「基本再生産数(R0)」と「実効再生産数(Rt)」の二種類である。
基本再生産数は、「感染者が、まだその感染症の免疫を1人も持っていない集団に混じったときに生み出す新規感染者数の平均値」のことで、その病原体が持つ「素」の感染力に相当する。

「実効再生産数」は、「現実に起きている再生産数」のことだから、「対策」の効果によっても変化するし、そもそも全員の感染状況の把握も難しい。
なので、感染力をみるには「基本再生産数」が重視されるのである。

また、感染には三系統がある。
・空気感染
・飛沫感染
・接触感染 である。

空気感染と飛沫感染の区別はあんがいと困難なので、専門家でも厳密な区分をしないことがある。
空気中に浮遊している病原体から感染するのが「空気感染」なのだけど、空気中にある「飛沫」で感染したら「飛沫感染」になるからである。

今回のウィルスは、「飛沫」という意味の空気感染に意味があって、さらに、物に付着したのを手で触って自分の目や口などをこすることで感染するのが「接触感染」である。

はしかウィルスの空気感染力は12~16というほどの威力がある。
しかし、今回のウィルスの基本再生産数は、1.4~2.5という値で、はるかに低いし、法律にもなった新型インフルエンザウィルス(およそ2.0~2.4)よりも小さいといえる。

そんなわけで、今回のウィルスは、「数で勝負」することが、生き残り戦略になっているといえそうだ。
特徴的な疫学データも揃ってきていて、ウィルス数は、発症前1日~2日から他人に感染させる能力を持ち、発症後10日でウィルス数は100分の一になって感染力がなくなることがわかってきている。

ところが、発症前でも発症後10日の感染力を消失した状態ても、PCR検査をすれば「すべて陽性になる」から、ただ「陽性だから」ということだけでは、過剰な=ムダな心配なのである。
すると、ピーク時の10分の一程度でも、他人に感染させる能力を失っている可能性がある。

石鹸で手を洗うのは、100万個をゼロにするやり方だけれど、1万個にするだけでも感染は防止できる。
それは、流水だけで15秒の手洗いですむし、接触感染の危険部位は特に「指先」なので、ここを重点的に洗えばよい。

飛沫感染からは、本来、咳やクシャミをしている発症者がマスクをすれば防止できる。
それに、電車などの公共交通機関で感染したという事例はない。
無言でいれば、飛沫も飛ばない。

その意味でいえば、居酒屋などで感染するのは大声による飛沫もあるが、手洗い後にトイレのドアを触ってしまうことの方が可能性としては大きいだろう。

また、重要な知識のなかに、「免疫」があることも忘れてはならない。
われわれ人間には、三重の免疫システムが用意されている。
先天性の免疫として、「自然免疫」がある。
異物を検知したら、自動的に発動するかわりに、その異物に対しての「記憶」はしない。

二つ目が「抗体」をつくる能力。三つ目が「細胞性免疫」である。
あわせて「獲得免疫」という。これらは、生後に獲得する。
たとえば、ワクチンはわざと低毒化させた病原体を注射して、むりやり体内に抗体をつくらせるしくみである。

第一段階の自然免疫は、あらゆるウィルスなどに対応して、体内で攻撃してやっつける仕事をするから、自然に治ってしまう。
そのかわり、抗体も細胞性免疫もつくらないので、いつでも何度でも登場している。

この自然免疫という防御システムを突破されてできるのが、第二段階の「獲得免疫」である。敵にあわせて抗体をつくったり、細胞までもあらたにつくりだして攻撃し、ときには食べてしまう。

今回のウィルスに対応する抗体や免疫細胞がつくられるスピードが遅いのは、おそらく、「弱毒」だから、とかんがえられているのだ。

「頭で考えることによる感染防止」こそが重要である。
100%を目指す必要がない、ということが精神を安定させるのだ。

心の健康=レジリエンスの科学

刺激であるストレッサーが原因となって、ストレスがうまれる。
身体的な痛みもストレッサーだから、連続して受ければストレスになる。
けれども、あんがい人に影響があるストレッサーとは、社会だったりするのである。

人は一人では生きていけない。
つまり、人間社会、という集団のなかでしか生きられず、組織という特定集団こそが自分の居場所になるから、それ自体がストレッサーになってしまうことがあるのだ。

その最小単位が、家族だったり職場だったりする。
しかし、これらの身近な人たちから受けるのは、なにも悪いことばかりではなく、むしろ「幸福感」だってある。
すなわち、「相互作用」なのだ。

さまざまなストレッサーからうまれたストレスに、対処できる能力を「レジリエンス」という。
はね返す能力のことだ。
だから、レジリエンスがある人を、ストレスに強いとか、タフという。

世の中の全員にレジリエンスがあればよいが、そうはいかないのも人間であって、あえていえば、「個体差」がある。
生まれつきか、育ちによるか、それとも性格か?あるいは、社会経験も影響するので、おとなになっても変化する。

たとえば、この流行病では、意外と高齢者に強いストレスとなって、著しい行動変化をみることができた。
ふつう、人生経験豊富な高齢者は、社会的なストレッサーには対処能力が高いと考えられてきたからである。

しかし、高齢者ほど重症化する、という情報によってまったくちがう様相を示したのである。
あれだけいわれた、病院通いがパタッと止まった。
待合室における三密のリスクを避ける行動が、自身の病気リスクを上回ると判断したからである。

これによって、医療機関が受け取る報酬がどのくらい減ったのか?
もしや、わが国における「医療崩壊」とは、医療機関の経営難から発生するかもしれない。
近所のクリニックが倒産して、かかりつけ医がいなくなる意味での「崩壊」だ。

すると、こうした目にあった医師や看護師などに、かつてないストレスがかかることになるから、その精神的な影響はいかなるもので、さらにまた、こうしたことが社会へフィードバックされていくと覚悟しないといけない可能性もある。

もちろん、問題は医療機関だけではなく、これからはじまる「不況」における被害予測というストレッサーがある。
悪いことが予測されるだけで、人はストレスになるのである。
これは、人に思考能力があるからで、負の思考を繰り返すと病的な状態に陥ってしまうのだ。

レジリエンスの科学でいう、楽観的な人ほどレジリエンスがあるのは、楽観的な思考をするからである。
正負を決める恐るべき違いは「自身の思考」による。
だから、他人の思考にあわせる必要もない。

なにがサバイバルになるのか?

自分でかんがえ、行動するしかないという、「当たり前」が、ほんとうに当たり前になる時代がやってきた。
これは、歴史の変わり目なのである。

過去の歴史を振り返って、その時代に生きていた人々は歴史的大転換の時代をどう思って生きていたのか?と問えば、大多数はあんがいと気がついていないのである。
気がついた小数が、その時代をけん引してきた。

これだけ「情報社会」といわれても、現代人の大多数はまだ気がついていないのではないか?
その原因の一つに、マスコミの不安誘導がある。
視聴者の視聴率を高めることだけが、収入源になっているからだ。

つまり、テレビや新聞といったマスコミに接しないことが、心の健康につながるのである。
さらにいえば、正しい情報を自分で探すという手間をかけなければならない時代になった。

「情報社会」とは、正しい情報が向こうから自然にやってくる社会ではなかったのだ。
そして、これが情報格差をつくる。
格差社会の本質がこれである。

テレワークが人々の心の健康にどのような影響を及ぼすのか?
レジリエンスの科学における、長年のテーマが、いま現実として研究対象になっている。
想像で語っていた状態が、現実になったのである。

社会実験が実社会で行われている。

果たして、人が他人と分断されたとき、つながりがないというストレッサーにどう対処して心の健康に役立つのか?
それが「テレワーク」や「リモート」でカバーできるものなのか?
カバーできないとしたら、それはどんなことなのか?

レジリエンスの科学の進展に注目したい。

詳細は、『日経サイエンス8月号』をご覧あれ。

雇用調整助成金という麻薬

あと3日。
「休業日の初日」が4月1日から、7月23日までだと適用される。
つまり、適用のリミットが迫ってきている。

適用されるとなっても、「休業規模要件」があって、中小企業なら休業等延日数が所定労働延日数の1/40以上、大企業なら1/30以上ないといけない。
計算方法の詳細は、別途お調べいただきたい。

そして、あんがい重要なのは、助成金の休業手当の額は、「労使協定」で決める必要があるということだ。
この労使協定が「ない」企業が、これまた「あまたある」ことをずいぶん前に書いた。

「36協定」を主に意識して書いたものだったけど、労働組合がなくても「従業員代表」をえらんで、協定を結ぶこと「すら」しないのは、使用者が警戒してしまうことがあるだけでなく、そもそも働くひとたちが、働くことの仕組みをしらないからなのである、と。

これに、「岡っ引き」の伝統がわが国にはあって、各「士業」がこれにあたるとも書いた。
資格制度を担当し、合格した「士」たちを管轄する役所の岡っ引きに、いやおうなくさせられるからである。

そんなわけで、社会保険労務士というのは、労働省管轄だったから、いまでは厚生労働省が担当の「士業」になっている。
学校を出て、すぐさま役所に就職するのが役人の「ふつう」なので、民間で労働組合の組合員や執行部になったことがないひとたちがこの「士業」をつかっている。

この国の基本、明治以来の「産業優先」が21世紀のいまだに守られている。
だから、名前に「労働」がつく役所がみている角度には、産業界とか企業があって、働く国民をみてはいない。

こうして、働くひとたちが、自分たちの労働を正当化できないで放置されても、「労働基準法をしらないで働いている方が悪い」といえるのである。
よほどのことがなければ、社会保険労務士が企業内の働くひと向けのセミナーなんてやらないのにだ。

おカネとしての「報酬」をくれるのは、企業経営者たちである。
だから、岡っ引きは、企業経営者たちと結びついて、得た情報を「同心」である役人に報告する。
この逆が、各種補助金の支給の仕組みなので、経営者たちはしっていても働くひとたちが、詳しくなることはない。

それに、無邪気にも、会社を過剰に信用したりして、気がつけば奴隷のようになってしまっているのである。
けだし、気がつくひとも小数派である。
学校生活における「集団主義」が、気がつかせない訓練を施すからである。

金の切れ目が縁の切れ目。
雇用調整助成金による「助成」という名のおカネが切れたら、無能な経営者は安逸な判断としての、「解雇」を選択する。
経営者の役割をしらないから、「無能」というのである。

このご時世をどう読んで、どのような経営を将来にわたってするのか?
果たして、「観光業の未来」のことである。
そして、いかなる「手を打つ」のか?
そのための資金や人的資源は?

雇用調整助成金を、単なる延命措置とかんがえてはいけない。
考慮時間をくれただけなのだ。

単なる延命措置として、無為無策のままでいたら、金の切れ目が縁の切れ目になるのは必定だ。
こんなわかりやすい「未来」もない。

そして、もっとおカネをくれ、といえば、人気がほしいポピュリズム政府と政治家は、あらたな補助金制度をかんがえてくれるかもしれない。
こうやって、おカネを得るもっとも効率がよい方法が、消費者による消費行動を促すことではなくて、政府から施されることになったら、もう「乞食」同然に陥るのである。

企業が、政府依存する。

この「麻薬」にひとたび浸かったら、経営者たちの脳髄が冒される。
これこそが、恐怖のはじまりなのである。

もはや、たとえば宿泊業だけでは立ち行かないと予測したら、どんな事業分野への挑戦をすべきなのかをかんがえなければならない。
それが、転業なのか多角化なのかも、経営者の判断次第なのである。

経営者の能力が、あからさまに要求されている、稀有な状況になっている。
業界横並びすら通用しないのだ。

ならば、働くひとたちも安逸にはいられない。
自社の転業や多角化に、自身が対応できるのか?
無能な経営者なら、解雇されるかもしれない。
だとすれば、自身の労働力をいかに「売る」のか?

じつは、働くひとたちにも、能力があからさまに要求されているのである。

この「厳しい現実」から、悪魔(メフィストフェレス)のような政府や政治家が、巧言令色をもってすり寄り、最後には「魂」が抜かれる。
まるで、『ファウスト』の物語なのである。

人間はなにを食べていくのか?

「Eテレ」なんてゆるいことをいわない、かつての「NHK教育テレビ」には、気合いの入った『人間は何を食べてきたのか』という『教育テレビスペシャル』という「スペシャルな番組」があった。

このシリーズは、なんと1985年から1994年までの9年間にかけて放送されたのだ。
中学生から視聴したら、大学を通り越して社会人になってしまうほどの長丁場である。

横浜にずっと住んでいて気づくのは、横浜中心部の衰退(たとえば全国に10店舗しかない「アップルストア」が370万都市にない)があるものの、図書館の充実(蔵書410万冊)だけはひそかに自慢できる。
ネットで予約すれば、最寄り駅の行政サービスコーナーでも受け取れて、返却場所も好きに選べる。

地方都市では、「図書館連携」という「手」があって、近隣とネットワーク化しているけれど、申し込んでから貸出までのスピードがちがうし、運搬コストもちがう。
それに、電子図書館が「著作権」によって阻まれる「愚」がわが国にはあるので、おなじ地方税を負担しても、受けるサービスは残念なことになる。

「Amazon」の電子書籍「Kindle」の「ファミリー共有サービス」は、アメリカ本国でとっくにやっているのに、わが国では許されない。
家族間の端末なら、購入した電子書籍を共有できるのだ。
個人を優先する思想がある資本主義国と、供給者を優先する思想しかない国家資本主義国とのちがいがここにある。

その、国家資本主義国の思想を地でいくのがNHKだから、ヘンテコな平等思想まであって、「アーカイブス」された番組を観たくても、「受益者負担」だといって、またまた料金を徴収するのである。
これが、独占禁止法に引っかからない政治の貧困もある。

そんなわけで、横浜にある「放送ライブラリー」が素晴らしい。
この施設は、「放送法」に根拠をおくわが国唯一の放送番組専門アーカイブ施設で、利用料は「無料」である。

図書館のように、窓口で観たい番組を申告すると、ブースが指定されて、そこで視聴できるのである。
視聴にはヘッドホンを使う。
なお、「放送」だから、ラジオ番組も対象になっている。

ここで、冒頭の『人間は何を食べてきたのか』シリーズの全編を観ることができるのだ。
しかも、無料で。
息抜きに、『ドリフの8時だよ全員集合!』を観れば、大笑いできる。

デカルト以来、「機械論」に染まった感があるのは、医学や栄養学の「専門家」がテレビに登場して、病気にならない食事や食材を語る情報番組があふれているからである。
これを食べるとこうなる、と。

でも最後にはかならず、「バランスある食事をとりましょう」になるので、観ていた時間がむだになる。

問題なのは、「バランスある食事」なのである。
学校給食で、「食育」をいうようになって久しい。
でも本当は、戦後の食糧難による、青ばな垂らした「欠食児童」対策とアメリカが持ちこんだ「パン食普及(小麦消費の習慣化)」のためだったから、いつどのタイミングで「バランスある食事」を習うかがはっきりしない。

家庭科でカレーを作るのはいいけれど、ほんとうに人生を健康に生きていくための役に立っているのか?
無理やり「禁煙条例」をつくって、大のおとなに対して「禁止ばかり」の社会にするより、よほど重要な知の注入が必要なのだ。

しかし、これがまた、ヘンテコな思想と合体して、「サステイナブル」とかとはじまるから、学校教育が信用できなくなってくるのだ。

人間を含めて、この地球上の生きもののほとんどが、主に「炭素」を食べている。
三大栄養素の筆頭、小学校の「デンプン質」とは、中学・高校では「炭水化物=糖質」になる。
その炭水化物とは、英語で「carbohydrates」つまり、カーボン「炭素:c」だ。

三大栄養素のあと二つ、「たんぱく質」と「脂質」も、分子構造の基礎をなすのはぜんぶ「炭素」である。

こんなことも無視して、「低炭素社会を目指す」とかといえる発想がどうかしている。
こういうひとたちは、「質量保存の法則」も無視しているのだから、文明人ではない。

むかしのSFでは、すべての食事がサプリメントになるという話がたいそう出てくる。
必要な栄養素だけを無駄なくとることが、未来の食事にみえたのだ。
しかし、そんなものばかりになったら、胃や腸管が不要になってしまう。

半世紀前の日本人といまを比較すれば簡単で、柔らかいものばかり食べるから「アゴ骨が退化」して卵顔になり、消化がいいから腸が短くなって「脚が長くなる」のだ。これから「うりざね顔」になるのは、ハプスブルク家の歴代当主の肖像からも予想できる。

サプリが食事になったら、想像上の「火星人」やらの宇宙人とは、地球人だったということになる。

しからば、「寸胴短足」ゆえの衣装が「きもの」だったし、寿命が短くても健康であった。
身体が健康だからこそ、精神も健全になる。
コロナで社会がめちゃくちゃくになったのは、身体の健康に自信がない「ひ弱さ」ゆえ、精神も衰弱したのである。

これからなにを食べていくのか?

キレないためには、食事や栄養に関する知識が必要な時代になっている。

「Go To」は役所が決める

もともとが「今年度補正予算」の話である。
リンクの記事は、4月6日に発表された報道をもとに書いたものだ。

その今年度補正予算(第一次)の閣議決定は、今年度がはじまってすぐの4月7日で、20日に修正されたのち、月内30日に成立している。
4月8日0時に「緊急事態宣言」が発せられたので、7日は政治家にとって濃い1日だった。

けれども、わが国では財務省の官僚が「予算編成権」を握って放さない。
「開発独裁」をやった明治政府からの「伝統」は、「先の大戦」を経てもビクともせず、今日に至っている。

大蔵省・財務省が、「役所の中の役所」といわれるゆえんである。
あるいは、「King of 役所」という。
全官庁の予算配分を牛耳っていれば、それはもう恐いものはない。
さらに、「国税徴集警察」の国税庁まで外局にある。

万能なのである。
しかし、いかに万能でも、補正とはいえ国家予算を1日で策定することはできない。
今年度の本予算成立は、3月27日の成立見通しのなか、首相は直ちに補正予算の編成を関係閣僚に指示すると報じらたのが24日である。

よって、形の上では10日ほどで閣議決定された勘定になる。
しかし、水面下で役人がうごめくのがわが国の支配構造なので、もっと前から「検討開始」されていた。
自民党が補正予算を検討する「提言をまとめた」のが、3月3日なのであるから、さらに遡れる。

そんなわけで、役人の日程表には、「アビガンの認可」と「Go Toキャンペーン」は、はじめから「セット」になっていたはずである。
しかし、「アビガン」の効き目が「断言できない」という事態になって、さらに、「感染者数が再度増える」ことから、「Go Toキャンペーン」だけがひとり歩き状態になってしまった。

筋の悪い「感染者数」を使ってしまったために、いまさら世論への修正すらできない状態になったのだ。
「患者数」を使っていれば、こと国内に関していうと、このような混乱は起きなかったはずである。

不思議なのが、いまだに「患者数」が発表も報道もされないことだ。

なにか、意図的なものを感じるのである。
それは、今回の感染症を見くびった役人が、昨年秋の消費増税の悪影響を隠蔽するために利用したのだと、下衆のかんぐりで疑わせるからである。

「感染者数」と「患者数」の混沌が、外国の状況をやっぱり「感染者数」でいうから、国民として何が何だかわからなくなる。
本当は「患者数」なのではないのか?
だとすると、わが国も「単位をそろえる」ことをしないといけない。

しかも、ほとんどの外国人だって自国から出国できないので、現状では外国人観光客を考慮しなくてよい。
これと連動して、世界の航空会社の経営が危機を迎えている。

さて、そんなわけで、情報の整理もままならない社会になってしまった。
誰もがマスクを着用し続けて、いまや「習慣」ともいうべき状態になっている。
これから、熱中症の方がよほど心配な時期に、屋外でガマン大会をしているのである。

JRの駅では、「不要不急の外出控えるように」と、電車に乗るなキャンペーン放送を繰り返し流している。
いったい、鉄道会社はひとびとに電車に乗って欲しいのか欲しくないのか?

「国土交通省からのお願い」になっているから、本当はこんな放送をしたくないけど、国からいわれたら断れないので黙認して流しているのだろう。
断ったら、どんな嫌がらせをいつ何時受けるかわからない恐怖がある。
つまり、「ひとびとに電車に乗るな」ということが、国土交通省から受ける嫌がらせよりも「軽い」と経営判断しているのである。

まさに「旧ソ連」と化してしまった。
おそらく、業績が落ち込んだJRに、下手くそな経営をしているからこうなる、と損益計算書だけをみて文句をいう役人が現れるだろう。

なんだか「コロナ担当大臣」になった、「経済再生大臣」だけれど、宙に浮いた「Go Toキャンペーン」について、本日(7月16日)に専門家の意見を聞いてから「国土交通省が判断する」と昨日発言している。
「国土交通大臣」ではないのである。

とうとう、議院内閣制まで吹き飛ばした。
経済再生大臣だって、官僚上がりだ。
つまり、議員になって大臣になったという「立場」すら、じつはわかっていない。役人の延長思考しかないことがはっきりわかる御仁である。

これで観光関係はどうしろというのか?

役人が仕切る国や県が頑張ると、とんでもないことになる。
この世界の常識を、われわれはいま体験しているのである。
旧東欧圏のアドバイザーが必要なゆえんだが、もはやこれまでの感がある。

その意味で、どこかに移動せずとも、世の中の「観光」ができている。

痛めつけられたひとびとが、「一揆」を起こすのか?
それとも、「奴隷」に成り下がるのか?

あんがい、いまが正念場なのである。

電卓にアイロンがけをしてみようか

機械式時計の修理専門店について、前に書いた。

壊れるときというのは、なんだかタイミングが重なって、今度は四半世紀も愛用してきた電卓の液晶がいけない。
12桁のうち3桁目の数字がはっきりしなくなった。

この機種は、カシオ製の「JS-25」というつまらない名前の電卓なのだけど、いわゆる、「加算式なのに小型」というたいそうな優れものなのである。
見た目でわかりやすい特徴は、ふつうなら分かれている「+」キーと「=」キーがひとつになっていることだ。

ふつうの電卓なら、3+4に、「=」を押さなくてもくても「+」を押せば7となるから、この電卓の機能とそんなに違いはない。3「+=」4「+=」で7になる。
しかし、おなじ数字が続くときにがぜん威力を発揮するのである。

たとえば、3+4+4なら、3「+=」4「+=」「+=」だけでよい。
最後の4を入力しなくてよい。
最初の4を、電卓が自動で記憶しているからである。

実務では、圧倒的に足し算が多く、けた数もそれなりだから、同じ数字が続くときには、なんだか得した気分になる。
それに、こうした機能を利用すると、按分計算や比率計算が容易になるのである。

売れないから、廃番になったということらしいが、まったく了解できない理由である。
みなさん、どうして買わなかったのだろう?

卓上式の100Vコンセントから給電されるタイプも含めて、大型電卓にはいまだ健在な「加算式」なのだが、この「JS-25」には、後継機がない。
しかも、ライバル・メーカーのどこにもないので、いまでは新品での購入は不可能である。

ちなみに、本日15日、メルカリでみたら、残り一台にしてお値段は35,000円がついている。
四半世紀前の購入価格が8,000円以上したと記憶しているので、かりに8,500円だったとして、25√(35000÷8500)=1.0582だから、価格上昇率は5.82%である。

なるほど、35,000円ならそれなりに利益がでる。

しかし、手放そうとはおもわない。
むしろ、どうしたら3桁目の液晶表示が治るのか?

調べると、電卓内の液晶を接続する配線の劣化が原因だという。
ふつうなら、「おしゃか」だから、買い換えしかない。
しかし、驚くことにこの電卓には後継機がないから、おいそれと買い換えができないのである。

そこで、アイロンがけをするという手段が検索から引っかかった。
幅のある配線部分にアイロンをあてると、復活する可能性がある。

そんなわけで、電卓にアイロンがけをしてみようかと思案中なのである。

それにしても、つくづく、どうして「後継機がない」のか?
恨み節はつづく。

無謀な「中央リニア」

1966年から日曜日の午後7時に放送された『ウルトラQ』が懐かしい。
30分番組なのに、いまの2時間スペシャルを凌駕していたのは、作り手たちの密度が濃かったからにちがいない。

何話だったか記憶がないが、まだ茅葺き農家がある山間部を、目にも止まらぬスピードで駈け抜ける鉄道がでてきて驚いた。
東海道新幹線の開業が、1964年だったから、その「未来性」は、まったくの衝撃でもあった。

この鉄道が、果たして「リニア」だったかも記憶は定かではない。
しかし、新幹線の新幹線なので、まるで静岡県の宇津ノ谷峠にある、「明治のトンネル」、「大正のトンネル」、「昭和のトンネル」を思いださせる。
東海道線、東海道新幹線、そしてこの番組の新幹線が、やっぱり「東海道」をそれぞれに走るのだ。

東海道新幹線がどんどん速くなって、そのかわりブルートレインと呼ばれた寝台特急がなくなった。
「夜汽車」はとっくに死語となったが、哀愁だけはいまにも残っている。
夜行の急行列車なんて、結局一度も乗らずに消えていた。

阪神淡路大震災のとき、東海道の電話網がパンクして、東阪間の連絡が困難になった。
その後の対策と電話事業の自由化で、鉄道系、道路系など、東阪の通信網が新しく引かれた。

当時、実際にどうやって東阪で連絡をしたのかといえば、NTTにお願いして、北陸経由の回線でつながったのである。
こんなことから、社員の緊急連絡名簿を東阪において、別経路での連絡網を確保することもやった。

いわゆる、「サブ・システム」のことをいう。

つまり、「メイン・システム」があっての「サブ」である。
だから、ふだんは当然に「メイン・システム」を利用して、いざというときの保険が「サブ・システム」になる。

東海道新幹線は、東阪の交通における「メイン・システム」である。
では、サブ・システムはなにかといえば、在来線のことをいう。
中央リニアではないのである。
なぜかといえば、中央リニアは、名古屋までがいまの計画になっていて、大阪まで行くのはいつのことか?

だから、東名における「あたらしい交通システム」である。
しかし、どんなダイヤで、何人が利用するのか?をかんがえると、おそらく、東名間であっても、いまの新幹線がメイン・システムのまま残るのではないのか?

運行本数による待ち時間を考慮すれば、新幹線と到着に要する時間も変わらないことになる。

すると、ずいぶんと高価な東名サブ・システムを造ることになる。
投資金額だけでなく、静岡県のひとたちが案じている、大井川の水源問題や、現在世界一の隆起スピードである南アルプスに、高速鉄道のトンネルを掘ることの安全性も疑問視されている。

原発建設で問題視される、断層の上にあるかないかでいえば、「中央道」という高速道路だって、日本列島の中央構造線の真上を通っている。
中央構造線とは、いわば、断層の親玉である。
魚の背骨のように、この線から大陸側と太平洋側で、地質構造がぜんぜんちがうからである。

だから人間がつくる道路も、中央構造線の真上しか、すき間がないから、ここしか通れないのである。
あとは、造山活動による山なのだ。

なので、中央構造線をかすめるようにトンネルを掘って、そこを飛びながら走行するのがリニアなのだ。
しかも、「新システム」の理由は、都会の「新交通システム」とおなじく、運転手がいないことも含めている。

「リニア」を完成・実用化してどうするのか?
原発と同じように、政府は外国への輸出を図るらしい。
しかし、原発と同じように、コケるのだろう。
建設費と運行費が高すぎるのである。

運行費には電気代が大きくのしかかる。
なにしろ、超電導の電磁力で車体を浮遊させるからで、そのための原子力発電所がいる。
いまの、実験線の電力も、新潟の原発から引いている。

ふつうの火力発電所だと、見えるコストが莫大になるから、その辺の国には輸出できない。
つまり、「原発とセット」なのがリニアなのである。
そんなわけで、アメリカみたいな平たい大陸に向いている鉄道なのだが、アメリカが欲しがっているのは、「新幹線」のほうなのである。

いざというときの保険としてのサブ・システムなら、在来線をリフレッシュさせるほうがよほどいい。
ただし、前にも書いたように、エネルギー効率という点で、鉄道は飛行機やバスに劣ることを忘れてはいけない。

線路を敷設し、それを維持するために要するコストは、空港や道路を造って維持するよりも大変だからだ。
アメリカで鉄道が廃れた理由はこれである。
逆に、わが国は人口密度が高く、狭かったから鉄道が普及した。

そんなわが国でも、大陸的な北海道で鉄道事業が厳しいのは、人口密度が低くて広いからである。

「ひとの移動」ということに、重大な変化がやってきた。
公共交通機関が、自動車などのプライベートな空間移動に変化しようとしているばかりか、オンラインでの会議がさかんになって、そこに行く必要が減ってしまった。

奇しくも静岡県の抵抗が、国民利益にかなっているかもしれない。

「脱ダム」と「要ダム」

毎年のように大量の雨が降って、河川が氾濫し、甚大な被害が発生する。
だから、ダムが要るのだという、有名人を中心にした「要ダム」が議論になっている。
被害当事者の県知事が、それでも「脱ダム」をいうからだろう。

もちろん、ダムというのは、河川をせき止めて、そこに水を貯める装置をいう。
あえていえば、大陸型と日本型の二種類がある。

大陸型の先行例としては、南部エジプトでナイル川をせき止めた、アスワン・ダムとアスワン・ハイ・ダムが有名だ。
もっとも、アスワン・ダムができてから、すこし上流に、もっと巨大なアスワン・ハイ・ダムを建設したのは、「ナイルの肥沃な土」が溜まって、水が溜まらなくなったからである。

神奈川県の水瓶、相模湖の相模ダムと津久井湖の城山ダムとは、逆の順番なのが興味深い。
相模ダムは戦時中に工事が中断されて、完成したのは戦後の昭和22年、その「下流」につくった城山ダムは昭和40年の完成である。

アスワン・ハイ・ダムが大陸型なのは、これによってできた人造湖の巨大さが示す。
ダムも巨大で、全長3600m、高さは111m、幅は基礎部で980mあるけど、ナセル胡は全長550km、最大幅35kmで、国境を越えてスーダンにまで達している。

高低差があまりない大陸ゆえ、111mの高さでこれだけの人造湖ができた。
一方、世界的にも、わが国は山国であって、地形の急峻なことで知られている。よって、狭い山間部の渓谷にダムが建造されることになる。

もう35年以上も前、カイロで暮らしていたころ、ある日突然、国営カイロ放送のテレビ討論番組で「ダム論争」がはじまったのを記憶している。
時代は、サダト暗殺後、ムバラク政権が発足してまだ数年という時期だった。

賛成派は、ダムによる発電や治水の効用を主張するのはもちろんである。
反対派は、巨大な人造湖による、砂漠での「降雨」の発生という、環境変化による石造遺跡が溶け出す問題を皮切りに、「肥沃な土」がナイルデルタに来ないための化学肥料の輸入問題など、多岐にわたる問題提起がされた。

また、下流域における河の侵食で、ナイル川の水位がさがり、農地にポンプを使う必要も指摘された。
このときは議論の対象になっていたか定かではないが、河の水流が減ったことにおける地中海からの海水侵入による、大耕作地ナイル・デルタでの塩害も指摘されている。

人工的なダムが、巨大なら、その影響も巨大なのである。
ただし、古代エジプト文明が栄えた理由になっている、毎年のナイルの氾濫は、このダムによってなくなったので、1400万人が生活するカイロも、洪水から守られている。

では、日本型の場合はどうなのか?
あんがい議論にならないけれど、わが国には伝統的に「水利権」がある。
なので、ダムを造るとき、水利権の存続が重要なテーマになっている。
ただ水を貯めて、飲用にしたり発電するのがダムではなく、農業用水としての水利権という見えない権利が、いろいろと人間社会に影響を及ぼす。

大雨の予報など、天気予報が正確になってきたのは、気象衛星と地上観測システム、それにスーパーコンピュータのおかげである。
気圧の変化に対する、予想が、実際の気圧の変化よりも、早く、できるようになったからである。

だから、大雨が降ると予想されれば、事前にダムの貯水量を調整しないといけない。つまり、満水にしていたら、水量を調整するというダムの使命が果たせないからである。
すなわち、計画的な放流をしないといけないのだ。

しかし、放流する水に、水利権があるのである。
だから、ダム管理人は、水利権者へ後になって「放流が合理的」だったという説明をしないといけない。
そんなわけで、モタモタして緊急放流を早朝にやって、下流で死者がでたこともある。

アスワン・ハイ・ダムが上流からの土砂に埋まるのが1700年後と予想されているのに対して、急峻なるわが国の地形はこれを許さない。
すぐに、上流からの急流によって、ダム湖が埋まってしまうのである。

貯水量で全国二位だった、岐阜県の丸山ダムに、たった数メートル下流に建設される新丸山ダムは、旧ダムより高くつくって、旧ダムごと水没させる計画になっている理由が、土砂で埋まることなのである。

相模川水系にあるダムのおかげで、神奈川県民はめったなことで水不足を経験しないが、河口域の砂浜の後退は深刻で、もちろん相模湾の漁業にも影響している。
ダムに溜まった水は、あんがい腐敗しているから、魚にも悪いのだ。

相模平野は、相模川の水流が運ぶ堆積物でできている、という小学校でならうことが、そのまま正しさを教えてくれる。
ダムを造るときに要する巨大な資源と、ダムの影響を受ける様々な問題への対策にも巨大な資金が要る。

簡単に、「要ダム」とはいえない。
けれども、政治的に「脱ダム」ともいえない。
とっちが「得」なのか?

「文明」と「自然(天然)」とのぶつかり合いなのである。