【追悼】 テロは悪である

2022年7月8日は、日本の歴史として記憶される日付になった。
先ずは、安倍晋三元首相のご冥福をお祈りいたします。

政治家は「命がけ」といわれるのは、それだけの影響力があるからだ。
一国の国民生活への影響力だけでなく、世界各国にも影響するのは、その政治家の「仕事の大きさ」による。

そして、暗殺犯の方は、たいてい名前を残すことはない。
なぜならば、「暗殺以外での仕事の大きさ」がないからだ。

今回も、犯行に及んだ背景がよくわからない。
なんらかの団体に対する恨みと、安倍氏がその団体に関与していたからという曖昧さしかわかっていないからだ。

もし詳しい供述があっても、果たして官憲はこれをそのまま公表するかもわからない。
すると、あとは刑事裁判でしか動機についての説明はないだろう。

いまのところ、個人の犯行だというニュアンスが先行している。
むろん、「背景」があったとしても、個人の犯行にするのがセオリーだろう。

そんなわけで、安倍氏のいない自民党がどうなるのか?ということの影響の大きさが今後の日本人の生活にのしかかることは確実なのである。

果たして、自民党とはどんな立ち位置の政党なのか?を問えば、90年代からのわかりやすい「変容」で、すっかり「脱皮」して、見た目も鮮やかに、過去の自民党とは別物になってしまった。

これは、70年代から用意されていたもので、DNAのプログラムとしてかんがえれば、GHQによる出生時からの「設計どおり」ともいえなくもない。

「保護領」としての日本を、日本人によって統治させることの意味は、奴隷を奴隷によって管理する方法とおなじなのである。
つまり、この「保護領」であることの「継続」に、なんらの変化はないのである。

すると、もし今回の犯行が個人だけの動機によるとしたら、おそるべき「コップの中の嵐」にすぎない。

だから、日本人はこの「テロ」を、おおいに憎まねばならない。

安倍氏が芯からのナショナリストだったのか?について、わたしは疑問をもっているけれど、政治家はつくられたイメージだってリアルとして生きる生き物だから、世間がナショナリストだといえば、そうなることは承知している。

これはたとえば、高市早苗氏にもいえることだ。
わたしは、彼女は「保守」であるはずはないとかんがえているけれど、世間が「保守」として押してしまえば、本人はそれに乗るか、あるいはどこかの時点でカミングアウトするしかない。

とっくに、カミングアウトしているのだけれども。

この意味で、「迷走」しているのは世間の方だから、安倍氏も高市氏も、精神的にはかなりきついことになるのは、容易に想像できる。

そんな状態でも、自民党の「良心」としての立場で偶像化されたのが安倍氏であったことはまちがいない。
よって、一気に訪れた「空虚感」で、自民党がまた変容するしかなくなったのである。

もちろんこのことが、国民の幸福につながるかはかなり疑問のあるところだ。

すると、時間をかけた「自壊」が起きる可能性が高まるのも必然で、それこそが安倍氏の存在の大きさを証明するのである。

なんであれ、安倍氏を失ったことは、国民に影響しないはずがないことだけは確実なのである。

合掌。

オランダ農民一揆2022

農産物輸出で有名なオランダで、6月30日に農民一揆が勃発していた。
オランダの農産物輸出は、世界第二位という規模である。

理由は、窒素とアンモニアを30%削減するためという、政府の方針決定によって、家畜数を3分の2にする(=3分の1を削減)ために、対象となる家畜や土地を政府が強制収用することに反発した、というものだ。

しかしながら、ほんとうは、「政府」ではなくて、この春の「ダボス会議」の決定に政府が従った、のである。
そして、その「決定の背景」には、「食糧危機」があった。

つまり、コロナの「次に」世界的食糧危機を起こそうという陰謀である。

もちろん、この「陰謀」は、「警告」という形式をとっている。
あたかも、「大変なことになる」というわけだ。
けれども、そうした事態を政治的に「つくりだしている」のである。

それが、「地球環境のため」というエセ科学だから、「陰謀」といって差し支えない。

「牛のゲップ」も二酸化炭素なので、温暖化の原因になると真顔でいったのも、どこか平衡のネジが飛んでいるとしかおもえなかった。
今回の話はもっと飛んで、人間の生存に必須の栄養源であるタンパク質を、一部の支配者が独占して、一般人には「昆虫食」による栄養提供を目指している。

ダボス会議のメンバー(シン・貴族)は従来通りのビーフステーキを食し、一般人には、「より」栄養価が高いコオロギを食べよと命じるのである。

もちろん、日本人がかんがえた「イナゴの佃煮」ではなくて、コオロギを加工してつくった「肉」のことをいっている。
しかし、この「肉」は、がんもどきならぬ「肉もどき」なので、さまざまな食品添加物によって「肉もどき」にした工業製品のことである。

第一に、匂いを変えるための「人工香料」、見た目の色を変えるための「人工着色料」が使われて、それから食感を変えるための増粘剤やら接着剤やらの添加剤で、「肉」にしたものにする。

おそらくは、ハンバーグ状になって提供されて、それから「技術進歩」で、本物の「肉」に近づけるのだろう。
すでに、家畜の廃棄部位を「活用」した、「ハンバーグ」は提供されていて、だいたい冷凍食品として1食100円程度で販売されている。

さて、オランダの農民一揆は、「漁民」にも拡がって、「海上封鎖」による港湾機能がストップした。
それで、農民たちは「出荷」も拒否して、アムステルダムの食品スーパーから、食品が消えている。

食糧危機がきたらどうなるのかを、農民が教育することになった。
いやこれぞ、ダボス会議の作戦なのかもしれない。
わざと理不尽な方法で農民をたきつけて、世界第二の農産物輸出を止めたら、輸入国(日本も)にとってこれは「本物の食糧危機」になる。

対するオランダ政府はその「本性」を露わにして「凶暴化」し、デモに参加するトラクターに発砲するに至っている。
なんだか、この冬から春にカナダであった「フリーダム・コンボイ」と似たような様相になっている。

トルドー率いる「自由党」は、事実上の「戒厳令」を発動して弾圧に走ったけれど、オランダ政府はどうするのか?
また、この一揆は、国境を越えてドイツにも拡がっている。

環境派が初入閣した、ドイツの「信号機内閣」が、発足して1年も経たずに内政においての「矛盾」をさらけだすことになったのは、前メルケル政権のロシア依存から生じたエネルギー危機の対処に、その「環境理念」を曲げざるをえなくて、原発再稼働や石炭火力発電所の稼働をはじめようとしていることにある。

背に腹はかえられぬ、ということだ。

すると、そもそもが、「地球環境保全」ということの「欺瞞」が、単純に現出したということにすぎない。

すなわち、二回目の共産主義の挫折なのである。

ソ連東欧圏の崩壊から30年。
ダボス会議に集参した、共産主義の赤い大富豪たちによる「陰謀」に、一般人が「はっきりとノー」を突きつけているのである。

これは、一種のドミノ倒しになるかもしれない。

こうした「陰謀」を企てて、正々堂々と「発表する」大富豪たちは、その財力をもって、さまざまな企業や機関を支配してきた。
その結果、各国政府もコントロール下にしたけれど、欲望に支配される彼らは、とうとう「国連」も支配下にした。

いまや、「国連」こそが、かように邪悪なひとたちの「フロント(隠れ蓑)」になったのである。

しかして、その国連の「中核」は、第二次大戦の戦勝5ヵ国だ。
このうち、プーチン氏のロシアが集団的にいじめられているのは、ダボス会議への反対をとっくに表明しているからである。
プーチン氏は、この会議に参加して、強烈な皮肉を演説した。

トランプ氏も、ダボス会議を冷たくあしらって、再選を阻まれたから、当時は「米ロの連携」があった。
異質の中国を除けば、残りの英・仏がダボス会議側にある。

ただし、大統領選挙で薄氷の勝利だったことが記憶に新しい、マクロン氏のフランスは、先日の国会下院選挙で与党は過半数割れの大敗北をし、「極右」ルペン氏の大躍進があったので、マクロン氏はダボス会議の決定を日和るようになってきた。

それでもって、イギリス・ボリスジョンソン内閣の崩壊は、何を意味するのか?は、こうした地殻変動と無関係のはずがない。

まさに、グローバル全体主義とナショナリストの決戦がはじまっているのである。
それがまた、あと2日に迫った、わが国の参議院選挙のだれも気づいていない、そして、与党にとって気づかれたくない「最大の争点」なのである。

スイス観光旅行に行けない

むかしからスイスの物価は高くて有名だった。

いろんな事情があるけれど、食べてみてわかるのは、「高くてまずいパン」だった。
日本と似た値段の割に美味かったのは、ビールだったから記憶に残っている。

日本のターミナル駅ならほぼ見つけることができる「駅蕎麦」と同様なのが、「サンドイッチ・スタンド」だ。
40年前でも,これにコーラをつけたら1000円近くして驚いたものだけど、いまの日本でも「セットメニュー」と駅構内コーヒースタンドで食後のコーヒーを飲めば1000円ぐらいになる。

永世中立をうたっていた当時も、「防衛上」の用意周到から、食糧の保存が義務付けられていた。
だから、今年の収穫分は2年間保存しないと行けないために、3年目になって放出される小麦でしかパンを焼けなかったのである。

建築基準法でも、家を新築するときには「核シェルター」設置が義務化されていた。
それで、もっとも高価な設備が、外気を浄化する装置だと聞いた。
地上で核爆発があっても、シェルター内の空気を汚染させないためである。

ジュネーブからイタリア・ミラノに向かう国際列車は、何度もアルプスのトンネルを通過する。
その谷間ごとに空港があるけれど、どこにも駐機している飛行機が見えない。

よく眺めると、滑走路が山に突き当たっていた。

まるで『ウルトラセブン』の基地のように、山をくり抜いて格納庫にしているのだった。
なるほど、あのヒトラーの最強ドイツ軍をして、1ミリもスイス国境を越えることができなかった理由がわかる。

『サウンドオブミュージック』の緊張感のある逃亡シーンが、妙にリアルに思い出されたものだった。
目に見える地面のすぐ先が「国境」だという概念は、やっぱり日本人には分かりにくい。

日本でも購入できる、「ユーレイルパス」は、スイス国鉄でも有効だ。
しかし、肝心の観光地に向かうのに使う「登山電車」やらの交通機関は別料金になっている。

40年前でも、ユングフラウの麓にあるグリンデルワルド村に滞在しようと思ったら、この電車に乗らないと行けない。
たとえレンタカーを使っても、途中の駐車場で電車に乗り換えないと行けないのである。

この方式は、グリンデルワルド村と姉妹提携した、上高地がある長野県安曇村(現松本市)が採用した。
上高地の場合は、鉄道ではなくて乗合バスかタクシーに乗り換えないと行けないのである。

これを「マイカー規制」と呼んでいるが、「本場」の規制はもっと厳しい。
村人ですら、電気自動車でないと村内移動ができないのである。
40年以上も前から、電気自動車を買わないと生活できない規制を住民投票で決めたのである。

当時、電気自動車は一体いくらしたのか?という前に、なんと村人が自作した電気自動車が「共通規格」になったのだ。
なんと素晴らしい「環境保護意識」だろう!
と思っては間違いだ。

スイスの観光地の村人は、「稼ぐため」に特化して考えを巡らしたのである。

つまるところ、究極の「略奪方法」の考案に努力した。

そこに美しい山や湖がある。
これを一目観たいという観光客が世界中からやってくるので、お金をたくさん払える人たちを優先して「客」とみなしたのである。

それ以外は客ではないという決心は、マーケティングによっている。

開通までに25年を要した、ユングフラウ・ヨッホまでの登山電車の運賃は、40年前でも1万円を超えていた。
ヨーロッパ中の国鉄に1カ月間乗り放題のユーレイルパスが5万円だった時代である。

なぜに登山電車の運賃がかくも高価なのか?は、簡単な理由で、入山ならぬ「入村」する人たちを振り分けるためなのだ。
それでもやってきた人に、残念な思いをさせないために住民もコストを負担した。

そうやったら、「意識高い系」の人ばかりが客になったので、住民たちのコストは簡単に回収できるようにもなった。

素晴らしい景観の山小屋のテラスで提供される決して「うまい」とはいえない料理でも、飲み物を含めたらかんたんに1万円程度になるけれど、これを「高い」といって文句をいうひとはいない。

ちゃんとした食器で提供されて、それを洗浄した排水はヘリコプターでタンクごと運んでいる。
こうしたコストを、観光客の方がよろこんで負担しているからである。

さらに、「山小屋」だけでなく、「村内」にある宿泊施設も、基本的にぜんぶが「村営」なのである。

日本的「村営」ではなくて、村人たち全員が出資した会社の経営による。
だから、税金も投入する日本的「第三セクター」ではない、れっきとした「株式会社=完全民営」なのだ。

社長には村長がなる、というのは「偶然」で、村人総会=株主総会をもって社長を選出するから、利益が出せないなら村長が社長でも容赦なく解任されるのである。

村長を解任させられるのではなくて、あくまでも社長の方だ。
つまり、行政の長と経営上の長とを住民が分けている。

それだから、遠目に山が見える、たとえば国鉄と登山電車の乗り換え駅には、大型ホテルがあって、「入村料金」を払えない観光客は、ここまでをもってユングフラウに行ったことにするのである。
そのための「お土産」もふんだんに販売されていて、「行ったつもり」になれるようになっている。

いまやスイスと日本の所得差は、ざっと3倍にまでなった。

スイスでは、ペットボトルの水が1本500円ほどになる。
なので、ふつうの昼食が、一人前で5,000円程度にもなっている。
ホテルの宿泊代も、1泊5〜6万円が「相場」なのだ。

日本に住む日本人と、スイス人だってそんなに変わらない生活をしている、というけれど、日本に住む日本人がおいそれとスイスに行って、日本とおなじレベルを維持しようとしたら、目が飛び出すほどの出費を覚悟しないといけなくなった。

当時から「高い物価」だとわかったのは、周辺国との比較でだった。
スイスだけの滞在ならば、あんがいがいと日本と変わらなかった。
40年前にスイスに行ってよかったと、今更ながら思うのは、なんとも残念な話なのである。

けれどもそこには、日本の失敗の理由とスイスの成功の理由の「分岐点」が、はっきりしている。
「ビジネス」としての感覚が、甘いか辛いかの差なのであった。

「公職」の選挙がない

国会や地方議会、知事やらの首長だけが「公職」ではないけれど、他の「公職」に関わる選挙が「ない」のがわが国である。
それで、「任命」という方法がとられているけど、「アンタッチャブル」も多数ある。

たとえば、公安委員会とか、教育委員会がそれだ。
公安委員会は、国家ならば「大臣」が国家公安委員長に就任するので、国会議員から選ばれたひとが入閣する形式をとっている。
けれども、委員長の他5人は、国会の「承認」が必要とはいえ、国民から誰かがなっている。

都道府県公安委員会になると、またちがっていて、当該する都道府県議会議員の「被選挙権」をもつ者で、任期前5年間に検察官や警察官といった職業的公務員でなかったひとを、議会の「同意」を得てから知事が「任命」することになっているから、当該住民の誰かがなっている。

なお、一般人にはなんだかよくわからなくて選ばれた、都道府県公安委員には、「リコール」制度もあって「罷免」できるようになっている。

また、国家も都道府県公安委員会も、「庶務」は、警察庁、都道府県警察が行うことになっているけど、警察庁長官も、都道府県警察の長も、基本的に「官僚」が、「組織内部人事」によって就任するために、「公職選挙」の対象にない。

これは、検察官も同様で、地方検察庁の長官(検事正)も、法務省の官僚に等しいから、「組織内部人事」によっているために、「公職選挙」の対象ではなく、検察審査会制度はあるけど、こちらも「有権者」のなかから「くじ引き」で選ぶことになっている。

委員長が「いない」委員会としては、教育委員会がある。
2015年(平成27年)4月1日に施行された、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律の改正」に伴って、教育長に統合されて「廃止」になっている。

こちらは、「首長からの独立」という設立趣旨からの大義名分があるので、あんがいと「強力」な委員会だ。
それで、議会承認の上の「任命」という方式がとられている。

一方で、「事務」は、「教育庁」が取り扱う。
なので、教育委員会の責任者は、上述の通り「教育長」という、役人になったから、やっぱり公職選挙の対象に「ない」。
なお、上記「法改正」は、安倍長期政権の成果のひとつだ。

つまるところ、「選挙」がない「公職」がたくさんある。

これには「言い分」があって、特定の「政治家」や「政治思想」をもつ者たちによる影響の排除があるとされている。
選挙でポストを奪われたら、社会の「事務」が滞って、国民や住民が迷惑する、というわけである。

けれども、役人任せなら、どうして「大丈夫」だといえるのか?という問題と、国民や住民が迷惑していても、「換えようがない」ということのリスクをどうするか?は解決できない。

すなわち、日本政府と地方政府の構造が、江戸幕府(幕藩体制)化しているのである。

困ったことに、日本人が鎖国のなかにあって、ほぼ全員が「貧乏」という「平等」であったので、あんがいと江戸幕府や各藩の「治世」が、まともだったことを基盤にして、「お上を信じる」国民性が、ここにきて「裏目」になってしまっている。

国民が「貧乏」になることは、政府依存を高めるから、家康がいう「百姓は生かさぬように殺さぬように」が、為政者にとって都合のいい「施政方針」になるのである。

もちろん、徳川家康は、専制君主であって、民主主義者でも自由主義者でもない。
ただ、「大衆」の「心理」はしっていた。
それが、「祭り」における「発散」を奨励したことの理由だともいう。

この意味で、「サッカー」や「野球」などの、大衆が熱狂する「興行」が、「ガス抜き」となって、たまに「暴動」になるのである。

しかして一方、上述の「選挙がない」制度をつくったのは、3段階のロケット状態で、1段目が江戸期まで歴史、2段目が明治政府がつくった制度、そして永久に廻る軌道に乗せた3段目が、「占領時代」の「日本改造」だったといえる。

すると、日本改造計画の策定には、おそろしく「綿密」な、日本研究の成果が使われているとしか思えない。

企業の「経営理念」を策定するとか、「経営ビジョン」を策定するには、当該企業の「哲学」を掘り起こして、「文字化する」ひつようがあるのとは、比較にならない「壮大な」掘り起こしをせずにして、「一国の改造」は不可能だからである。

すると、当時のアメリカ民主党の、得体の知れない「力(フォース)」を改めて認識するのである。
すなわち、「日本改造」は、まちがいなく「国家プロジェクト」だったと。

そうやって、アメリカの制度を注入する部分と、させない部分とに区分したにちがいない。
「公職」なのに、選挙の対象としない上述のわが国の例は、アメリカでは全部が「公職選挙」の対象だからである。

もちろん、「連邦制」という、まったくちがう国だから、全部がおなじ制度にさせる意味もないけど、副知事や事務方トップも選挙の対象だということは、日本人も意識していい時代になってきた。

生活に密着した公職が、選挙の対象となれば、住民の投票がいまよりずっと「重い意味」をもつことになるのは、当然だからである。
そして、選挙結果のリスクも、住民が負うことになるので、「他人事」では済まされない。

「自治」の意味をしらないで生きるかどうか?ということだ。

陰謀論か真実か

世にはびこる「陰謀論」は、暇人の与太話か、たんなる「笑い話」ということになっていて、「無価値」という「価値」になっている。
しかしながら、「無価値」といっても、「笑える」ならば、笑うことの価値があるから、「ゼロ」ということでもない。

そこには、「まさか」という引っかかりがあるもので、「やっぱりね」が落ちとなる。
この「やっぱり」が、一般常識というものだから、「常識はずれ」のことを「陰謀論」というのである。

ところが厄介なことに、「常識」こそが怪しいのである。

典型的な話が、「天動説」で、いまでは子供にもバカにされる。
けれども、「当時」のひとからしたら、「地動説」を思いつくこともできなかった。
ましてや地球が自転しているとは。

もしも、太陽でなく地球が回転していたら、地上のなにもかもが吹っ飛んでいくとかんがえたのが「常識」というものだった。
もちろん、その地球が丸いなんて、だれも思わず、平面の板状だと思っていたのである。

そうした人間たちが集まってできている社会を、だれがどうやって統治しているのか?といったら、王侯貴族の時代ならだれでも「王侯貴族」がやっていると信じることができた。

しかし、宗教の権威と経済の富が、王侯貴族とは別にあると、人間社会もそれなりに「化学反応」を起こすのである。
それが、物質の反応のように「法則通り」ならまだましだけど、人間の行動は、気分や時々の思惑によって異なるので、「面倒なこと」になる。

だから、「陰謀論」は、その「面倒さ」が一部溶け出したもの、ともいえるので、必然的に「玉石混淆」となるのである。
そんなわけで、たまに「玉」が混じっているから、完全に排除して無視することには、あんがいとリスクがあるのだ。

急死したルーズベルトの後を襲った、副大統領のトルーマンは、敵国の日本人を「猿」と呼んでいた。
それがまた、『猿の惑星』(1968年)になっている。
アメリカ人は日本人が怖くて仕方ない。

トルーマンの有名な言葉は、

「猿(日本人)を『虚実の自由』という名の檻で、我々が飼うのだ。
方法は、彼らに多少の贅沢さと便利さを与えるだけで良い。
そして、スポーツ、スクリーン、セックス(3S)を解放させる。
これで、真実から目を背けさせることができる。
猿(日本人)は、我々の家畜だからだ。家畜が主人である我々のために貢献するのは、当然のことである。
そのために、我々の財産でもある家畜の肉体は、長寿にさせなければならない。
(化学物質などで)病気にさせて、しかも生かし続けるのだ。
これによって、我々は収穫を得続けるだろう。これは、勝戦国の権限でもある。」

そのトルーマンの、「3S政策」がいまだに有効なのは、トルーマンがあくまで日本を「属領」として扱ったからである。
スクリーン(Screen、映画)、セックス(Sex、性行為)、スポーツ(Sport、運動競技、あるいはSpeed、レースや鉄道)を用いて、日本人を支配する作戦だ。

これが真実だったのは、アメリカ自体が定めている「情報公開」で、2007年に、第二次大戦後のCIA日本人協力者名を「公表」したことによる。
なお、ここでは省略するが、下記の人物と法人には、ちゃんと「コードネーム」がついている。

・正力松太郎(読売新聞社社主、日本テレビ放送網社長、読売ジャイアンツ創設)
・読売新聞社
・日本テレビ放送網
・緒方竹虎(朝日新聞主筆、自由党総裁)

なんだか、「戦後の日本」が、どんなふうにコントロールされていたかがよくわかって、ガッカリするのである。

わが国で最初の民放局となったのが、「日本テレビ」だったのは、それまでのNHKを民営から国営にしたからである。

それに、1951年(昭和26年)8月13日に、共和党カール・ムント米上院議員が「日本全土に総合通信網を民間資本で建設する」と発表して、CIAエージェントの正力氏が日本テレビ設立を公表したのだった。

だから、日本テレビの隠された目的は、NHKと両輪になって、講和後の日本人支配のためのプロパガンダだった。
プロ野球もプロレスも、自動車レースもぜんぶこの目的に合致してつくられた。

なんども書くが、アメリカ民主党と共和党主流派(以前は「ネオコン」で、トランプ氏は「RINO:名ばかり共和党員」と呼ぶ)が、「連合」している。
これらの勢力が、ずっと前からわが国の「敵」なのである。

スターリンに追い出された、国際共産主義のトロツキー派が民主党を乗っ取ったときに利用したのが、軍産複合体(たとえば、ボーイングとか、ロッキードとか)だった。
ネオコンは、根っこをおなじくする。

それでもって、岸田政権も「RINO」に取り込まれて、「名ばかり自民党」になって、自民党を乗っ取った。

国民には、「あーあ」なのである。

企画展「激震、鉄道を襲う!」

サブタイトルは、「関東大震災と横浜の交通網」だ。
場所は、横浜市都市発展記念館で、ここは、公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団がやっている。
この3日が、3月12日からはじまった展示の最終日だった。

「横浜の鉄道」といえば、いまなら様々な路線があるけど、いまはもうない路線で当時のエースは、「市電」(1972年4月1日廃止)だった。
もちろん、東海道本線という大動脈はあったけど、関東大震災当時はいまの御殿場線経由で、支線として大正11年12月に国府津-真鶴間ができた。

その廃止の直前に、用もないのに父親と市電に乗った。
「人生の想い出になる」が、わざわざ出かけた理由だった。
車内はガラガラで、名残を惜しむ感じがしない「ふだんどおり」だったのが、かえって子供にもリアルだった。

それから、線路や架線の撤去工事がはじまって、ようやく沿線のひとが「ガタガタ音」が聞こえない寂しさを語ったのを、なにを今さら、とおもったものだった。

「ワンマン化」が遅れて、赤字が膨らんだと批判するひともいたけれど、車掌さんが乗り継ぎ券を発行してくれたから、路線を何回乗り換えても料金はおなじだった。
それで、廃止前にワンマン化したら、乗り換えが有料になって「大幅値上げ」になったから、利用客も激減したのである。

じつは、いまよりずっと安くて便利だった。

明治になる前に開港した横浜は、森林太郎鴎外作詞の『横浜市歌』(開港50周年の1909年:明治42年)にあるような、ぜんぶで80戸余りの小さな漁村が原点である。

むかしは小・中学校の式典のはじまりには、「国歌斉唱」と「横浜市歌」の順だったけど、そのうち「国歌」がなくなって横浜市歌「しか」歌わせないことになったので、横浜市民で横浜市歌をしらいないものはいないが、国歌をしらないことに「させた」反日教育の絶望がある。

これが、「国際都市」だと自慢する精神の倒錯だ。
世界のどこに自国を卑下する国際人がいるものか。

さて、どこがそもそもの「横浜村」だったのか?
かんたんにいうと、地下鉄みなとみらい線の「馬車道駅」から「元町・中華街駅」までの地上にある「本町通り」を中心とした、半島状に突き出ていて「宗閑嶋(しゅうかんじま)」と呼ばれた砂州をさす。

半島の付け根は、元町の「港の見える丘公園」につながる山だった。
この半島が天然の堤防のようになっていて、「内海」があった。
それが、東海道の神奈川宿からみたら、横に浜があるようにみえたので「横浜」だったのである。

すると、現在の横浜駅も、桜木町駅から内側、京浜急行の「日ノ出町駅」から「南太田駅」までの大岡川を堺にして、ぜんぶが海で、対岸は「根岸台」になっている。
だから、いまの「横浜市中心部」の「低地」は、すべて埋め立て地だ。

よって、この広大なエリアは、碁盤の目状に区割りされている。
それで、埋め立て地の中心に「中川」という水抜きの掘り割り川があったけど、これも埋め立てられて「大通公園」になった。

ちなみに、桜木町駅から石川町駅までの鉄道高架も、水門があった名残の運河の上にできたもので、それもいまでは「首都高」になったのである。
ついでに書けば、山下公園は、関東大震災の瓦礫を埋め立ててできたから、旧横浜村の面積が広くなったともいえる。

それゆえに、往年の「横浜市電」は、本来の「陸地」と、埋め立て地の中心部を、文字どおり「縦横に結ぶ」市民の足だったのである。
また、開港記念日には、「市立学校」は、小学校からぜんぶが「休校」になって、「港まつり」が盛大に行われていた。

市電もパレードに「参加」して、めったにみられない装飾の「花電車」(ふだんは地味な貨車車両も)が、夜には電飾も眩しく何台も連なって走っていた。
これを、沿道に新聞紙を敷いて、弁当を食べながら眺めるために、朝から場所取りをしたものだった。

それで、小学校も高学年になったら、こんどは学校でつくった「鼓笛隊」で、足が棒になるまで演奏しながら歩いたのを忘れられない。
いまのようなスニーカーなんてない、「運動靴」が恨めしい。
けれども、どこからともなく出てくる声援の見物客が、近所のひとなので、気が抜けなかったのである。

そんなわけで、自分が生まれるはるか前の「関東大震災」で、市電も燃える写真をみながら、よくぞ何もなかったようになっていたと、感慨深くなったのである。
なお、復興に「陸軍鉄道第一連隊」が活躍したことをはじめてしった。

さらに東海道本線の横浜駅も消失して、無傷だった貨車の貨物が掠奪されたということに、「ふつうの国」のエネルギーを確認した。
もちろん、「掠奪」を褒めるものではないけれど、どさくさに紛れて行う集団行動が、「できた」ことに感心したのである。

日本人は、1918年(大正7年)の米騒動も含めて、あんあがいと「暴動」を起こしてきた。
なのに、昭和60年頃を境にして、暴動なんてあり得ない、という国民になったのである。

ちなみに、1995年(平成7年)3月20日に起きた、「地下鉄サリン事件」は、生物化学兵器によるテロ事件であって、「大衆がする暴動」とは異なる性質のものだ。

震災当時の横浜駅は、「二代目」で、その「遺構」はこれも廃線になった東急東横線旧高島町駅すぐ近くのマンション敷地に保存されている。
現在の横浜駅は、「三代目」ということになっているが、オリジナル駅舎はとっくに改築されて、味も素っ気もない近代建築の商業ビルになってしまった。

それに、東海道貨物線は横須賀線の専用線化で内陸部に分離されたので、横浜駅で貨物列車の通過をみることはもうない。
逆に、武蔵小杉から東戸塚間は、むかしの貨物線を走っていることになるし、武蔵小杉から品川間はいまも貨物と併用している。

そんな横浜駅から「避難するひとびと」が、屋根のない貨車にすし詰め状態で乗っている写真が印象的だった。
行き先は北関東、東北方面だという。

職人風のひとは「ハンチング」、ワイシャツすがたのひとは「カンカン」、学生は「学生帽」で、少年は「キャップ」と、全員が帽子を被っていて、「無帽」のひとがみあたらない。

おそらく、食糧の買い出しか?
それに家を失ったからか、身軽なのではあるけれど、身なりはちゃんとしているのである。
もっと奇妙なのは、女性がひとりもいないことだ。

この一枚に、どんな生活ドラマがあったのか?
もっと詳しく解説してほしかった。

1954年農産物貿易促進援助法

これは、アメリカの連邦法である。
法律の内容から、「余剰農産物処理法」といわれて、法律番号から、「PL480」ともいう。

なお、「PL」とは、同国法体系にあっての「Pub.L.」のことで、「the general public (public laws)」の略、つまり、もっとも一般的な「公法」をさす。

この法律は、さまざまな変遷を経て、2008年に「平和のための食糧法」になり、その「目的」から、「輸出市場開拓」の文字が削除されている。

つまり、戦後の食糧難のときから、輸出市場開拓を日本でしていたことの「根拠法」なのだ。
そして、わが国では「学校給食」による消費として活用された。
その具体的な食材が、「パン」と「脱脂粉乳」だった。

もちろん、「パン」の原材料は「小麦」なので、米から小麦への転換を強要されたという見方もできる。
マクドナルドの絶対的戦略が、子供のうちに味を覚えさせること、とおなじで、一生の「食」を支配することになるからである。

これは、消費者に「習慣性」を植え付ける、という意味の企業行動である。

いわば、「麻薬」とまではいかないけれど、意図的に「依存症」にさせる、意志のことだ。
じっさいに、小麦に含まれるグルテンには、脳に快楽物資の分泌を促す作用があることがわかっている。

「人類は皆兄弟」だから、おなじ動物だとかんがえてはいけないのは、「人類史」における、「環境適応性」が、人種や民族によって異なるからである。

アフリカを起源とする、ホモサピエンスは、どうやって地球上に拡散したのか?という壮大な物語がある。
地球儀をイメージすれば、北と南といった「縦方向」に移動するのと、東西といった「横方向」のどちらに移動するのか?

いま住んでいる土地が、なんらかの理由で住めなくなって移動をかんがえたとき、「気候」といった「環境」がなるべく変わらない場所に行くのが、いちばん「楽」な選択だ。

もちろん、「徒歩」をもってする移動だから、はじめは大きな変化に気づかない。
それでも、「縦方向」を選ぶのは、なにかの事情があったともかんがえられる。

 

そんなわけで、広大といっても巨大な「島」のアフリカ大陸から出るには、いまのイスラエルやサウジアラビアを通過しないといけない。
なので、この場所が、その後の人類の「分岐点」となるのである。

なお、地球には自転があるので、太陽はかならず「東」から昇る。
ゆえに、「光」を求めた人類は、東に向けて横移動したとかんがえるのは、説得力がある。
しかし、変わり者は「沈む」方向に向けて移動したのだろう。

さてそれで、当時のイスラエルやサウジアラビアの地域が、どんな気候だったのか?を調べると、あんがいといまのような「砂漠」ではない。
ただし、乾燥傾向にあったから、食糧とする穀物は「小麦」であった。

だから、人類は小麦という植物がなかったら、世界中に拡散することはできなかったろう。
しかしながら、小麦には必要なタンパク質や栄養素が足りない。

それで、家畜の乳や肉をもって補ったし、オリーブ・オイルから脂質を摂った。
また、絶対不可欠の「水」の確保が困難なので、ぶどう酒から水分補給した。

これが、生存をかけたときの「食欲」だ。

水代わりのぶどう酒は、「酒」なのでアルコールが入っている。
これによって、腐敗を防ぐだけでなく、人間側の機能も強化されて、この地域の人々は、絶対にアルコール分解できる能力をもったのである。

ゆえに、のちにヨーロッパ地域に移住した白人種たちは、生存能力としてアルコール耐性をもつのである。
逆にいえば、アルコール耐性がない個体は、淘汰される運命にあったのだ。

なので、羊とワインがそのまま「宗教」のなかでの絶対的要素になった。

さてそれで、東に移動したひとたちのゴール地点が日本列島だった。
当時の海水面は、いまよりも150メートルばかり低かったので、到達するには航海を要しない。
されど、日本列島の東には、太平洋があるから、どん詰まり、なのだ。

いつから米を栽培したのか?
縄文遺跡からでてきた籾をDNA分析したら、万年単位のむかしになるのである。
それで、揚子江沿岸の米との類似性が確認された。

伝播ルートは、北回りの朝鮮半島経由ではなくて、直接、ということがわかったのは、朝鮮半島にみつかる米が、ずっと新しく、別種だからである。
加えて、米の栄養素は、小麦と比較にならないほど豊富なのである。

それで、日本人は乳や肉を食べずにやってきた。

水も豊富だから、ワインを必要としないばかりか、和食にワインはあわない。
これが、わが国でワインが普及しない理由だし、キリスト教も普及しないのである。

それに、米から作る酒だって、貴重品だからお供えする「御神酒」になって、自分たちでは飲まない。
それで、日本人は世界的にアルコール耐性がない民族になった。

こうしたことの「破壊」が、自国ではなく外国の国内法で実施された。
しかも、その「余剰農産物」とは、なんと「残飯」扱いにもなる「品質」だった。

そうやって、日本人が「羊=家畜」にされた。

署名したのは、「アイク」、共和党アイゼンハワー元帥である。
しかして、大統領退任時に、「ディープステートの支配」を口にした最初のひとだった。

【憶測】auサイバー攻撃?

この記事は筆者の【憶測】なので、「裏」がとれていないから、読者の暇つぶしにもならないことをあらかじめお断りしておく。
なら書くな、という意見もあろうが、筆者の「暇つぶし」なのだ。

2日の深夜1時とか2時にはじまったという、「auの通信障害」についての【憶測】であり、「妄想」である。
結論から先に書けば、タイトルの通り「サイバー攻撃」ではないかと疑っている。

わたしがこの障害に気づいたのは、たまたま用事があってかけた友人への通話ができなかったからだ。

「通話不能」になったけれど、最初の発信後には、聞いたことがない「警告音」がした。
それで、もう一度、今度はスマホを耳に当てずに画面をみたら、「相手先電話番号が不使用」と表示された。

そんなはずはない。
友人は、この春に最新機種変更と同時に大手キャリアからauへ、MNP(モバイルナンバーポータビリティー:Mobile Number Portability)したばかりなのだ。

別の友人の固定電話にかけてみたら、テレビのニュースでやっていたと教えてくれた。
たまにはテレビのニュースも役に立つことがあるようだけど、「通信障害発生」だけを伝えていたらしい。

それで、ようやくネット検索してみたら、「原因不明」と「発表」されていた。
障害発生から12時間以上が経過しても、なお、「原因不明」だということが「ニュース」なのだ。

なぜなら、本当に原因不明なら、それは、「対処不可能」の意味になるからである。
つまり、通信会社として、自社設備の不具合は確認しても、その不具合がなぜ起きたのかがわからない状態だと「発表した」ことになる。

こないだは、蛇が高圧線鉄塔を登って「感電」したら、ショートして停電したという事故があった。
だから、電力会社の技術者は今後、ネズミ返しならぬ「蛇返し」の発明を促される、ということになる。

これが、原因解明と予防対策の論理的帰結だ。
しかしながら、原因が不明ならば、復旧どころか予防もできない。

同日17時になって出した、プレスリリースによれば、原因を「設備障害によりVoLTE交換機でトラヒックの輻輳(ふくそう)が生じております」と発表したから、報道各社はこれをそのまま「原因」として報道したのだった。

もちろん、「電気通信事業法」を管轄する総務省は、同法に基づいて、「早期復旧を指示した」というニュースも出た。
台風接近中の沖縄方面の早期復旧に向けた作業を、特に指示した、という。

一方で、利用客から苦情が殺到しているという。
電話とショップでの怒号に対応と報道しているのは、利用者をバカにしているか利用者がバカなのかが「不明」だ。

電話で苦情をいう利用者は、NTTの回線からかけているのだろうか?
わざわざショップに足を運んで怒鳴っても、復旧するはずもない。

そんなわけで、なんだか「フクシマ」と似た様相を呈している。
監督官庁の意味のない「指示」とか、もっといえば、やっている感だけの無責任で、「悪いのは事業者」という構造にしている滑稽がある。

もちろん、事業者は利用客に謝りたいが、なによりも「お代官様」に謝ることを優先させるのは、今後のさまざまな「嫌がらせ」をマイルドにしたいからである。

さらに「役所」からすれば、もしもサイバー攻撃だとしたら、「サイバーセキュリティ」の政策的不備を国民から糾弾されかねない。
それがまた、外国からの攻撃ならば、外務省やら防衛省の問題になって、ばあいによっては内閣府がしゃしゃり出る可能性まであって、「省益」を損ねるのだ。

外務省が役に立つはずもなく、ましてや防衛省にいたっては、自衛隊へのサイバー攻撃だけでも対処に汲汲としているけれども、「新規予算を得る」ための口実を与えてしまう。
それは、総務省の「予算減」になりかねないからだ。

現に、内閣府の警察庁がサイバー分野を「国家警察化」すると決めたのには、とりあえず「出向先」を確保したけど安心できないのだ。

さて、「サハリン2」の件で、プーチン氏が「一方的に奪取する」と憤る国民がいるのも、なんだか電話会社に怒りの電話をするがごとくの滑稽がある。

たとえアメリカ・バイデン政権から命じられても、ウクライナに一方的に肩入れしたわが国が、当事国のロシアから「敵国認定」という国際法上の手続きを「合法的に」されたことの、「想定される事態」にすぎないからである。

むしろ、敵国認定後、すぐさま「サハリン2」から「撤退」しなかった、日本企業の経営者が、「未必の故意」あるいは、「善管義務違反」で株主から責任追及されない不思議がある。

これらの企業経営者たちの「安心感」は、どこからやってくるのか?
これぞ、経団連とつるんでいる自民党幹部の「保障」を信じた成果なのではないのか?

もっと強烈なのは中国の「国防動員法」(2010年)における、「有事認定」だ。
これは、あちら側が「認定」したら、中国進出外国企業の経営資源(ひと、もの、カネ、情報)を、「国有化できる」とした法なのである。

つまりは、進出した日本企業は、会社ごと「人質」になっている。
けれども、2010年(平成22年)以降に撤退を決めた企業よりも高度技術も含めて進出を決めた企業の方が多い。

つまるところ、自社資源を貢ぐ経営者が「名経営者」になるという、おどろくほどの「倒錯」があるのだ。

さては、なぜに「auだけだった」かも含めて、国民は相当に「疑う」ことをしないといけなくなっている。

これが、わたしの【憶測】の根拠であって、「妄想」なのである。

日本版無血名誉革命2022

このブログで何回か取り上げた「参政党」の、創設者である神谷宗幣氏が、選挙期間中に巡回街頭演説を沖縄(6月24日)・九州全県でおこなっている。

これまで集まったひとの数の「最低」は、佐賀県鳥栖市の200人あまりであった。
とはいえ、なにせ人口74,000人の街である。
どうして、鳥栖を選んだのかはしらないけれど、ここを選挙区としているのは、原口一博衆議院議員だ。

長崎(6月27日)⇒佐賀⇒大分⇒宮崎⇒鹿児島⇒熊本と廻って、福岡で締めくくり、沖縄・九州巡回を終えるという。
1日は鹿児島と熊本で街頭演説をしていたが、屋根のある熊本のアーケード街には800人程度の聴衆が熱気を帯びて集まっていた。

熊本市の人口は、鳥栖のちょうど10倍、74万人ほどなので、かえって鳥栖の集まり方が人口比で「異常に多い」ことがわかる。
けれども、平日金曜日の昼下がりに、参議院選挙の街頭演説にかくも多数の聴衆が集まるという現象は過去にあっただろうか?

まちがいなく、「なにか」が動き始めているのである。

神谷氏が自身で語っている、九州・沖縄全県巡回の理由が、「白村江の戦い」(663年:天智2年)以来、「国難」のために立ち上がるのは「九州人」だという、歴史に基づいている、と。

もちろん、宮崎(日向)には「天孫降臨」という、わが国の「原点」がある。
近代では、明治維新の重要な動きは、「九州」を発信地にしていた。

それゆえに、佐賀戦争から西南戦争まで、旧武士たちは新政府に何が不満で立ち上がったのか?ということは、あまりにも重要なことなのに、「政府側」に立つ歴史観では「反乱」とされて学校で習うことになっている。

こうした「事実をねじ曲げた歴史」に対して、「修正」を求めるのは「まっとう」なことだけど、歴史を利用して国民支配を永久化したいひとたちには「都合が悪い」から、これを「歴史修正主義」として排除するのである。

すなわち、いまの九州人の3代から4代前にやったことが、当事者達の子孫すら忘れかけていることに、これを思い出させるという「戦略」が、この巡回の意味なのである。

それで、幼少時に祖父母から聞いた話の記憶を「確認したい」という欲求が
聴衆を集合させている。

80年代に国民ドラマになった、『おしん』が、佐賀の姑にいびられたのは、あまりにも高森和子の演技がすさまじく、作り物のドラマのはずがドキュメンタリー化するという、「倒錯」までしたのだった。

当時の佐賀県知事が、県観光協会の代表も兼ねて、NHKに公式抗議したことのトンチンカンは、佐賀人のトンチンカンを基盤にした、ポピュリズムであった。

「作者」の橋田壽賀子氏は、なぜに「佐賀」をわざわざ選んだのか?
それこそが、「伝統的日本」の名残が強く残っていたからであった。
もちろん、嫁いびりの伝統のことではない。

「北政所」から「大奥」になって、「奥さま」になる。
「主婦」という位置づけが、まったくもって「官房長官」だったのである。
主人たる男は、「外」で生きるが、「内」は、「全権」を奥さまが掌握する。

この「内・外関係」が、どの家庭にもあったから、亭主は給料袋を袋ごと「家内」にわたしてお小遣いをもらって生きていたのだ。

ゆえに、おしんは自分の息子世代の「内・外関係」に悩むことになる。

これが、80年代、バブル前までの「日本人の暮らし」だった。
バブル後の30年で、その「家族」が破壊されたのである。
やったのは「政府」であって、責任は「政権党」にある。

なんども書くが、これぞジャン・ジャック・ルソーが説いた「アトム(核)化」であって、その後のいまに至るまで、共産主義・全体主義に利用されることになる。
だから、「核家族」なのである。

そしていま、「核個」という「ひとり暮らし」の時代になった。

アパートにひとりで暮らすことではない。
おなじ屋根の下にいても、家族の人間関係が「バラバラ」になったのである。
まさに、ルソーの思惑通りの社会になった。

そんなわけで、これを推進する政府・与党に対抗するのが、参政党だと神谷氏は明確に位置づけている。

選挙公示前と後とでの、街頭演説の「質的ちがい」に、「政権構想」についての説明があるのも、「戦略的」なのだ。

公示前にはいえなかったことを、いまいっている。

その第一条件が、党員数の拡大である。
2月に街頭演説を開始したころの党員数は8,000人だったが、1日の発表で73,000人になっている。
おそらく、投票日には10万人ほどになると予想できる。

参政党の仕組みは、わが国初の「本格的近代政党」だから、既存政党の仕組みとは逆で、党員からの提案を基本にしている特徴がある。
端的にいえば、アメリカ共和党・民主党の仕組みを取り入れているのだ。

よって、政策が議員から党員に押しつけられることはない。
党員から議員に政策を押しつける形式なのである。

そして、議員はこれを拒否できない。
党員投票には、ブロックチェーンが用いられているから、不正もできない。
それで、党員が決めたことを議員がやらないなら、議席を失う党規になっている。

神谷氏の党員数の目標は、「当面」100万人だという。
そして、100万の党員が「事業」をおこなう計画だ。
政府がやらないことを、「党内」でやる。

たとえば、自然栽培の農産物を党員(=会員)が購入する仕組みを作って、農家に農協からの脱退を促す、とか。
新規の農業事業者と、党が予約契約して収穫前に販売量を確保する、とか。

政党が商社機能を持つのは、共産党の「生協」のパクリだが、ずっと今風でなお、党員に専門知識を活かすビジネスも提供する。
やるのは、党ではなくて「党員=会員」だからである。

これは、あたらしいコミュニティづくりなのである。

さてそれで、神谷氏は「大戦略」として、第一ステップが今回の参議院選挙だと披露した。
わが国で無名の政党が「国政政党」になる方法は、唯一、参議院全国比例で議席をとるしか方法がない。

それはまた、現実にそうであるように、「国政政党」でなければ、大手マスコミが報道しないからである。
そこで、今回の参議院選挙を「橋頭堡」とする。

来年春の統一地方選挙に、「国政政党」として多数の候補を出すと明言するのも、「国政政党」になれば「政党助成金」を得ることができるからだ。
そうやって、向こう3年内に来るべき「衆議院議員総選挙」を準備して、一気に「政権与党」になるのだという。

自公連立に加わる、という意味ではない。
政党としての自公を、葬る、という意味である。
なお、神谷氏に「既存野党」は、眼中にない。

この3年間の「スケジュール」は変わらない、「既定」なのである。

聴衆は、自公政権の崩壊に期待して「熱狂的声援」を送っている。
「民主党」を選んだ失敗を覚えているのはもちろんだ。
しかして神谷氏も声を大にして返すのは、「党員になってください」なのである。

つまり、静かなる「日本版無血名誉革命2022」が、すでにはじまっているのである。

電力逼迫と食糧危機

電力会社は電気を売って生きている。
だから、電力逼迫とは、商店でいえば「欠品」のことをいう。

食糧危機は、農家がつくる食糧が足りなくなることをいう。
この場合の「農家」とは、国内・外国、それぞれを指すけれど、足りないのはやっぱり「需要」とのギャップで生じる「欠品」だ。

さてそれで、わが国のばあい、電気は経済産業省、食糧は農林水産省が「管轄」していて、どちらも「自由経済」での「自由経営」をさせていない。
いわば、「ソ連型」を踏襲している。

相変わらず「国家統制」の対象だからである。

わが国では、どうしてソ連が国家破たんしたのかの原因追及が国民に常識として普及していないのか?といえば、日本政府にとって「やぶ蛇」になるからである。

80年代に、「世界で最も成功した共産主義国」と評価されたのは、わが日本国であった。
これには、「世界一優秀な官僚」を輩出させる、という教育の成果もあったのだ。

いやむしろ、計画経済の実行には、「優秀な官僚」は不可欠だ。

すなわち、わが国は、「ソ連を支えたロシア人」より、数倍も優秀な官僚たちがいたことが重要な事実なのである。
だから、中国人がわが国で学んだのであって、いまの首相がいう「国家の宝」が中国人留学生だというのも、功績と貢献に対する本音の披露にすぎない。

このことはことのほか重要だ。
わが国の共産主義・全体主義「体制を輸出」していたら、政権与党が共産主義・全体主義に染まったのである。

これを支える教育機関が、東京大学などの「旧帝大」なのである。

しかしながら、計画経済は、理論的に「不可能」をとっくに証明されている。
わが国ではあまり有名ではないけれど、いまもある「オーストリア学派:ウィーン学派ともいう」のミーゼスが、1920年(大正9年)に発表している。

その要諦は、「価格」という「情報」にある、と。

すなわち、国家がする計画経済(=統制経済)では、「価格」が存在しない。
国家がなにをどれくらい生産するのかを決めるので、そこに「価格」が自由経済の「価格」として表現されることがないからだ。

つまるところ、「りんご」を今年は100万トン生産すると決めて、それを1個100円で消費者に販売する、と決めたら、「そうなる」経済なのだ。
なので、50万トンしかできなくても、消費者には100円で販売される。

ならば、欠品して需要が高まればどうなるのか?
価格は100円のままで、「欠品」するだけ、なのである。
だから、ソ連名物の光景は「行列」であった。
町を歩いていて「行列」があれば、とにかく自分も並んで待つ。

うまくすれば、順番通り何かを買うことができるからである。

すると、この行列に何時間か並んで待つということも、「生産性」のなかに含まれるので、あらゆる物資が「欠品」したソ連経済の不効率は、自由経済の比較になろうはずもない。

ちなみに「不効率」とか、「効率」をいうときは、投入資源と産出資源との割合をもっていうのである。
時給1000円のひとが、1時間行列に並んで、りんごが1個100円で買えたら、そのりんごを得るための効率は1100円になる。

1976年9月に、当時最新の戦闘機ミグ25で函館空港に亡命着陸した、ベレンコ中尉は、アメリカに行ってからの手記に、「故郷の駅に腐敗したりんごが山積みになっているのをみて、計画経済に絶望し亡命を決意した」とある。

計画経済の計画が困難で不可能なのは、生産にまつわる投下資源の種類や量に関する計画だけでなく、輸送などの流通に関する計画もしないといけないけれど、これらを官僚がすべてをまとめあげること自体、できっこない、のだ。

対して、自由経済では、「価格」によって「自動調整」される。
「需要と供給」を取り持つ唯一の「情報」が、「価格」だからである。

そんなわけで、電力逼迫の原因は、例の「想定外」も含めて、なんやかんやと理由探しに忙しいけど、経産省官僚による計画経済の失敗なのである。
昨今、わが国官僚の劣化が指摘されていることの表面化だが、ソ連崩壊からひと世代30年を経ての「破たん」は、それなりに立派だったと評価しようとおもえば評価できるものだ。

もちろん、「農水省」も同様である。
世界シェアにおけるウェートが高い、ウクライナとロシアの小麦に端を発したとはいえ、一方のロシアは肥料の原材料資源国でもある。

すなわち、生産計画を策定するうえで欠かせない「肥料」についての逼迫も「想定外」だというも同然なのである。
まことに、往年のソ連経済の状態がわが国にある。

しかして、こんなシステムにしたのが、近衛内閣以来の「革新官僚=計画経済を目論む官僚」が政治家になってつくった自民党の無様なのである。
その筆頭が、A級戦犯として死刑判決があったのに生きのびた、岸信介であった。

もちろん、「独立回復後」にすぐさま国会の全会一致で、「戦犯の名誉回復」をしているので、わが国に「戦犯」は存在しない。
その後ろにいる「革新官僚」が、一度も糾弾されたことがないこと自体、国民の無関心があるからだ。

その意味で、岸を嫌った国民が起こした「60年安保」こそ、「中途半端」だったと、いまいちど見直す必要がある。

残念ながら、国民が酷い目にあうのも無関心の結果責任なのである。