「国民選択の正しさ」の意味

向こう3年間で当面ないと思われる「国政選挙」で、参議院選挙があった。

投票率は52%だったことが、あまりにも話題にならないのが不思議で、これぞ「偏向報道」というべきだろう。
どこぞの党のだれが当選したかとか、落選したかは、投票率の問題よりもはるかに「小さい」のである。

なぜならば、「国民参加率」といえるのが、「投票率」だからだ。

「業界」には、変な数字の見方があって、たとえば、テレビ放送の視聴率も、30%とか40%といえば「オバケ番組」といわれたものだが、70%とか60%は観ていないことをいわない。

なので、投票率が52%というなら、48%の有権者が「棄権した」ということだ。
すると、圧倒的な勝利をした自民党の得票率は、マスコミ報道の率に0.48を掛けないといけない。
じっさいは、コップの中の小数派による「多数」なのである。

このことこそ、「民意」をねじ曲げる、わが国存続の「大問題」だ。

だから、自民党は選挙戦でも、「投票への呼びかけ」がおざなりになるのは当然で、本気で投票率を上げる努力を「政治的にしない」意味もここにある。
「低投票率」こそが、政権維持の「要」なのだ。

そこででてくるのが、「義務投票制」による「棄権の罰則化」という手法である。

オーストラリアやベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)などで採用されていて、罰則が厳格な国とそうでない国がある。
オーストラリアやベネルクス3国は、「厳格」に適用されている。

罰金だけでなく、被選挙権の資格停止などさまざまだ。
厳格に罰金の支払命令がやって来て、これを拒否できない制度だから「厳格」なのである。
もちろんこれができるのは、「選挙人名簿」があって、投票に来たかどうかを確認する手だてがあるからだ。
つまり、わが国の投票制度は、とっくに「下地がある」といえる。

しかし、上述の理由も含めて、自民党はこのような制度化に無反応だし、概ね野党も無視している。
その「本音」がしれる、というものだ。
ならば筆者の意見をいえば、やっぱり「罰則」はいかがかとおもう。
それでもって、ヤケになって投票されても困るのだ。

なにせ、有権者の48%もいるからだ。
この半分が、突然、弱小野党に投票したら、そこがいきなり政権与党になってしまう可能性があるほどのボリュームだからである。

もう一方で、「国政選挙」における投票率が、義務化されていなくとも高い国もある。
だいたい8割、減って7割という水準を維持している。
なお、わが国の投票率の「世界ランキング」は、昨年の衆議院選挙の53.68%で比較したら、139位(対象は194ヵ国・地域)という結果になっている。

義務化されていない国の代表格は、スエーデンで、この国の「高福祉を真似ろ」という学者はいても、そういう学者は「高投票率を真似ろ」とはいわないものだ。
つまり、「こうした学者こそが政治家」になって、政治発言を、「学者の肩書き」を使ってテレビでしている。
もちろん、「いわせている」のは、テレビのひとである。

スエーデンでは、公立学校でも小中生のうちに、「政治への関与の必要性と重要性」を「教えて」いる。
理由は、「国民教育」だからである。
なので、校内で模擬選挙をやったり、じっさいの候補者が学校に来て生徒たちに「演説」してアピールすることがふつうになっている。

これは、わが国の「常識の真逆」といえる。

わが国の公立中学校で、各候補者が演説会をする、なんて想像もできないし、PTAの絶叫的反対運動が起きるだろう。
「政治から分離された空間」こそが、教育現場だという思いがあるからだ、と。
しかし、教職員組合の「活動」だって、校内で行われていて、これに文句をいう親はいないし、そんな教師にわが子を預けることに反対も拒否もできないのである。

こんなことの「延長」に、わが国の政治空間ができている。

つまり、子供だけでなく親さえも、学校に口を挟むことが許されず、黙ることが「訓練」されるのである。
ゆえに、子供が18歳で選挙権を得ても、親に相談することもないのは、親がわからない、という状態に長年おかれていたことすらも、ほんとうは「社会訓練」の成果なので、親子で棄権してはばからない環境がつくられている。
しかも、本人たちは、それが「させられた」という意識もなく、自分で棄権していると信じているほどに「重症」なのである。

そんなわけで、たとえば、「新党」における「ちがい」すら理解できないのは、もっと重要な学習訓練のうち、「読解力」を修得させられないことの、これまた教育成果なのである。
読み書きはできても、意味がわからない。
なにしろ、用意されたテストの結果さえ良ければいいのである。

そうやって、読解力がないひとたちが、政治家になったり、経営者になったり、マスコミ報道を担っている。

さんな、国民が選択した結果に、全員が従わないといけない制度は、長くはない。
むかしなら革命論になるのだろうけど、はてさてどうなるのか?

すくなくとも、安定の「衰退」が確実になったのである。

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