どっちがよいのか?をかんがえる

「A」か「B」、「白」か「黒」、「善」と「悪」。
世の中にはけっこう「二択」問題がある。
もともとの「二択」は、人類最古の経典宗教「ゾロアスター教」がそれで、世界を「善」と「悪」に分けこれを「二元論」とよんだ。

いわゆる「拝火教」というのは、火が照らす「明」とその陰の「暗」をはじまりとするから、「明」のおおもとを拝むことになったのだろう。
これを「アフラ・マズダ」という。

しかし、「暗」を拝むひともでてきて、これは「悪」の意味であるから「悪魔信仰」というものになった。
それが「アーリマン」であり、のちの堕天使「ルシファー」の発想の元になる。「ルシファー」とは「サタン」でもある。

もちろん、ゾロアスター教では、アフラ・マズダがアーリマンに勝利することになっている。
だから、アフラ・マズダこそが「唯一絶対神」だとさだめている。

ゾロアスター教は人類最古なので、聖書ができるのはずっと後だ。
旧約聖書の「ヤハウェ」も、新訳の「父」も、コーランの「アラー」も、アフラ・マズダの影響からのがれることができない。

あたかも、ゾロアスター教なんて日本人には関係ない、というむきもあろうけど、なにしろ世界最古の経典宗教なのだから、人類の時間の流れのなかに入りこんでいる。

仏教、とくに天台宗・真言宗でする「密教」の「お焚き上げ」は、「拝火」していることになるし、西洋文化の原点である古代ギリシャから、「聖火」というかんがえかたがいまにもオリンピックにつたわっている。

わが国の自動車会社だって、東洋工業が「マツダ」を名乗ったのは「アフラ・マズダ」からの由来であって、英字では「MAZDA」と表記する理由である。
エンジンの中にある「火」を象徴としている。

そんなわけで、「二択」という方法で選択肢とするのは、人類の脳にプログラムされているかのように「大好き」なのである。
「偶数」か「奇数」かになれば、サイコロ賭博にだってなるし、「赤」か「黒」かになれば「男」と「女」を描いたスタンダールの名作に。「赤」か「白」かになれば源平以来の戦いになって、紅白歌合戦にもなる。

 

それだから、「第三の道」という「三択」が唱えられるのは、「二択」へのアンチテーゼになっているのだろう。
しかし、世の中は「三択」だろうが、じっさいは複雑怪奇なのものだから、単純化という点でいえばそうたいしたかわりがない。

けれども、単純化してすくない「択数」を設定しないと、こんどは「選べない」という問題がでてくる。
むかしは「生まれ」によって職業が選べなかったから、選択肢そのものがなかった。

これは悲惨なことだというひとがいるけれど、世の中全体が「そうなっている」のなら、本人は自分が「悲惨」だという認識すらなかったろう。
いまは職業の選択について自由になっているから、なりたい職業につけないことが「悲惨」になっている。

さらに、職業がどんどん専門化して高度になっているので、はやいうちからこの準備をしないと、「いい職」に就くことができない。
しかし、わが国にはなんだか奢った感情があって、人生の準備である「教育」に熱情をうしなってしまった。

これは、「いい職」というかんがえが「いい会社」のままだからだろう。

一部の日本企業が、新卒採用にあたって、「研究職」という限定をつけながら、いきなり初任給を1千万円としたことが話題になった。
「有能な人材」を得るには、従来の給与体系ではだれもきてくれないからだという。

すると、二年目の先輩は、いったいどんな給与体系のなかにいて、三年目、四年目、、、、、三十年目となると、どうなっているのだろいうかと興味がわく。
まさか、今年のひと「だけ」に適用されるということはあるまいが、報道にはどこにも解説がない。

しかし、大企業がかかえる「研究職」全員に、1千万円スタートの給与体系を適用すれば、おそらく人件費が高騰するから「業績」に影響するはずなのだが、そんな報道もないので、「まさか」が現実なのかとうたがうのである。

もしもこの「まさか」が現実なら、職場内での「イジメ」が発生しないのか?
あるいは、チームにおける一体感が壊れることはないのか?と心配するのである。

これまで、戦後の日本企業は、有能なひとを評価しない、というシステムで成功してきた。
これは、みんな低い賃金だったから、有能な本人も「気づかない」ので、職場の安定がたもたれたのだ。

ちなみに、本人が気づかないという点での悲劇を描いたのが『テス』だった。
なにに「気づかなかった」のか?
それは、他人から「絶世の美女」と評価されていることだった。

 

いまは世界から有能な人材を採用しないと「いけない」ということになっていて、とくに有名なのがインドの工科大学卒業生への買い手企業による「オークション」だ。

しかしながら、「有能な人材」とはどんな人物なのか?という「基準」は日本企業にあるのだろうか?

さてそれで、「有能なひと」と「有能でないひと」のどちらがよいのか?たっぷりかんがえてみたいものである。

パソコン購入の難易度は高

昨年、世界シェアでトップだからおなじみの「インテル」さんが、あたらしい高性能CPUを開発し、これを搭載したパソコンが各社から販売されている。
性能差は、たったひと世代前とで四割以上という。

その筋では、AMD(アドバンスト・マイクロ・デバイセズ)社が巨人インテルに対抗したCPUの性能と価格が話題になったようなので、規模の大小ではない競争がおきたことが、新製品発売の原因のようだ。
つまり、消費者にはありがたいことになっている。

この手の「商品」は、進歩がはやいという常識があるが、いがいとふつうのビジネスでもちいるパソコンは、そんなに高性能である必要がない。
せいぜい、やりたいことが決まっているからで、つまりは動かしたいソフトもある程度決まっている。

もちろん、大量のデータからさまざまな解析をしたりすることをビジネスにしているひともいるけど、社内では小数派だろう。
むしろ、クリエーターというひとが道具にする画像処理には、高性能なパソコンでないと仕事にならない。

つまり、パソコンが本来の「パーソナル」に進化して、個々人にあった機種選定こそが「コスト」と「パフォーマンス」を最適にするようになったのだ。
これが「むかし」とちがうおおきな変化である。

どういうわけか、日本の電気メーカーは、「マス」(少品種・大量生産)に没頭し、ついに「多品種・少量生産」という逆転に対応できなかったのは、白物家電やテレビといった高度成長期における成功体験から抜けきれないということだと解説されている。

これは事実だ。

とある電気メーカーでは、テレビ事業部が大赤字の原因だとはっきりしているのに、社内人事ではテレビ事業部からでないと主要な地位に社内昇格できない「伝統」が、いまだに続いている。
こんな「電灯」なら切れてしまえ、という社内自虐がある。

ビジネス用のパソコンなら、大企業のリース落ち(三年もの)でも十分な性能だったから、さてパソコンを調達しようとしたばあい、最新の機種を購入する魅力に欠けていた。

しかし、冒頭の事情から、近年めずらしい技術の「壁」が出現したのである。
あたらしいCPUは「第八世代」といわれていて、それ以前の「世代」とは、「世代間格差」がだんぜんひらいた。

最新世代が「リース落ち」するには、まだ時間がかかるが、消費税は来月あがる。
これが、第一の悩みどころである。

頭脳部分のCPUが、世界でインテル社とAMD社の二社なのだし、OSも一般的には「ウィンドウズ」か「iOS」のいずれかだから、「パソコン・メーカーとは何者か?」と問えば、「ウィンドウズ陣営」に関していえば、基本的に「組立屋」のことをいう。

それにくわえて、日本のメーカー・ブランドが崩壊したので、ややこしいのだ。
かつての「国民機」をつくっていたNECも、IBMと競合した富士通も、世界初のブック型パソコンを世に出した東芝も、みんなでそろってレノボ(中国)や鴻海(台湾)傘下になってしまった。

残るのは、パナソニックと、ソニーから分社したVAIO、それにマウスコンピュータ、モニターで有名なiiyamaが「国産」となっているが、HPは「東京メイド」、レノボだって「米沢産」を強調しているのは、そこに組立工場があるからである。

そんなわけで、「選ぶ」ということをはじめると、なかなか「選べない」という核心的な悩みが出現するのは、「どれもおなじ」という大問題があるからである。

メーカーとしては「差別化」ということになるのは必然だが、CPUがおなじという「区別ができない」ことから、どうすればよいかの方向が「デザイン」に集約されることとなる。

堅牢さと軽さこれに電池の持ち時間で圧倒的なブランドを築いたのがパナソニックだ。
しかしながら、すでに技術はこの三問に解答をあたえていて、ブランドによる「高額さ」が、パナソニックに残った価値になっている。

すると、そんなに高性能でなくてもよいから、リース落ちという選択肢と、そうはいっても壁を越えた快適さを味わいたい、という欲望がせめぎあうのである。

ところで、講演をしなければならない立場にもどると、プロジェクターとの接続が問題になる。
最新のパソコンでは小数派になっているアナログ(RGB)端子は、いまだに必要なのだ。

会場によっては最新のプロジェクターが用意されているが、経営が苦しい施設では、アナログ入力しかないプロジェクターがいまだ健在だからである。
もちろん、変換アダプターを持ち歩けばいいのだが、それが面倒で、もし忘れたら一大事のリスクがある。

なぁんだ、RGB端子がある最新のパソコンがほしい、というのが結論である。
すると、こんどは一気に選択肢がなくなった。
あんなにあったのに。

さて、それで、どれにするか?
やっぱり一長一短で、難しいのである。
なんでこうなるのか?
現代の不思議のひとつである。

スマホで「数学する」アプリ

スマートフォンというのはちゃっかりコンピューターである。
人類は、自覚なしにコンピューターを持ち歩く時代に突入しているのだが、「自覚なし」だから、うっかりゲーム機として時間つぶしにつかってしまっている。

人生の時間は「有限」であることに気づくのは、ひとそれぞれであろうけど、なるべくはやく気づいたひとの方が自分の人生をたいせつに生きることができるだろう。

若いときは、時間は永遠にあるものだとおもっているものだから、ようやくさいきんになって「有限」だと気づいたのは、若くないという意味でもある。

ところが、「有限」だと思うと、こんどは妙になにかを学びたくなるもので、「識らぬで死ねるか」という感覚がふつふつとわいてくるから不思議である。
もしやこれが「年寄りの冷や水」ではないか?

まだ還暦になってはいないが、江戸末期=明治初期の日本人の平均寿命が50歳ほどであったことをおもえば、もはや「老人」になっている自分がいる。

そうはいってもいまさら「学者」を目指すべくもなく、うすい「趣味」の一環として「こんなもの」「あんなもの」をみつけると、それはそれで十分にたのしい。

スマホにはいろんなアプリが用意されているのは各人には承知のことだが、無料なのにあなどれないどころか有料アプリをしのぐような「傑作」がまぎれこんでいる。

「原子の周期表」関連では選ぶのが大変だし、「ベンゼン環」を手軽に描けるアプリもある。
「数学」では、「Maxima」という「公開アプリ」があって、無料関数電卓とは別の世界を提供している。

このアプリの前身にあたる「Macsymaシステム」は、MITで1968年から82年にかけて開発されたもので、完成後MITは「Macsymaソースコード」のコピーをエネルギー省に引き渡し、その後「公開」されていまに至っている。

つまり、個人のボランティアが製作したアプリではないし、ソースコードが「公開」されているので、世界中の研究者たちがいまも「改善」している「プロジェクト」になっているのだ。
これが、無料でつかえる理由である。

前も書いたが、わが国政府は政府が公開する各種資料に「著作権」をつける国だ。
この「成果物」の原資は、税金である。
すなわち、商用の「著作物」ではないばかりか、政府著作物は「国民資産」であるという感覚すらない。

アメリカ合衆国は、機密文書の公開には別のルールがあるが、一般公開の対象となる政府著作物に「著作権」をつける、という習慣が「ない」のは、「国民資産」であるとはっきり認識しているからである。
つまり、国民資産なのだから「コピー・フリー」なのだ。むしろ、どんどんコピーして国民のみなさんは「識ってください」という態度だ。

「資本と資産」を記述する複式簿記の概念は、資本主義発達の前提である。
株主の所有物である「資本」をつかって、いかにこれを「増やすか」を委託されたのが経営者たちだ。

だから、経営者が判断する会社の「お金のつかいかた」とは、株主のお金を委託された経営者が適切に「配分している」にすぎない。
「所有者は株主」で、これを委託されて「経営者が占有」しているのである。

わが国は、資本主義が「未発達」の不思議な状態のままでいるから、「所有」と「占有」の垣根があいまいで、占有者が所有者になってしまうのである。
民間でもこんな状態だから、国家権力を簒奪した役人たちは、出資者が国民であることを忘却して、なんでも自分たちのものだと思いこむのは、御成敗式目以前の中世時代の発想がいきている証拠なのだ。

日本国憲法29条には、財産権の絶対が明記されているけれども、民法162条では、20年占有した者に所有権が移転する「取得時効」があって、これの歴史的根拠が鎌倉時代の「御成敗式目」なのである。

つまり、わが国は「近代私法」が未整備の「未近代国家」あるいは「えせ近代国家」なのである。
とすればこそ、役所の著作物に「著作権」が主張されるナンセンスがはびこるのだ。

そんなわけで日本人でも何人でも世界中で、「Maxima」をつかえるのは、アメリカ合衆国が正真正銘の資本主義の国で、政府がただしき「著作権」の運用をしているからである。
これこそが、「繁栄」の根拠なのだし、わが国「衰退」の根拠でもある。

それでも、日本語でちゃんとした解説本があるから、民間を信じてよい。

おとなむけに、中学あたりからのやり直し数学の「Maxima」をつかった「授業」の本があれば、もっとうれしい。
「グラフ電卓の教科書がない」で書いたとおりである。

横浜市長の「衰退」危機感

「突然」といえば、「突然」だった横浜市長のカジノ立候補表明は、「反対」の波紋をよんでいる。
その反対のひとたちは、市長が「白紙」だとして二期目の選挙をしたから、「突然」にくわえて「裏切られた」がかさなっているのである。

市長のことばによる表明理由は、横浜市衰退の危機感、ということが一番で二番がないから、ここからふたつのことがわかる。

ひとつは、人口減少、である。
前にも書いたが、横浜市は「世界最大の港湾都市」だったころ、あぐらをかいて、開港以来の優良企業本社があることを当然として法人住民税を上げたらこぞって東京に本社移転され、ただの東京のベッドタウンと化した。

東京の「一極集中」は、東京の磁力が強かっただけでなく、東京にむかわせる「努力」をした、横浜市のような自治体もあってできたのだ。

これは、あんがいいまの日韓関係と似ていて、神奈川県警の警視庁に対するライバル意識が強烈なのに対し、警視庁からとくだん相手にされていないことにも象徴される。

むかしの「ハマっ子」は、伊勢佐木町と元町商店街をもって、東京銀座に負けやしないと信じ、多摩川をこえて買い物にいく習慣がなかったが、いまでは鶴見川をこえて川崎に買い物にいくようになった。

かんたんにいえば、全市が巨大な「多摩ニュータウン化」したのである。
それで、伝統的な輸出産業であった絹製品(とくに「横浜スカーフ」)から衰退がはじまり、世界の産業構造の変化から工業の衰退もいちじるしい。要は、これといった産業がない、という危機感だ。

もうひとつは、カジノが産業になる、とかんがえていることだ。
サービス業で一カ所に「一兆円」も投資する、という前例がこの国にはないし、そんな巨大なプロジェクトは民間でもめったにない。
つまり、公共事業の「ようにみえる」という「錯覚」が、横浜経済人にあるのだろう。

なぜかしらないが「ギャンブル依存症」が、カジノ反対の最大かつ唯一の根拠になっているのは、推進したいひとたちのいう「危機感」という根拠とちがう次元のはなしになるから「かみ合わない」のだ。

誤解をおそれずにいえば、わたしは「ギャンブル依存症」には興味がない。
単純に「自己責任」であるからだ。

ただし、不思議な傾向があって、人間は自分が負けたギャンブルで取り戻したくなるという習性があることは「事前」にしっていたい。
これが嵩じて「依存症」という「疾患」になるからだ。

競馬で負けたひとが、その負けを競輪やパチンコという別の賭け事で取り返そうとはしないのだ。
多重債務者がおおいというパチンコもおなじで、パチンコで負けたひとは、パチンコで勝とうとするものなのだ。

これは、その「単純さ」に秘密がある。
世の中には、複雑な仕組みのギャンブルは存在しない。
「あたり」か「はずれ」という単純さの繰返しが、精神的なマヒを誘発するのである。

十八才が成人あつかいになったのだから、義務教育の中学の最後か、高校で「生きるため」の科目として、ギャンブルについての授業があっていい。

さて、そうこうしているうちに、昨日、こんどは横浜市庁舎の再開発が決まったというニュースが「突然」配信された。
JR桜木町駅ちかくに建設中の新庁舎ができれば、となりの関内駅前にある現庁舎が不要になる。

現庁舎は、わが国を代表する建築家、村野藤吾の「作品」だから保存がきまっている。完成は1959(昭和34)年である。
1960年の横浜市の人口は137万人だった。現在の横浜市は380万人の人口で当時から約三倍、日本一人口のおおい「市」なのである。

終戦後から一貫して増加しているので、現庁舎が完成した当時、どんな「予測」に基づいて庁舎の面積要件がきまっていたのか?
もっとも、この建物は本庁舎なので、行政事務のおおくは「区役所」に割り振れるから、想定した「容積」は十分だったはずである。
その「区」は、5区からはじまっていまは18区になった。

巨大な本庁舎が必要だということは、人口増加よりも行政の「肥大化」が問われることになる。
いったん「肥大化」した行政を「縮小化」できないことでの、「衰退の危機」ということなら、現行行政を維持する立場の市長の理屈としてはただしいし、維持を支持する商工会の意向でもあろう。

すると、現行行政を維持しないという立場になれば、べつの結論になるが、いまの商工会の支持は得られない。

そんなわけで、カジノなのだ。

横浜市民としては、国の法律とのかねあいとこれまでの条例から、いったいどの程度の行政規模が適当なのか?という研究をしてもらいたいものだ。

市役所の衰退と市の衰退は別だし、すくなくても市の衰退と市役所の衰退は同期をとってもらいたい。
そうでなければ、市役所栄えて市は衰退する、ということになる。
そこに、カジノという変数が加わるのではないか?

人口減少が確実なわが国では、どちらさまの自治体でも、カジノをのぞいた「基礎研究」をしないと、余計な法律と余計な条例で、役所だけが栄えるという本末転倒が発生する。
これこそが、商工会としてもっとも危惧すべき危機ではないのか。

衰退するから「行政依存」なのだという発想が、衰退を加速させるのだ。

「危機」をいうなら、民間企業出身のいまの横浜市長には、このくらいの仕事をしてほしいものだ。

議事録がない

「仕事」には二種類あるとはよくいわれることだ。
「定型業務」と「非定型業務」という分けがある。
現場において、定型業務は「作業」ともいう。その作業をさまたげるトラブル発生時には、非定型業務が発生する。

世の中がサービス業化してきたのは、なにもサービス業がさかんになっただけでなく、工業も農業もサービス業的な要素が販売に重きをなすようになったからである。

それは、仕事の入口と出口にみられる。
入口は、「製品企画」や「製品設計」のことで、農業なら「品種改良」にあたる部分だ。
出口は、「アフターサービス」のことで、売りっぱなしは通用せず、むしろ評価や感想をきいて、つぎの製品企画にやくだてる。いまや、米農家すら通販での販売先にはがきをくれる時代になっている。

これらの仕事は、おおむね室内で、机に向かう時間がおおくなる。
あるいは、さまざまな打ち合わせも必要になったのは、関係者との間がデリケートになったからで、作れば売れる、というかんがえはもうとっくにない。

だから、だれになにを言ったのか?ということも、うっかりはゆるされず、一歩まちがうと修復不能な状態におちいるから、わすれないようにする工夫がどうしても必要になる。
それで登場するのが「議事録」である。

ところが、これは書けばいいというものではないから、面倒になる。
それで、もっとも経験の薄い若手が書記役になるのだが、内輪ならまだしも、他者どおしが集まるときは、さらなる面倒な事態となる。

そもそも、どこの会社が書記役を引き受けるのか?ということがはじめに発生する。
金融機関が間にはいる事業であれば、金融機関の出席者が議事録を担当したものだ。

それで出来上がって回覧したらおしまいではない。
一回目の回覧は、議事録に間違いがないかを確認するためで、たいがい「赤(修正)」がはいる。
これを修正して、当事者全員が承諾してはじめて「議事録」として保管されるのだ。

国会の議事録のように、誰がなにを言ったのか?を言葉どおりに記録する、という方法もあるが、これでは遠大になるので、エッセンスを記録する。
なので、記録係の能力が問われるのである。

しかしながら、こうした手間をかけてつくった議事録が、長期にわたる事業であるほど重要さを増すのは、かかわっている担当者たちが人事異動したりして抜けてしまうことがあるばかりか、うっかり勘違いして記憶していることの修正もできるからである。

つまり、言った言わないだけでなく、思い込みという人間ならではのヒューマンエラーにも対応するから、きちんと作成するのである。

ところが、なぜか「外資系」には、議事録をきちんと残すという習慣がないことがおおい。
外国人だからではなく、日本人従業員も議事録をとらないことに慣れている。

外資どおし、日本人どおしのミーティングで、議事録をとることをしないから、言った言わない、になるのだ。
そんなわけで、外資企業のトップによる「朝令暮改」は日常茶飯事で、権力で押し切るという解決法がとられている。

なので、外資系どうしで言った言わない、になると、理屈で解決するという理屈がでてくる。
たとえば、そんなことを言っていない、なぜなら当社の立場は最初からこうだから、とかである。

くわえて、詫びない、という条件も付随する。

ならばどうしているのか?
社内でも、社外とのやり取りでも、基本は電子メールをつかう。
こうすれば、ログが全部記録されているから、「証拠」になるのだ。
何のことはない、議事録を日常的に残している。

そんなわけで、社内でとなりのひとにでも電子メールをつかう。
ましてや、口頭でということはほとんどないので電話もつかわない。
なるほど、執務時間中の静けさは、キーボードを叩く音だけになる理由である。

サービス化は、目に見えない成果物、という意味でもあるから、記録方法が問題になるのだ。

さいきんは日本企業でも、議事録を書く能力が低減してしまっているのは、書かなくてもよい会議がふえたか、書かなくてもよいとやさしい上司がいうから、結果的に鍛えられないのかのどちらかだろう。

推測だが、議事録を書かなくてもいいような「会議」がやたらにおおいとおもわれる。
議事録を書かなくてはならない会議しかしない、というルールがあっていい。

また、議事録を書かなくていいというやさしさは、やさしさではないとそのまた上司が指摘すべきだから、管理職層の劣化、という問題が見えかくれする。

すると、そんな社風を見て見ぬ振りをする経営者層こそ、じつは大変な劣化をしているのだ。

経営工学三十六法

東山三十六峰といえば、京都を仕切る山々で、この山のむこうは琵琶湖である。
北は比叡山、南は伏見稲荷の稲荷山までとなっている。

あくまでも洛中、すなわち京都の中心部からみえる東側の山々を指すが、たいへんなだらかなので、

ふとん着て寝たる姿や東山

という服部風雪の句がある。どうやら加茂大橋から詠んだらしい。
山のかたちが具体的にそのようにみえるのもあるが、東山の範囲には戦場となったり陰謀がめぐらされたりと数々の歴史的エピソードが豊富にあって想いがめぐるし、北から23番目の長楽寺山のふもとは祇園であるから、寝たくもなる。

銀閣寺は北から10番目「月待山」という風流な山のふもとで、かの足利義政は、

わが庵は 月待山の麓にて 傾むく空の 影をしぞ思う

と詠っているから、ずいぶん前からあった名前なのだろう。
平安時代が発祥というのは、日本人なら納得できる。

そんなわけで、「三十六峰」というのは語呂がいい。
だからと無理やり「経営工学」のはなしにすれば、ざっと「三十六法」といわれる「技法」がある。
何のことはない、ただの語呂合わせである。

法学部、経済学部、経営学部や商学部という「文系学部」が、なんとなく将来の経営者になるひとたちに選ばれることになっていて、「理系」の出番はすくないとおもわれがちだが、どっこい「経営工学」という「工学分野」がちゃんとある。

いわゆる「工業大学」や「工科大学」にあって、「理系」になるのは「数学」を応用するからである。
ここが「経営学」とことなる。
すなわち、「経営」に対してのアプローチがちがうのである。

もちろん、「経営学」をおとしめたいのではない。
「経営学」と「経営工学」のいいとこ取りをしたいのである。
そのためには、文系でも理解できる入門書が役に立つ。
ざっと「俯瞰」すれば、それは、東山三十六峰を眺めるごとし、である。

副題は「初心者のビジネス技法36」とある。

この手の本は、深入りしないこと、に読破のコツがある。
あくまでも「全体を俯瞰する」のが目的だから、個々の説明はどうしても粗くなるのは致し方ない。
それで、理解にくるしんで放り出しては元も子もない。

わからないところには、付箋でも貼り付けて、あとから専門書のなかの入門書やわかりやすそうな解説を読めばいい。
場合によってはネット検索で済むこともある。
つまり、飛ばし読みをすればいいのだ。

しかし、人生において「識ってしまう」ということによる自分の「変化」を確認できる。
「しらなかった」自分に、二度と戻れないからである。

企業の研修講師をしていて、たかが10分や20分の講義で、これを受講者が体験して自身の変化を実感するのをみるのは、講師冥利につきるのだが、おおくのばあい、それは、数学的技法の例題を解くときにおきる。

自分が出した「答え」が、数学的に裏打ちされていれば、だれがやってもおなじ結果になるのは当然だ。
しかし、日常的な「仕事」のなかで、だれがやってもおなじ結果というのには「微妙」なニュアンスもある。

その「ニュアンス」は、人間の心理からうまれるので、こんどは経営学における「心理」というテーマが重要になる。
経営者だろうが労働者だろうが、職場をはなれればただの人間なのだから、「人間学」というのは、基本中の基本である。

あのひとは人間ができている、あのひとは人間ができていない。
ことばにすれば、たったこれだけのちがいが、まったくちがう結果をもたらす。

たとえば、高速道路のサービスエリアではじまったストライキは、これだけでも「前代未聞」だが、二週間にならんとするその「長さ」においても異例だろう。

ここにきて、会社は損害賠償請求をちらつかせているらしいが、ストライキの結束でひるむこともないのは、どちらの人間ができていて、どちらの人間ができていないのかを示唆するものだ。

すると、経営学の基本も識らず、経営工学なんて知る由もないひとたちが会社を経営していたのだろうと、容易に予想できるのは、経営学と経営工学を「かじって」いればこそなのである。

わが国の経済史では、戦後、労働組合が合法化されたあと、かずかずの労働争議がおきるのだが、かなりの争議が経営側の稚拙な対応によると分析され、それは経営者たちの「自信のなさ」と表現されている。

公職追放でトップをうしなった「番頭」たちが、突如経営トップに「なってしまった」ことを指すのだろう。
名門といわれた会社ほど、こうした事態がおきたのは、いまではかんがえられない「ワンマン」が追放されたにちがいない。

しかし、残念だが、そんな会社はいまも山ほどあって、あいかわらず経営がなにかをしらない経営者が会社を経営している。
けだし、それは、社員時代に経営を学ばなかったツケであることも否めないから、ブーメランになっている。

迷惑なのは従業員であり、利用客なのだ。
足利義政の心境が、奥ゆかしくもある。

まずは、36法を眺めてみることにしたい。

機械式の腕時計

「ドレス・ウォッチ」ということばがある。
また、腕時計を「ブレスレット」といいかえて、腕の装身具だと強調することも、貴金属や宝石でかざった時代からの伝統だ。
もっとも、機械式時計には「23石」とかと「宝石」が支点となる部品につかわれているから、機械の中でみえなくても宝石をつけていることになる。

水晶発振式の「クォーツ」が発明され、その画期的な精度で一世を風靡したのは70年代だった。
これは、世界最初の市販技術を開発した「セイコー」が、その特許を公開したからである。

当時はだれもが機械式時計の時代は「おわった」とかんがえた。
精度だけでなく、電池式だから竜頭を巻く手間もないし、自動巻きでも放置すれば数日でとまるものが動きつづける。
時報とともに「秒針」をあわせるのが、トレンドで、機械式の愛用者はこれをうらやましがったものだった。

ところが、たった十年でクオーツは「コモディティ化」してしまい、安物の代名詞になってしまった。
機械式にくらべて構造がたやすくユニット化できるので、いたるところに応用され、大量生産による恩恵がかえって価値をさげてしまった。

大正時代、機械式製麺機が発明されて、手打ちの蕎麦屋が絶滅の危機をむかえたことがある。
「蕎麦通たち」がこぞって機械で打った蕎麦がうまいと評価したから、市中のひとびとは「手打ち」をばかにするまでになったのだ。

新しい物好き、ということもあるが、はたして「蕎麦通たち」の味覚が鈍感だったかというと、どうやらそうでもない。
じつは、いまもむかしも蕎麦の味は「粉」できまる。
蕎麦の実を、丁寧に石臼で挽くのも熱でタンパク質が変質しないようにするためだ。

山形県村山市の「最上川三難所そば街道」の名店「あらきそば」のはなしである。
もっとも重要なのは、蕎麦の品種と製粉の技で、「打ち方」の優先順位がひくいのは「そばがき」を想像すれば腑に落ちる。

けれども、「つなぎ」をつかわない十割蕎麦をつなぐのは、蕎麦打ち前の「こねる」技術がないとできない。
蕎麦粉というのは、めんどうな物質である。

機械式製麺機では、大量に製麺できるぶん「粉」がよかった。
これが蕎麦通たちをうならせた理由だった。
しかして、機械式と手打ちの技術の差ではない。

そして、「粉」のコストをおさえればどうなるか?
それには小麦粉を足せばよいので、黒いうどんができる。
こうしていつしか逆転して、「手打ち」こそがうまい蕎麦に変化したのである。

なんだか腕時計の世界と似ているではないか。

いったん廃れたようにみえた機械式時計だが、ゼンマイが時を刻むという機構そのものに価値が回帰した。

機械式といえども世界には、一点一点の部品からすべて自社生産して、これらを一貫して組み立てている「時計屋」はあんがい稀少なのだ。
むしろ、駆動ユニットを専門会社から外部購入している「時計屋」が主流ともいえる。

すると、日本の大手「時計屋」は、その稀少部位にはまるので、国内よりも海外で評価されている。

時計の電池が入手困難な地域というのは、この地球上にはまだたくさんあって、そんな地域では「機械式」がこのまれる。
さいきんは「ソーラー発電式」もあるけれど、たいがいが過酷な環境におかれるから、根強いのは「安価な機械式」の需要だという。

むかし、小学生から中学生になるころ、「セイコー5(ファイブ)」という自動巻き時計を自慢していた同級生がいた。
当時は「自動巻き」すら珍しかったが、子どもにあたえられるほどの価格になっていた。

わたしが生まれて初めて自分の腕時計を買ってもらったのは、高校入学祝いだったが、このときはもっと珍しい「クオーツ」だった。

さいきんになって「セイコー5」が国内販売で新シリーズとなって復活した。
しかし、海外での「旧型」逆輸入モデルは、そうじて一万円という価格なのだ。

もちろん100万円以上の有名ブランド時計と比べるべくもないが、日常遣いでの「機能」という点において遜色はない。
むしろ、機械式というおそろしく細かいメカニックを、一万円で提供できることの方が驚きである。

そんなわけで、このシリーズの「コレクター」がいるのは、なるほど、である。
世の中には、作り手や売り手の意図せざる価値を見出すひとがいる。

そして、不思議なことに、そんなコレクターの「自慢」をきくと、たまらなく物欲に目醒めるひとがでてきて、一分野を築くことになるのだ。

その意味で、メーカーが意図する「国内新シリーズ」は、海外一万円シリーズのコレクターにとっては、たんなる「あて馬」になるにちがいない。
しかも、新シリーズの価格帯は三万円だという。

価値は価格で決まらない。

これは、主流経済学への挑戦でもある。

そんななか、高額な高級腕時計の「定額レンタル」も人気というし、中古品相場をにらむ「腕時計投資家」というひともいる。

奥が深いのが世の中である。

紙の辞典

わざわざ「紙の」といわなければならなくなった。
「電子辞書」か「紙」なのか?
論争はつづいている。

電子辞書派はもちろん、一台に数十、ときに百をこえる辞書コンテンツが収録されていることを「便利」だとしている。
もはや「紙」ならとうてい持ち運べない量の出版物に相当するし、「検索方法」も進化している。そして、なによりも、写真や音声も収めているからこれぞ「マルチメディア」なのである。

「紙派」は、この点において分がわるいのは承知している。
それに、「電子辞書」だってなにも「単独機器」である必要もなく、スマホの検索ですましているいるひとだっておおいはずだ。

つまるところ、昨今は、あらゆる「検索」が、スマホ中心の時代になっている。

それでも、「電子辞書」批判派の指摘に、「ページ」をながめることができない、というものがある。

「検索」には二種類あって、「アクティブ」と「パッシブ」がある。
「アクティブ」は、じぶんから獲りに行くイメージだから、まさに、電子機器による「検索」はこれにあたる。
「パッシブ」は、じぶんはじっとしているけど相手からしらせてくれるイメージだ。

まちを歩いていて店舗やカンバンを見ることで得られる情報もこれにあたる。
書店でばったり人生をかえるような本にであうのも、アクティブな検索ではえられない情報なのだ。

「ページ」をながめる、とは、自分がしらべたい物事とは関係のない情報がでているけれど、ちらりと見て「気づく」ことがある重要さを指摘している。

電子辞書は、ずばりその検索結果にフォーカスするから、周辺の情報が得にくいというのはたしかである。
ピントがあいすぎてしまうから、カメラまかせの素人写真のようになって味わいがない、とでもいうか。

しかし、情報をもとめる人間のがわの事情は、ときと場合によっておおいに変化する。

ピンポイントでもいいから、はやくしりたい。
しかも、複数の辞書を串刺しできる複合検索の便利さは、紙の辞書なら冊数分の倍数以上な手間をかんがえると、その便利さは文明の利器としての価値になる。

ところが、なんだか余裕があって、教養として辞書を読んでみたい、などということをおもいつくと、電子辞書では物足りないのである。
活字の海に点在する見出しの妙。
また、その解説をあじわう。

その題材として、「新解さん」がある。

  

もちろん「新解さん」とは、

 

のことである。

かくも「イジられる」辞書があるものか?
けれども、御大ふたりの「イジり方」の妙は、そもそも『新明解国語辞典』が、イジられるべき内容になっているからである。
つまりは「発見の妙」。

版をかさねても、この「発見」があるのだから、「新解さん」は革新的というより「確信的」な執筆・編集がされているのはまちがいない。

帯には「日本で一番売れている国語辞典」とはあるけれど、けっして子ども向け「学習辞典」ではない。
洒脱なおとな向けの辞書なのだ。
しかし、そんな「新解さん」にも電子版がある。

上に紹介した「新解さん」たちと、ぜひとも出版社の垣根を越えて、複合検索ができるようにしてほしい。
三省堂、文藝春秋、角川書店のコラボとなるか?
出版不況を蹴飛ばす気概でやってもらいたい。

ところで、わたしがカバンにしのばせているのは、学研の『ことば選び実用辞典』である。

PCをもたずに外出したとき、ふと浮かんだことばを調べようとしたときに、スマホをつかうと「メモ」が同時にできないし、WiFiルーターも手許にないと、気になるのがパケット通信料になるのだ。
ケチくさいが、しかたがない。

この辞書はコンパクトサイズ(重量も)にして、まさに「実用」にみあう内容になっている。
意味と用例、それに「そのほかの表現」や「⇒この項目も」という参照が「実用」なのである。

ところが、「売れている」という理由からか、この辞書はシリーズ化されて、とてつもない数の「姉妹版」がでている。

        

さらにおなじ内容で「大きな活字」という、老眼組には魅力的なシリーズもある。
たくさんあると選べない、という法則がはたらくか、えいっとおとな買いするか?

ぜんぶ揃えると、とてもじゃないが持ち歩けない。
ならばと串刺しできる複合検索のために電子化したら、なんのためかがわからなくなる。

書店にいって手にしてみるのがいちばんよい。
ピンとくるやつはどれなのか?
さてさて、その「書店」が消滅しているから困ったものだ。
電車に乗っていかないといけなくなった。

これを退化というのか?

味のある旅館で、地元のローカルテレビを観るのか、いつもの全国放送を観るのかはひとそれぞれだが、せっかくやってきたのなら、むかしなら一句ひねりたいところだ。
あるいは、知人宛でなくても自分宛にはがきの一枚書いてみる、というのも「粋」ではないか?

そんなとき、気の利いた辞書があると、気の利いた旅館だとおもうものである。
そんな旅館は、いまいずこ?

ガラスペン

日本の発明品である。
舶来のガラスペンは、色合いやデザインといった風合いを楽しめるのだが、日本製に一長あるのは当然といえば当然である。
ガラス風鈴の職人が考案したものだ。

夏の風物詩である「風鈴」も、わが国独自のものだから、外国人には珍しい。
ましてや、風鈴の音を「涼しい」と感じる日本人は、そうとうに変わっていて、「日本文明」のなかの「風流」としてあげられる。
いまどき、マンションなどのベランダに設置すると「騒音問題」になるというのは、日本文明の衰えの象徴になった。

ガラスを加工する技術は舶来だが、これをもって「ペン」にするという発想は欧米になかった。

鉄ペンが19世紀のはじめに英国で特許となっている。
その後、パーカーが吸引機構、ウォーターマンが毛細管現象を利用したペン芯を発明して現代とおなじ万年筆ができた。
ときに、1883年(明治16年)のことである。

ペン先を都度都度インク壺に漬けて書く、から、ボディに内蔵したインク・タンクによっていくらでもインクが供給されるのはすこぶる便利だったことだろう。
ペン先をインク壺に漬けすぎたら、インクがボテて、紙が汚れてしまうこともない。

毛筆をもって筆記していたのは中華文明圏の特徴だ。
墨を毛細管現象によって毛に蓄えたから、あんがい字数が書ける。
しかし、人間のかんがえることはおなじで、いちいち硯で墨をたさないといけないのは不便である。
それで、江戸時代には「御懐中筆」が発明されている。いまでいう「筆ペン」のことだ。

1902年だから明治35年にガラスペンができたのは、万年筆誕生からほぼ20年後のことである。
当初はペン先だけだったらしく、その後に軸も一体のペンとなった。
どうやら当初は高価な鉄ペンの代用品だったらしい。

材料がガラスだから、ちょっとした不注意で割れてしまったらおしまいなので、ずいぶんスペアのペン先を確保・購入していたという。
「安い」ということだけでなく、じつは「書きやすい」ということが需要を喚起した。

じっさいに書いてみればわかるが、ペン先が紙にこすれる「カリカリ感」がたまらない快感である。
しかも、インクはペン先からガラスを上手にひねってつくられた幾筋もの溝に毛細管現象で蓄えられるから、一度のインク漬けで原稿用紙一枚は書けてしまう。

現代のつけペンより、はるかにインク持ちがいい。
さらには、一体型になったことで「美術工芸品」という分野にも入ったし、工房によっては欠けたペン先を修復してくれるサービスもある。

ガラスペンの意外な効用は、インク選びが自由だということだ。
筆記用インクは、みごとな「化学薬品」でもあるので、混ぜるのは御法度である。
だから、万年筆のインクはおなじメーカーのものを使ってこその「保証」であるのは、ペン芯機構内で発生する「化学反応」が故障の原因になるからである。

ここに、万年筆の便利さとトレードオフになる、インクの変更が面倒だという問題がおきる。
たっぷりインクを貯める万年筆には、ペン芯機構にもインクが蓄えられているから、よく洗ったあともおよそ一晩は水中にさらしてブラウン運動による洗浄が必要である。
好きな色のインクを購入しても、すぐさま愛用の万年筆でつかうことができないのだ。

ところが、ガラスペンはガラスゆえに洗浄がかんたんで、インクを洗い流したあとにティッシュなどで水分を拭き取れば、すぐさま別のインクがつかえるのである。

書き心地とインク選定の自由は、はまればおいそれと他に変えられない魅力があるし、工芸品でもある。
そんなわけで、さいきんは、おおきな文具店にはガラスペンのコーナーができている。

ねだんのちがいはペン先のガラスの質にもある。
ふつうのガラスか強化ガラスか。
強化ガラスはもちろん折れにくいのだが、それゆえに細かい加工には熟練技能者の手が必要だ。

だから、ペン先だけが強化ガラスで軸が別のものがいちばんのお買い得になる。
顧客になにかを書いてもらうとき、こうしたペンを使うのは店側のセンスが光ることにもなるだろう。

ところで、インクの揃えで有名なお店でのこと。
店内をグルグルして悩んでいると「どんなインクをお探しですか?」と声をかけられた。
「インクらしい匂いがするもの」とこたえたら、絶句されてしまった。

長年やっているが、色味のこだわりではなく「匂い」といわれたのは初めてだと。

さいきんの大学生はパソコンが必須アイテムになっているが、むかしは万年筆が入学祝いの定番だった。
「学生時代」という歌は、学生時代が終わってから歌う歌だが、「秋の日の図書館の ノートとインクのにおい」が気に入っている。

作者の平岡精二は、どのメーカーのインクをイメージしたのか?
わたしは、パイロットの「青」ではないか?とかってに想像している。
じつは、わたしのいちばんのお気に入りなのだ。
「あゝ、いい匂い」

350mlという特大サイズの超お得ボトルには、黒、赤、ブルーブラックの三色があるのに、なぜか「青」がないのは不満だ。
ただ、残りの人生で使い切れる量ではないかもしれない。
そんなわけで、「色は不本意だが匂いで」ブルーブラックをせっせと使っている。

全国通訳案内士の規制緩和

外国人向けの「国家資格」であった。
「あった」というのは、いまでも資格制度は「ある」のだが、なぜか昨年「規制緩和」され、資格のない誰でもが「通訳案内」できるようになったのだ。

「通訳案内」とは、外国人向けの「ガイド」である。

「規制緩和」においては、「利権」の有無が重要で、なんのための規制なのか?ということをないがしろにするのがわが国の特徴である。
もちろん、役所と役人に利権があれば、それは「岩盤」になったり「テッパン」になったりする。

だから、通訳案内士の規制緩和がされたということは、通訳案内士には「利権」がない、という意味である。
ならば全面的に廃止すればいいのだが、中途半端にしてできないのは、独立行政法人国際観光振興機構(日本政府観光局)が試験事務を代行しているからである。

つまり、観光庁が影響をすこしでも残したい、という「利権」が尾てい骨のようにあるからだろう。

一方で、全国に2万5千人ほどいる「有資格者」は、なぜ「規制緩和反対デモ」をしないのか?
泣き寝入りなのだろうかと心配する。

「観光立国」と、聞き心地のよいことばをろうしても、そんな気はぜんぜんありませんといっているようにしかおもえない。

通訳案内士とは、外国語の通訳をして観光ガイドをする、語学系唯一の国家資格であった。
この資格が、二本柱からなっているのは、上述のとおり、外国語能力とガイドとしての知識である。

また、地域限定の通訳案内士としては、2007年から、6道県(北海道、岩手県、栃木県、静岡県、長崎県、沖縄県)で始まったが、10年後の2017年時点で、実施しているのは沖縄県のみになったので、あらためて2018年から「地域通訳案内士」資格ができたという体たらくだ。

民間ではあたりまえの、継続性の原則「ゴーイングコンサーン」が、成立しないのは「地方だから」ではなく、資格の設計が甘いからである。

そういうわけで、国家資格として「全国バージョン」と「都道府県限定バージョン」の二本立てになっているが、冒頭のごとく、この資格をもっていることのメリットがよくわからない「死角」にはいってしまっている。

「士(師)業」という分野は、たいがい「資格保持者」しかできないという制約があるのは、「資格試験」というハードルをこえる能力があると認められるからで、ほんとうにそれを認めているのは管轄の「役所」ではなく、市民である国民が認めているからである。

そういう意味で、通訳案内士の試験の「科目免除」をみると、語学についてはそれぞれに具体的な水準がわかるものとなっている。
しかし、地理や歴史という「ガイド」の分野では、急速にあやしくなってしまうのである。

地理では、旅行業務取扱管理者や地理能力検定日本地理2級以上が科目免除になるし、歴史では、歴史能力検定日本史2級以上の合格者もしくは大学入試センター試験「日本史B」60点以上取得者が対象となって、一般常識では、大学入試センター試験「現代社会」80点以上取得者となっている。
つまり、大学入試センター試験は、社会人が受けても価値がある。

しかし、よくかんがえなくても、これで「ガイド」が務まるのか?
という素朴な疑問には、おそらく耐えられないだろう。

つまり、「ガイド」とはなにか?
というもっとも基本的な定義が、国民が納得するかたちでなされていないということだ。

だから、国家資格はあるけれど、だれでもやっていい、ということになったのだ。

本物の「観光立国」の国では、観光ガイドは「尊敬される職業のひとつ」になっていて、その知識を応用した案内が「プロ」として国民から認められている。
べつのいい方をすれば、「品質保証」されているのである。
それが、有償ガイドの有償である理由であるから、時間を有効につかいたい客は、無償ガイドを頼むことはない。

これまで、観光客は基本的に現地で有名なガイドを「指名」することができなかった。
それで、言語別のガイドを依頼することになるが、ガイドの内容が「品質保証」されているから、おおきなトラブルはない。もし、トラブルがあるとすれば、「品質保証」があいまいな途上国でよく起きる。

わが国製造業は、「ジャパン品質」というブランドを打ち立てたが、観光におけるガイド業でこれができなかったし、今般の規制緩和で今後改善される余地をうしなってしまった。
すなわち、わが国はこの分野で完全な「途上国」なのであって、しかも「発展」の可能性がないのである。

地域のボランティアガイドという「素人+アルファ」が案内するさまは、ほほえましくはあるけれど、ちゃんとした観光(学習)がしたい、という要望にこたえることはできない。
しかも、廉価とはいえ有償のばあい、「ボランティアだから」という言い訳は本来できない。安かろう悪かろうの再生産になるのだ。

日本を深くしりたいというニーズをもつひとほど、じつは高額所得者であることがおおく、ガイド料を節約しようという発想はしないし、そのエリアで消費する用意もしているのだが、「無料」や「廉価」こそが価値であると自分たちの価値観をスタートラインにおくから、結局「退屈なニッポン」と評価されるのである。

適正なサービスには適正な料金を支払う。
それにはなによりも「サービス品質管理」が基盤となるのである。
日本人がつぎに学ぶべきことであろう。