労組が消費増税に賛成する国家依存

「反対」があたりまえかとおもっていたら、意外にも「連合」が消費増税に「賛成」するというニュースがでたからおどろいた。
連合が支援するはずの野党はこぞって「反対」の意思表明をしているから、参議院選を目前にこの「ねじれ」をどうするのか?

経営者団体も「賛成」をしているので、ここに「労使協調」が成立したようなものだ。
双方の共通点はなんだろう?
それは、「国家依存」というキーワードがみえてくる。

経営者団体は、補助金がほしい。公共事業がほしい。
つまり、財政政策による国のおカネに依存しているから、財政の「健全化」による消費増税に賛成するという論理だ。

一方で、連合は、将来の年金がほしい。老後の安定がほしい。
つまり、年金財政による国のおカネに依存しているから、年金支出を「確実」にするという消費増税に賛成するという論理だ。

どちらも、「政府依存」はおなじである。

ようは、自分の稼ぐ力を強化しないで、補助金や公共事業をほしいということは、一種の社会的な麻薬をもっとくれといっているにすぎない。

それは年金もおなじで、「掛け金」という名にだまされて、民間の養老保険のように、自分のおカネを積み立てているようで、ぜんぜんそうではない「賦課方式」になっている。
このことの歴史背景はずいぶん前にかいた。

ところが、あらふしぎ、厚生労働省のHPには「日本の年金は賦課(ふか)方式」というマンガによる「丁寧な」解説があるのだが、上述の歴史的事情には一言もふれず、「積立方式」よりも「賦課方式」がすぐれているのだという「プロパガンダ」が堂々と掲載されている。

団塊の世代という巨大な人口のかたまりが、若くて現役バリバリだったから、「賦課方式」が成立したのだという説明もない。
その人口の巨大なかたまりが後期高齢者になろうとしているけれど、現状の若くてバリバリ働いているひとの数がぜんぜんたらない。

だから、年金資金の枯渇という問題が発生しているのだ。
ましてや、積立方式がインフレに脆弱だという指摘も、「金利」を考慮すればトンチンカンなはなしだ。
インフレになれば、そのぶん金利も上昇するからだ。

つまり、年金が政府のしごと、にはならない。
むしろ、政府のしごとにしてしまったから、民間の生命保険会社をふくむ金融機関におカネがまわらない。
これが、民間にかんじんな投資資金がまわらない元凶ではないか?

この秋に予定されている増税分は、軽減税率分やら教育無償化いろいろで、おおくて約3兆円とみこまれている。
これしかないのに、それで年金資金が「安定」などしない。
むしろ、過去二回がそうであったように、消費不況におちいる可能性のほうが高いから、法人税収が減少するだろう。

くわえて、あの金融庁が5月22日付けで『「高齢社会における資産形成・管理」報告書参考資料(案)』というものを発表した。
ぜひ金融庁のHPからダウンロードしてよむとよい。

まず、労働組合なら、まっさきに「継続雇用後の給与水準の変化」というページを議論すべきだろう。
1000人以上の大企業だと、40%~50%以上減少するというのが60%もあるのだ。

つまり、従業員の奴隷化ではないか?

同一労働同一賃金は、なにも雇用形態における正社員と非正規社員との問題だけではない。

企業の側は、すでに制度として継続雇用があるし、定年制の延長すら法的処置がとられるながれになっている。
すると、従業員の職務能力をいかに高めるか?ということに取り組まないと、めったなことで正社員を解雇できないのだから、当然の課題なのだ。

すると、労使双方で、価値の高まる業務とはなにで、そのための訓練方法を見出さなければならない。

年金のために増税賛成は、安逸すぎる決定ではないのかとおもう。

さらに、この参考資料(案)によれば、「ライフステージに応じて発生する費用等の例」として、資産形成と年齢がグラフになって表現されている。

どうみても公的年金「だけ」では、高齢期の不安が解消されない。
つまり、公的年金「依存」すら、人生の最後には危険思想なのだ。
そのために、「自助努力」しなければならないのは、なにも国からいちいちいわれる筋合いのものではない。

この金融庁の発表に、それぞれの「批判」があるが、目立つのは「国家依存」しているひとたちからの怨嗟の声である。

従来の政府の説明とちがうではないか!

どういう根拠で政府を信じていたのか?そちらに興味がある。

中国人からまなぶもっとも重要なポイントは、「ぜったいに政府をしんじてはいけない」なのだ。

しかし、こうしたアナウンスが政府機関から発表されたことは、とくにこれからの若い国民にとってはよいことである。
自分の生活は自分でまもる。
自分の人生は自分のものである。

むしろ、一日でもはやく「年金」や「健康保険」制度を廃止してもらいたい。

どうやって積み立てるのか?
自分でかんがえなくてだれがかんがえるのか?
ほんらい、そのための教育がひつようなのであって、共産党宣言にある「無償化」ではないのだ。

連合には猛省をうながしたい。

「教科書」が読めないおとなたち

ふとしたことでよくわからなかったことに合点がいくことがある。

たとえば、たまたまではあろうが、このところ、自動車の乗降において、子どもを「右側ドア」からおろしたり、乗せたりする光景をつづけて目撃した。

あぶない!
のは、当事者の子どもだけでなく、当方もおなじで、もしこの子たちがそのまま道路にでればこちらと接触してしまうかもしれない。

さいきんはスライド式ドアというものがふえたから、いきなりドアが開いて後続車の進行をさまたげることはないが、右側(道路側)ドアがスライドして開くさまは、うしろからは見えにくいから、子どもが注意深く半身を出すことでドアが開いていることを確認できる。

おそらく運転している親とおもわれるおとなは、「後ろからの車に注意しなさい」といっているのだろうが、ドキッとさせられる当方には、はなはだ迷惑な運転手である。
もちろん、こちらに注意をうながすすべはとっさにはクラクションしかない。

これを、安全管理上、「ヒヤリ」と「ハット」という。
おおくの「事故」は、事前に「ヒヤリ」と「ハット」の経験があるから、安全会議という定例会で企業は、そうした「ヒヤリ」と「ハット」の発生事例と対策をかんがえ、事故防止をはかるのである。

ワンボックスカーでも、一部車種には右側にスライドドアがないものがある。
あるのは、運転席のドアだけだから、後部座席のにんげんは左側(歩道側)からしか乗降できないので、安全対策としては万全だ。

それにしても、右側からじぶんの子どもを乗降させるという危険行為をする親とは何者なのか?とおもわずにはいられない。
もちろん、駅の貧弱なロータリーでは、いうなれば追い越し車線に停車して、そこで左側のドアで乗降させるひともいるから、うっかりできない。

自転車通学をゆるしている学校での安全教育はどうなっているのか?
地方にいくと学校指定のヘルメットをかぶっている中学生をみかけるが、高校生になるとヘルメットの着用どころか両耳ヘッドホンをつけているから、およそ安全という視点では「退化」している。

両耳ヘッドホンを着用した女子高生の自転車が老婆と衝突して、はずみで頭をつよく打った老婆がなくなる事故があった。
民事裁判で、この女子高生に1億円の損害賠償責任が確定したから、十代のわかさで1億円の負債をかかえこんだのは、一生の不覚ではすませられない。

だから、よほど全国の学校もこの事故の教訓をもって、注意喚起と安全教育をしているのかと思いきや、そんな様子はぜんぜんみられない。
「リアリティの欠如」なのかなんなのか?
日常的に両耳ヘッドホンの自転車学生を目撃している。

それでかしらないが、自転車に賠償保険をつけることが義務化された。
保険があるから「安心」なのではなく、安全をはかることが先なのだ。

2019年ビジネス書大賞受賞ほか山本七平賞、石橋湛山賞、大川出版賞、日本エッセイスト・クラブ賞と賞だらけ『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』新井紀子(東洋経済新報社、2018年)を読んで、はたと気がついた。

教科書が読めないのは、子どもたちだけでなく、その親もあたるのではないか?
いやいや、わたしだってそうかもしれないと、じぶんのことをかんがえた。

著者によれば、こころある教師たちも、著者が中心になってつくった「確認テスト」を受けているという。
すると、あろうことか、教師だって教科書を読めていないことがわかってきたのだ。

この事実に愕然とした教師たちが、どうしたら教科書を理解できるようにおしえることができるのか?という課題にとりくみはじめて、そんな教師がいる学校では、めざましい成果がでてきているという。

これは重大な情報である。
昨年、「孟母の絶滅?」という記事をかいた。
もし、まだ「孟母」が生存しているなら、このような教師がいる学校に一日でもはやく転校させるべきだ。
このような学校が人気校になることで,教師たちの努力が「まっとうに」評価される.

「教科書が読めない」ということは、「読解力がない」ということだ。
これは、日本語がわからない、ということにひとしいから、将来、どんなことをしてもうまくいかないという「未来図」が、その子どもに貼りつけられたも同然だ。

つまり、約束された貧困がまっている。

親の資産があるうちはいいが、そうでなければかなりの確率で不幸になる。

しかし、これは生活経済の事情のことばかりではない。
「読解力がない」ということは、事前の予測もできないからである。
事前の予測ができるとは、論理構成がはかれる、ということだ。
このように「読解力がない」という一言には、あらゆる面での基本的な能力がない絶望的な意味がある。

わが国は、読解力がない人間の国になっているとかんがえると、説明がつくことがおおそうだ。

だから、公道上で右側のドアをつかうとどうなるかがわからない。
そんな親の子に生まれたら、どこで命を落とすかもわからないのだ。

それにしても、どうしてこんなに「読解力がない」事態になったのか?
たんに教育の荒廃ではすまされないおおきな問題がありはしないか?

わたしは、現代の栄養失調「ミネラル不足」をうたがっているがいかが?

副業の残業代はだれが支払うのか?

企業が「稼ぐ自信」をうしなって、とうとう「副業」をゆるすようなことがトレンドになってきている。
従業員が満足できる賃金をはらえないから、どこか別の職場で稼いでもいいよ、という「軽さ」が気になる。

「賃金」というものは、なにか?
たんてきに、「労働の対価」である。
だから、「労働」の価値と「対価」というおカネが、どうなっているのか?ということが出発点になる。

ろくに仕事をこなしていないのに、たくさんの対価をはらうことはできない。
いっぽうで、ちゃんとした仕事をしているのに、これっぽっちしかもらえないのではこまる。

けっきょく、このふたつを結ぶのは、あたりまえだが「仕事」なのである。
つまり、その「仕事」が価値をつくっているのか?いないのか?という問題だ。

物理では、なにかの物体にはたらきかけて、それでなにかがおきることを「仕事」というから、「仕事」があたらしい価値をつくったかどうかは問わない。
しかし、ふつうの企業でそんな「仕事」を「仕事」といったら、お客さんからおカネがもらえないから「ムダ」になる。

つまり、企業内の「仕事」は、お客さんからおカネがもらえるものを指す。

経営者と従業員が、以上のことで同意がとれていればいいが、どこまでがおカネになる「仕事」で、どこまでが「ムダ」なのかがわからなくなっていることがある。

それが、時間経過のなかで「むかしからやっている」だけが理由になると、ほとんど「ムダ」の部類になる。
それで、たまには「仕事の棚卸し」ということをやって、自己チェックしないと、わかるものもわからない。

従業員はいそがしく働いているのに、会社がぜんぜん儲からないのは、およそこの「ムダ」が「仕事」になっているからである。

ならば、どうやって「棚卸し」をするのかといえば、白紙から業務を設計し直しのがいちばんわかりやすい。
けれども、手間がかかる。
それで、この手間をはぶいて「棚卸し」するから、たちまちなにが「仕事」でなにが「ムダ」かがわからなくなる。

従業員は、いつものやり方を変えたくないから、ぜんぶ「必要」な「仕事」だとこたえるから、現場にいっても解答がみつからない。
こうして、いつまでたっても「ムダ」に経費をかけて、儲からない。

それで、どこか別の職場をみつけて、そちらでも働いてよいということになれば、従業員はおカネを効率よくもらえるのがどちらかすぐに気がつくから、元の会社で残業せずに、あらたな稼ぎ先に急いでいきたがるだろう。

だから、元の会社では残業代がへって、よかったになるのだが、ほんとうにそれで儲かるようになったとはいえない。
ほんらい今日やるべき「仕事」が明日に後回しされれば、納品期限が間に合わないから、「ムダ」だけが自動的に削減されるということでもない。

このはなしの行き違いは、あたらしい稼ぎ先でも発生する。
元の会社ではたらいた時間が、もしもフルタイムなら、副業先のあたらしい稼ぎ先では、「残業代」がストレートに発生しなければならない。

けれども、副業先をさがすのに、自分はフルタイムではたらいた後だから、こちらでの仕事には残業代をつけてください、というはずがない。
それに、採用する会社だって、出勤前にどこかで働いていますか?ときくことはないから、けっきょくこのはなしはどこにもでない。

それでそのままならいいけれど、なにかのことで「労災事故」でも発生すれば、たちまちに本人の「働きかた」が調べられることになって、いきなり表沙汰になるのである。

役所というところの特性で、鬼の首を取ったようなことになるのは当然で、これに残業代も請求できるという知恵があたえられれば、たちまちどちらの会社に請求すべきなのかが議論になる。
当然、役所はどちらでもいいから払えというだけだ。

さて、本人はどうしたらいいものか?
元の会社も、副業先も、どうしたものかとなって困り果てるのである。

このはなしの原因はなにかといえば、やっぱり「36協定」がないことにある。
「働く」ということについての、「働く側の無知」と「働かせる側の無知」との掛け算になる。

学校をでた若者が、「働く側」として労働力を提供するあたっての、「働く側の無知」を解消してくれるセミナーがない。
そして、「働かせる側」すら、経営者にそれがどういうことかをつたえるセミナーがない。

あるのは、役所という変な存在だけがみえてくる。
ほんとうに、このひとたちはなにをやっているのか?
こうした教育をすべきだが、法律にないからできないのだ、といえばまだしも、このときとばかり受身の「行政官」に徹するからたちがわるい。

こうして、副業の残業代は宙に浮いて、とうとう宇宙をさまようのである。

論理より情緒を優先させるエリートたち

これは、日本語という言語のせいなのか?とさいきんとみにかんがえるようになった。

日本語の美しさとは、情緒にある。
そのおそろしくも繊細な表現は、他の外国語にはみられない。
まさに、「もののあわれ」という感覚こそ、日本人の日本人たるゆえんだろう、と。

平安王朝文学が発祥とはいうものの、いまにいたるまでの日本人の行動様式までも規定している基盤の感情・情緒となると、はるか以前からこの島国に住んでいたひとたちの、独特な感情・情緒が、たまたま平安王朝で花開いたというべきなのだろう。

こうした感情・情緒の基盤に、外国からやってきた儒教という「学問」が、強化剤になって、盤石の精神安定をつくりだす。
それが、「武士道」なのだろう。

儒教の発祥地では、とうぜんいまでも「宗教」という位置づけだから、信じるという感情・情緒そのままにストレートである。
しかし、これが日本的変容となるのは、もとの「もののあわれ」と結合した化学反応となるからで、儒教を宗教ではなく「学問」にしてしまう。

だから、論語は聖典ではなく、情緒や人生訓をまなぶ教科書になった。
学問をおさめたものが身分にかかわらず登用される、という裏に、幕府の人材枯渇という問題があった。
それで、「湯島聖堂」がたてられるが、「聖堂」という建前には、宗教っぽくしてじつは「学問」がホンネのネーミングだったとかんがえれば辻褄が合う。

ここに集められたエリートたちは、けっして「宗教家」をめざしたのではない。
むしろ、将来の幕閣としての教養をまなびにきていた。
だから、発展的に東京大学となって、さらに東京帝国大学になる。

さいしょにできた「東京大学」は、その後の「東京帝国大学」とも、とうぜんいまの「東京大学」ともちがう。
ぜんぶ略せば「東大」になるから、勘違いの原因となっている。

明治10年(1877年)から明治19年(1886年)までの東京大学こそ、わが国の選良=エリートがつのった大学であった。
なぜなら、わが国に唯一の大学であって、教授のおおくが外国人だったから、授業のほとんどが外国語で、つまり「洋学」=「論理」教育がおこなわれていたのだ。

このときの卒業生たちが、その後の「帝国大学」で教授職となるから、たった9年間ではあるが、マザーマシンのような存在だったのだ。

帝国大学ができても、「東京大学」をそのままにすればよかったが、政府はそれをせずに「東京帝国大学」にしてしまい、東京大学でまなんだ学生を、「自前」の教授にした。
こうして、お雇い外国人教授の需要がへっていく。

政府が帝国大学をつくったのは、明治政府の高級官僚を武士階級からだけの採用では足らなくなったからである。
西南戦争は、明治10年だったという時代背景をかんがえればいいだろう。

つまり、帝国大学設置のころの明治政府は、政府行政機構が膨張する時期でもあるのだ。

江戸から明治になったから、突然個人の生活が激変なぞしない。
ましてや、郵便制度も電信もない時代だ。
突然世の中が変わるのだと信じた、山奥の情弱だが生真面目な人物が発狂にいたる物語が、島崎藤村が実父を描いた『夜明け前』であった。

   

しかし、「情弱」のいみがいまとはちがう。
木曽の山奥だから「情弱」なのは、通信手段がなければしかたがない。
それよりも、発狂するほど平田篤胤の国学という学問知識に傾倒していたのが主人公である。

すなわち、情緒に傾倒したから、現実とのギャップに押しつぶされた。
では、現実に論理はあったのか?
それもない。

江戸時代の教育の基本は、儒学(朱子学)と国学を柱とし、幕末になって儒学(陽明学)が一大ブームになる。
だから、それなりの上流階級(庄屋や大商家をふくむ)では、子弟教育の基本「漢籍素読」や「国学」が急激に変化したのではない。

それゆえ、明治42年(1909年)生まれの中島敦にも、漢籍の素養が残ったのだろう。

しかして、戦後、新制学制による民主教育では、「漢籍素読」の復活どころか、よりやさしい現代文による「情緒」の教育がじっしされて、「論理」がないがしろにされたのは、占領政策の目的から当然のことである。

こうして、学問として「論理しかない」理系はまだしも、文系における論理は「法理」だけになったから、西洋人の言語の論理に対抗できない低レベルの「論理」をもって支配できるのがこの国の特徴になった。

官民あげての文系人間が原因の不祥事は、論理の欠如ではなくて「ゆがみ」とか「勘違い」という、子どもじみた幼稚さにこそあるのは、情緒優先がそうさせているのである。

そんな文系人間が、官庁や企業の理系人間を「予算配分」という支配下におさめている。
こうして、論理こそが近代自然科学の骨格なのに、それを情緒で支配するから、現実においつかない。

30年前、アメリカを一瞬でも抜き去ることができたのは、「論理」のかけらがあった世代のおかげであった。
中国に抜き去られたのは、彼らの論理にわれらの情緒が対抗できなかったからである。

それでも懲りずに、情緒の支配はつづく。

マグネシウムで洗濯する

洗剤を使わないのに洗濯できる、という製品は「洗剤」ではないのか?という野暮はやめて、じっさいにつかってみたら、すこぶるよい。

ちいさな洗濯ネットのなかみは、純度の高いマグネシウムの金属チップがゴロゴロはいっているだけだ。
つまり、ふつうの洗剤とおなじで、化学的によごれを落とす、という機能を買うことになる。

しかし、いわゆるふつうの洗剤とちがうのは、界面活性剤やその活性力をたかめるための酵素とかがはいっているのではなく、ほんとうに「マグネシウム」と水道「水」を化学反応させて、アルカリ性の「石けん水」にすることで、衣類のよごれを分解して落とすことにある。

その化学反応は以下の計算式となる。

Mg(マグネシウム)+2H2O(水)=
Mg(OH)2(水酸化マグネシウム)+H2(水素)

なにかと話題の水素が発生するから、水から水素が抜けるということで、アルカリ性になるわけだ。
水素イオンがたくさんあれば「酸性」、水素イオンと水酸化物イオン濃度がおなじなら「中性」、水酸化物イオンがたくさんあれば「アルカリ性」になることをおもいだそう。

ところが、マグネシウム自体も反応によって水酸化マグネシウムになるので、永遠にこの化学反応がつづくこともない。
使いつづけているうちに、マグネシウムが黒く変色するのは、表面が水酸化マグネシウムになったからで、さいごはチップ全体がそうなってボロボロになる。
ただし、水酸化マグネシウムにも毒性はなく、むしろ畑の肥料になるから、そのへんに棄てても問題はないだろう。

つかっている途中、それをもとにもどすには、酢酸などのよわい酸につけるとよいのは、酸化還元させるという意味だ。

だから、洗濯をくりかえすうちに効果がよわくなるのは、マグネシウムが水酸化マグネシウムになるからで、それを放置すれば、当然だが水道水がアルカリ化しなくなるので汚れの落ちもわるくなる。

どのくらいのアルカリ度ならいいのか?
おそらく「ph9」以上はほしい。
しかし、家庭にphを測定する器械なんて常備していないから、なかなかわからない。
それが、このての商品を「あやしい」と感じる根拠になるのだろう。

便利な世の中になって、デジタルph測定器もネット通販なら2,000円しないで手にはいる。
毎日の洗濯に洗剤をつかいたくないというひとには、こうした機器で洗濯機の水のph濃度を測ることができれば、より納得度があがるだろう。

ただし、じぶんの家の洗濯機の水がどのくらいの量のマグネシウムで、どのくらい撹拌すればもとめるph濃度になるかは、やっぱりためしてみないとわからない。

そういう意味で,ph表示がある洗濯機はできないものか?
もとめるph濃度に達してから規定時間の洗濯時間を運転してくれれば、これは便利、となるのだが、いそがしいひとにはがまんできないかもしれない。

さらに、「マグネシウムの酸化還元もできて、交換もかんたんな洗濯機」が開発されれば、消費者としてはうれしいものだが、洗剤メーカーに気をつかって製品化されないかもしれない。

もちろん、各家庭に直結されている水道水のphだって、地域によってちがうはずだから、ちゃんと測定すると必要なマグネシウムの量もちがってくるはずだ。

こうやってかんがえると、利用する消費者側にも、作り手のメーカ側にも、それぞれの事情があって、簡単ではないのが「マグネシウム洗濯機」ということになる。

もちろん、これに上水を提供する自治体の事情と、下水処理をする自治体の事情もからむから、かんがえだすとキリがない。
水道局の内部も、上水と下水ではたちばがことなる。

ほんとうは便利なはずなのが、なんだか面倒なことになるから、ふつうの洗剤をつかうほうが楽である。

これに、柔軟剤や芳香剤という需要もあるから、「洗濯」の自由を「選択」の自由として確保することは、あんがい困難なことだ。
だから、自由がいちばん合理的なのだともいえる。

上述した「マグネシウム洗濯機」が製品化されたとして、これをつかうひとたちは、専業主婦の奥様たちだという認識ができると、共働きで洗濯の時間を短縮したい家庭には、一種の「格差」すら感じさせることになるだろう。

すると、そんな「格差」を自慢したい国柄のひとたちにには売れるだろうから、輸出専用か、海外生産専用になるかもしれない。
それで、日本に逆輸入されるなら、もっと「格差」の象徴になるだろうから、ややこしい。

海外子会社につくらせるのが、現実的なのだろう。

いや、日本企業にそんな度胸すらもはやないとおもう。

「出エジプト記」のニッポン

旧約聖書をどのくらいの日本人が読んだことがあるのかといえば、あんまり読んだことがあるひとはいないだろう。
日本でも、高級ホテルのナイトテーブルやベッドボードに、聖書と仏典が置いてあったものだが、それらホテルの経営者が、これらの「本」を読破したはなしを聞いたことがない。

経営者にとっては「インテリア」のひとつなのかもしれないが、これで「思いとどまる」ひとがいるのは事実のようだから、客室管理者からすると重要な「本」なのだ。

もちろん、「本」を寄贈してくれる団体は、それが布教活動の一環でもあるし、すでに信者になっているひとへのアフターケアでもある。
厳しいビジネスの世界にいきるひとたちが、高級ホテルの顧客だから、つまずいたとき、自室で「本」を手にしてこころを落ち着かせるひともいることだろう。

そんな信仰をもったひとが、ある意味うらやましいとおもうこともあるが、まず、日本人のおおくは外国人のいう「信仰」を意識的にもってはいない。

娯楽と教育がむすびついて、映画全盛期にはいろいろな「名作」がうまれたが、なかでもこの手の作品のトップは『十戒』(1956年、アメリカ)であろう。

63年前の大スペクタクルは、いまでも一見の価値は十分すぎるほどある。
この作品を鑑賞してから、「本」を読めば、よりいっそう理解がふかまること、まちがいない。

わたしは、この作品にでてくる「モーゼ山」に四回ほど登ったことがあるけど、映画で描かれている山のかたちがおなじだったことに感動した。
ふしぎと、「モナ・リザ」の背景も、モーゼ山にみえるのはなぜだろう?

聖書では、この山頂で「十戒」を授かる。
ところが、下山してみるとエジプトからいっしょに逃げてきた人びとが、浮かれて好き勝手なことをやっていた。
それで怒ったモーゼは、神が十戒を書いた石板を投げると、そこから大地が裂けて、わるいかんがえの人びとを滅ぼすというシーンになる。

まったくおそろしい神様で、創世記の「ノアの箱舟」もそうだったが、全滅させられるのである。
日本映画だと『大魔神』が1966年からの三部作であるが、こちらは、わるいひとだけをやっつけるから、人間に奉仕する神様だ。

これが後世「予定説」となって、カルヴァンが提唱することになる。
つまり、決めるのは「神」であって、ひとではないから、生前に善行をつもうが、最後の審判に影響しない。
そのひとが生まれたときに、神は天国か地獄行きを「予定」したからだ。

ここから、マックス・ヴェーバーの世界的に有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が構成されていく。
ところが、大権威のマックス・ウェーバーのこの説をひっくり返したのが、『マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊-』だった。

 

そんなわけで、資本主義はどうやってうまれたのか?
ということが、いまだにわからないことになっている。
人類史の不思議のひとつに、「資本主義の成立」があるのだ。

この「よくわからないもの」を批判したのがマルクスたちだったけれど、こんどは未曾有の厄災を人災としてまねいてしまった。
けれども、伝統的に日本のエリートはマルクス親派だから、よくわからないままの資本主義が大嫌いなのである。

エリートとはどんなひとたちなのかをかんがえると、ちゃんとしたひとたちのはずなのだが、その思想基盤にマルクスへの親近感があるから、じつはちゃんとしていない。
このなんちゃって状態につけこんでいるのが、お笑い芸人たちで、マルクス親派の発言をするとそれっぽくきこえるようになっている。

これを、マルクス親派のマスコミが電波をつかってたれ流して、国民のおおくをマルクス親派に仕立て上げている。
これは、国家をあやつる官僚たちにも都合がいいから、放送法で放送局をイジメたりしない。

これは布教活動なのだろう。
けれども、その対象となる「神」は、聖書の神ではなくて滅ぼされる人びとが信じた「神」だろうから、あぶないのである。

どんな饗宴や狂宴をしていたのか?
映画『十戒』のシーンがおしえてくれる。

あたらしい経済学?MMT

あまりにもわが国の経済に、むかしからのアメリカ主流派経済学のセオリーが効かないものだからかしらないが、かってに向こうで「すでに日本はMMTの実験をはじめている」と信じているようだ。
そうではなくて、わが国経済モデルがすっかり社会主義経済になったから、資本主義の主流派経済学が通用しないだけだろう。

インフレがおこらなければ、政府債務はいくらでもふやせる、とういうのがMMTの基本的なかんがえかただ。
アメリカの左翼経済学者が主張しいるのは、ケインズを前面に出せなくなっても公共投資の強化に便利だからだろう。

日本では、アベノミクスによる日銀の金融緩和で、おそるべき資金を市場に提供してきたが、ぜんぜんインフレにならない。
日銀による資金の提供方法とは、日本国債の買い入れ、とか、日本株の買い入れ=購入分のおカネを市場へ提供するものである。

これでどんな「効果」がうまれたのか?
日本国債の市場が、日銀の買い入れを前提とした「市場」になった。つまり、自由な取引がほとんどない、という状態になった。
また、同様に、日本株の市場も、事実上日銀が買い支えているから、株価が経済状況をモニターするものではなくなっている。

だから、あいかわらず「日経平均が」どうのこうのといっても、そのどうのこうのは、「日銀さま~、おねが~い」としかきこえない。
これに、黒田総裁が目の下にクマをつくって、まだまだ緩和しま~す、というのだから、もう病気だ。

こんなになんかいろいろやっているつもりでも、新築の住宅にしか資金供給しないから、とっくに住宅バブルが発生している。

金融危機を始末したけど、フラフラになったアメリカ経済を立て直したのは、日本のマスコミはいいたくないがトランプだ。
かれの経済政策は、あんがい的を射ていて、就任してすぐさまやったのが「大規模減税」と「規制緩和」だった。

アベノミクスの学問的指導者だった浜田宏一先生も、とっくに「金融緩和」より、「減税」がきくと転向してしまった。
これには前例があって、大幅減税と規制緩和も、次元をこえたレベルで=過去のしがらみにとらわれず、実行したのは、トランプとおなじく共和党のレーガン政権だった。

けっきょくのところ、民間の力を信じるかそうでないかで決まるのだ。
民間の力を信じるアメリカと、ぜったいに民間はバカばかりだと信じる日本のちがいが、ここにきてはっきり勝負がついてきた。

ほんとうに日本経済をよくしたい、というなら、財務省を解体するしか方法がない。
ところが、税務署がこわくて野党もこれが言い出せない。

政府は民間がうごきやすいようにする計画をしろ、といったのがハイエクで、政府は経済運営計画をたてて民間に命令しろという社会主義とは真っ向180度のちがいがある。

これが、バブル崩壊から30年もの停滞をつくった原因の本筋だ。
なのに、まだこれをつづけようという安倍政権のかわりがないという無様で、それは野党の無様でもある。

国民はあたらしいか、ふるいかにかかわらず、もうかる仕組みがほしいのだが、それは、単純に、政府=役人がもっている数々の権限・規制を撤廃してほしいにつきるのである。

消費税率をあげるか現状の維持なのか?がいろいろいわれているが、このさいMMTでいけば、消費税をゼロにしたっていいのである。
同時に、政治家は、社会保障費の構造にたいして、従来の制度が適用されるひとたちと、そうでないひとたちとにわけて、そうでないひとたちには民間の保険やじぶんで積み立てることを利用するように仕向ければよい。

デジタル決済を利用するなら、消費税の減税分を自動的に積み立てるような金融商品ができたっていい。
こうしたサービスの導入しか、わが国でキャッシュレス決済が普及しないのではないか?

ぜんぶを国家が面倒をみるというイリュージョンを、はやく「できない」と表明することが、この国を救うのだ。

けれども、それができない。
国民を「国家依存」させることこそが、国家権力のエネルギー源だったからだ。

すると、国民側は、いつ何時でも、国家をたよらないで生きていけるように自己防衛していないと、平気で「棄民」されてしまうリスクがあることに気づかなければならない。

妙な損得勘定しかしないやからが、イギリスのブレグジットを「大損だ」というが、誰にとっての大損なのかという主語が抜けている。

すくなくても、英国人が損をする、といいたいのだろうが、それなら「ブレグジット党」の支持が既存政党をはるかに抜き去っている現象をどうやって説明するのか?

この政党は、「合意なき離脱」をうったえて、それが国民にひろく支持されているのだ。
保守党の「玉虫色の離脱案」や労働党の「離脱反対」が、まったくの支持をうしなってしまった。

来週22日のEU議会選挙にイギリスは参加を表明せざるをえなくなったが、7月に下院が議決をめざすというから、「リーマン級」のショックがおきる可能性がある。
それは、「合意なき離脱」を意味する。

こうして、わが国の秋の消費増税が見送られるとしたら、根性ある英国人のおかげである。

とうとう、課税問題までも「他人まかせ」になってしまう国になった。

20Wで一本5000円の蛍光灯

年末の大掃除からずいぶんと季節はずれの話題だが、リビングの蛍光灯を1年で交換する家はおおいだろう。
電気屋さんにはふるい管の回収箱があるから、棄てるのと購入が同時にできて便利だ。

たいてい「白昼色」だろうが、「電球色」をえらんでいるひともいるだろう。
じつは、こだわると、蛍光灯はけっしてあなどれないほど種類が豊富なのである。

さいきんはLED照明がノーマルになってきて、ちょっと肩身の狭い蛍光灯である。
日本政府は例によっての上から目線で、白熱電球の生産をやめさせた。
こんなことは、作り手のメーカーがじぶんで決めればよいことだから、お節介ではなくて、たんなる余計なお世話である。
どうしても、民間に「命令したがる」習性がかわらない。

白熱電灯を伝統の吹きガラスでつくっていた会社は、倒産の危機をのりこえて、いまでは「うすはりガラス」としてグラス類で有名になったけど、このグラスの愛用者なら吹きガラスの白熱電灯をほしいとおもうが、なにせ「つくってはいけない」と役人がきめた。
まったく自由がない、変な国にわれわれは住んでいる。

あるとき、むかしからつかっていた電気スタンドの電球がきれてしまった。
白熱電球なら百均にあるけれど、たしかに「熱」を発して熱いから、なにげなくLEDに交換してみた。

すると、本の余白が「まぶしい」のである。
しばらくすると、目が痛くなる。
どういうわけかと調べたら、「波長」の問題がみえてきた。

「白」にみえるLEDの光源は、あんがい「青色LED」がつかわれていて、それを黄色蛍光体にあてて白くしているものがある。
つまり、眼精疲労で話題の「ブルーライト」が光源だということなのだ。
どうりで、目に突き刺さるような光である。

さいきんの自動車のヘッドライトも、LEDが採用されているので、夜間の運転にはそれ用のサングラスを着用している。
JIS規格に、夜間の運転に適合したサングラスがあるから、それなら違反にならない。

それでもこのところ運転免許の更新講習で、ハイビームの活用が指導され、ひとの話を早合点したり、応用がきかなくなったひとたちが、都市部でもハイビームのままにして対向車の運転手を幻惑させている。
夜間運転用サングラスをしていても目がくらむから、警察はこの指導をやめてほしい。

それにくわえ、LED照明はほとんど熱を発しないから、冬場の降雪がヘッドライトに付着しても熱で溶けない。
そのまま付着すれば、とうとうライトの役にたたなくなるから、寒冷地では敬遠されているという。

「適材適所」は、こんなところでもただしいのだ。

人間の目には、「虹彩(こうさい)」があって、人種によって目の色がちがう原因だし、その模様のかたちが一生変化しないから、セキュリティ・ドアなどにも応用されている。

この機能は、目にはいってくる光の量を調節することだ。
白人の目が黒くないのは、虹彩がそうなっているからで、かれらは強い光に弱い。

暗くて長い冬がある緯度の高い地域で何世代も暮らしていたり、土地は平坦なのにおそろしく深い森のなかにいれば、うっそうと茂った緑で薄暗い環境にずっといることになるからだろう。

だから、照明にどんな灯りをえらぶのかは、われわれ日本人にはかんがえられないくらい敏感かつ慎重なのだ。
このあたりまで気配りできている宿泊施設は、白人客からかなりの好印象をえるはずだ。

一個の裸電球の下で、一家が夕食をとる光景は、電気から灯りができるという世界史的状況下では、あんがい全世界共通だった。

電気のまえは「ガス」で、横浜の馬車道には、わが国最初のガス灯、として記念碑と復刻したガス灯二本に灯がともっている。
周辺のあかりがあるから、夜になってこのガス灯をみても、いまでは感動の一かけもないだろうが、当時は「昼のようだ」として、見物客があふれ露店がたったという。

若いころ電気工事をしていた父のはなしでは、東北のいなかにはじめて電気がとおって、各家に配線工事をしていたら、ある家の当主から、娘をやるから村で一番最初に電灯をともしてほしいといわれたことがあったといっていた。

35年以上まえになるが、エジプト最大のオアシス「シワ」を冒険したことがある。
カイロから自動車で二日がかりの場所で、クレオパトラがはいったという温泉跡があったけど、ちょうど、この地に電気がきた時期だった。

住人たちは、夜になると煌々と灯りをつけて、まぶしいほどの明るさをたのしんでいた。
毎夜22時に当局が街の電源をおとしたので、暗闇になれてくるにしたがって見えた天の川がわすれられない。

一個の白熱電灯のあかるさが、いかほどのものだったかを感じていたひとたちは、しあわせであったろう。

蛍光灯が発明されると、日本人は消費電力のわりにあかるい蛍光灯をこのんで、どの家も蛍光灯が白熱電灯にとってかわった。
しかし、蛍光灯のあかりを「まぶしい」と感じる目をもった白人は、これを嫌って室内に設置しなかった。

夏になると、太陽をもとめてやってくる北欧のひとたちは、とにかく「太陽光」がだいすきなのだ。
どうやら白人のDNAに、太陽光への欲求がうめこまれているようだ。
それで、太陽光とおなじ波長の蛍光灯をつくりだす。

これが、20Wで一本5,000円の蛍光灯だ。

読書用電気スタンドでもつかえる、同種のグルグル巻きの蛍光管を買ってつけてみたら、すこぶるよい。
まぶしくないから、本が読みやすいのである。
それで、わが家はリビングの器具にこれをつけた。

命令したがる「習性」の経産省が、白熱電球の製造をやめさせて、つぎは一本数百円の蛍光灯をターゲットにしたようだ。
未来の世の中は「LED」を大量生産させれば、付加価値もつくだろうという、あいかわらずの産業優先である。

この発想が、集積回路やパネルで大失敗したことをまだわからないらしいから、おつむのいかれ具合は深刻である。

個人優先で、とっても「高い」蛍光灯をアメリカの会社が東ヨーロッパの国でつくらせていた。
これを輸入して買うから、うそみたいに高価になるが、欲しいものはほしいのだ。

日本メーカーにも、「博物館・美術館用」とか、「色評価用」、「高演色」という種類の蛍光灯があって、ふつうのものより高価である。
目に悪くてものすごく高価なLEDなどつかうのをやめて、こうした理にかなったそこそこの値段の「蛍光灯」を情報強者層はえらんで自宅でつかっている。

つくるときの材料や工程を無視して、LEDの「省エネ」をおしつける経産省の法学部出は、どうしても科学となじめないようだ。
ハイブリッド自動車も、燃費はよいがその前にあるリチウム電池の製造と廃車後の回収を考慮して「エコ」だと定義しているとはおもえない。

「上質な」蛍光灯も輸入品をつかわないといけないのか?
それとも、国産のメーカー在庫があるうちに買いだめしておくか?

どうやら製品をつくることはできても、マーケティングができない無様が日本のようだ。
企業がマーケティングに疎いのではなく、役所がそもそもマーケティングをしらないからだ。

個人優先の思想体系がマーケティングだからである。

このようにしてソ連は滅んだ、を地でやっている。

終身雇用が崩壊するほんとうの意味

昨日の13日、日本自動車工業会の豊田章男会長が、「雇用を続ける企業などへのインセンティブがもう少し出てこないと、なかなか終身雇用を守っていくのは難しい局面に入ってきた」、「今の日本(の労働環境)を見ていると雇用をずっと続けている企業へのインセンティブがあまりない」という発言があったと日本経済新聞で報道された。

そして、「労働流動性の面ではまだまだ不利だが、派遣や中途入社など以前よりは会社を選ぶ選択の幅が広がった。多様化は進んでいるのですべての人がやりがいのある仕事に就けるチャンスは広がっている」とも発言したと同記事にはある。

例によって、前後のはなしが途切れているから、「文脈」がわからない。

あたかも、「インセンティブがない」ことにとらわれると、誰かからおカネが欲しいとかをいっているようにもとれるが、そんな「乞食」のようなことを、わが国をささえる自動車業界のトップがいうのだろうか?

むしろ、(地に落ちて存在意義をうしなった)「経団連の中西宏明会長も「企業からみると(従業員を)一生雇い続ける保証書を持っているわけではない」と語る」ということと、上記の発言をつなげることにこそ違和感がある。

豊田章男氏はいわずとしれたトヨタ自動車という世界トップの自動車会社の社長であって、そのトヨタ自動車にはいわずとしれた「トヨタ生産方式」がある。

業界の代表としての語り口と、トヨタ自動車という自社の社長としての語り口が異なるのはある意味当然だ。
それに対して、経団連の中西宏明会長は、何のことだかわからないことをいっているから、目も当てられない。

「(従業員を)一生雇い続ける保証書」などという世迷い言をはいて、上から目線に徹していることが、どうしようもないトンチンカンぶりである。

平均寿命が60歳にもなっていないときにできた「国民年金」が、じつは「定年制」をささえることの根拠になるが、定年自体は、日本独自の「雇用慣行」であって、法的規制はなかった。

「日本独自」とは、「ガラパゴス化」という意味だし、定年制をささえる土台の「年金制度」がゆらげば、そのうえの定年制は大揺れする。

それが、まず、「努力目標」として法に明記されたのが、1986年(昭和61年)の「高齢者雇用安定法」なのだ。
つまり、「たった」33年前のことで、その後2000年(平成12年)になって「65歳までの雇用確保措置を『努力義務化』」し、それが、「希望する労働者全員を65歳まで継続雇用することが『義務化』」したのは、なんと2013年(平成25年)、たかが5年前のことである。

しかも、最近の平均寿命は短い男性で81歳だから、ぜんぜん「一生雇い続ける意味の『終身』」なんてことはない。
とうとう経団連会長は、日本語ができないレベルでもつとまるようになったらしい。

「定年制」というのは、「年齢」という条件「だけ」で、雇用契約を終了するということだから、アメリカ人やイギリス人にはなじまない制度になっている。
彼らのかんがえる「労働市場」では、本人がもっている職業能力とそれを購入したい企業とのあいだで、価格が一致すれば、雇用契約は成立するからである。

しかし、一方で、アメリカなどでは「終身雇用制」を採用している優良企業がたくさんあるが、これは、日本の強みを研究した成果であった。
「定年」なき「終身雇用制」とは、雇用契約に支障がないかぎり、いつまでも働けるという意味だ。

だから、これまでとおなじ仕事内容をこれまでとおなじ能力で業務をおこなうなら、たとえ「雇用延長」されても「同一賃金」なのは当然なのだが、これを「年齢」という条件だけで「半減」できるのは、「労働市場」の原則からおおきくはずれている。

こうしたことができるのは、わが国独自の「生活給」という概念があるからである。
敗戦後の混乱期以来、独身の若者は安く、家庭をもって、子どもができて、家を買ってという、いまでいう「ライフサイクル」に適合した勤務年数がふえると賃金もふえるように、賃金体系をつくりかえたのだ。

高度成長期に、このつくりかえは完成して、安定的な雇用とセットになった。
その恩恵をうけた世代が、団塊の世代である。
だから、一億総中流社会が実現できたのである。

重要なのは、この賃金体系のポイントは、直線グラフを一本書いて、それに次のような曲線を描けばみえてくる。
つまり、弱年時は「安い」から直線の下に、それがだんだん高くなって直線の上にはみだして、高齢時にはまた「安く」なる。

結局、直線グラフとおなじ面積(生涯年収)になるように積分で「設計」されていた。
ところが、高度成長という条件がくわわって、高齢時に当初計画どおり「安く」ならなかったのだ。

それでも企業内官僚は、設計どおり、だといえたのは、経済成長にあわせた生涯年収グラフを描いていて、団塊世代が50代になっても、そのときのグラフ上では「安く」なっていたのだ。

そんなわけで、日本語があやしい経団連会長は、「生活給」が維持できないといいたかったにちがいない。
このひとは、「終身雇用制」と「生活給」のちがいがわからないのだ。

それは、世界経済の標準化で、日本独自の制度維持が困難になっているからだといえば、そのとおりである。
しかし、もっとも重要なのは、わが国に存在しない「労働市場」である。

これを、豊田章男氏が指摘したのだとかんがえる。
「トヨタ生産方式」で鍛えられたトヨタグループ社員の価値は高いから、いくらでも需要がある。
それで自社のことに言及せず、自動車工業会会長として、他社の人材教育に「喝」をいれたのだと。

売れる人材をつくる、これを放置して使い捨てしようとする経営者への「喝」と、じぶんを高く売るための努力をおこたる労働者への「喝」だろう。

もらって困るビール券

むかしは町内に一軒以上の酒屋があったが、個人営業の酒屋をほとんどみなくなったから、もらった「ビール券」がどこでつかえるのかをかんがえだすと、けっこう面倒くさいことになっている。

安売りのチェーン店が出てくる前は、チケットショップで購入したビール券をつかえば、なにがしかの「お得」があったのだが、この方法はビール券がつかえない安売り店では効力をうしなった。

いまでは、大型スーパーでもビール券をつかえる系統とそうでない系統があって、コンビニでも同様な系統があるから、ちょっとやそっとでおぼえられない。

しかたがないから、つかうまえに「このお店ではビール券はつかえますか?」と確認してから商品選びをするのだが、「つかえますよ」といった店で、ビールに「しか」つかえない、といわれることもある。

発泡酒やスピリッツ類も対象外だとレジでいわれれば、「???」がつきまくって、ぜんぶの購入をやめたくなるし、こんな店で二度と買い物をするものかと八つ当たりもしたくなる。

はたして、ビール券とはなにものなのか?
全国酒販協同組合連合会が発行する商品券である。
それで、この連合会のHPでは、「券面表記の商品とお引き換えいただける商品券です」と説明されている。

なるほど、券面表記されているのは「ビール」なのだから、ビールに「しか」つかえません、ということはただしいのだろう。

けれども、おなじHPに、小売店向けの案内もあって、「全国の酒類を扱う小売店様でのご利用を特約しておりますので、お客様が交換に来られましたら当該商品との交換をお願いいたします」とある。

つまり、「ビール」と表記せずに「当該商品」という曖昧な表現になっている。
さらに、小売店での利用を特約している、ということだから、そのお店の商品とも交換できそうな雰囲気がある。

発行者の免許として、登録番号 関東財務局長 第00090号/社団法人 日本資金決済業協会、と明記されている。
まずは、岡っ引きである一般社団法人のHPをみると、「前払式支払手段」についての説明がある。

これによると、「ビール券」は、資金決済法の「第三者型前払式支払手段」に該当し、発行者である「全国酒販協同組合連合会」は、第三者型前払式支払手段発行者として、管轄する財務局長あて登録申請をして、発行者としての登録をしなければならない。
それが、上述の登録番号の意味である。

ちなみに、ホテルや旅館、あるいはレストランなどが、じぶんの店舗や資本関係のある店に「かぎって」つかえる前払式支払手段(宿泊券や食事券)を発行するばあいで、基準日という、毎年3月末と9月末に発行残高が1,000万円を超えると「自家型発行者」として法の適用をうけることになる。

これの適用対象になると、基準日における発行残高の半分以上の額を、供託金として最寄りの法務局に供託しなければならない。
供託方法はいろいろあるが、手数料をなるべく安くするなら、日銀本店(各道府県にある支店でもよい)に行って、直接国債を購入して、その国債を法務局に持ちこむ方法がある。

これなら、基本的に交通費だけですむが、係の従業員がそのまま逃走するリスクはかんがえておいた方がいい。
日銀には、現金をもっていかないといけないし、購入した国債だって、かんたんに現金化できるからだ。

政府は「電子決済」を推進するといって、例によって民間に負担を強要しているが、日銀と財務局というおおもとでは「現金主義」を貫いているのだから、なにをかいわんと笑えるはなしである。

だから、経営が弱小なのに宿泊券や食事券を、安易に発行すると、供託金という経営にとって重要なキャッシュの一部を国に有無を言わせず預けなければならないから、慎重な検討がひつようだ。
ホテルやレストラン企業の決算書で、資産の部に「国債等」とあれば、この供託金のことだとおもえばよいし、二倍にすれば発行残高がわかる。

もっとも、こうした制度をつくっているのは、発行者が倒産したときの購入者や、もっているひとが困らないようにするための「保険」になっていることだ。
ならば、ほんとうの保険でいいではないかとおもうが、政府は保険業界も信用していないという「無間地獄」にはまりこんでいるのが日本である。

さて、それで、ビール券はどこでどうやってつかうのか?
消費者としては、ビール以外の酒類も、おつまみも、その他その店舗で売っている商品にも適用してくれたらうれしいものだ。

これが鷹揚にできていたのは、お店のレジがたんなるレジスター(金銭登録機)だったからで、酒屋のおじさんやおばさんが、ある意味厳密な売上・在庫管理をしていたのではなく、組合に持ちこめば現金になるということだけだったからだろう。

ふるきよき時代の適当さが、あんがいサービス面でのまとを得ていて、家にちいさい冷蔵庫しかなくても、人寄せでこまらなかったのは、電話一本で配達してくれる近所の酒屋が冷蔵庫代わりだったからだ。

これがややこしくなったのは、レジスターがPOSレジに進化して、さらにそのシステムのなかでの決済機能と金種管理機能が、ビール券との相性の一致・不一致という設計のバラツキを生んで、結果としてサービス内容を決定するようになったのだともかんがえられる。

すると、レジ係のひとに八つ当たりしてもしかたなく、そんな機能しかないPOSレジの機種を選んだ経営者が、ぜんぜん客サービスに徹していないということになるから、やっぱりそんな店で買い物なんかするものかと、こんどは確信にかわるのである。

平成17年9月から、ビール券には有効期限がついている。
期限内につかわないと「紙切れ」になるから、なるべくはやくつかわないといけないし、どの店でつかえるのかまで「Google先生」にきかないとわからない。

やれやれである。