人工温泉の銭湯

「天然もの」だからといって,ぜんぶの「魚」がうまいわけではない.時期や気候変化など,様々な要因で,安定しないのも「天然」ならではのことだ.
一方で,「養殖」あるいは「人工」だからといって,それだけで忌み嫌うのもいかがか.目的や用途によっては,十分満足できると同時に,あんがい「天然」と区別できないことがある.もちろん,手軽さという点では,天然以上のこともある.

最近の銭湯の進化は「湯質」にある.

火山がおおい日本列島は,世界でも有数の温泉大国である.また,入浴方法として,湯船に浸かる習慣は,古代ギリシャ・ローマとブータン,それに日本だけ,というのも文化人類学ではいわれている.
だからか,「銭湯」がめずらしいので,外国人観光客たちの観光スポットにもなってきている.それで,「入浴マナー」がわからない外国人に,絵で示した注意書きが貼ってあるのを目にする.

天然の炭酸温泉は,火山性とは逆の性質の地層でないといけないらしいから,温泉がどこにでもある日本国内でも,かなり珍しいものだった.ところが,医学的に,炭酸ガスの温泉入浴が,血行を改善すると認められて,がぜん注目があつまった.循環器系のおおきな病院には,炭酸ガスの風呂があって,これに「治療」として入浴すれば,ちゃんと「点数」が計算され,健康保険が適用される.

それで,いまとなっては「人工炭酸風呂」は,銭湯でも定番になりつつある.廃業がつづいている業種であるが,きっちり経営は二極化しているようだ.

最近のトレンドは,「高軟水」である.
「軟水」とは,「硬水」とちがって,ミネラル分がすくない水をいうから,「高」がつくというのは,ほとんどなにも入っていない水にちがいない.もともと,日本の水は「軟水」だから,水道水も「軟水」だ.ペットボトルで買うと,ほとんどが「ミネラルウォーター」すなわち「硬水」を飲むことになる.ミネラルウォーターを,黒くコーティングされた鍋で沸かすと,まわりに白い粉がつく.これが「ミネラル」で,主成分は「カルシウム」である.水道の水でこうはならない.

ちなみに英国の水道水も,ヨーロッパでは珍しく「軟水」である.ポットに蛇口から勢いよく水を入れると,泡となった空気もいっしょに混ざる.これでわかした湯でもって紅茶をいれると,すこぶるうまい.みえない空気の泡で茶葉が適度に「踊る」,水に余計な成分がないから,ピュアな味になるというわけだ.ヨーロッパ大陸側は「硬水」なので,おなじ紅茶でも味はおちる.それで,コーヒーが主流になった.

さて,「高軟水」の湯である.
これで顔を濡らして手で触れればすぐにわかる.つるつるなのだ.
髪も,かわけばさらさらになる.
「高軟水」は,ミネラルでもある石鹸成分や皮脂の古い油分を取り除くからだという.

その「高軟水」をつかった,炭酸泉や,マイクロバブルの湯に超音波振動など,機能性のある湯船が幾種類もあるのが最近の「銭湯」である.

銭湯とフランスのパン屋

自宅に風呂がない,とか,自宅の風呂釜がこわれて修理中とか,理由はそれぞれあるにせよ,原初は,自宅に風呂がない,が圧倒的な利用理由であったろう.
江戸の長屋が,現代のアパートになっても,住宅事情がわるかったころは,日常で銭湯しか入浴できないから,生活必需,という分野だった.そして,町内に一軒かならずあった.

このような状態は,かつてのパリのパン屋のようである.パリのパン屋は,町内のひとは町内のパン屋でしか購入できなかったから,そうはいっても日本の銭湯はまだ自由だった.ただし,別の町内の銭湯に浮気すると,なんだか冷めた目線でみられたものだ.
パリでこの町内規制が撤廃されたのは,カルフールのおかげだった.大型スーパーで売っているパンを,みなさんこぞって購入した.町内の全人口が,自分の店のパンを必ず買う,ということが,どのくらいパンの品質を低下させるのか,すこしかんがえればわかることだ.

ところが,カルフールのパンは,日本製の冷凍パンを店内で焼いたものだった.
これで,フランスのパン屋組合が両手を上げた.町内規制強化よりも,競争を選んだのだ.
「このままでは,フランス人のパンは,ぜんぶ日本製になってしまう」つまり,「フランス人のパンは,フランス人が作らなければならない」であった.
世界に冠たる「フランスパン」は,こうして生き残っただけでなく,おそるべき底力で「世界に冠たる」を復活させた.その陰で,町内のパン屋のおおくが廃業せざるをえなかった.

人気銭湯の近場という立地

いまや,銭湯はひきつづき生活必需ではあるものの,レジャーという要素が急速におおきくなっている.これは,スーパー銭湯との競争がそうさせたのではないか?

自宅に風呂があろうがなかろうが,たまには快適なおおきなお風呂がいい.
選択肢はたくさんある.スーパー銭湯もいいが,さてどうしよう.きょうはどこに行こう?
毎日が日曜日とはいわないまでも,生活に余裕があれば,毎日でもゆったり浸かれるお風呂で,快適さと健康を維持したい,というのは人情だ.

ゆっくりすればするほどに,喉が渇く.
最近の銭湯は,牛乳系だけでなく,ちょっとしたつまみや生ビールもある.
だけど,ほんとうは,近所の居酒屋で一杯できれば最高だ.
こうして,銭湯の近場という立地があらわれる.

温泉宿はどうなる?

温泉宿が,まさか都会の銭湯と競合しているとはおもっていないかもしれない.
しかし,日常の銭湯の進化は,確実に利用者の満足度というハードルをあげている.
利用者は,銭湯を銭湯だけで評価しない.銭湯が「レジャー」になったから,銭湯と近所の居酒屋はセットである.銭湯の待合の一杯コーナーをみて,評価するなら,おおきな間違いをおかす.
つまり,温泉旅館がもつ機能の,風呂と食事は,すでに銭湯と競合している.スーパー銭湯には,これにお休みどころがついているから,温泉宿とのちがいが縮小しているのだ.

温泉宿は,どこで勝負するのか?
フランスのパン屋のような,一大決心がいるのだ.

国体のおもてなし

外国人観光客の数がずいぶんのびたから,政府が設定した目標は達成できるかもしれない.
もっとも,その目標値が,どういう根拠だったのかは知らないけれど.

関係者は,半世紀前の成功をもう一度,と「東京オリンピック命」になっている.
分母の数がちがいすぎる状況なので,今度のオリンピックで,「ものすごく外国人が増えた」ということは,あまり感じないかもしれない.
それでも,ホテルや民泊の供給はふえている.

「オリンピック」にばかり目がいくが,ドメスティックなレベルで「国体」というイベントが毎年ある.47都道府県の持ち回りで順繰りするから,約半世紀に一回,順番がまわってくるしくみだ.「国体護持」の「国体」ではなく,「国民体育大会」というイベントの略語である.
簡単にいえば「大運動会」なのだが,内容が「オリンピック競技」に準じるようになっているから,「国内競技大会」である.「国民運動会」としたら,なにやら政治的な集会のよう,それで「体育大会」としたのだろうか?
地元は,半世紀に一回の「理由」がやってくるから,公共事業ができる,という面もあるようだ.これも,オリンピックに準じているのだろう.
今年は福井県が会場だ.それで,福井の街には,さまざまな槌音がひびいている.

あと二年になった東京オリンピックでは,例によって,世間がわからない政府は,飛行場などにロボットをおいて,世界最先端の国ニッポン,をアピールしたいらしいが,すでにおおくの観光客から,「意外なニッポン」として不便さを指摘されているのが,決済,である.

「いまどき『現金の円』しかつかえない不便な国」

日本は,世界の尖端をいきすぎて,スイカなどの交通系では,処理能力が高すぎるために,外国人がもっているスマホ端末の世界標準にはあわない.

だから,しょうがないじゃいないか.

ならば,せめてもっとクレジットカードがつかえないモノか.
キャッシュレスのはずが,ガラパゴスだったりするのは,やはり交通系しかつかえない「コインロッカー」である.
これが「最新式」なのだ.

JRという会社は,ドメスティックである.
それでいて,駅舎の建設では,あいかわらずポスト・モダンという日本建築学会の言いなりである.
「発注者」としての矜持はないのか?

福井駅の駅前には,恐竜の模型がいくつもあって,それが首を振って唸り声をあげる.
日本一,恐竜の化石をだしているのが福井県だから,福井は恐竜,になったのだろうが,どうしてこうなったのかが不思議である.
あらためて,専門家に「恐竜はほんとうに唸り声をあげていたのか?」と聞いてみたくはなった.

幕末の大秀才,橋本左内を生んだ土地として,恥ずかしくないのか?などと,他県の人間でもおもうから,きっと福井のひとでも駅に行くたびに憂鬱になるひとはいるだろう.

そのJR福井駅は,自動改札ではない.しかし,あたらしい駅舎構内の店舗では交通系の電子決済ができるようになっている.けだし,「交通系」だから,これも国際標準ではない.
改札は,「福井国体にあわせて」自動化される予定と掲示があった.周辺の駅もみな自動化しないと意味がないから,改札の自動化はたいへんな投資になる.

どうして国体開催と自動改札化が一緒になるのか,そのへんの理屈はわからないが,他県の選手をむかえいれる「おもてなし」だという.その理屈で,路面電車の線路も交換されていて,かわりに工事中のいまはバスがはしっている.ついでに,電停の駅名が,「市役所前」から「福井城址大名町」に変更されるらしいが,それも他県からの観光客への「おもてなし」だそうだ.

ああ,なるほど,自動改札化もあくまでも「国内」基準なのだ.
他県の人間がいちいちたてつくわけでもないが,「市役所前」のどこが不都合なのかがわからない.
「市役所前」電停からもっとも近い「市役所」からさらに歩くと,「福井城址」がみえてくる.かつての福井城はいま「県庁」というお城になっている.
立派なお堀に石垣がある.
けれども,白いコンクリートの無粋な県庁が鎮座しているさまは,まさに明治新政府による徳川親藩,それも幕末の名君松平春嶽への当てつけ以外のなにものでもない.
こんな県庁を撤去・移転するくらいの福井県人の根性がほしいものだが,なんとも不思議な発想をなさるものだと感心した.

雪かき

小学校でならう日本の歴史に,律令国家の税制がある.
「租」,「庸」,「調」,あわせて「租庸調」とおぼえれば点数がもらえた.
いまの税制では,基本はお金で納めることになっているが,現金がなければ物納も可能である.
なので,労役である「庸」がない.
あえていえば脱税して有罪が確定すれば「懲役」になるが,行動の自由をうばわれたうえでの「労働」なので,「庸」とはいえまい.また,「懲役」であっても,「給与」はでる.
そんなわけで,現代には「労役」としての「納税」はなくなった.

生活のうえでの公共的労働は,ある意味,現代における「庸」なのかもしれない.

「庸」としての雪かき

雪国なら当然でも,めったに雪のない太平洋側,それも首都圏では,「雪」というだけで事件である.
冬タイヤの装着があたりまえではないから,数センチの雪でも立ち往生する.
年に数回しか降らないものに,タイヤで数万円から10万円ほどの出費はしない.だから,「雪」とわかれば,素人は運転をしない日ときめる.
しかし,玄人は運転しないわけにもいかず,冬タイヤの用意もないからえらいことになる.

むかし,エジプトに住んでいたとき,年に数回しか降らない「雨」で,カイロの都市機能がマヒしたのをおもいだす.
「雨」といっても,車のフロントガラスは,ぼたん雪が付着したようになる.「砂」が混じっているからだ.歩行者は濡れると服がシミになって落ちないので走り出す.もちろん,傘などだれももっていない.「砂」といっても,龍角散のような微細な粒子である.降り出してたった数分で,自動車の運転が困難になる.砂が前方の視界を遮断するからだ.
おおくの自動車には,ワイパーもウォッシャー液も搭載がない.年に数回しか降らないから,ワイパーは必需品ではないし,ウォッシャー液は入れておいても乾燥でカラカラになるから,いざというときにからっぽなのだ.そして,歩道下数十センチの砂に埋設してある電線がショートして,数メートルの火花があちこちで飛び,そのブロックは停電する.電線の被覆がやぶれていても,ふだんの乾燥で漏電しないからわからない.これで,信号も消える.

日本のはなしにもどろう.
日が当たる道なら,すぐに溶けてしまうが,日陰のばあいは凍結するから危険である.
屋根の雪下ろしをするほどの量はないが,雪国では雪下ろしの手伝いで,新参者が仲間として認められると聞く.
むかしは,玄関先から敷地がある道路面は自家の責任としてきれいにした.これは,ふだんの掃き掃除の延長というかんがえだったが,高齢化でこれができなくなったから,路地はまだらになった.若いひとがいるエリアだけがあるきやすい.

商売の刻印にもなった

ふだんから気になる店というのはあるもので,なぜか入店していないが外から垣間見てチェックする,という場所が何軒かある.
そんな店のなかで,自店の店先がみごとなアイスバーンになっているのを発見すると,「雪かきもしないのか」ということをスタートラインに,「『ウエルカム』という意識がない」とかんがえたり,「こんな店に入らなくてよかった」とかと,連想がひろがる.
そもそも.入店も危険だが,店内から出るときが危ない.アルコールをだす店でこれはないだろう.

北側の歩道に面しているから,一週間たってもアイスバーンのままである.「雪」のうちになら排除もできるが,踏み固められて凍ってしまうと,つるはしでけずるしかなかろう.すると,この店の前をとおることが「危険」だから,気づいたひとは反対側の歩道を選んであるくようになる.すでに,それが習慣になったひともいるはずだ.

ようするに,自分の店さきにひとがこないようにしているのだ.
氷雪が溶けても,ひとびとの記憶に刻印される「危険」という警報は,きっと夏になっても消えないだろう.

毎日述べ2キロを清掃する会社

開店前に,従業員総出で近所の清掃に励む会社がある.その距離が2キロ.
「お客様の自社への通り道」だからというのが理由である.

清掃でキレイになるのは,道路だけではない.
従業員たちの精神も,それを毎日みているご近所さんたちの精神も,そして,その活動をしっているお客様の精神もキレイにする.
だから、この会社で売っている商品は,いっさい値引きなしで売れている.
しかも,わざわざ遠くから買いに来るひとがたえない.
この会社で買えば,何年も安心してつかえるから,買った側が「値引きはなくても最後は得」だとおもうのだ.それは,手放すときの「査定額」のちがいにあらわれる.

この会社が売っているのは,わが国の巨大自動車メーカーの乗用車である.
つまり,この会社は「カー・ディーラー」だ.
同型車が何万台も製造されて,国内だけでなく世界に輸出されるものを売っている.
この会社のお客様が買っているのは,自動車なのだが自動車そのものの価値とはちがうものを追加して買っている.これが「付加価値」である.
自動車はメーカーが製造しているが,この会社は「安心」を製造している.

だから,この会社は周辺に歩きにくい「雪」を残さない.

日本はEUに加盟できない

2015年にドイツのメルケル首相が来日したおり,安倍首相に日本のNATO(北大西洋条約機構)加盟を提案したというニュースがあった.もちろん,日本として現状ではこの提案をお断りしたということなのだが,「北大西洋」という地域にはこだわっていないことは確かだろう.それは,西ドイツが加盟した1955年より前の1952年に,地中海の国であるギリシャとトルコが加盟していることからもわかる.もちろん,ドイツも北大西洋に接していない.

ところで,現在のEUのはじまりは1957年に発足したEECであった.
この組織の加盟要件には,「欧州」と地域要件が明記されているから,日本は加盟できないのだが,仮に地域要件をはずしても,日本は加盟できない.
その理由は,政府債務比率要件である.これを,「経済収斂基準」とよぶ.
財政赤字GDP比3%以下、債務残高GDP比60%以下,でなければならないのだ.

日本の数字の実態は,各自お調べいただき,また,じっさいにどうやって政府財政を立て直すかの議論も横において,単純な事実として,日本はEUに加盟できないことだけはしっておこう.蛇足だが,同時代においてもEECの加盟経済要件を日本は満たしたことはないから,今日までもふくめて日本はEECからECそしてEUとなっても一度も加盟条件を満たしたことはない.

あれ?
世界の経済大国ではなかったか?

いまでも,中国の国家統計数値がただしければ,世界第三位のGDPをほこる国なのだが,中国の国家統計というものの評価しだいでは,もしかしたら日本は世界第二位をキープしているかもしれない.
しかし,残念ながら,日本もかなりの張りぼて国家であるということだ.
これは,間違いなく,「政府依存」が原因だろう.

やっと貿易黒字をだしている

かつての「貿易黒字大国」はとっくに過去のはなしである.
中曽根康弘総理が,NHKテレビの特別放送で,国民に「アメリカ製品を買いましょう」と呼びかけたのは,日米貿易摩擦からはっした苦肉の策だった.
石油や鉄鉱石のほとんどを外国から輸入しているのに,製品化して輸出すると儲かってしまう.
これぞ,明治以来の悲願だった「貿易立国」の理想郷だった.
この放送をうけての国民の反応は,「買えと言われても,アメリカ製品で欲しいものがない」というのがおおかただった.

いまや,かつかつの貿易収支になって,赤字になったり黒字になったりしているのが日本のすがたである.
70歳以上の「大人」には,日本の貿易収支がかつかつであるといっても,にわかに信じられないのではないか?

安定しているのは資本収支になった

「経済の成熟化」のもうひとつの顔である.
外国に投資した見返りのお金がやってきて,トータルで黒字になっている.
ていよくいえば,利子で食っているお金持ち,なのである.

人口減少という「縮小」が避けられないから,ほんとうは国内投資ではなくて,外国投資が望ましい時代になっている.
だから,資本収支の黒字をいかに増やすか?というのは,方向として正しい.

超高級ホテルが存在しない国

国民の数は縮むのだが,訪日外国人の数はふえている.
しかし,外国からの直接投資がほとんどない状態だから,訪日客のたいはんはビジネス客ではない.
英国人のデービッド・アトキンソンさんが指摘しているが,なぜか日本国政府は「人数」にこだわった目標をたてている.これに「単価」も目標にくわえれば,数量×単価=売上,という公式になるが,不思議と「人数」が前面に出ている.

どうやら,低単価なのを人数でかせごう,というかんがえのようだ.
首相を頂点とする日本政府の最重点課題は,「生産性向上」というのが,いかにあやしいものかがわかる.
おなじ人数なら,高単価のほうが生産性は高くなる.
こういう算数ができないのが,平等主義に凝り固まった役人の限界である.その役人がひきいる政府に民間が依存しているから,生産性向上をかんがえるのも政府の仕事になった.もはや「高級官僚」という八百万神を拝むしかない宗教国家に堕落した.
観光政策の政府委員として,アトキンソンさんの活躍に期待したい.

知らないうちに「スタンダード」になるのを,「デファクトスタンダード」というようになった.
パソコンのOSが,ウィンドウズで世界統一されたのが典型例である.
いま,世界の宿泊施設で,デファクトスタンダードとなっているのは,一泊$40,000以上の宿を「超高級」というカテゴリー分けしていることだろう.

わがくにに,「超高級ホテル」は一軒もない,という事実は知っておいてよい.
わたしの古巣の帝国ホテルでも,最高級の客室は$10,000ほどだから,世界標準の1/4でしかない.
ちなみに,世界一の超高級ホテルは,スイスにあって,一泊$100,000である.
生産性は,単純比較で10倍のちがいになるから,日本のサービス業の生産性が低いのは,こんなところから議論すべきだろう.

加入できないなら行けばいい

世界水準のお金持ちが,日本にほとんどいない,ということが,日本に超高級ホテルがない理由でもあるのだが,これは世界水準のお金持ちが日本にきても泊まるところがない,ということでもある.だから、こない.

ならば,ちょうどよさそうな国に行けばいい.
わたしのお勧めは,欧州でもいまだに未開の旧東欧圏である.
忘れてはならないのは,これらの国はみなEU加盟国であるから,政府債務に関しては,あきらかにわが国よりも先進国である.
「おもてなし」の輸出である.

おひとりさま食堂

「少子」をざっくりいえば,結婚しない,子どもがいない夫婦,あるいは「ひとりっ子」を意味する.成人のほとんどが結婚して,三人兄弟がふつうだったら,「少子」でもないし人口は「増加」する.

子どもがいても,ひとりっ子なら,将来は,「いとこ」も「またいとこ」もできない.
ひとりっ子どうしが結婚して子どもがいないと,高齢化して,「連れ合い」のどちらかが先立てば,生涯孤独の存在になる.

だから、高度医療であろうがなかろうが,だれかにみとられて「畳の上」で人生をとじることは,もはや贅沢のきわみかもしれない.
そういった,シチュエーションが,「ふつう」ではないからだ.

すでに,夕方の住宅地の食堂は,おひとりさまが目立っている.
年金や自治体の補助に,地元食堂での食事券という選択肢も将来できるかもしれない.

「夕食年間契約」の店もある.きいたら30万円/年,だった.
週末と祝日を考慮して,年間250日とすれば,1食は,1,200円になる.
豪華さ,ではなく,栄養をかんがえたお袋の「家庭料理」が売りだという.
お客さんの好き嫌いを「無視」するところも,お袋らしい.「好きなもの」ばかりでは,身体に悪いという愛情表現だ.

「在宅勤務」もふえてきたから,現役おひとりさまの自宅でのひるごはん需要もおおいだろう.
じつは,在宅勤務のお悩みごとに,運動不足がある.
それで,夜間,配送などのちょっとした肉体労働が受けている.
むりやり運動できるからだ.

こうしたひとの日中は,多少寝ていても問題ないが,とにかく連絡事項などに対応するためにパソコンのまえからぬけられない.それで,買いものも面倒になると,宅配弁当というお手軽さがまっている.
こんな生活をしていると,確実に肥るから,なんとかしたくなるのだ.

あくまでも,運動ではなく,弁当のほうでコントロールしたいのなら,カロリー計算がちゃんとできている弁当がある.
糖尿病や腎臓病の患者向け冷凍弁当は,病院からの退院時に栄養士から紹介されるひともいるだろう.

健康維持のための食堂がほとんどない

「病気」が他人にもれるのは気分のいいものではない.
それでか,外食の機会がおおい「現役」も,なかなか決め手にかけるのが昼食の選択である.
持病があっても「気にしない」ようにしないと,外食はできない.

「健康」と看板に書いているお店もあるが,入店してメニューを見たらなにが健康なのかがわからないことがある.
カロリー表示はずいぶんまえからある.さすがに1,000キロカロリーを超えると手がでないが,これが平均かと思うようなメニューで,ふつうに営業している店があるから,「健康」はうらやましくもある.きっと,オーナーが「健康」なのだろう.

いまはやりの糖質制限食とかを前面にうちだすのはよいが,健康なひとから病人食だと勘違いされるとこれも困る.
さりげなく,わかるひとにはわかる,そんな表記がないものか?
すくなくても,「安くてお腹いっぱい」という要求ではなくなってきている.

手間を食べる

手間ひまかけたり,ひと手間くわえたり,およそ「美味しいもの」には手間がかかっているから,食べる側は食材のほかに,手間を食べている.
だから、「美味しいものを食べさせたい」となれば,手間をかけなければならない.

「働き方改革」による「生産性向上」を柱にうちたてた首相も,「美味しいもの」を食べるなら,それは手間がかかっているから,しっかりした単価のお店に行かねばならない.もちろん,一国の首相がいく店だから,相応の単価だろうが,「生産性向上」なのだから,もっと支払うことで単価をあげて,国民に範をみせなければならない.

日本料理が世界遺産になったとよろこんでいるが,職人の育て方が従来どおりのままだと,作り手が減るから,需要と供給の原則から,おそろしく高価な料理になるかもしれない.それがねらいなら,なかなか遠大な作戦である.しかし,「日本料理界」に指示命令系統はないだろうから,なんとなく上記の「目標」が達成されることだろう.
「生産性向上」に間違いなくなる原因が,「なんとなく」であることになる.

どうして,日本料理の職人のかずが減るとかんがえるかは簡単である.
もう,西洋料理では調理師学校でも若くして「オーナーシェフ」になるためのプログラムがはじまっている,ということをこのブログでも書いた.
料理人の目標は,洋の東西をとわず「一国一城の主」になることだから,文系で勤め人になって,あわよくば役員に出世できれば,というものとはまったくちがう.

たとえば,「見習い」という,文字どおり下働きをしながら先輩たちの仕事を見て習う,という期間が最低3年と聞いただけで,最初から選択肢からはずれる.
高校の「調理科」は,「工業科」や「農業科」とくらべて全国的にみても圧倒的にすくないが,大人気という理由は,料理の基礎を3年で習得できて,さらに「高校卒業」資格までもらえるからだ.しかし,あんがい注目されていないが,「調理科」では,「経営」まで教えている.もっとつっこんで,従業員のつかいかたもあればよいとおもう.ただし,それでは三年間ではたりないかもしれない.

以前,公立の高等専門学校の先生に,「専門」なのはいいが,「マネジメント教育」が抜けているのは残念だとはなしたら,「校長」に進言したいと仰った.実現していないから,まことに残念だ.
どんな分野でも,専門性を追求して成功すれば,だいたい組織の長になる.べつに「マネジメント教育」は,上司のためだけのものではないが,「人間作り」では不可欠だ.

「工業高校」や「農業高校」,「商業高校」などの実業教育でも,「マネジメント教育」が欠如してるようにみえるのは,教職員も教育委員会という役所も,実務経験者がいないからだ.
どうやったら稲や野菜が育つかは,たしかに重要だが,どうやったら「売れる」のかや,「儲かる」のかということが欠如しては,実業教育として「手抜き」である.
まるで農協依存になるようにさせているようで,始末の悪い大人たちではないか.

少子の時代,教育における重要ポイントは多様性の確保ではないか?
つまり,もっと「進学」における選択肢拡大の重要性である.
たとえば,中学校から技術系が選択できてもよいし,それでいながら高校で合流できるのもありだ.
日本人は,いちど進路を分岐させると,そのまま合流しない一直線をイメージするが,からみあって結構,という仕組みがあっていい.

まもなく,国立大学でさえも統廃合の時代がやってくる.
すでに,文科省は一校ずつだった国立大学法人の複数校化をゆるす方針をうちだしている.つまり,「国立大学」といえども単独では維持できず「事実上の倒産」を認めるようになった.

このながれは,国立高等専門学校でも避けられない.
わがくにの教育制度上,ほとんど唯一の「『天才』教育機関」だが,「理系特化」という特徴がある.

「味覚」は個人の持って生まれた感覚のひとつとしられている.十歳の男子がもつ「味覚」がもっとも敏感だということもさまざまな実験からしられている.
かつて,わがくにをを代表する料理人は,小学校時代から丁稚奉公で当時の一流料理屋に勤めていた.このときの「つまみ食い」が,生涯をもって忘れなかった「味」ではなかったかとすれば,辻褄があう.

すると,「国立『料理』高等専門学校」設立,という手間をかけることの意味はおおきい.

デパ地下の実力は西高東低?

「天下の台所」の元気が,いつの間にか「東京」に完敗しているかにみえる.
「戦後の時代」も,新任の大蔵大臣は,かならず関西経済界に挨拶に出向いたものだった.
それが,全国均一化という名分での東京偏重から,いつしか大蔵大臣が財務大臣へと名称までかわった.

しかし,その「東京偏重」は,税収における,という意味であって,人口が減少しだしてようやく首都圏も「交通網」の整備がはじまった.
地方は不便なままでいいといいたいのではない.
地方自治という建前が,じっさいは中央集権だという,ダブルスタンダードが通じなくなったということをいいたいのだ.
「コンパクト・シティ」とは,地方都市のことではなく,東京一極集中のことである.「効率」という観点からするれば,ほかに選択肢はない.

中央政府や地方政府ともに,この国の堕落は政治にあるから,その実権は役人という実務家に奪われて久しい.
政治の堕落とは,有権者の堕落をいう.

法治国家の「法治」の意味をかんがえると,人工頭脳による「行政」が望ましい.
だから,外資系のコンサルタント会社は,将来,人工頭脳にとってかわられてなくなる職業に,「公務員」をあげている.「法」が明文化されているものだけから成り立つならそのとおりだが,どっこい「慣習法」という強力な壁がある.
この「慣習法」というのは,一般人のくらしの基準でもあるから,うっかり人工頭脳にまかせてよいものか,おおきな疑問もある.

生身の役人か,人工頭脳か?
簡単に軍配があげられるものでない.

そんな庶民の贅沢は,デパートの地下空間にひろがっている.
もちろん,デパートという商売は,見た目とっくに不動産事業になっていて,自分で仕入れた商品などほとんどない.売れそうな店を誘致するのがデパートの腕前になった.
専門業者が,最低保証家賃と売上歩合家賃とでなりたつ賃貸借契約事業になっている.
だから,いかにすくない面積で,いかにおおくを売り上げるか?は,デパートの社員がかんがえることではなく,入居した専門業者がかんがえることになっている.

ここに,「商魂」という精神があらわれる.

ここにしかない,というキーワード

「ついで買い」のためにも「ここにしかない」は重要だ.
「食品工業」という分野でも,少品種大量生産から多品種へという変化が必要だが,これに「発明」がくわわると,「ここにしかない」の素地ができる.

関西のデパートには「漬物」のフリーズ・ドライがある.
爆発的な売れ行きで,生産が間に合わないから関東に進出できないらしい.
いまどきの通販なら購入できるが,あんがい送料がはる.
それで,「せっかくきたし,軽いから」と,大量買いするようになっている.

こんな「業者」が,競う関西のデパ地下は,関東とはグレードがちがう.

香の薫りのする街

パリミュゼットが商店街の有線放送で流れていたり,建築の不統一はあたりまえ,どこまでが生活で,どこまでが観光なのか境界線が不鮮明なのが「京都」である.
生活の場であったはずの錦市場も,中国語が話せる店員がいたり,片言であろうがなかろうが,生活のために英語で接客する女将さんの姿は生活そのもの,という混沌である.

アジア系のお客さんは,日本的小物の店に引きつけられ,欧米系のお客さんは,刃物や雑貨でもかなり伝統的な専門のお店に引きつけられるようである.
しかし,「乾物」では逆転し,干し貝柱や干しなまこといった「高級品」にめを向けるのは中華系の女性たちで,欧米人の興味とはことなるのがおもしろい.

縮こまってしまった貝柱も,たったこれだけ?,という数で数千円からという値段だが,この値札に敏感なのは中華系に間違いない.一晩以上かけて戻すと,どういう味と食感になるか,そもそも,それがどんな料理の食材なのかをしらないと,反応のしようがない.
だから、「乾物」というジャンルは,相応のマニアックさがなければならないものだ.

ここ数年で,ヨーロッパ人も「UMAMI(うまみ)」という味覚の発見があって,おおきなスーパーマーケットには,「UMAMI」コーナーの案内板がある.ここでの取扱は,まったくもってわれわれがしる「乾物」がならぶ.もちろん,あの「味◯素」も人気商品である.
昆布がその代表だが,鰹節は,発がん物質(いぶしたときのタールとカビ)含有という「科学的根拠」をもって,EUは輸入禁止という措置をとっている.それで,日本の鰹節業界は,フランスに鰹節工場をつくり,対抗しているから,日本もまんざらすてたものではない.

インターネットの普及というけれど,それはYouTubeのような「動画」が無料で観ることができ,投稿もかんたんだから,その情報量と説得力は書類の時代からおおきく変化して本物になった.
ここで,昆布だしのとりかたや鰹節からかつおだしのとりかたが多数あるので,あんがいインスタント慣れしてしまった日本人の方が,ちゃんとしただしのとりかたをしらないかも知れない.

鰹節削り器といえば,むかしはどの家にもあった必需品だったが,いまどのくらいの普及率なのだろうか?
朝起きたら,鰹節を削らされたのは子どもの仕事だった.その横で,母親はみそ汁の具材を切っていた.
それで,だしの薫りがしてきたら,朝ごはんのはじまりである.

こんな,暮らしの風景が,ヨーロッパで普及しているかとおもうと,湯快である.

さて,そんな国々で,香の薫りは教会での儀式を筆頭に,アロマを家で楽しむ文化はあっても,街をあるいていて,ところどころで「伽羅」や「白檀」の薫りがする街は,京都以外におもいつかない.
全国に「小京都」とか「古都」を自称する街はたくさんあれど,「薫り」をもっているところがあるのか?とかんがえると,ほかにしらない.

とかく建物をつくるのに熱心な,ふつうの「観光開発」でできないのが,街の住人の習慣として「香を焚く」,ことだろう.命令でやれるものではない.

こんなところに,京都の魅力があるのだ.
やれるものならやってみなはれ,といわれているような気がするのは,いけず,というものか.

観光協会の情報が役に立たない

働き方改革がかまびすしいが,おおくは「個人の意識」という,大きなお世話のせいにされている.
なぜその仕事があるのか?がなかなか問われないから,ちりもつもればの原則で,ムダが積み立てられていく.

わかりやすい例が,今日のタイトルである.「観光協会」を役所の「観光課」といいかえてもさしつかえない.

知らない土地を歩いてみようと思いついたときに,インターネットのHP検索をするのはもはや常識である.インターネットがはじまったころからいわれている,情報の「玉石混交」も常識である.そのなかで,典型的な「石」が,観光協会や役所の観光課によるHPである.

自宅が光回線であるとか,会社でこっそり個人旅行の検索をするなら,そうおおきな実害ではないかもしれないが,ひとり暮らしで,モバイル端末にたよる生活だと,うそみたいに高額な情報通信費を負担している.だから,こういう人たちは,役に立たない情報に誘導されると実害をこうむるから,それなりに慎重にクリックするのだ.

それでも,「石」にあたると,むしょうに腹が立つ.自分の読みの甘さと,詐欺的な情報の薄さに無頓着なHPが,「しまった」感を増幅させるのだ.いっそのこと,この手のHPは責任をもって削除してもらいたい.

それでは,地元の情報がなくなって困るのではないか?と,「石」を作っておきながら,余計なことをおもうからおかしくなるのだ.
大丈夫,ぜんぜん困りません.表現力と情報が豊富な,市井のブロガーさんたちが,しっかりとした「利用者」「観光客」の目線で綴ってくれています.

この手の記事を数本よめば,ある程度のイメージができる.まさに「玉」があるのだ.

すると,「石」を大層な予算をかけてつくることがムダである.この予算には人件費もふくまれるから,担当者は別の仕事ができるだろう.別の仕事がまた「石」になるかもしれないが,いま確実に「石」をつくっているムダは解消される.

そして,なによりも,「石」をみにきてしまった被害者が減るのだ.こちらのほうが,社会的にはおおきな効果があるだろう.すくなくても,役所が大枚はたいてつくらせた誘導プログラムに引っかかってしまった,「閲覧者」の数が「効果」としてカウントできる.

役所の公平性が「石」を産む

世の中はおそろしいもので,ときに「公平性」や「平等」が,社会のムダになることがある.
観光協会や観光課が,一生懸命になればなるほど,状況は悲劇的だ.
情報量や表現方法に,公平性や平等を持ちこむと,メリハリがなくなるから,閲覧しているがわからすると,選択基準がわからなくなる.
しかも,たいがいの記事であつかわれる店舗には,それぞれHPのリンクが張られているから,そちらをみたほうがよい場合もあるが,さらに貧弱なHPにいくこともある.こればかりは,クリックしなければわからない.
さらに,特産品を扱っているはずの公共施設の案内記事と,じっさいに行ってみたときの欠品情報がまるでないから,わざわざ行ってきてガッカリすることがある.
つまり,情報が一方的で,観光したいのに裏切られるのだ.

情報産業という感覚がない

役所だって,産業分類では「サービス業」になる.
政府部門だから関係ない,ではない.
とくに,「観光」で食べていこう,という「観光立国」をうたうなら,「観光」とはなにか?ぐらい哲学してほしいものだ.

「観光」をひとことでいえば,「体験型情報産業」である.
風光明媚な景色を見るのが「観光」なのは,「見る」という体験と,脳に記憶される「情報」からなりたっている.食べ物もしかり.
全国うまいもの展は,かつてのデパートの典型的イベントだった.しかし,それがお取り寄せになろうが,地方の名産品を自宅で食べることを「観光」とはいわない.「食べる」だけではなくて,その場所で,という条件が「観光」には必要だ.

これを無視して,地元に,ただ掲載情報を募集して,応募のあったところだけを,公平に平等に加工した情報でもって「観光」をいうナンセンスを指摘しておきたい.

安全は安全対策を講じていれば達成できるものではない

職場での事故は,労働災害(略して労災)になる.
これは,会社が傷つけたことになるので,労災保険があるから大丈夫,という問題ではない.

「安全第一」は経営方針である

工事現場でよくみかける「安全第一」のカンバンや旗は,単なる注意喚起ではない.
始業前のラジオ体操も,準備運動としての意味であって,決して楽しく運動しましょう,というものではない.ケガ防止のための重要な対策なのだ.

これは,事務職でも同様であるが,ほとんどのひとが無視して,自分の机まわりでラジオ体操をするひとはすくない.しかし,音楽にあわせる習慣はべつにして,同じ姿勢を維持する事務職では,筋肉をほぐす運動をすこしでも行うと,血行が改善されて緊張していた筋肉もほぐれるから,結局は作業効率も高まり,ミスも減る.

いまはパソコンという機械操作が事務職の主要業務になったが,パソコンもワープロもなかったむかしは,ソロバンか電卓で,表計算用紙に鉄ペンやボールペンで手書きで記入していたから,書き間違えるとたいへんだった.そのぶん,いまよりも緊張して事務作業にあたっていたろう.
コピーもやっとアオ刷りだったから,ガリ版のほうが手軽だった.いまの子どもには,ガリ版といっても意味不明だろう.

事故やミスをなくすことは,当然,なのだが,なかなかなくならない.
業務として「安全」は,あたりまえゆえの経営方針であるのは,人体を傷つけてはならないのと同時に余計な手間がかかることで損失そのものだからである.

ヒヤリ・ハットの経験情報

現場の事故には「ハインリッヒの法則」があるとしられている.アメリカの保険会社のデータから導かれた,1928年(昭和3年)の論文で発表された.
「1:29:300」という数字で表現されるものだ.これは,一つの重大事故の背景には29回の軽微な事故があり,その背景には300回のヒヤリ・ハットがあるというものだから,単純化すれば,329回の「オッといけない」を経験すると,330回目には大事故が起きるという法則である.

そこで,「細部は現場に存在する」という刑事事件とおなじ理由で,現場での「ヒヤリ」としたことや「ハッと」したことの経験を,どのくらいの従事者がしっているか?ということが,重要な防止策になる.つまり,重大事故をよぶ最下層のヒヤリ・ハットが減れば,軽微な事故も減って,最終的に重大事故も防止できるという理屈である.

できない理由がおそろしい

なんだ,そんなことならすぐにでも,いわゆる「情報共有」をすればいい,とかんがえるのは「正しい」のだが,世の中,なかなかそうはいかない.
最大の理由が,事故責任のありか,である.
つまり,犯人さがし,をしたがる企業内風土があると,かんじんの「情報」がでてこない.
だれだって,自分の責任を追及されたくないのは人情である.
そこで,現場での「ヒヤリ・ハット」はなにか?と問えば,ほとんどが「うっかりミス」のようにみえるものばかりになる.たとえば,ちょっとよそ見したら手を滑らせて包丁でケガをしそうになった,とか,雨で濡れた鉄板のうえで靴がすべって転落しそうになった,とかである.
「そんなもん,自分で気をつけろよ」で済まされてしまいそうなものばかりなのだ.

これに,刑事罰の受け方,という問題がくわわる.
日本の裁判例では,現場の当人あるいは現場にいた責任者が刑事罰を受ける可能性が高い.これは,経営トップの責任が追及されにくいという面をふくんでいるし,安全責任者であっても現場にいなければ免責になる可能性があることをしめす.
どうやら,日本人の裁判官は,現場,に罰をあたえることで,注意の教訓にしようと発想しているようだ.合理的な事故原因を追及して,その原因排除を社会的にさせようという方向ではない.
つまり,現場がスケープゴート(犠牲の羊)にされる.

だから,現場では,軽微な事故なら隠蔽した方が面倒がなく楽である,ということになる.
事故報告書を書かされても,原因の合理的追求をしようというならまだしも,責任という問題まで追及されたら割に合わない,ということが起こりうるのだ.

さらに,福島の原発事故のように,「安全が神話化」してしまうと,安全のための方策が無視されることがおこる.「安全」なのだから,対策をかんがえること自体が安全を否定しうる,という発想だ.日本人の官僚は,いまだに先の大戦から重要な教訓を学んではいない.これは,齊藤誠一橋大学教授による『震災復興の政治経済学』(日本評論社,2015年)に詳しく,その驚きのメカニズムが解析されている.本書こそ国民必読にあたいするとおもう.

つまり,犯人さがしの企業内文化を形成しうる,経営トップのふだんからの心構えが,重篤な事故ばかりか,ふだんからの情報共有をさまたげることに注意したいといいたいのだ.それは,経営者みずからが,「安全第一」の経営方針にそむくことになるからだ.

できる理由をつくるのが経営である

ヒヤリ・ハットの情報共有は,上述のような社内環境がないとできないものだ.
ところが,この「社内環境」をよくよくかんがえてみると,それは,「風通しのよい企業風土」のことであることがわかる.
つまり,対象が「安全」だけでなく,業務「改善」であろうとも,従業員から積極的な情報提供がある企業文化の存在を意味している.

これは,経営者の「おおらかさ」と関係がふかい.
「まじめ」なのはいいが,「おおらかさ」に欠けると,ひとはついてこなくなる.
「きちんと」するのはいいが,本質をわすれると,組織はあらぬ方向へ勝手にうごいてしまって,コントロール不能になる.
「デフレよなくなれ!」と,最高権力者が叫んだところでどうにもならない,のとおなじである.

「安全」の追求は,「安全」の担当部署だけで達成は不可能で,組織をあげて合理的な原因の追及とその原因をなくすことの行動でしか達成できない.

上述の,ヒヤリ・ハットの例をあらためてかんがえれば,包丁の例なら,よそ見したら,に注目すれば,なぜよそ見したのか?が議論の対象だ.オーダー窓口とまな板のある立ち位置レイアウトが不合理なら,注文のたびに「よそ見」することになるかもしれない.
雨の日の鉄板の例なら,滑り止め対策をどうやったらよいかを議論することになるだろう.

経営トップと現場の一体感こそが,もっとも重要だということである.