混沌経済体制の国ニッポン

「混合経済」という言葉は,かのサミュエルソンが言った.
資本主義自由経済と社会主義経済を混ぜ合わせてできる,一種の理想型であったし,それを実現しているのは唯一日本だと思われていた.
しかし,明治以降の日本の歴史をみれば明らかなように,日本はそもそも完全に資本主義自由経済を基盤とした国にはなっていなかった.つまり,前期資本と資本主義が共存するレベルだった.
そこに,マルキシズムが注入された.
70年代の日本の成功は,混合経済だったからではなく,単純に冷戦構造と安い石油のおかげだった.
しかし,専門家には混合経済が魅力にみえたのだろう.
バブル崩壊後の日本だけが,世界経済のお荷物になってしまったのは,前期資本が温存され,さらに,役人主導の混合経済の成功体験という幻想に惑わされた結果だとかんがえられる.
昨今話題の「ブラック企業」の所作は,あきらかに前期資本的であって,これを行き過ぎた資本主義だと批判するのはそうとうにお門違いである.行き過ぎたのではなくて,あまりにも古くさいのである.
それは,従業員を使用人だとかんがえるパターンが共通に見えることからもわかる.
これは,江戸のお店(おたな)における使用人と同じで,身分意識にもとづいているからだ.
つまり,資本主義になりきれない経営感覚が,ブラック企業を作りだしているのだ.
あまりにマルキシズムの影響を強く受けたため,資本主義が嫌いという社会が日本であるが,資本主義になりきれていないという観点から見れば,実は,日本人は資本主義とは何かを学ぶ必要があるのだ.
すなわち,ベースに前期資本がしっかり残り,その上にマルキシズムの薄い層が広く塗られ,一部にシミのように資本主義自由経済が浮かんでいるのが日本経済の構造ではないか?
マルキシズムの薄い層が広くあるというのは,官僚支配のことである.
すると,これらをまとめれば,混沌経済国であるという結論になるのである.

大企業の不祥事を予言したガルブレイス

不正が企業文化になるということ

2017年、日産自動車で全社をあげての完成車検査においての不正が発覚し、それからしばらくして、神戸製鋼でも品質検査における不正がグループ会社を含む全社をあげて発覚した。
さらに、この二社に共通していたのは、発覚後、企業トップすなわち社長による謝罪会見で適正化を約束したにもかかわらず、不正を継続していたことが再び発覚したことである。

マスコミは一斉に「日本のものづくりの劣化」とし、神戸製鋼の「手口」が記事となって報道されている。(*注:産経,2017.10.2)
問題なのは、手口ではない。「なぜ不正が行われたのか?」につきる。
神戸製鋼では、40年以上にわたって不正がおこなわれ、手口については先輩から後輩へ申し送りされていた、というから、まさに不正が企業文化になっていたといえよう。つまり、不正してできた製品が、社内では「正規品」になるということだ。このことは、不正がJIS規格品にまで及んでいたことからも明らかである。
日産の場合は,「社内資格者」とはどんな「資格」なのかがわからないが,組立工程ごとに品質管理されているのが日本のものづくりの常識だから,そもそも「完成車検査」とはどんな専門知識を要するのか?外部からは不明である.また,輸出向けでは問題になっていないことも不思議である.
すると,もしかしたら,機械(メカニズム)主体だった時代の尾てい骨のような義務が国内販売だけで適用し続けていることなのかもしれない.

今年の最新型アウディは,全車がネットでドイツ本社に接続されており,不具合もドイツ本社で把握できるシステムが採用されている.つまり,メカニズムも各種センサーによって監視されているということだ.すると,一体,完成車検査とは人間がなにをすることなのか?という疑問がふくらむ.
これは,役所(国土交通省)によるムダな作業の強制の例なのかも知れない.
だとすれば,神戸製鋼の事例が,文化的要素としてはより深刻だといえよう.

ガルブレイスの「新しい産業国家」

資本主義における「成熟した法人企業」の現実の支配者は、「テクノストラクチュア」である、というのは1968年にガルブレイスが『新しい産業国家』で主張したことだ。「テクノストラクチュア」とは、高度な科学知識を持った専門家という意味である。企業内技術官僚とでもいうべきか。誤解をおそれずにいえば、日本の大企業が採用する、文系・理系を問わず「総合職」あるいは「幹部候補生」のなれの果てといってもよかろう。
ガルブレイスは、資本と経営の分離が一般化したなかでの「成熟した法人企業」が追求する企業目標は、「テクノストラクチュア」自身の安全であり、そのために成長が望まれるという。利潤は「テクノストラクチュア」の安全に必要な最低限をこえるかぎり、成長に次ぐ第二義的なものでしかないから、「テクノストラクチュア」の刺激誘因は金銭的なものではなく、組織との一体感とか組織を自己の目標にあわせるという適合であるという。

これは、経営と労働の対立という伝統的概念ではもう古いから「新しい」産業国家なのでろうが、そこに「テクノストラクチュア」という社内でかたまった集団による企業簒奪が新しいのだ。つまり、新しい形での企業の「人民管理」なのである。
ところで、このような大企業の形式的な経営者は誰なのだろうか?
資本と経営の分離が一般化した社会では、経営者とは、資本家すなわち株主から経営を委嘱された人々を云う。欧米企業に比して、日本企業は企業内昇格によって経営者になるのが一般的であるから、その出自はまずまちがいなく「テクノストラクチュア」ということになる。
この点、ガルブレイスは、『新しい産業国家』の日本語序文において、この本が欧米の経済学主流派よりも、「マルクス」に基盤をおく日本の経済学主流派に、より剴切(しっくりする)だろうということの一つだろう。
しかし、議論をここでとめるわけにはいかない。
冒頭の、わが国を代表する大企業二社の事例のすべてを説明できないからだ。

なるほど、「テクノストラクチュア」による企業の簒奪は、その目的が「テクノストラクチュア」自身の安全であり、組織との一体感だとすれば、不正を実行したことの動機としてあり得る。面倒な規格を遵守しなくても、厳格な品質管理を怠っても、大事なのは組織の一体感かもしれないし、「テクノストラクチュア」としての高度な知識からすれば、そんな規格や品質基準など「過剰である」と厳密に定義してしまえば、それこそ組織を自己の目標に適合させることになる。さらに、発覚リスクをかかえれば、そこに一体感も醸成できる。また,品質水準に関与できる職務は,一般職ではあるまい.つまり,社内では管理職にあたる層だとすれば,ここに自己保身と一体感が醸成されることはむしろ自然の成り行きだろう.
そして、発覚して会社が損を被っても、利潤は「テクノストラクチュア」の安全に必要な最低限を越えればいいから、経営陣による社会への謝罪会見などどうでもいいのだ。当然に、「テクノストラクチュア」の安全とは、正社員としての身分保証である。
しかし、それでは、「テクノストラクチュア」出身の経営陣の「無知」はどうしたことか?かれらは嘘をついているのだろうか?
おそらくそうではあるまい。
これは、「身分」にかかわる「断絶」が発生しているのではあるまいか?

「身分制度」こそ現代日本の姿である

会社法に定めるように、従業員と経営者では身分がことなる。そのため、大企業では、従業員から経営者に昇格すると、「会社都合」として退職金が支払われる。そして、いったん個人となってから、改めて株主総会で取締役に就任することになる。使用人の身分から、使用者への転換である。この瞬間に、高度使用人である「テクノストラクチュア」の世界から、追放されるのだ。
もちろん、社内は「テクノストラクチュア」が支配しているから、追放された経営者は、自らが欲する経営情報を得ることができなくなる。そこで、たいがいの大企業では、「社長室」、「経営企画部」などといった、選ばれた「テクノストラクチュア」たちが、事実上の司令塔になり、経営者役員たちは、彼らの手のひらの上で踊ることになる。もし、社長が何かを命令しても、その実行計画を細部にわたって策定するのは「テクノストラクチュア」たちだから、本人の意図しない結果になることもある。また、その命令の内容が、「テクノストラクチュア」の安全に抵触するなら、おそらく、経営者がおもいもつかない理由(実は説得力がある)を指摘されて、当初からすれば骨抜き案になるだろう。
こんな内部事情があるから、不正を正常化する課程を自助努力で解決できない。なぜなら、それは「テクノストラクチュア」を最低でも二分することになるから、組織との一体感を重視する「テクノストラクチュア」は動かないのだ。もし強行すれば、社内は複数の派に分裂し、統治が困難になるだろう。そこで、日本の大企業は、外部専門家に依頼するしか方法がないということになる.

神戸製鋼の社長は、すでに体調をこわしてしまったらしいが、「テクノストラクチュア」からの追放の意味をかみしめればかみしめるほど、役員就任以来の自己の人生が虚空に満ちたものであると実感するしかない。精神的なタフさが求められる正念場だ。
日産自動車の方策は、かなり強制的で、自動システムを構築して不正をなくすらしい。この「自動システム」が内製なのか外部製なのか不明だが、外部製でなければならないと推測する。内製だと、それを開発させられる「テクノストラクチュア」部隊が、将来、派閥的いじめにあう可能性がある。自動化がアウディのような仕組みだとしても,既存の検査資格者の特権が問題になる懸念である.
ちなみに,日産がルノーの支援を受け入れざるをえなくなったとき(つまり事実上の倒産),「技術の日産」がテレビのCMで流れていた.お客様目線からすれば,これは提供者の論理になると批判されたものだ.ところが最近,このフレーズが復活していた矢先の事件発覚である.「テクノストラクチュア」の復権の象徴だったのかもしれない.