「技術の日産」と「技術の東芝」

どちらも経営が傾いてしまったが,どちらもそのむかしに経営が傾いたことがある.

日産は,プリンス自動車とダットサンが合併してできた会社で,トヨタとのライバル関係でしられているが,一方がなんとなく「阪神球団」,もう一方が「巨人軍」にみえてしまうのは,わたしだけだろうか?
その天下のトヨタ自動車の経営が傾いたときのはなしに,本所次郎の『小説日銀管理』がある.

この「小説」のラストがただしければ,日産には陰影的なDNAが最初から埋めこまれていたのかもしれない.
しかし,さいきん日産OBからきいて驚いたのが,このブログで紹介した,トヨタが世界的権威にまでなっている「TWI研修」を,日産が導入したのがこの15年だということだ.

つまり,今世紀に入ってからであって,いま話題のゴーン氏が社長に就任したのが1999年だから,ゴーン体制下における「研修開始」になることは注目にあたいする.
いったい,それまでどうやって現場責任者を育成してきたのだろうか?
しかしそれよりも,日産が事実上の倒産状態でルノーと提携したのだから,推して知るべしだ.

すると,一番若くてこの研修を受けたのは,大学を卒業してすぐのひとで30代後半,高校卒業のひとなら30代半ばになるから,ほんとうはもうちょっと年配者であるのが実態だろう.
そうなると,企業として現在の幹部が,現場管理者時代に現役として「TWI研修」を受けていないことになる.

それは、これも以前書いたが,ガルブレイスの『新しい産業国家』(1968年)にある,企業内「テクノストラクチャー」と名づけている,社員たちによる経営の簒奪メカニズムがうかぶ.

 

上記,文庫版は斎藤誠一郎教授による新訳だ.
河出書房の邦語訳初版は,ガルブレイスとハーバードで同級生だった都留重人訳である.
社会主義に傾倒していたこのふたりは,主流派からズレていたから仲がよかった.
バリバリ資本主義のアメリカで,ガルブレイスは「異端」だったが,都留は日本経済学界の大御所になった.その理由も,推して知るべし,である.

なんとなく,日産の「連続不正事件」の根っこがわかるではないか?

かつて経営が傾いたときの東芝には,土光敏夫という救世主が出現した.
もともと土光は大正9年に石川島造船所に就職したひとだ.それで,戦後,昭和29年には「造船疑獄」で逮捕・拘留されたが,けっきょくは不起訴になった.

逮捕されようが起訴されようが,「無罪」が確定するまでは「容疑者」であって,それには「推定無罪」という法理がある.
ゴーン氏の一件で,これを公に発言したのは,堀江貴文氏のツイッターしかみていない.
本件に関しては,かれのいうとおりだとおもう.

土光社長時代,東芝幹部は「怒号さん」というほどに怒鳴られたというが,こぞって「信奉者」になった.
第二次臨調会長になったとき,NHKが放送した「めざしの土光さん」が,あまりにも衝撃的だった.

ひとびとは財界トップのあまりも質素な暮らしぶりに,驚愕したが,一方で「じぶんにはできない」と,他人事でもあった.
国家財政の均衡をなんとか達成しようと老骨に鞭打つ奮闘をしたが,国民は政府の肥大化を許容した.それは,「年金よこせ」の声でもある「国家依存」の姿だ.

臨調で最後の御奉公をしたとき,土光敏夫氏は東芝「会長」になっていて,現役の経営から引いていた.いや,「臨調」の多忙がそうさせたというべきか.
残念だが,さいきんの「東芝事件」に関係したとされる歴代トップたちは,土光氏引退後の入社組なのだ.
かくも,企業DNAとは脆弱なものなのだ.

かつて東芝が倒産寸前になったのは,世界最高峰の真空管「技術」にこだわって,トランジスター時代に遅れたことが指摘されている.
はじめてカラーテレビをつくったとき,カラー放送でのCMを社内プレゼンしたら,土光氏は例の怒号で,白黒テレビで観たひとがカラーテレビをほしくなるCMにしろ,といったという.
当時は,新聞のテレビ欄でも,カラー放送は特別に「カラー」とか総天然色を略して「総色」などと表記していた.

顧客はなにを買っているのか?
組織が自己満足にはしると,自分たちの「自慢」をしたがる.
しかし,顧客はそんな「自慢」を買っているのではない.
その後のトヨタや,土光氏のエピソードはそれをおしえてくれる.

しかし,テクノストラクチャーたちはがまんできなくなるのだろう.
つい,うっかり,じぶんたちの宣伝をすれば,顧客は納得すると勘違いする.
それがこのばあい「技術」である.
それは,上から目線で顧客を見下す,という意味でもある.

かつてのソニーは,「It’s a SONY」とはいったが,技術のソニー,とはいわなかった.
「マネした電器」と揶揄されようが,松下電器は「あかるいナショナル」で一貫していた.
東芝も「ひかる東芝」だったのだ.

90年代,経営が苦しいときに「技術の日産」といっていた.それで,ルノー傘下になったらこれを変えたが,さいきん復活した.
それをどうしたことかとブログに書いたのは,昨年の10月30日,このブログの最初の記事だった.

顧客目線を失うと,企業は傾く,という法則がある.

「安全」はリスクである

学問的成果の有無という観点でいえば,「地震予知」における成果はほとんどない.
けれども,わが国は世界有数の地震国である,という不思議な「自負」もあって,「地震」にかんする研究には多額の予算が投じられている.

なかでも,「予知」に関しては,ずば抜けた「投資」をしている.
文部科学省のHPに,いちおうの資料がある.
自分たちで管轄していることに変わりはなく,つねに御殿女中のような細やかさでイビりを趣味嗜好とする役所が,国立大学が独立行政法人になったからといって,資料がない,と主張する神経に自ら異常をかんじない異常に,かえって「感心」すらしてしまう.
この資料は,何のために誰のために,という目的すらマヒしたことを国民にしめしたいのだろう.

そんな日本政府における権力構造を支えるのは,なんといってもカネ=予算だから,旧大蔵省=現財務省の主計局が最強といわれている.
しかし,予算を使うにあたっての最強の役所は,あんがい目立たない「内閣府」である.
「縦割り行政」を横につなぐのがここだからだ.

小松左京の傑作『日本沈没』では,「スーパー官僚」の主人公が所属するのは総理府だったが,『シン・ゴジラ』では,内閣府に看板をかえている.
ただし,この役所も,各省庁出身者からの寄せ集め的性格も内包している.
就職して最初に配属になった省庁が,各個の「本籍」になる.これは,一生かわらない.
それで,本籍とは別の役所に勤務することを「出向」とよんでいる.
だから,内閣府に本籍がある役人は,すごい,のだ.

 

そんなすごい役所が取り仕切るなかに,「中央防災会議」がある.
ここが,昨日「南海トラフ地震」における住民・企業・自治体がとる「べき」対応を発表した.
情報の中身は,それぞれが確認されたい.

この報道のなかで,中部地方の地図がしめされて,海ではなく内陸部の境界線に注目すると,それが「中央構造線」であることに気づくだろう.
本州を東西に分断するのが静岡・糸魚川線上の「フォッサマグナ」がしられているが,サカナの背骨のように,本州から四国・九州の地面を分断しているのが中央構造線である.

山梨県から愛知県にいたるラインは,ほぼ「中央高速道路」がこの線の真上に建設されている.
だから,理論どおりなら,「中央高速道路」はかなりあぶない.
なぜそんなところに道路をつくったのかの理由はかんたんで,「谷」をなしているからだ.
あとは,山ばかり.
人間が移動につかうための路は,太古から地形に支配されている.

さて,中央防災会議の議論も,地震予知の研究に多額の予算がつくのも,地震がおきたときの被害が大きいからである.
この発生するだろう被害を想定することは,リスク評価,といいかえることができる.
それで,地震は避けられないリスクであるから,予知できたら発生前に逃げることでリスクを減らそうという発想がある.

だから,予知できないとなんにもならない.

これが,地震予知にかんする批判の根っこで,困ったことに,その予知ができたためしがない.
東日本大震災の余震では,数秒前に携帯が警報ブザー音をだしたが,それでどうしろというのか?
家庭犬がこの音に反応して,恐怖するようにはなった.
犬の記憶力はせいぜい5分ばかりだから,音がして数秒後にくる揺れ,ということが学習できた.
だから,しつけにこまっている飼い主は,このことを応用すれば,犬のしつけができる.

こうして,できない予知に予算を投じるのはおかしい,という議論になるのは,費用対効果,ということになる.
ここでいう「効果」とは,「効用」ということだが,ひらたくいえば「メリット」すなわち「得」である.

つまり,費用という「損」と,メリットという「得」を天秤にかけることとおなじだ.
いつくるかわからない地震というリスクで,得になる,とはどういうことか?
第一には,生存,であろう.
すると,生存のためには,どんな準備が必要なのか?になるから,そのための準備が費用(コスト)になる.

裏返せば,費用をかけないことは準備をしないことだから,生存しなくてもいい,という意味にもなる.
これが,個人の生活なら,各人の判断があるけれど,近所に迷惑がかかる.

商売人なら,近所迷惑だけではすまない,賠償問題までかんがえられる.
だから,最低でもお客様の安全,従業員の安全は,コストをかけなければならないのだが,これは,「得」のためである.
すると,リスクには,得がひそんでいることがわかる.

宿泊業のリスクは,地震で建物が崩壊することからはじまって,火災,食中毒,温泉ガス,などなど,たくさんあるのだが,これらの対応準備にひつようなコストをかけることが,得になるのだ.
つまり,利益をかんがえたとき,利益率とはリスクを飲み込んだうえでの数字という意味になる.

だから,利益計画とは,リスクの評価を必須にするのだ.

産業革新投資機構という虚構

「日本は法治国家ではない」という発言を,ニュースとして初めて聞いた.

どういうわけか,政府に気をつかっているのかしらないが,「報酬」をめぐる経産省との争いが前面にでて報じられているのは,自動車会社の外国人役員による「100億円になる巨額報酬問題」とが,かさなったからなのだろうか?

しかし,役所の中で「高い」といわれたのは,投資が成功したばあいで最高1億円という額だというから,その「少なさ」に逆におどろいてしまう.
この機構の運用資金は2兆円なのだから,2万分の1の報酬でしかない.
たった0.1%の運用益でも,20億円になるから,1億円ではたったの5%だ.

いったいいくらの運用益を目標としていたのだろうか?

このしみったれた役人根性が,「旧産業革新機構」をみごとに失敗させたのではなかったか?
それで,経営陣を民間から募って「再出発」したはずの機構だ.
ただし,役人はけっして責任をとらないから,「旧産業革新機構」の負の遺産である,ジャパンディスプレイとか,ルネサスエレクトロニクスを,そのまま抱えさせられている.

マックス・ウェーバーは,『職業としての政治』に,「倫理的に最高の官僚は倫理的に最低の政治家になる」と書いた.

けっきょくのところ,「一流大学」といえども,卒業してそのまま役所勤務なった「キャリア官僚」は,もれなく民間企業で働いた経験がない.
つまり,じぶんでお金を稼ぐビジネスをやったことがない.

このひとたちは,官尊民卑の役所文化にどっぷりつかって,命令すれば現実になると錯覚しているかなりあぶないひとたちだ.
ついでに,なんのため,誰のため,という基本もわすれて,自分たちの組織のために走るから,まったく始末が悪いのが役人と役所という組織である.

ほんらい,こうしたひとしかいないのが役所だから,政治家はそれを修正させる役割をになう.
不思議なことに,いまの経産大臣は,政治学士でもあるから,上記ウェーバーの著作は学生時代に読破しているはずだが,輪をかけたトンチンカンぶりを発揮している.
「政府として決定したわけでもない『報酬額』を紙に書いて本人にわたしてしまった事務のミスだ」.

株式会社として,役員報酬の決定が正式になされた後の騒動だが,それをあろうことか大臣がこの程度の認識なら,それはそれは役人から重宝がられるだろう.

むしろ,世耕氏の本業はボストン大学の「企業広報論」修士という学位にみることができるのであって,あの小泉郵政選挙での歴史的大勝を自民党広報でとりしきった実績こそが,いまの「大臣」につながるのだろう.

彼が「セオリーどおり」といいきった「選挙必勝の理論」は,このブログですでに紹介済みの摘菜収『日本をダメにしたB層の研究』(講談社+α文庫)に解説がある.

つまるところ,プロパガンダの専門家が経済産業大臣をやっているのだ.
だから,なかみなんか関係ない.
それで,この機構がどんな分野に投資しようが,ほんとうはどうでもいいのだろう.
だから,辞表をだした経営幹部が交渉相手として,信頼をなくしたと評価した経産省官房長に,そのまま今後も機構対策の指揮をとらせると,平気の平左で命じている.

なんだこりゃ?

集団辞職におよんだ面々は,子どもではない.
大臣自ら,彼らを子どもあつかいしている姿しかでてこない.

そもそも,なんでこんな「機構」が存在しているのか?
民間金融機関がリスクマネー投資をしないからである,とマスコミは説明するが,では,なぜに民間金融機関がリスクマネー投資をしないのか?は,だれもいわない.

辞任する田中社長は,三菱UFJファイナンシャル・グループの副社長経験者だ.
そのひとが,たった二ヶ月半前の就任時には,きっちり抱負をかたっている.
トップ・バンカーとして,「やってみたい」という気持に嘘はないと信じるのは,民間金融機関がリスクマネー投資をしてはいけないと,金融庁が命じるからだ.

すなわち,わが国官僚機構の「マッチポンプ」,「ダブルスタンダード」があらわになって「虚構」だけがみえてきたのだ.
一方で民間金融機関にやるなと命じ,一方で政府系の機構がやる,という.
政府なら損をしていいからなのか?いや,政府だからこそ損をだせない,という議論など最初からなく,あるのは,「政府・官僚は間違えない」という妄想だけだと証明された.

それで静岡県の銀行は,不動産投資に走って,いまでは,不動産投資向けの融資をしてはいけないと,これまた金融庁が全国の金融機関に命令している.

ところが,数字のケタの感覚がズレてただ妄想に耽る役人と,ビジネスモード全開の民間人では,そもそも価値観がちがう.

米国仕込みのビジネスマンは,リスクはコントロールするものという価値感がある.
しかし,ガチガチの日本型組織に住む官僚には,リスクは避けるもの,でしかない.
それが,たった1億円の報酬に対する「報道リスク」で,官僚は腰が砕けたのだ.

なんども官が投資ファンドをつくってうまくいかない原理がこれだ.
マスコミは「ガバナンスの問題」というけれど,それ以前の価値感のちがいこそが決定的なのだ.
どうやっても混ざらない,まさに水と油である.

経産省も,金融庁も,これに財務省を加えれば,「経済官僚」3トップである.
もうわかったろう.
「経済官僚」こそ,わが国で最低の経済音痴なのだ.
それを政治家が正当化する「愚」.

あたらしいビジネスを民間から生もうとしないで,国家がつくって民へ払い下げればよい,というのは,明治の泰明期の発想だ.
こんなことも,わからない連中が,2兆円の資金をもてあそんでいる.

なさけないったらありゃしない!

この「投資機構」のつぎのひとの大仕事は,ゾンビのままのジャパンディスプレイとか,ルネサスエレクトロニクスとかを,あとかたもなくきれいに倒産させることである.
このための「投資」こそが看板に偽りがない,わが国「産業革新」の第一歩になるだろう.

そうして,つぎは,みずからの機構そのものの店じまいである.
じつはこれが,いちばん難しいのだ.

話題になった?トランス脂肪酸

ことしの6月から,アメリカで加工食品へのトランス脂肪酸が禁止になった.
それを見越して,日本でも話題になると予想して書いたが,はたして話題になったのか?

まったくなかったわけではないが,よくあるマスコミによる「騒ぎ」にはなっていない.
けれども,この問題は,日本における「国民の健康」にまつわる行政のいかがわしさを確認するのにもってこいの事例になっている.
もちろん,スポンサーであるメーカーに気遣った,報道しない自由という問題を指摘しないわけにはいかない.

そもそも,関連する役所が複数あることから確認しよう.
「食品」であるから,まずは「農林水産省」が所轄になるのはわかりやすい.それで,さいきんになって農林水産大省も,自らのHPによる「情報提供」に余念がない.

しかし,国民の「健康」となると,「厚生労働省」の所管になるから,農水省の情報も「客観的」につとめているのだろう.
では,厚生労働省はどんな情報をだしているのか?というと,迫力にかけるのである.

ところで,食品にふくまれる栄養成分については,「文部科学省」の『食品栄養成分表』になる.
それで,以上の三省が合同で『食生活指針』(平成28年)がつくられている.

さて,そこで,アメリカは禁止という規制をかけたから,日本の規制当局はというと,それは「消費者庁」になる.
せめて表示義務だけでも,と消費者としてはおもうのだが,平成22年につくった『栄養成分及びトランス脂肪酸の表示規制をめぐる国際的な動向』が,精一杯で,いまだ「表示義務」にすらいたっていない.

一貫しているのは,日本人のトランス脂肪酸の平均的摂取量は,WHOがさだめる量の半分程度だから「心配ない」という議論である.

しかし,わたしたちがここで注目すべきは,「平均」という概念である.
学校のなにかのテストで,クラス全員がおなじ50点をとったときと,一人ずつがべつべつの点数で,1点から100点が並んだとき,どちらも平均は50点になる.
グラフにすると,全員が50点なら,一本の棒がたったようになり,もう一方のばあいは,1点ずつの棒が平らに100個たつ.

もちろん,世の中でこんな極端はめったにないから,ふつうはこんもりとした山の形になる.
すると,少ない側と多い側になだらかなすそ野がひろがるのがイメージできるだろう.

マーケティングの常識に,「平均的な消費者は存在しない」という概念がある.

これは,すそ野の広さと大きさをいうのだ.
「多様化」があたりまになっているいま,個々人の好みはどんどんと,上述の例でいえば平らなグラフのほうに近づいている.
だから,平均値を計算することはできても,平均にあたるひとがあまりいないことになるのだ.

企業の数字をあつかうときも,「平均」だけでは危険である.
ふつうエクセルなどの表計算ソフトには,図表もかんたんにつくれる機能があるから,グラフ表示して「平均」とじっさいの「データの広がり」を視覚的に確認したい.

それで,農水省の情報のなかには,よく読むと良心的な学者の意見もあって,「平均以上に摂取しているひと」が少なからずいるという指摘もある.
役人は,ちゃんと「アリバイ」もつくっているから,タイトルだけで騙されてはいけない.

農水省にいた役人が,担当する課ごと「消費者庁」にうつったから,もはや農水省に規制についての担当者はいない.
だから,農水省に期待はできないが,「消費者庁」が,成分表示の義務かもできていないのは,じつにいぶかしい問題である.

「指針」やら「禁止」やらと,国家の介入にはさまざまな方法があるが,情報提供という規制に悪いことはない.
提供された情報のただしい読み方を教育しなければならないが,おおくは科学知識に由来する.
そういう意味でも,中学や高等学校の科学教育のありかたも,自分の健康や人生に直結するとおもえば,勉強する気にもなるだろう.

そうしたうえで,ジャンクフードを食べつづける人は,まさに自己責任という前提の選択をしたことになるから,納得の結果にもつながる.

賢い国民は,そういう意味での「強制」から免れるものなのだ.

「平均的日本人」はたくさん摂取していないから問題ない,という政府は,「平均」の意味をしらないはずはないから,伝統的な「産業優先」という本音しかみえてこないのだ.

すると,食品や食事を提供して商売にするひとが,ちゃんとした栄養学にもとづいた商品提供に,これまでにない「価値」が付加されるということに気がつくべきだろう.
付加価値が高まれば単価も高めることができる.

政府のおかげで,ビジネスチャンスが隠されている.

日本にうまれてよかったセット

味覚にかんしていうと,ひとはかなりコンサバ(保守的)である.
このコンサバで保守すべき「味」とは,子ども時代に形成されることがしられている.
だから,典型的なおじさんたちによってノスタルジックに語られる「お袋の味」とは,感情だけの問題ではなく本当に舌に記憶されたものなのだ.

世界のひとの味覚をしらべると,10歳の男の子の味覚が,他の年齢のひとや女の子より優れていて,しかも,その本人の人生においてももっとも鋭敏なときだという.
だから,生まれてから10年あまりのあいだに,ちゃんとした食生活をしないと,一生涯,そのひとの味覚は研ぎ澄まされることはない.

それで,かつての有名料理人たちが,こぞって小僧からの下働きを経験していることに意味があるという理由がわかる.
科学的な調味料や食品添加物が問題視されるべきは,まず,子どもにあたえると,こうした味覚の発達をさまたげるということがあげられる.

 

食品添加物のセールスマンをしていたという安部司氏が,アンチ食品添加物になったのは,自宅での夕食時に,じぶんの子どもたちが,添加物たっぷりの食事を「おいしい」といって食べていることに違和感を覚えたからだという.
じっさいに彼の本を読むと,セールスマンだっただけに空恐ろしくなる内容に驚愕する.

「10歳」という年齢に注目すると,カリスマ職人といわれている岡野工業社長の岡野雅行氏のことばに,「中卒でも遅いくらいで,小学校卒がほしい」がある.ましてや,「大卒で職人なんてムリムリ」.
手の触覚が決定的に鈍る,というのが理由であったから,味覚につうじる指摘である.

さいきんは,味噌会社のテレビCMで,インスタント味噌汁が「お袋の味」になっている倒錯が,ジョークではなく,まじめに放映されている.
鰹節削り器で,削り節を担当したのは子どもの仕事で,母親がこれで出汁をとった味噌汁やおひたしにふりかけて食べたものだが,もはや幻だろう.

だからわたしは,日本旅館で鰹節削り器をお客がつかって出汁をとることも,サービスメニューにあっていいとかんがえている.
雄節や雌節にまでこだわるのは,産地ならではだろうが,そもそも本節すらみたことがないかもしれない.

外国人を招待するテレビ番組では,職人一家の夕食で地元の伝統的な料理がふるまわれる場面がある.
これらも,いまではおおくが絶滅危惧の料理ではないか?
しごとがら,わたしは全国版をそろえて購入したが,自分の地方の一冊を手にして,たまには眺めるのもいいだろう.

けっきょくは,地元や家族のイベントがなくなって,ちんまりつくってもおいしくないし,手間もかかるのが郷土料理だから,すっかり世代間での断絶がはじまった.
一世代前ぐらいなら,親戚の人寄せごとにつくったから,母から娘に引き継がれもした.
年一回のおせちすら,もはや外で購入するものになったし,その購入すらしない家もおおいだろう.

うっかりするのは,自分や近しいところのはなしだと思いがちだが,外国人とても事情はおなじで,国籍というよりいまでは死語となった「民族」ごとに,記憶されている「味」がある.
だから,日本にくれば珍しい日本料理によろこぶが,慣れてくると「舌がホームシック」になる.

そんなわけもあって,中国からのお客には,朝食に「お粥」をだせばなんとかなることがわかった.
わたしがホテルに入社して,研修でウェイターをしていたときに,朝食で外国人のお客様がカリカリに焼いたベーコンにメープルシロップをかけたのが,なんともいえない印象だった.あとから,きっとカナダ人だったのだろうとは予想したが,自分でやって納得した.

エジプトのカイロで暮らしていたときには,堅くなったフランスパンとビールでぬか床をつくって,キュウリやニンジンの漬物を自分で漬けていた.
しかし,ホカホカのご飯と味噌汁は貴重で,干物の焼き魚などは望むべくもない.
そういう意味で,あたりまえがあたりまえでなくなったとき,ひとは無性に食べたくなるものだ.

だから,東京にいまでも残る,一膳飯屋風情の定食屋の昼食は,ちょっと遠くても目的地になりえるのだ.
こうした店の定食こそ,日本人にうまれてよかったというもので,定食をセットメニューと呼べば,まさに至福のセットなのである.

そんなお店すら,いまは絶滅危惧が心配される.
存在するうちに,あたりまえをしっかり若者にも記憶させておきたいものだ.

観光には「匂い」がある

風光明媚な場所をさがして歩き回るのが「観光」かというと,そうではない.
風光明媚な場所に行くための,道中の景色も観光になる.
だから,飛行機のようなタイムマシンではなく,しっかり窓外の景色がたのしめる乗り物で移動するときには,けっして読書はしない.

景色・風景のなかにある,さまざまなことをぼんやり眺めながら,ひとの暮らしを想像したりすれば,はっきりしなくてもムダな時間とはおもえないからである.
たとえば,国内でも地方の街道を走れば,点在する民家をみるにつけ,その家のなりわいがわからないことがある.

いったい,この周辺の人びとはなにをもって生活しているのか?
田畑がみあたらないのに,どうやって暮らしをたてているのかが,わからないのである.
サラリーマンなら通勤はどうするのか?それとも職人の家なのか?ならば工房はどこか?
こういう疑問が,宿での情報で解決することは希だから,不思議なのである.

これが,はじめての外国ならなおさらである.
東欧を旅したときに,バスで国境を越えたら屋根瓦のかたちが変化したのに気がついた.
それを,ガイドさんに質問したら,民族性の違いという説明があって,国の違い,ということをあらためて感じたことがある.

ひとが旅をするとき,そこが初めての場所であればあるほど,全身の神経が動員されている.
それを,ふつう「五感」というし,ときには「第六感」まで動員することもある.
あらためて,五感とは,視覚,聴覚,嗅覚,触覚,味覚をいう.

かつて住んでいたエジプトに関していえば,当時のカイロ空港には独特の「臭気」があった.
帰国後,ちょうど10年経って,友人ら9人を引き連れて「里帰りツアー」をしたとき,大改修されてはいたが,カイロ空港の「匂い」は変わっていなかった.
それで,「ああ帰ってきた」と独りおもったものだ.

それは、イスタンブール空港もおなじで,あの街には石炭の匂いがある.
35年もたって,トランジットではあったが空港の外気を吸ったとき,自分はイスタンブールにいると確信できた.
ジェットエンジンや整備のための自動車がはなつ排気ガスのなかに,石油ではない,石炭が燃えた匂いがするのだ.

スリランカのコロンボでは,旧市街になった下町にいくと,かつて英国がつくった街並みがいまも残っている.
ガイドによれば,「ここはスリランカでもっとも不潔な街」といいつつ,「インドならもっともきれいな街」といって笑った.

コロンボの新市街にはゴミ一つ落ちていないが,ここにはぬかるみのような排水不良や,生活ゴミもあって,さらに,香辛料の独特な香りが混じっている.
この匂い,どこかで嗅いだことがある.
それは,カイロの下町の匂いに似ていた.

英国が支配した街並みもそっくりだから,急に,スリランカのコロンボ旧市街が「懐かしく」なった.
しかし,活気ある人びとの姿は,エジプトのそれと似ているはずもない.
混沌のアラブに対して,どこか秩序的な混沌という不思議さがあるのは,人間のちがいだろう.

かつての英国人たちも,街並みはおなじようにつくったが,そこに住む人間のちがいに興味があったはずだ.
まぁ,見下していたのはおなじだろうけど.

すると,日本には匂いがない,という匂いがある.
ただ,先進国には共通のようにおもう.
空港がタラップではなくて蛇腹式になったので,飛行機の乗り降りに直接外気を吸わないから,空港ビルの匂いが最初にとびこんでくる.

それは,プラスチックの匂いだ.
あるいは,化学繊維でできた不燃性カーペットの匂いがする.
だからこそ,日本から先進国への飛行機移動は,タイムマシンのようになった.
出発口と到着口の,距離を感じる前に,おなじ匂いを感じるからだ.

すると,街の観光に,匂いという要素があんがい重要な印象をあたえるはずだ.
街づくりには,景観,という第一義はあるものの,そこにひとが住んでいるなら,匂いのアピールがあってはじめてインスタを超えることができる.

そうかんがえたら,わがまち横浜の大観光地,中華街,からも匂いが消えたことをおもいだした.
ハマッコはかつて「南京町」と呼ぶのがふつうで,「中華街」といったらよそ者の証拠だった.
「南京町」の時代の中華街は,煮炊きを道端でする店もいて,あきらかに別世界の匂いがしていた.

子どものころ,鼻をつまんで歩いたと記憶している.
それは,カイロやコロンボの下町に似た,いかがわしさにもあふれていた.
路地ではトリをしめていたりしたから,ときには目もつぶったものだ.
よくいえば,人間の生活のいとなみが,露骨すぎるまでにあったのだ.

もう二度と,あの光景は見ることがない.
「清潔さ」と交換したのだが,魅力も数段落ちてしまったのはわたしだけだろうか?

滋賀県の暴走か?それとも?

淡水の琵琶湖があるからという理由で,環境を守ろう!として,以下の指針が発表されている.
http://www.pref.shiga.lg.jp/d/kankyo/files/shishin_181119.pdf
(上記は削除されている ⇒ いまはこちら

これは、科学なのか?
行政の暴走か?
それとも,ファシズムなのか?

「やりすぎ」という声も検討会の委員の意見であったというが,県の役人はこれを無視したのだろう.
ちゃんとHPに掲載している.

「やりすぎ」とは「細かすぎる」ということだと理解できる.
しかし,これらの指針とは,「家庭内」のことばかりである.
どうして,行政という「権力」が,家庭内に入り込めるのか?
「環境保護」にことかいた,個人の自由への明確な侵害であるから,憲法十三条に違反する.

わたしの住む神奈川県では,当時「全国初となる」禁煙条例が話題になって,結局,県議会はこれを可決してしまった.
議会での議論で,県民の「自由」ではなく,「健康」を優先したのはナチスとおなじだ.
神奈川県民の自由が奪われた瞬間だった.

発案し推進した時の県知事は,県民の「健康保護」を建前にしていたが,「全国初となる」がほしかっただけで,別にたばこのことなど二の次だったのだろう.
知事の座に固執することなく,再度国会を目指してしまった.

修正はされたものの,禁煙条例の最初の案は「家庭内」も対象だった.
自分の家のなかでも喫煙すれば,罰則の対象になるというのは,ヒトラーのゲシュタポや,スターリンのKGBを彷彿とさせる.
ある日,チャイムがなって玄関に出ると「あなた,喫煙しましたね」といって,官憲から罰則切符を渡されるシーンを想像すればよいだろう.

それで,第二次案では「削除」が議論された.
その議論は,健康ではなくやはり「自由」だったのだ.
しかし,それでも禁煙条例は成立した.
こうしたことが,拡大解釈されると,どんどん自由がうしなわれて,いきつく先が全体主義社会になることは,それこそ人類史がおしえてくれる.

たばこの煙がきらいなひとがいるから,それを気遣うのは「マナー」であるし「エチケット」でもある.
だから,たばこの煙がきらいだからといって,これを「強制的に禁止」する社会は,事例だけが増殖して,いま禁煙の強制に賛成しても,いつかは自分の趣味嗜好が禁止されるものだ.

そのとき,喫煙者からあなたはあのとき禁煙の強制に賛成した,といわれても,それとこれとはちがう,と主張するだろう.
しかし,いったん,自由を奪うことができた社会は,容赦がないのだ.

こうして,そのときどきの多数派が,そのときどきの少数派から自由を奪えば,気がつけば全員のなにがしかの自由がなくなっている.
「理由」は,いくらでもつくれるのだ.

神奈川県の「禁煙」のつぎが,滋賀県の「環境」になっただけだ.
ちなみに,オリンピックといえばなんでもできるから,神奈川県のライバル東京都がまねっこして,より厳しい「禁煙条例」をつくった.そして,都知事は胸を張って自慢する.
こうして,自由の侵害は,水平移動的に増殖あるいは感染して,やがて全国規模になる.

それにしても,滋賀県の指針の内容は微に入り細に入っている.行政権力が自由を奪うリストとしてみることができる.
これを,幼児から高校生までの「こどもエコクラブ」で徹底すれば,ヒトラーユーゲント(ナチス党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織)になって親を密告するようになるだろう.
「こどもクラブ」は,すでに全国組織になっている.

「先生!うちのトイレットペーパーは,シングルではなくダブルです!」
「それはいけませんね,逮捕されちゃいますよ.売ったお店には,不買運動を計画しなさい」

「先生!うちのお父さんは帰りがおそくて,お風呂を追い炊きしてはいっています!」
「なんですって?残業までして,お風呂を追い炊きするなんて,二重の罰則になりますよ!」

戦前・戦中の近隣監視組織であった五人組をわらうことがあったが,すでにわらえないような恐ろしいことが,現実になっている.
くわえて,滋賀県は「事業者への指針」も発表している.

「環境リスク」がある滋賀県で,新規事業はやらないほうがいいかもしれない.
既存事業者はどうみているのだろうか?
アメリカなら,別の州に事業者の移転がはじまるだろう.
そういえば日本企業は,「政治リスク」の韓国から撤退をはじめた.
ならば,近隣県は,「滋賀リスク」を歓迎するかもしれない.

それにしても,こころして,暮らさなければならない時代になってきている.

自由とは,センシティブなもので,いちど失うと,取り返しがつかないものであることを肝に銘じたい.

漁業法改正に期待していいか?

日本旅館の食事といえば「魚料理」が第一にあがるから,このブログでも「魚」にまつわるはなしは書いてきた.
当然,魚は田畑で育てる農産品とちがって,海を中心にひとが獲りに行かなければならないから,「漁業」がなければ食べることができない.

もちろん,「養殖」という田畑とおなじ発想の漁業もあるが,本物の農業との根本的なちがいは,「タネ」にあたる「魚卵」の確保よりも「稚魚」のほうにあることだ.
たとえば,成魚が高額なうなぎの養殖に必要なのは,「稚魚」であって「魚卵」ではない.
「魚卵」から「稚魚」にする技術が確立されていないからだ.
マグロについては,ようやくさいきん,「魚卵」からの「完全養殖」が可能になった.

いま開会中の臨時国会で,先日,70年ぶりの改正となった漁業法改正案が衆議院を通過した.
この改正の柱は三本あって,一つは「漁業権」,もう一つは「漁獲量割当」,そして,「密漁取り締まり」であると報道されている.
わたしは,日本の漁業を北欧型に近づけるもの,とかんがんえる.

約半世紀前,北欧で起きた漁業改革は,「アンチ日本式漁業」だったことは本稿冒頭のリンク記事に書いた.
いまもつづくわが国の「日本式漁業」は,そこにいる魚を獲りつくすという意味での「略奪式」をやっているということだ.

「魚類の資源保護」という観点は,そのへんにある「環境問題」とちがって,すでに「いない」という事実があることからの認識がひつようだ.
ポーランドで12月2日から開会した,COP24のように,地球は温暖化なのか寒冷化なのかわからない状態での二酸化炭素削減の議論とはぜんぜんちがう.

とくに,わが国沿岸における「不漁」は,獲れないという意味の下に,獲りつくしたから,がある.
すると,ここに「需要と供給」という経済の大原則があらわれて,供給がないのに需要があるばあいに発生する「価格の高騰」がおきる.これが「密漁」の行動原因になる.

ずいぶん前の昭和時代に専門家が書いた本にも,地元の有力者である一部の漁協の組合長が,じつは独占的に密漁をしていて,「有力者」ゆえになかなか摘発にいたらないという実態の指摘を読んだことがある.

ことしの10月にでた,鈴木智彦『サカナとヤクザ』(小学館)は,そうした事情に切り込んだ,すさまじきルポである.
これを読むと,魚を食すること=反社会的勢力にお金を提供すること,になるから,わが国漁業をどうするか?はきれい事をこえている.

いまの臨時国会の衆議院できまった「漁業法改正案」は,この本の出版の「後」になる.
法案に反対する立憲民主党ら野党は,来年の選挙を見据えて,前回「農協」に媚びて勝った味がわすれられないと,こんどは「漁協」にこびへつらう方針だというから,どうしようもない恥の上塗りである.

その漁協のトップがあやしいという,この本を読んでいない,という意味でのまったくの勉強不足.それに,農協の構成員と漁協の構成員の人数のちがいも勘定できないらしい.
わが国に,漁民は15万人しかいないのだ.市町村議会選挙では勝てるが,国会は困難だ.
『サカナとヤクザ』の読書体験をしたひとには,「漁協」へ媚びた政策は,反社会的勢力に媚びるのとおなじにうつるだろう.

一方,与党はというと,賛成だから問題ない,ということではない.
北欧型漁業が成功した要として知られているのは,「資源」の科学的「把握」にある.
その数字をもとに,漁民各人に漁獲量を割り当てる,のである.
北欧の漁民が,この割り当てをめぐって争ったのも,有名なエピソードだが,「科学」という根拠でいまのように落ち着いた.

衆議院の審議で,割り当てについての質問に農林水産大臣が明確に返答できなかっただけでなく,都道府県に振ってしまったのは,わが国において「資源」の科学的「把握」ができていない,からである.
つまり,おおきな穴が空いている法案なのだ.

北欧では,消費者も「資源」の科学的「把握」の重要性を認識した.
それで,この把握に政治的判断など人間の恣意的な感情すら関与させないために,研究機関の完全民営と,その維持費の負担を消費者が承知したというプロセスがあった.

自主独立の精神の発揮である.
だから,最終的に漁民の漁獲量割当にかんする争いも落ち着いたのだ.
なぜなら,消費者の批判を漁民があびて,それに屈するしかなかったからだ.
中立の研究機関の把握結果を,消費者が全面的に支持したから,漁民も文句をいえなくなった.

しかし,わが国では,農林水産省の100%予算の支配下にある「研究所」が,「資源」の科学的「把握」をしていることになっていて,それが「エセ科学」であると,外国の専門機関による指摘をたっぷりされているし,そうした批判の政治的かつ恣意的な数字の発表は,それこそ昭和時代からある.こんな批判を国際的に受けていると,消費者である国民がしらされていない.

つまり,法で解決すべき問題は,中立な「資源」の科学的「把握」のため,政府からすら独立した機関の立ち位置を保障することである.
しかし,これを支える,消費者という日本国民が,自主独立の精神を発揮しなくてはならないことは,法律では解決できない.

これぞ,政治家が訴えるべきことだが,そんな勇気ある政治家が与党にもいない.
けれども,政治家にそうさせているのもわれわれ国民なのだ.

「しらなかった」ではすまされないことがある.

会議が踊る理由とは

根拠が不明な議論というものは,むなしい言葉のやり取りにすぎないから,当事者以外には聞く価値がない.
しかし,世の中にはそんな「議論」があふれているので,小中学校でクラス討論のやり方を教えることは,将来,かなり役に立つ.

たまたま,人気投票のような小学校児童会では,委員をやったし,なによりも中学校の生徒会で,書記と会長をやらされた.
中学では選挙に出なければならないが,本人の意志とは関係なく,勝手に出馬の手続きがとられ,あんなに恥ずかしいことはなかった,立ち会い演説までやるはめになった.

もしかしたら,これは集団的なイジメではないかと疑ったことがあるが,全校生徒の半数が自分の名前を書いた結果に,一種の驚愕をおぼえた.
わたしは,すでにはじまっていた横浜市中心部のドーナッツ化現象による生徒数の減少で,学区がべつの小学校に通っていたから,中学の学区として中心的な小学校の出身ではないために,ほとんどの生徒をしらなかったからである.

文化祭や体育祭でなにをやるのか?にはじまって,校内の衛生や図書室の運営,球技大会と,これに活動報を月刊でだすなど,あんがい忙しく,バスケットボール部の練習にほとんど出られなくなってしまった.

卒業後20年以上たって,当時の部活の顧問の先生と同窓会でご一緒したら,生徒会顧問から青木を預かりたいという話があって,承知したことがあると打ち明けてくれた.
つまり,先生たちのあいだでわたしは取引されていたのだということがはじめてわかった.
それが,選挙結果になったのだった.

ところで,おとなの会議といえば,社内や取引先とおこなうビジネス上の会議と,町内会や自治会など,地域での会議とがある.
子どもは,ある意味立場をかんがえないで,「同等」を前提とするから,生徒会が関係する校内会議は,好きなような発言にあふれていて,これをまとめるのに強権的なことは一切できない.

そういう意味で,生徒会はちゃんとした原案がないと,泥沼の議論になるということを,痛いほど味わった時期でもあり,経験だった.
よくかんがえると,このときの経験がいまも活きているから,とてつもなく恥ずかしい思いをしたことも,いまではよき想い出である.

人間は自分を中心に発想するから,わたしも学校でたいへんな思いをさせられた会議の進行について,おおくの人が同様の知識や経験があるものと思い込んでいたが,だんだんそうではないことがわかった.
仕切る側と仕切られる側という,二極に分かれていくのだ.

仕切る側をよく経験したひとは,仕切られることにもあまり抵抗はないのではないか?自分でもこうするだろうと思えば,反発する理由がない.
しかし,仕切られる側にばかりいるひとは,その辺の呼吸がわからないから,意外な発言をしたりする.

また,議論は論理展開である,という基本をおさえていないでおとなになったひとがおおい.
だから,意外な発言のなかに,突飛なものも混じって,驚いてしまうことがある.

これが社内会議で部下の発言なら制止がきくが,上司だと厄介だ.
そして、困り果てるのが,ご町内での会議である.
ほとんど子どもと同じレベルの発想をするおとなが,自己主張することがあっても,制止がきかないし,円満解決を最優先させるために,長い時間も要するから,つき合っている方には時間の浪費を強要される.

日本の社内会議が決まらない会議ばかりで生産性がないといわれるのは,町内会レベルよりはましだ,ということなのだが,そもそも提案自体がこなれていないこともある.
これに,参会者の論理展開についての訓練が希薄だから,議論が宙に浮いて,ことばが踊る会議に陥ってしまうのだ.

この訓練は,人生において波状的に何回もあるのがよい.
学校生活における訓練は,初期段階だから,なるべく仕切る側と仕切られる側にさせず,全員に最低一度は仕切る側を経験させて,両者の立場を解説した授業がほしい.
小学校から高等教育の場で,繰り返されることで,身につけさせることがその後の人生の基礎になるのは,教科だけではない,このような学習が鍵となる.

そして,社会にはいれば,やはりそこでの訓練も受けるようにすると,自然に論理的な発想ができるようになる.
企業にとって,従業員が論理的であることで困ることはない.

だからその成果として,町内会や自治会の運営も合理的になるだろう.
リタイアしたひとたちの亀の甲より年の功の見せ場にもなるはずだ.

改革好きの改革疲れ

国も企業も「改革」が叫ばれ続けて何年になるか?もうわからない.
江戸時代には,享保の改革,寛政の改革,天保の改革と,学校では「三大改革」と教わるけれど,260年間で三大改革なのだから,平均すればだいたい90年にいちどのペースである.

そこで実際はどうだったのかしらべると,享保の改革は1716年から45年の約30年間で,家康が征夷大将軍になってから百年以上後であった.その後の寛政の改革は,1787年から1793年だったから,約半世紀後,そして,天保の改革は,1841年から43年でやはり半世紀後ぐらいになる.そしてそれから四半世紀後の1867年に大政奉還となって,幕府自体が終焉をむかえた.

のんびりした時代だったとはいえ,ずいぶん間があいた.
しかも,基本的にどれも失敗したから,わたしたちはなんとなくバカにした感覚でみているが,昨今の「改革ブーム」で,成功したためしがないことを挙げれば,江戸時代のことを嗤える根拠はない.
むしろ,為政者がほんとうに実行して失敗した,という点で,現代よりも潔いのだ.

なにしろ,現代の「改革」は,「改革」をいうひとほどなにもしない,という特徴があって,ほんとうに改革になる部下がつくった「改革案」を骨抜きにするのが仕事になっているからたちが悪い.
そんな人物たちの口車にのせられる「株主総会」は,株主優待という特権をもとめるようにまでなっているから,企業を育てる,という感覚に期待する方がバカをみるようになった.

「リストラ」という用語も,バブル経済前にはちゃんと,雑誌でも「リストラクチャリング」と印刷してあって,きちんと「事業の再構築」を意味していたが,バブル崩壊のドサクサで,人員整理のことを「リストラ」というようになった.

結局は,事業の再構築ではなくて,事業の崩壊を食い止める手法として,事業の崩壊をまねいた経営者たちの保身からでた造語であったが,それで,自社の社員の頸を切ることが正当化されたから,日本的経営と賞賛された日本企業の経営方式も,ここで終焉をむかえた.

保身のためだから,終身雇用と年功序列をやめることが「改革」に変容して,社内で実力の公正公平な測定方法がないのに「実力主義」を標榜するようになった.
これを,大学受験という制度上での競争しかしらない学生に,年功序列と実力主義のどちらが魅力的かとインタビューして,高偏差値の学校の学生ほど「実力主義がいい」といわしめたのは誘導尋問であると,おとなのだれもいわなかった.

こうして入社した実力主義の新入社員たちは,おぞましいほどの社内の混乱をまのあたりにして,なにがなんだかわからなくなったから,スピンアウトするものが出るのは,むしろ当然だった.
そして、いつの時代にもいる要領のいいものが,社内の制度を利用して泳ぐことができたのである.

つまり,そうした社内の障害物競走を,泳ぎきったものたちが,日本的経営慣行である「社内昇格」という方式で取締役に昇格するから,真の改革を望むべくもない,ということになる.
そうしたわけで,いつでもどこでもなんどでも「改革」という単語を口にはするけれど,失敗の責任をとる気は端っからないから本人は,なにもやらない,のである.

部下に立案させて,部下に実行させる.
それで全社が動くわけもなく,台風の中心が晴れ渡っているのとは裏腹に,中心から遠ければ遠いほど,はげしい嵐が吹き荒れる.
毎日が平穏な役員室フロアがあって,現場の混乱のどあいが日々深まるシステムは,こうやってできている.

だから,改革に疲れ果てているのは現場であって,役員室フロアでは,「わが社の改革は手ぬるい」などという世迷い言が真顔で話されるから,これをショート・ドラマにすれば,ただのお笑いコントになってしまう.

やるならちゃんとやってほしい.
すなわち,やり遂げる,ということができない.
「中途半端」ということの繰返しが,昨今の「改革」の正体でもある.