町の豆腐屋

自営業だが,飲食業ではない家内制食品工業としての豆腐屋がなくなってきている.
こんにゃく製造業もしかり.

ひろい横浜には,その中心部だけに親しまれた「花こんにゃく」という超ローカルな食べ物がある.中心部限定だから,横浜市民でもしらないひとはおおいだろう.
これは,ふつうのこんにゃくとちがって,デンプンが添加されているので,白濁しており,食感はぐにゃぐにゃしたものではなくて,もぐもぐしていて簡単に歯がはいる.

長い型の断面のかたちが,あけぼののように半円形でギザギザがあったから,「花」のようで,それで「花こんにゃく」と呼んでいた.
ずいぶんしてから,製造方法由来の「かまぼここんにゃく」という別称があることをしったが,わたしにとってはいまでも「花こんにゃく」に変わりがない.

どうやって食べるのか?といえば,圧倒的に「おでん」の種としてである.ふつうのこんにゃくと花こんにゃくの混在こそが,横浜中心部ローカルのソウルフードなのであった.
だから,商店街の練り物製造販売のお店で,あるいは豆腐屋さんには白滝のとなりに花こんにゃくはふつうにあったのだ.

おとなになって,世間がひろくなってくると,この花こんにゃくが,横浜ローカルであることに気がついた.
いつか製造元を訪ねたいとおもっていたが,やっときたチャンスに訪問したら,一週間後に廃業するという.専用の機械が更新を要して,その費用に耐えられない,と説明をうけた.

このお店の初代が,大正時代に「発明」したというはなしを聞いた.
どうしたら味がしっかり染み込むのか?子どもでも食べやすい食感はどんなものか?
上述のとおり,デンプンをくわえるのだが,その分量比は苦労して得たという.そもそも,どうしてデンプンを選んだのかは孫娘をして不明だった.また,型にヘラで詰めるとき,空気を抜くのが難しく,加熱方法も最後は勘だよりというから,そのぼんやりとした見た目とは裏腹に,大層な手間と技がかかる食べ物だった.

誕生して100年あまり.さてはこれで絶滅かと覚悟したが,しばらくして市内に数軒が製造を継続していることがわかった.貴重な「型」も廃棄ではなく譲渡されたのではないかとおもう.
しかし,いつものおでんの種の煉物屋さんからは消えて,商店街の豆腐屋の廃業もあるから,もはや入手困難な逸品になっている.

それで,散歩のついでに豆腐屋をのぞくと,たまに花こんにゃくを発見する.もう,桶に無造作にいれてあるのではなく,パックになっているから,ちゃんと商品陳列を確認しないといけない.
もちろん,見つければ必ず購入するから,この時点で今晩は「おでん」に決定となる.
そして,あと何年食べられるものなのか?と自問しながら,もぐもぐやるのである.

豆腐はスーパーで買う物,となってしまった感があるが,神奈川県央の,県外のひとにはあまり有名でない,温泉地の宿に泊まったときに,堂々と近隣のうまいものとして,朝夕とも献立に製造販売している店名を表記していた.
断って献立を頂戴して,これらのお店巡りという予定外の観光をしたことがある.

お茶農家だけ遠距離のため避けたものの,都合4時間を要した意外性があった.
その中に,驚愕の豆腐を製造販売するちいさなお店があった.
一週間後にリピートしていろいろ聞いたら,とにかく「豆」がちがう,という.
神奈川県内産の特別な品種で,北海道産丸大豆の二倍以上するお値段らしく,県内にはあと二軒(白楽と逗子)の豆腐屋がこの豆で製造しているとも聞いた.

一丁300円超えする豆腐をどう感じるかはそれぞれちがうだろうが,スーパーの一丁40円とは話がちがうのは当然である.
毎日,一回だけの仕込みだから,製造数は限定である.ところが,150円の豆腐より先に売り切れる.それはそうだろう,横浜から片道1時間以上かけて買いに行く豆腐が,150円ではおさまらない.
地元の知り合いに土産として差し上げたら,「どこの豆腐だ?」と驚かれて,こちらが驚く痛快がある.

直木賞をとった「あかね空」は,豆腐屋のはなしだった.
作者の山本一力氏は,工業高校の電子科卒業である.

家族経営のお店はどちらさまも,家族の崩壊とともに絶滅危惧種になっている.
こんにゃくや豆腐といえばたわいもないもの,とおもいがちであるが,原始人にはつくれないからあんがい文明的な食べ物である.

三年物のこんにゃく芋は,収穫後冬場にストーブをたいて保存し春に植えかえす,を二回くり返す手間ができる農家が激減しているし,県内産の特別な品種の大豆も,だれが育てているのかを想像すれば,製品ではなく原材料が入手困難になっている.

ガラスとコンクリートの街が文明だとおもっていたら,ちゃんとしたこんにゃくも豆腐も食べられない日がくるかもしれない.
足下の文明がこわれはじめていないか?

有名でない温泉宿は,たいへんなことを教えてくれた.

なんでも解決病の泥沼

問題に気がつけば,なんでも解決しなければならない,とかんがえることを「なんでも解決病」という.
気持はわかるが,アプローチがわるい.
それで,いっこうに問題が解決しないから,極端に拘泥する.
そして、まさに,泥沼化するのである.

この病気のメカニズムは,目的合理性の欠如,からの,最適化アプローチの検討を無視した解決策の実行,による.
つまり,ちゃんとかんえずに行動してしまう,ということにある.
だから,本来は解決策にならない解決策を実行して,ズルズルのドロドロになるのである.

「やったからには後には引けぬ」という論理である.
日本人の失敗の典型的な思考・行動パターンである.
しかしながら,むかしから「押してもダメなら引いてみな」という言葉があるし,「岡目八目」といって第三者的な目線だとよく見えるという比喩もある.

家庭の台所によくある,レバー式水栓は左右に振れば水の温度が変えられて,上下に動かせば水が出たり止水することができるから,温水専用のコックと水専用のコックをまわして水量を調節しながら温度も調節する方法とは雲泥の差の便利さがある.
ところが,この水栓にも大問題があった.

上で止水するか,下で止水するかという問題である.
毎日のことだから,「なーんだ」という問題ではない.
それに,他人の家に行って,これが逆だとおもわぬところで水浸しにしかねない.
一方の方法に慣れているから,無意識に操作してしまうのだ.

決着は,阪神・淡路大震災の後についた.
「下で止水」がJIS規格になったのだ.
台所の棚からものが落ちて,レバーにあたっても「下で止水」なら問題ない,という「安全性」が勝った.
国内最大手が採用していた「上で止水」方式をいまでも使用していたなら,阪神・淡路大震災の前の製品だと断定できるようになった.

いまだに解決しない事例では,国産車のウィンカーとワイパーのスイッチ位置と外国車の位置が逆であることがあげられる.
国産車のウィンカーは,右側.外国車は左側.
国産車のワイパーは,左側.外国車は右側である.
外国車のハンドル位置が右だろうが左だろうがこれは変わらない.それで,国産車の運転に慣れたひとが外国でレンタカーを借りると,ここ一番の交差点でワイパーが動き出すことがある.

国産車の位置は,JIS規格で決まっていて,外国車はISO規格で決まっている.
だから,この問題は「規格」の決定要素が根源にある.
大手自動車メーカーによる,完成検査の不正も,国内規格に合致しない,ということだから,最初から完成検査をもとめない外国の規格では,なんの問題もなかった.問題メーカーの自動車輸出は好調をキープしている.

ちなみに,国産車の輸出車は,当然ながら相手にあわせてISO規格になっているから,ウィンカーとワイパースイッチは外国車とおなじである.
日本車を買った外国人が,ここ一番の交差点でワイパーを動かすことはない.
「鉄板規制」にじつはJISも含まれている.

物の世界では,目で見えることがおおいから,わかりやすい,とはいうものの,だからといって簡単に解決できないこともある.
このあたりで,産業デザインの専門家は,驚くほど頭脳をつかっている.
そして,このあたりのことに,人的サービス業なかんずく伝統的な宿泊業者や観光業者は,驚くほど無関心である.

それでいて,プロを自認していることにどれほども疑問をもたない.
他業界のひとには不思議にみえるかもしれない.
しかし,これは、なんでも解決病がおこす症状にすぎない.

冒頭に書いたように,なんでも解決しようとして,結局はなにも解決できなかったから,振り返りすらできない.
こんがらがった問題のストーリーの糸が,ぐちゃぐちゃで丸まっているのを,放置するという「解決策」にたどり着くのである.

中小零細企業だから人材が不足してできないのだ,というもっともらしい理由をいうひともいる.
そんなはずはない.
中小零細企業だから,問題解決には論理が必要だとかんがえる経営者はたくさんいる.
むしろ,大企業だから人材が豊富なはずなのに,経営者がなんでも解決病に罹患した患者だと,肝心の人材が流出してしまう.

そうなると,経営計画がつくれない.
つくっても,株主に見せられない.
「こんな薄っぺらでは恥ずかしい」と,恥の文化だけはもっている.
それが単なる見栄だとしても,原因が自分にあるとは思えないのが患者の患者たるゆえんである.

泥沼はつづく.

映画「フジコ・ヘミングの時間」

1999年の2月だったというから,もう19年前.

すでにテレビの凋落は始まっていた.
時間つぶしにしても観たい番組がなくて,なにげなく教育テレビにしたら,老婆が電車を背景に歩いているシーンが流れてきた.
それが,伝説のドキュメンタリーになる「フジコ ~あるピアニストの軌跡~」の冒頭だった.

しばらくすると自然に口が開いた.
「なんだこれ!」
家内と目が合った.
すさまじい個性が産む感性の音楽に衝撃を受けた.

それから,テレビの音楽放送でたまげたのは,2002年のN響の年末恒例第九演奏会だった.
こちらは若き大野和士の指揮.
まだわが家のテレビは,ブラウン管でモノラルスピーカーだった.
たまに会場へ足を運んだが,NHKホールの音響の悪さにたいがいはガッカリしたものだ.

ところが,そんな機材をものともせずに,圧倒的な演奏がやってきた.
「こんな第九があったのか」「今年は『生』で聴くべきだった」とおもった.
そして,これを『生』で聴いているひとたちが羨ましくもあった.
「大野和士」覚えておこう,と.ビデオに録画もせずにいたのは,いまだに残念だ.

フジコのリサイタルには二度ほど行った.
どちらも,演奏は期待通りだった.
しかし,どちらも聴衆の拍手が早い.早すぎるのだ.
「余韻」を聴きたいのにそれがかなわなかったのは,フジコのせいではないと思いたい.

「自分の拍手」をいち早くフジコに聴かせたいとかんがえる,自己主張のかたまりが何人か会場にいるようだ.
このひとたちが本当に,フジコの演奏から「感性」を受けとめているのか疑問である.
それができるなら,拍手を忘れるぐらい陶酔感にひたるはずだ.

残音二秒.
これが,理想的な音楽ホールだといわれている.だから,二秒後の拍手こそが演奏を完璧にする.
横浜には,神奈川県立音楽堂がある.
建て替えばなしが何回もあるが,建て替わらないのは,いまが完璧な残音二秒だからだという.

ハイテクを駆使して,残音二秒を達成したのは東京のサントリーホールだ.
ローテクの時代にこれをやってのけた神奈川県立音楽堂は,その意味で名建築なのだ.
しかも,「音楽堂」という目的合理性において,最高傑作のひとつだ.

取り壊したところで,ハイテクを駆使しても,いまの響きよりいいものができるとはかぎらない.
それで,建て替えでなく補修がおこなわれている.
役人仕事のなかで,数少ない評価にあたいする判断だ.

フジコという演奏家も,ローテク時代の申し子なのではないかとおもった.
彼女は,演奏家として致命的な聴力がうしなわれている.
それが原因で,カラヤンやバーンスタインから直接の推薦をうけながら,演奏家として埋没したのだ.
この間,演奏の世界の価値観は,「テクニック」こそが最高の価値観になっていた.

機械のように完璧な演奏.
それは,作曲者たちが追求したものだったのか?と問えば,じつはあやしい.
もう三十年以上も前に,「ゆらぎ」の研究がさまざまな結論を導いていた.
目でみる絵画も,音を聞く音楽も,「1/F」という関数で最高を示すことができる.

人間は,つねに「ゆらいでいる」から,「ゆらぎ」のあるものごとを好むのだという.
だから,幾何学的に正確な直線の連続では,けっして心地よさを感じることはできない.むしろ,違和感すら感じるのが人間なのだ.

映画中,フジコの父のはなしがある.スエーデン人の父は,画家でもありデザイナーでもあった.
フジコが有名になって,父が描いたポスターが発見されたというから,それを観に行くシーンである.
じつは,演奏家として売れない時代,フジコは絵を描いていた.父のDNAがそうさせたのだろう.フジコの絵は,少女が描くようなメルヘンにあふれている.

記憶もあいまいなまま独りスエーデンに帰国し,一家を見捨てた父の作品は,斬新でいまでも通じるものがあるが,それはなんと「直線」で構成されていた.
ジッと見つめるフジコ.そして、唐突に「もう帰ろう」と言う.
おそらく,自分とはまるでちがうものを観,とうとう父との決別ができたのだろう.

フジコの演奏には,絶妙な「ゆらぎ」がある.
10本の指が鍵盤を押す.
その押す力とタイミングに,機械ではできないゆらぎが産まれるから,これにひとは感動する.
テクニックの有無よりも,そちらを重視する聴衆の勝利で,あろうことか専門家の敗北をうんだ.

専門家が専門的にフジコを批判すればするほど,聴衆である大衆はこれに反発する.
オルテガ健在なり.
専門家に大衆は尊敬も物怖じもしなくなった.
その象徴が「フジコ」なのだろう.だから,フジコ本人と「フジコ」は別人なのである.

映画では,ワールドツアーの様子がある.
愛用のピアノを持ち歩けないピアニストは,会場ごとに別のピアノに向き合うことになる.
そのピアノの状態が,演奏に影響するのはいわれてみれば当然である.
さらに,オーケストラとの共演ともなれば,聴力がないフジコには絶対不利な状況がやってくる.

ベートーベンが「皇帝」の初演に失敗し,それから生前に一度も演奏しなかったのは,おなじ理由だ.
ただ,彼は作曲家で,フジコは演奏家なのだ.それで,かつてフジコがオーケストラとの共演したCDは,素晴らしいとは言いがたい出来になっている.
フジコがどうやっていま,これを解決しているのか.指揮者の合図がそれを支えていた.

最後に,十八番の「カンパネッラ」が演奏された.
それは,19年前よりも確実に,ミスタッチまでもが腕を上げた演奏に聞こえた.
80歳をこえるフジコは進化していた.

フジコの演奏会だけのライブ映画があっていい.
これを,いい旅館のロビーでウィスキーでも舐めながら鑑賞したいとおもった.

きれいなゴミの展示場

中央集権国家の首都東京には,一極集中と文句をいわれようが,なんでも集まるようになっている.
その首都の「中央区」は日本橋に,全国の地方自治体がつくったパンフレットが一堂に会される特別な場所がある.
「ふるさと情報コーナー」という.

都道府県別にきちんと並んだ棚に,ぎっしりと約2,600種類ものパンフレットがあるそうだ.
これを維持するのは,たいへんな努力と労力がいるにちがいない.
一般財団法人が,その手間を引き受けているから,利用者は感謝しなければならないだろう.

2,600種類のパンフレット全部に目を通すことはできないが,ランダムに拾ってみて驚くのは,その内容の乏しさをこえた「無さ」である.
これらのパンフレットの製作意図は,単に「予算消化」ではないかとうたがうのだ.
どうしたらこうなるのか?

「資源ゴミ」と称して,住民に回収の手間をかけさせて,じつは中国に輸出してお金を得ることを「環境政策」というらしいが,これらのパンフレットおよび製作の手間が,すべて「ゴミ」ではないのか?
すなわち,「きれいなゴミの展示場」になっているのである.

「ゴミ」としてみれば,全国の自治体がお金をかけて,ほとんど「内容がない」という同一のクオリティをもってつくることに,おおいに驚かざるをえない.
つまり,突出した品質=利用者が便利におもう内容,の物をみつけることが,まるで宝探しのようになっていて,それがめったに見つからないのだ.

この見事なまでの「横並び」を目の当たりにすると,はたして「予算消化」というレベルで済ますことができるのか不安になる.
それはそうである,全国の自治体が,揃いも揃って「ゴミ」をつくっているのだ.
それは,まるで,役に立つものを作ってはいけないという統一ルールがどこかにあるのではないか?とかんがえることの方が合理的だからだ.

すると,やはり都心を中心にした,都道府県のアンテナショップが,より一層に注目の対象になる.
「アンテナ『ショップ』」だから,ものを販売している.
このお店の運営は,道府県単位の自治体であろうから,店員には地方公務員がいるはずだ.

千代田区の平河町には,公益財団法人になっている「都道府県会館」がある.
ここには,広島,高知,大分の三県を除く「東京事務所」が入居している.だから,アンテナショップの職員も,おそらく「東京事務所」の配属で,勤務先が『ショップ』なのだろうと想像できる.

つまるところ,東京事務所が「上屋敷」で,ショップが「下屋敷」なのだろう.どちらも,「屋敷」の維持が最優先だから,なにか仕事をしている振りをしていればいい.
「本国」の県庁が,なにを売るのかを決めるから,上・下の屋敷ともに,なにをするではないという状況になるのである.

簡単にいえば,どの商品がどう売れて,どの商品がなかなか売れなくても,直接の担当者には,どうでもいいことになる.だから,サンプルが欠品状態になってもお構いなしでいられる.
ましてや,店内におかれた観光パンフも,適当に補充すればよく,もっとも面倒な客は地元出身者という,情報知識が豊富なひとになるだろう.

地元の詳しい情報を問われても,もともとそんなものに興味もない役人が,しっている知識などほとんどないのだ.
だって,たまたま東京に転勤になったにすぎないからだ.むしろ,いまのうちに東京人になりたいとかんがえている.

それで,元をたどれば,本国の県庁では,アンテナショップでの販売をしたいひとを「公募」する.このときの,選定基準は県内での販売「実績」になるから,かならず「定番」がえらばれる.
それで「アンテナ」というから,はなしが厄介になる.

有名どころが立候補しなければ,地元商工会をつうじて出品を要請したりするから,「公募」すらあやしい.
いまどきの気の利いた経営者は,これにつき合うことは時間と手間の無駄としっているから,力をいれるのは自社HPで,県庁のアンテナショップではない.

かくして,消費者は適度に珍しがるが,だからといって「ファン」になるわけでもない.
それは,発信する情報の焦点がボケていることにほかならない.
しかして,消費者はそのボケた点をいちいち指摘はしない.
面倒くさいし,どうせ言ったところで相手は地方の役人だからどうでもいい.言われる役人も面倒だとおもうから,ここでバランスがとれることになる.

こうして,今年もゴミのパンフレットが全国で量産される.
資源ゴミを率先してつくっているのは役所なのである.

炭酸酩酊

宿泊施設などの競争の戦略をかんがえるとき,「人的サービス」における差別化と「物的特徴(物質的投資)」における差別化の二種類に分類できる.
難易度が高く,簡単に他社がまねできないことから,「王道」ともいえるのは「人的サービス」における差別化である.
しかし,これには「設計」から「実施」までの時間がかかるという難点がある.

そこで,長期的には「人的サービス」における差別化を研究開発する,とさだめながら,短期的には「物的特徴」による差別化を実施することで,時間を稼ぐことが実務的な作戦になる.
ところが,他から購入し,短期的な時間稼ぎであったはずの「物的特徴」なのに,適度に「当たる」という成功から,ほんらいの「人的サービス」における差別化を研究開発する,ことへの情熱が急速に冷めることがあって,そのことが結果的に経営への致命的な打撃となった事例はおおい.

あとからいえば「本末転倒」という,よくある失敗に分類されるだけのことだから,まことに「やりきる」ということの難しさといってもいい.
つまり,経営者の「意志力」という精神面での強弱が,最終的に決定的なちがいになるのである.

理屈でいえば,他から購入できる物的特徴とは,当初の「珍しさ」から,急速に陳腐化がはじまるから,それを踏まえての全体計画における「短期的な時間稼ぎ」であったのに,一瞬の成功にめがくらみ,次ステップの「長期的な開発」を取りやめるのは,まったくの愚挙であることを理解するのはそうむずかしいことではない.

しかし,経営不振がながくつづいたという状況にあって,ちょっとした「成功」が,当事者には「大成功」に見えてしまうのである.
それで,経営が下手なゆえにながく経営不振だった施設では,「やりきる」という経験もすくないから,あっさりと「定石」を無視しても,それがいかに危険なことかがわからない.

その「危険」とは,資金が尽きることである.
「物的特徴」をだすには,投資が不可欠である.物質的なものを購入するしかないからだ.
だから,最終的には資本力できまるので,時間がたてば小資本は大資本にかなわない,ということに落ち着く.

これには,人的資源まで大資本には豊富にあるように見えるから,小資本には勝ち目がないというはなしがでてくる.
ところが,現実はあんがいそうではなく,小資本だからこその小回りで,大資本を翻弄して小気味のよい企業はわんさかとあるから,経営力とはおそろしい.

毎日お昼のテレビで,健康にいいものを日替わりで紹介していた.
それがたとえば「紅茶」であれば,放送後の小売店から紅茶が品切れになったし,「黒砂糖」であれば,「白砂糖」がまったく売れなくなったりもした.
だから,気の利いた小売店の店主は,この番組をかならず観ていたものだった.

不思議なことに,この「機動力」が宿泊業にみられない.
十年一日のごとくやっている従業員も,飽きないのかとおもうほどである.
たとえば「炭酸」.
すでに,街の銭湯をふめた温浴施設も,人工炭酸泉は一般的になってきた.
天然温泉と人工炭酸泉を混ぜた施設も出現している.

理美容の分野でも,炭酸水によるシャンプーなどのヘアケアに応用されて,しっかり単価と人気をさらっている.
もちろん,炭酸水による洗顔すらも,自宅で日常ルーチン化しているひともいるだろう.

これを飲むなら,アルコールとノンアルコールに分類できて,ビールや酎ハイはあっても,「炭酸水」が選択できないのはどうしたことか?
市中の居酒屋でできて宿でできない.
それで,宴会がほしいというのは,どうした了見かとうたがうのだ.

砂糖なし炭酸水を一気に大量に飲むと,炭酸酩酊という現象が起きる.
体内に炭酸ガスが大量に取り入れられて,酸欠になることでの現象だという.
ノンアルコールビールをジョッキで一気に飲んでも,似たように酔った気になる.

温泉宿の経営者は,一度,炭酸酩酊ぐらいは経験してみてもいいだろう.
利用客は,全員が消費者であることを意識できるようになるかもしれない.

外れ値の梅雨明けデータ

一昨日の6月29日,2018年の関東地方の梅雨が明けた,そうだ.
観測史上,6月に梅雨明けするのは初めて,だというから,今年の記録はしばらく「外れ値」となることが決まった,という意味でもある.
何回か,梅雨がいつ明けたのかわからないという年もあった.これは,「データなし」として記録されたはずである.

「外れ値(はずれち)」は,「例外」という要素をもつ.
だから,「例年」という「平均」を表現するときには,これを除外しないと,データの数がすくなければすくないほど,外れ値の影響がおおきくなって,「平均値」を狂わしてしまうこともある.

そもそも,ふつう「平均」という言い方をしているのは,「『算術』平均」のことである.
データの数字をぜんぶ足して,データの個数で割ることで算出される.
計算方法が簡単だから,たいへんよくつかわれているし,あることを調べようとしたときに,元のデータの特徴をしめす方法として重宝されている.

「平均売上」や「平均人数」などは,経営指標としても典型的な数字だ.
学校では,「平均身長」や「平均点数」を例に学習するのが定番である.
ここで,外れ値も習うのだが,どういうわけか「実務」で忘れられてしまうことがおおい.
地震や水害などで生じた「特別な数字」が,機械的に「平均」の計算につかわれて,自社の業績が理由なく悪化しているように見えることがある.

そこで,外れ値をいれて計算するのと,外れ値をはずして計算することで比較して,外れ値の効果を確認しないといけない.
しかし,いまはたいがいパソコンの表計算ソフトをつかうから,グラフ化させれば視覚的に理解できる.

また,表計算ソフトには,「平均(mean)」のほかに,「中央値(median)」や「最頻値(mode)」も自動計算して表示する機能があるから,これらも加えて表示するとすこぶるわかりやすい.
「外れ値」が「平均値」をゆがめた状態が,「中央値」でみると納得できるだろう.
だから,経営数字の表現には「グラフを使う」のが常識になっている.

自然界での現象のデータをたくさん集めてグラフにすると,きれいな釣り鐘型になることが確認されている.
どうして?
なぜかわからないけど,不思議なことにきれいな釣り鐘型になる.

たとえば,人間の身長のデータ,全国一斉テストの点数とかは,きちんと「釣り鐘型」になる.
これを応用したのが「偏差値」なのだが,「偏差値」で痛いめにあう割りに,「偏差値」がしめす意味をしらないことがおおいのも,不思議なことだ.

算術平均をいつものように計算して,それぞれのデータがこの「平均」からどれほどズレているかをみるために「データ-平均」を計算する.これは「偏差」というので,「偏差」の平均が「標準偏差」と呼ばれるものだ.
これから「偏差値」が計算できる.詳しくはこちらをどうぞ.

さて,天気も経営も,重要なのは「予測」である.
そこで,過去の数字から将来の数字を予測するための手法がかんがえられた.
これを「回帰分析」といったりする.
関数電卓の機能解説にある,「二変数統計計算」がそれだ.

数年間の売上高と営業利益などを「二変数統計計算」してみて,相関関数が0.8以上だったら,「つかえる」から,今年や来年の「予算」にすることもできるかもしれない.
ところで,計算からでた数字をそのままつかっては「能が」ない.
これよりも「上回る」数字,すなわち「外れ値」を目指す!というてがある.
簡単便利な方法なのだが,このやり方で成功すると,たまったデータが外れ値ばかりなるから,簡単便利な方法は,やっぱり長くつかえない.

ことしの夏は,梅雨明けが異常に早かった分「長い」はずだから,例年比較で「外れ値」だらけになる可能性がある.
すると,来年になって,今年の経営データをどのように使うか?
かなりむずかしい問題を解かなければならなくなるから,いまのうちから「日記」でもつけて,「例年とのちがい」を記録しておかないと,かならず困ることになる.

この「日記」のことをふつうは「日報」と呼ぶ.
どんな「日報」を蓄積することができる組織なのか?
ここが,実力差の出発点なのである.

世の中の厚みを無視する勝ち組論

世の中にはいろんなひとが生きていて,それでまた世の中ができている.
各界で頂点をきわめるひともいれば,底辺をさまようひともいる.
底辺にはさらに底なしの地下構造もあるから,すさまじくぶ厚い構造をしているのが世の中である.
そのぶ厚さのところどころに,チーズの穴のような空間が無数にあって,それぞれがそれぞれにその穴に巣くって生きている.

義務教育期間は,おとな(=社会人みんな)の義務で教育をほどこし,子どもは教育を受ける権利を行使する.
だから,義務教育期間をおえると,あとは任意=自由である.
高校に行くのも任意だから,授業料はふつうは親が負担(社会人みんなではなく)して,子どもは毎日授業を買いに行く.

このように,小学校や中学校と高校とでは,決定的に「登校」の意味が変わるのだが,「登校する」という行為自体はあまり変わらないから,このちがいに気づきにくい.
さらに気づかない理由のもう一つは,義務教育期間でも,高校生になって授業の購買顧客になったとしても,子どものやる気や成績が芳しくなければ,一貫して本人が悪いといわれる業界だからである.
この点で,すでに「一貫教育」は達成されている.

そんなふうになっているから,子どもからおとなになって,就職しようというときに,そうした倒錯の訓練結果で,自分が会社を選ぶのではなく,会社から自分が選ばれるのだと勘違いする.
その勘違いは,「勝ち組」といって重ねられるが,気が利くひとは,それが勘違いだと気がついて早々に退社する.鈍感なひとは30年ほどしがみついたあげくに肩を叩かれてしることになる.

はなしを中学卒業時にもどせば,ここから先は「任意」だということを本人にも気づかせないから,早熟の子どもは方向を見失って,持てるエネルギーをあらぬ方向に発散させる.
外向的なら夜な夜な爆音とどろかせ,内向的なら引きこもる.これには,尊敬に値する身近なおとなの存在がうすいことと,ミネラル不足が原因にくわわるのだろう.

ほんとうは「任意」なのに,「高校ぐらいは出ていないと」という「常識」が,鉄板となって押さえつけている.それで,「高校・学校に行かない」=「負け組」だと,本人を追いつめるのだ.
この常識は,戦後日本経済のわずかな成功期間であった,高度成長期の「名残り」にすぎないのだが,まだかつての成功体験におおくのおとなが依存しているのである.

だから,安易な「勝ち組論」は,薄っぺらい世の中の表層しかみていない.
なにをもって「勝ち」と「負け」を定義するのかもあいまいであるから,おそろしく無責任なその場限りの都合の良い言い方にすぎない.
しかし,残念なことにこれがいまの日本の世論になる.

大学生がガレージに閉じこもって,就職活動もせずに得体の知れない部品をいじくってばかりいたら,この時点では「負け組」だと,だれでもが思ったろう.
それが,いつしか「マイクロソフト」になったり「アップル」になったら,こんどは全員がうらやむほどの「勝ち組」だといってはばからない.

こんな愚かな論を,国家が率先しているのがいまの日本である.
義務教育期間での目標と,その後の任意を,一貫させようと無理強いするのは,とにかく高校へ行け,というよりたちが悪い.
ひとの人生を国家が決める,という態度である.

もうおとなになった世代には,「任意」が意味する重さと軽さの両方をじっくりかんがえさせる材料を,国家はあたえるだけでよい.そうでなければ,おとなになれない.
義務教育の完成ポイントはここにある.

ここから先は任意だよ.
えっ!そんな.どうしよう?
あなたはどうしたいの?もっと勉強して知識をえたいならあっち,若い感覚が鋭いうちに体得したいならこっち.

過酷にみえるかもしれないが,中学三年生の本人が決めるべきことなのだ.
つまり,いまの義務教育では,中学三年生が自分の人生の進路を決められないようにしているともいえる.
途中での方向転換が容易ではない硬直的な高等教育制度も,選択にあたっての障害だろう.
まさに,高度成長期を支えた「均質的労働者」の大量生産を目的にしたことが,そのままなのだ.

生まれてきたすべてのひとには,完全に平等に,時間が刻まれている.
そして,生まれてきたすべてのひとは,完全に平等に,いつかはかならず死がやってくる.
人生は,ひとりに一回だけ死があり,その直前までの時間はぜったいに任意なのである.
そのときの満足感も,頂点にいようが底辺にいようが,本人にしかわからない.

ただし,他人に決められた人生ほどつまらないものはない.
だから,生き生きとした組織には,生き生きとした人生の実感があるひとたちがいる.
リーダーの役割の,もっとも重要なことがここにある.
「どうせ自分は歯車にすぎない」のではなく,「自分も歯車を動かしているなかのひとりだ」.

こんな組織が,少なくなったような気がする.

コーヒーはインスタントがいい

鉄のカーテンの向こう側は,われわれ西側の価値観とはちがうことがおきていた.
それが,コーヒーに象徴される.

ソ連の衛星国たちは,南米の社会主義政権とも「兄弟」だった.
だから,上質なレギュラーコーヒーが入手できた.
いまさらに,旧東側のひとたちのコーヒーに関する「味覚」は,一日の長があるとおもわれる.

ところが,このひとたちには,西側のインスタントコーヒーが入手できない.
なかでも,フリーズドライ製法のインスタントコーヒーは,「不正」でもしなければ手にすることは不可能だった.
なにしろ,まずは「ドル」がなければならない.

旧東側の住人が,どうやったら「ドル」を持てるのか?
特別な許可を受けた人しか行くことのできない,西側への「出張」しかなかった.
出張許可を得た人が,制限付きで自国通貨をドルに交換できたのだ.
だから,一般庶民には,一生ありえないようなことだった.

いったん西側へ出張したひとのおおくは,スーツケースにインスタントコヒーを詰め込んで帰国したという.
重量の軽さと,かさばりかたがちょうど良かったらしい.
一本ずつが,たいそうなお土産になった.

お湯を注ぐだけで,豊かな味と香りのコーヒーができあがる.
まさに,CMどおりのはなしなのだが,これがおそろしく高度な技術にみえたという.
「さすが西側はちがう」
「コーヒーをいちいち落として淹れている我々は原始人だ」

このときの記憶が,いまだに重要なプレゼントでインスタントコーヒーが高級品として認識されている理由だという.
ふつうの生活では入手できっこない「外貨でしか買えない」という思いである.
だから,ギフトショップにインスタントコーヒーは欠かせない.

ところが,自由化後に生まれた世代には通じない.
鼻で笑われるという.
これが,社会主義時代を生きたひとたちにはしゃくに障るというから,みごとな世代間ギャップをつくっている.

東ヨーロッパの広くは,かつてオスマントルコの支配下だった.
このひとたちの記憶には,トルコへの恐怖ともいえる複雑なおもいが混じっている.
だが,ヨーロッパにコーヒーを伝えたのも,そのトルコである.
大バッハは,コーヒーカンタータを書いた.
モーツァルトも,ベートーベンも,トルコ行進曲を書いた.

当時のトルコは,世界帝国だった.
コーヒーはみな,トルココーヒーだったろう.
細かく挽いた豆をちいさなカップに入れ,そこに湯を注いで上澄み液をのむ.
欲張ると,口の中にコーヒーが侵入してきて気持ち悪い.

いまでは,トルコとアラブ世界での飲み方である.
日本人にはできないが,飲み終えたコーヒーカップはシガレットの火消しにする.
西側資本がしっかりはいった東側は,さいきんの英国発祥のコーヒーショップチェーンで席巻されている.
日本人の目からは,まるで日本の全国的コーヒーショップチェーンにそっくりだから,おそらく地球を半周以上してパクられたのだろう.

そのうち,日本が真似ていると思われるかもしれない.
日本の店舗経営は,国内にいつまで閉じこもっているのだろうか?

ホテルシップという貧困

「東京オリンピックのために」といえばなんでも通る.
わが国最大の旅行会社,JTBの発表である.
それは「切り札の『エース』」ではなく,もはや「ジョーカー」のことだろう.

どういう計算で「ホテルが足らない」のかはしらないが,とうとう接岸した客船をつかうことが決まった.
気は確かか?
と問いたい.そのまえに,どういう計算なのかも教えてほしい.

どうしてこのような発想の「貧困」が現実になるのかわからないが,民泊制度に失敗した政府に媚びて「緊急事態」をアッピールしたいのだろうか?
「ハイテク国家」を「おもてなしの基本スタンス」として,接客ロボットを開発して外客を驚かそう!という子どもだましに,何億円をつかいながらの体たらくである.

緊急時に,客船をホテルにする,という発想の原点には,「病院船」がある.
これは,まともな軍隊を保有している,わが国以外の国にとっては常識である.
つまり,どこにも「豪華さ」などというイメージはない.
そもそも客船の客室面積が,どれほどなのか?

対象となる船は,「サン・プリンセス」号である.
運航するプリンセスクルーズのHPによると,スイートルームで50から60㎡.
海側バルコニーの部屋で17㎡,窓がない内側ツインで14~15㎡.
すなわち,陸上ならビジネスホテル並みの面積である.

「窓がない」のは,改正旅館業法でクリアできる.
この事業を認可した国土交通省は「やってやった感に満ちていて」例によっての上から目線で鼻が高いらしいが,サン・プリンセス号の船籍は「バミューダ諸島」である.すなわち,英国領である.外国船籍の船を誘致できて自慢するのがわが国の国土交通省なのだ.

ところで,魔の海のミステリーの方が有名なバミューダ諸島であるが,おもな産業は金融業と観光である.金融は,あの「タックスヘイヴン」の地域である.これと「船籍」は無縁ではない.
イギリスのシンクタンクが毎年発表する金融世界ランキングの,2018年版では東京が5位.バミューダ諸島は36位.
37位がバンコク,40位がクアラルンプールだから,けっしてあなどれない.

しかも,バミューダ諸島は,2005年に一人あたりGDPで,世界最高を記録している.
海洋国家の日本に,日本船籍の船舶はすくない.
日本に本社がある船会社も,おおくは外国船籍で登録し,日本を避ける.
理由は,「規制」である.パナマやリベリアが好まれる理由である.

上記ランキングの,トップ5は,ロンドン,ニューヨーク,香港,シンガポールの順になっていて,東京のつぎの6位は上海である.ちなみに,日本でランクインしたもう一カ所の大阪は23位に位置している.
なお,政府が特別になにかを腰を入れてやりますよとアッピールする,「国家戦略特区」というのは,もともとは鄧小平のアイデアである.共産中国とおなじやり方が通じる国になっている.

彼らは,観光業よりもはるかに大きな稼ぎを金融で得ている.英国は,こういうやり方がうまい.
つまり,観光業「だけ」で国家経済を潤わせることは不可能なのだと教えてくれる.
クルーズ船一隻だけで,さもホテル不足が解消できるというのも幻想だろうし,国家が介入するはなしとしても小さすぎる.
「日本船籍を増やす!」ことでもやってみなはれ,といいたくなる.

それで気になるのが,船内「カジノ」の営業である.
これまでは,カジノが禁止の日本から公海上にでれば,外国船籍の船ならカジノ営業ができた.
日本船籍の船が,公海上にあっても日本の法律が適用されるから,現金に交換できないカジノもどきしかできなかった.

こんどは,日本でもカジノができるようになったから,横浜港に接岸中のどの船舶でもカジノ営業ができるのだろうか?
ニュースには,カジノ営業もない,という.外国に行かないから免税ショップも開店しない.
いったい国土交通省は,なにに関与してなにに自慢したのか?

しかし,発表された宿泊料金が,おひとりさま2泊3日で7万円(窓なし14~15㎡)で食事付きだというから,いいお値段だ.カジノができたら半値以下になってもおかしくない.
これでは単純に,動かない,というだけの値付けだ.

横浜港に停泊して,オリンピックのどの競技をみに毎日移動するのかしらないが,2000人の移動はどうするのか?
大桟橋からの公共交通は,みなとみらい線をつかいなさい,と.
あとは,臨時バスで対応すればいいだろう,ぐらいしかないのだろう.

なんとも,悲しくなるほどの貧困なる発想である.
利用者目線,客目線の完全なる欠如.
結局のところ,天下のJTBが確保する,「オリンピックのチケット」にプレミアムがつくだけの,抱き合わせ商法ではないか?

それ以外なら,期待して泊まったひとたちががっかりして,結局は「嫌われる努力」をしたことにならなければいいがとおもう.
横浜市長は民間会社の役員を経験されたという経歴が光っていたが,まさか「女性枠」でなっちゃったということなのかを疑いたくなる「おそ松さん」である.

既存のホテルには目もくれない.
話題性の追求で,なにか仕事をしているふりができるし,チヤホヤもされて気持ちいい.
東京都知事にまねっこしたのかしらないが,目線が小さすぎるのは国家の役人以上である.

大桟橋に,かっこいい船がなんでもいいから停泊してくれれば,部外者という観光客が,インスタ映えの写真をもとめてやってくる.そのひとたちが,すこしでもお金を使えば,横浜の役に立つではないか.
これは,昭和30年代の温泉街における誘致の手法・発想である.

バミューダの人口は6万5千人あまり.ここに上下二院の議会がある.
彼らの知恵が,我らにないことを残念におもう.

ロイヤルミルクティーの発明

歴史的にも日本人というのは,じつは地球上でもっとも快楽主義の民族なのではないかとおもうことがある.
宗教すら,人間のためにあるものというかんがえだから,この世に悪い神様は存在しない.
人間に悪いのは,「悪霊」という「霊」であって,「神」ではない.

だから,神社だろうがお寺だろうが,「霊」を払ってもらえればよい.
神社が効きそうならミソギをし,お寺が効きそうなら護摩を焚いてもらう.
まるで,よさげな病院をえらぶような感覚で二千年を過ごしてきたのが日本人だ.
神仏には,自分にとっての都合の良いことを頼むのである.

さいきん,イスラム教徒が日本を意識している.
イスラム教の教えは,神の御意思にしたがえば,「天国」に行けるというものだ.
ところが,彼らが想像する「天国」とは,じつは「酒池肉林」の世界である.
だから,現世では酒も飲んではいけない.天国でのおたのしみなのだ.

これは,日本人がイメージする「極楽浄土」の清涼なる世界とはまったくちがう.
しかも,その天国へ行くことを決めるのは全知全能の「神」であって,自分ではない.
それで,生きているうちに神に気に入られる行動をすればよいとかんがえるようになった.
これは,本来の最後の審判を経ての「復活」とはまったくちがうかんがえかたなのだが,人間のかんがえかたも「神」が決めるとするから,これはループする.

本来のかんがえ方は,たとえ極悪人でも,最後の審判で神が「よし」とすれば,天国に行くし,どんなに善行をつもうが「ダメ」とすれば地獄に行く.
それが,人間にとっていかに理不尽でも,絶対神の「絶対」とはそういうものだから,人間のために神があると信じる日本人には理解できない.

生きているうちに修行や善行をすることで,魂を清浄にすれば極楽浄土に行ける,というのは仏教の思想だ.
だから,最近のイスラム教徒は仏教化している.
それで,ワールドカップで清掃をする日本人を,イスラムの本来の姿だとみるようになった.

世の中,適当なものである.
オリジナルなものを,自分たちの都合でかえてしまって,それを「高級」とみなす行為は,オリジナルの方からみたら,たいへん不遜にみえるだろう.
仏教から,浄土思想を生んだのも,そうやってみると不遜である.
フランスの仏教研究では,正式に浄土真宗を仏教と認めていないのは,修行すら必要なしとした教えに対しての,オリジナル目線からの結論なのだろう.

仏教の誕生地といえば,インドだ.
いまではヒンズー教が大半で,仏教徒は3%程度にすぎない.
アラビア語でインドは,「アル・ヒンドゥ」.つまり,「ヒンズーの国」.
その国で紅茶畑の従業員が,一大ストライキを実行して,紅茶が世界的に不足したから高騰している.茶の木の手入れができないから,ストライキがおわっても,しばらく不足はつづくだろう.

茶葉栽培の適地は,高山の寒暖差があるところといわれている.
それで,ヒマラヤのあたりでは,ミルクを沸かしていれた「チャイ」が一般の飲み物である.
これを,日本人が「ロイヤルミルクティー」といって売り出した.
「ミルクティー」に「ロイヤル」がつくから,高級感いっぱいである.

水と安全はただ,というかんがえの国だし,牛乳を飲む習慣が長くなかったから,消化できずにおなかを下す人がたくさんいるのも日本である.
逆に,日本人は欧米人とちがって海苔などの海藻を消化できる能力をもっている.だから,欧米人が海藻を食べ過ぎるとお腹を下す.

紅茶に牛乳を入れるのは,英国式のアフタヌーンティーでの飲み方だが,このとき,牛乳は冷たくなければならない.
日本では,温かいものには温かくと気を利かせて,温めた牛乳をわざわざ出す店があるが,これは,牛乳に無頓着な日本式である.

牛という獣の乳であるから,牛乳を温めるともとの獣の臭いがしておいしくない.
それで,高級かつ繊細な香りの紅茶に入れたら,とたんに獣臭がしたお茶になる.
だから,レモンティーも好まれない.レモンの酸が紅茶のタンニンと反応して澱をつくるし,せっかくの紅茶の色も香りも消えてしまうからだ.

ところが,ミルクティーを注文する日本人のおおくが,温かい飲み物には温かいものを入れるのがよいと思い込んでいるから,冷たい牛乳をサービスすると文句をいうひとがたくさんいる.
それで,いちいち説明がめんどくさくなった日本のとある高級ホテルは,日本人なら温かい牛乳,欧米人なら冷たい牛乳を出すこととした.
どちらもおなじポットでサービスされるから,隣のテーブル同士でもちがいには気がつかないだろう.

だから,牛乳を沸かして作る紅茶は,水の質(硬水か軟水か)はヨコに置いても,水が楽に手にはいる欧米では「ありえない」飲み物である.
谷まで水くみが必要なヒマラヤの山奥なら,水より牛乳の方が楽に手にはいるだろう.
それでも,牛乳だけからいれた紅茶は,それなりにまったりした味があるから,選択の自由を否定はしない.

しかし,これに王室を意味する「ロイヤル」をつけたのは,言い過ぎだ.
かつてインドを支配した英国王室ファミリーが,インドの庶民が好む方法でのお茶をわざわざ飲まないし,これに「ロイヤル」をつけたら,英連邦の人びとまで「???」にさせてしまう.

外国人観光客が少なかったころなら,極東の島国のローカルで済んでいたが,いまだと悪いイメージになりかねない.
インド料理店では「チャイ」といい,高級な喫茶店では「ロイヤルミルクティー」と言い張るなら,人種差別ともいわれかねないからだ.

もちろん人種差別を好んでしているはずもない.
しかし,ではなんと反論するのか?
適当によかれとつけたものの,本物目線から逃れることはできない.
快楽主義だと開き直るなら,それはそれで立派ではある.
けれども,たんなる無知では,美味しい紅茶もまずくなる.