「しんがり」意識

戦闘において退却をはかるとき、本隊を温存するため最後尾になってこれを防御する部隊を「しんがり(「殿」と書く)」という。
日本史だろうが世界史だろうが、自軍大将から「しんがり」を命ぜられたら、ふつうは生きて帰れないことを意味した。

敗走する自軍にあって、自らも逃げながら敵軍からの追撃を受けとめ、自軍本隊が逃げるための時間稼ぎをするのが役割だ。
したがって、おのずと「援軍」はいっさい期待できないから、全滅を覚悟する。

信長の敗戦として知られる「金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)」は、越前の朝倉義景攻略のはずであったが、義弟で盟友の浅井長政の裏切りで戦況は一変する。
このときの「しんがり」で大活躍し、その後の織田家中で一目おかれる存在になったのが秀吉だったと伝わっている。

アメリカで「サービス革命」を引き起こしたという伝説の図書は『逆さまのピラミッド』(1990年)である。
この年は、サービス業界むけにもう一冊の伝説的著作『真実の瞬間』も出版されているから、めずらしい「当たり年」だった。

 

『逆さまのピラミッド』は、よくある企業の組織構造で、社長をトップにおいたピラミッド型を、そのままひっくり返したのだから「革命的」だったのだ。

すなわち、なぜかサービス提供企業は、顧客接線(現場の最前線)に若いスタッフが配置されていて、ベテランになるにしたがって後方に移り、直接お客様との「接線」どころか「接点」もうしなうようにできている。

経験のうすい若いひとたちが、常に最前線にいるのである。
そして、肩書きがつけば、だんだんと後方に移動するが、なぜか顧客からみえないところで「指示・命令」をくだしている。
その意味で、経営トップである、例えば「社長」は、もっとも顧客から遠いところに座っていることになる。

ところで、サービス提供企業の収入は、すべて利用客から得るという構造だから、もっとも若いスタッフが「もっとも稼いでいる」のにもっとも賃金が安く、もっとも顧客から遠いひとがもっとも高い賃金を得ている、ともいえる。

これはいったいどういうことか?
サービス提供企業は、その組織のすべてのエネルギーを、もっとも若い最前線のひとたちが、もっともうまいやり方で行動できるように使わなければならない、という結論が導かれるのだ。

この意味で、社長はビジネスモデルとして「しんがり」なのである。

ところが、自分が「しんがり」だと自覚している経営者はかなり少数派だ。
おおくのばあい、現場長が「しんがり」になっている。
そして、こういうばあいほど、利益がすくない事業だといえる。

なぜなら、このようなばあい、つまり、ふつうのピラミッド型の組織をそのまま疑念なく信じるひとが社長のばあい、その社長は「お飾り」にすぎないから、とうぜんに組織のパフォーマンスは低下してしまうからだ。

しかし、こうしたパフォーマンスが低い状態が「ふつう」になるので、その組織はいつまでたっても「低い」ことを自覚できない。

これが、わが国サービス業が、先進国でほぼ「ビリ」という低生産性のほんとうの理由である。

そして、このようなばあい、生産性が低い理由を、現場の最前線に問題があると決めつけるのも、とうぜんの帰結である。
トップみずからの生産性がほぼ「ゼロ」あるいは「マイナス」なのに、じぶんからじぶんの生産性が「ゼロ」だと気づくこともできないのである。

現場での問題を解決するためにどんな戦略をめぐらすのか?
これは、そのときその場での戦術しかできない現場にあって、とうぜんだが、ふだんかんがえることではない。

もし、現場に戦略もかんがえろ、と命じるならそれはそれでトップの意志だが、それではやっぱりトップの存在意義がない。
トップみずからの役割は、仕組みをかんがえることであって、そのためには現場最前線での状況をくわしく把握するひつようがある。

だから、社長室に引きこもっているようなトップでは、トップとしての「しんがり」の役割を果たしようがないのである。

そんなわけで、トラブル発生となって、トップ自らが動かなければならなくなったとき、どこか他人ごとになるのは、ふだんから「しんがり」だとおもっていないからである。
そして、このようなトップほど「犯人探し」がだいすきなのだ。

自分の顔に泥を塗ったやつは許せん!

というわけである。

これを第三者の他人は、その無責任さに呆れながら現場の苦悩を想像するのである。
そして、自分の子どもに、こんな会社にはいっちゃダメだよ、と諭せれば、将来その親に感謝することにもなるだろう。

こうして、わが国サービス業界は今日も人手不足にあえいでいるのである。
募集しても募集しても、だれも応募者がいないのは、そんな会社で働きたくないからで、どうしてそう思われてしまうかをかんがえない。

トップこそ「しんがり」なのだとかんがえる癖をつけよう。

マゼラン出航500年

ポルトガルで本名は、フェルナン・デ・マガリャイスと伝わるが、スペインに移ってスペイン語型になり、それをラテン語型にして「マゼラン」となるひとのはなしである。

今日、8月10日は、1519年、マゼランがスペインのセビリアを出航し、世界一周航海に出発してから500年の記念となる日だ。

また「ツヴァイク」に頼ってしまう。
『マゼラン』が出版されたのが1938年(昭和13年)だ。
この年の「こどもの日」に、国家総動員法が施行されているが、「こどもの日」が定められたのは1948年の祝日法なので、最初のこどもの日は1949年の5月5日となる。

おなじ年、アメリカではチェスター・バーナードによって歴史的名著『経営者の役割』が出版された。

バーナード理論を研究する「日本バーナード協会」があるくらい有名なのだが、81年経ったいまも、日本の経営者に『経営者の役割』をはたしているひとが少数派なのはどうしたことか?

ヨーロッパでは小国のポルトガルは、スペインに飲み込まれたりといろいろ苦労した国ではあるが、イベリア半島のはじっこで地中海に面して「いない」ことが絶望だったのである。
なぜなら、当時の「海洋」とは古代から地中海のことであったからだ。

地球がまるい球体であることだって、当時はだれも信じてやいない。
プトレマイオスとローマ教会とが、海の果ては滝のように落ちているときめていたからである。

ところが、「膨張」するという人間の性で、その海の果てを見てみようというひとたちがあらわれたのは、「胡椒」への強烈な欲望からである。
ヨーロッパにインドの胡椒が伝播したのは、紀元前のギリシャに記録があるものの、アラビア人の隊商とオスマン帝国によって「安全」にヨーロッパへ運ばれた。

このときの「安全」だって、いまの「安全」とはまったくちがう。
当時のちょっと前の「危険」が、それでも「安全」になったという意味だ。
旅の途中の掠奪はあたりまえだし、各地の有力者がこぞって「通行税」をまきあげたから、陸路でやってくる胡椒はいちじるしく高価になる。

けれども、胡椒があるとないとでははなしがちがう。
胡椒がない料理と食事をおもえば、せいぜい塩味だけの肉料理を想像するだけで、焼こうが煮ようが、「うまい」というはずがない。

つまり、人類は、というよりヨーロッパ人たちは、アフリカから発生した人類の歴史で、万年単位と千年単位をかさねて、いまのわれわれが「中世」とよぶ時代に、はじめて胡椒の味をしったのだ。
それが、どんなに衝撃的なことだったのか?おおいに想像できる。

これまでとかわらない食材に胡椒をふる「だけ」で、激変してしまう。
そして、いちどおぼえたら、麻薬以上になければならない物資になったのは、必然ということばすらゆるく感じる。

陸がつながっているなら、海もつながっているはずだ。
いまさらながらに、当時の気分になれば、ほとんど根拠のない世迷い言である。
プトレマイオスの地図という不変の常識があれば、いまようの科学的な、あるいは論理的な思考とはまったくいえない。

だから、「冒険」となった。
この冒険を可能にしたのは、陸路でくる胡椒の需要がとうぜんに供給をはるかにうわまっているから、「もしも」「ほんとうに」海路で胡椒がはこべれば、莫大な富を得ることができるという「賭け」、すなわち「リスク」をとる投資家があらわれたからである。

しかも、ひとりの権力者だけの投資から、複数のひとが資金を提供すれば、そのぶんリスクは分散させられる。
地中海貿易を独占していたベネチア商人の複式簿記の知恵が応用される。
『ベニスの商人』のことだ。

じつは、「リスク」こそが、「利益の源泉」なのである。
すべての商売は、リスクを内包している。
町の食堂だっておなじで、お客さんが食あたりになるリスクがある。
このリスク分を利益のなかに取りこんでいるのだ。

さらにわかりやすくいえば、もしものばあいの「保険」をかけるというのも、保険料という料金を利益をけずって負担している。

いつのまにか「リスクは避けるもの」になってしまった日本企業は、本来の「経営者」が不在になって、だれでも経営者になれてしまう。
利益の源泉を「避けるもの」にしてしまうのだから、儲からないのは当然だ。

ローマ教会に忠誠を誓うスペインとポルトガルに、法王は新発見の土地における統治権を独占的にあたえた。両国は、十字軍だったのだ。
他国はこれを傍観するしかなかった。

そして、ポルトガルはときにアフリカ全土を手にし、さらに東のインドにむかう。
コロンブスは西に地球をまわって新大陸をインドだと信じていたが、その報にさっそく西へ艦隊をだしてブラジルを得る。

しかしながら、ポルトガルは小さすぎ(当時の人口150万人)て、アフリカ全土、インド、ブラジルを統治するひとの数がない。
こうして、欲望が強くありすぎたけれど、なんと国力を消耗しつくしてしまうのだ。

マゼランの出航には、どんな意図があったのか?
お盆休みに涼みながらの読書はいかが。

芸術と政治

『表現の不自由展』というアイデアは、なかなかのものだとはおもうが、その不自由が、政治とのたたかいのはなしになるのは必至だから、県や市といった行政との展覧会では、まったくそぐわないのは最初からわかっていたのではないかとおもう。

いわゆる「アングラ」とどういう関係があるのか、アングラ・サイドからのコメントがみえてこないのも、今回の騒動の特徴か?

「体制」によって、あつかいが180度ことなるのは、「体制」じたいが180度ことなるからだ。
すなわち、価値観の逆転である。
この「逆転」こそが、「革命」なのだ。

芸術監督を務めたひとの「謝罪」がニュースになったのは、「謝罪した」からではなくて、なにに謝罪してなにに謝罪しなかったのかということを読めば、ようは確信犯だったことを告白しただけだ。

主催者が自治体だから、『表現の不自由展』における表現がどこまで許されるのか?もあるが、いわゆる慰安婦像を展示したのは、『表現の不自由展』における「不自由」をアッピールするためでもあろうから、主催者からの「中止」という「不自由」をもって目的が完結したとかんがえられる。

すなわち、「中止」こそが当初からのねらいだとすれば、中止にうごいた政治家たちの行動をコントロールしたという成果もふくまれる。
ために、いわゆる慰安婦像の破壊力が発揮された。
いまの韓国政府の思考パターンと酷似していることが読み取れる。

いつから計画されていたのかの詳細はわからないが、日韓関係におけるひとつの破局は昨年の韓国大法院判決があるし、慰安婦財団の解散もあるから、その意味では「なにをすればどうなる」という予測は可能であろう。

ジャーナリストがなぜに芸術監督に就任したのかもしらないが、愛知県と名古屋市の「先進性」が、これを可能にしたにちがいない。

ソ連でもいまの中国でも、芸術は国家(というよりも「党」)が管理するものだというのは常識だ。
上述のように、「革命」の価値観をいかに表現するのか?と社会主義・共産主義の優位性をいかに他国にアピールするかという「宣伝(プロパガンダ)」の目的があるからだ。

従軍慰安婦というファンタジーは日本からの発信だった。
そこにおける「強制」というキーワードが、徴用工についても引き継がれたが、現実の徴用工はそのほとんどが募集工だという事実がある。
しかし、「歴史」における「史実」を改ざんするのも「革命」なのである。

もちろん、発信元の朝日新聞が謝罪文をだしたように、強制連行をともなういわゆる従軍慰安婦は存在しないことが確認されている。
にもかかわらず、この存在を認めた日本政府の内閣官房長官談話としてのいわゆる「河野(洋平)談話」を、いまの内閣も踏襲するとして訂正していない。

この日本側の中途半端さが、日本国内における一定の政治勢力を温存する役割もはたしているし、貿易の手続き上の問題が「意図的に勘違い」のプロパガンダを助長している。

だから、今般の輸出手続き変更についても、一連の韓国から日本イジメに対する日本からの「報復」であるという主張が、輸出品の管理の不手際だという実務をとおりこして、あくまでも「報復」になるのは、「報復」にしたいからである。

自分たちが日本イジメをしているという事実と認識があるから「報復」がはじまったという解釈と、なにがなんでも日韓を分離したいという勢力とのベクトルの一致である。

それにしても、安全保障上統制されるべき品目の国内法整備が「ない」国をどうしてこれまで「ホワイト国」にしていたのか?
小泉政権下の日本からいままでの政権の「不手際」が原因である。

さてそれで、だれが一番よろこんでいるのか?
中国政府は、「両国はなかよくすべき」というメッセージを発信したが、ダブルスタンダードを旨とする国からの発信だから、「もっとやれ」という意味になる。

アメリカがだんまりを決め込むのは、米中代理紛争になっているからで、半導体の製造を韓国にシフトしたことをいまさらに後悔し、これを取り上げて日米での製造に切りかえようというのであろう。
貧乏になった韓国を北と中国に押しつけたい。

すでに韓国はアメリカから見捨てられてしまった。
当事国の現政権はこれを望んでいるのだろうが、国民はほんとうにそれでいいのか?
よほど「反日」が、楽しい国民的レジャーになってしまったのだろう。

明治の日清・日露での日本人の血の犠牲が、元通りになるという歴史的転換がはじまっている。
とうとう、太古よりの防衛ラインであった対馬海峡・隠岐の島にまでに100年ぶりにもどることなる。

日本は安全ではなくなる。
緊張感が必然的にうまれるのは、わが国がふつうの国になるという意味では、よきことかもしれない皮肉がある。

慰安婦像というものを出すならそのタイトルに「政治のファンタジー」とでもつければ、まったくちがう「意味」になるのに、これをしない、という主催者は、外国の「プロパガンダ」にくみしたと批判されてもしかたがあるまい。

なんにせよ、芸術を政治につかうとよきことはない。

エアコンがこわれた

「1998年製」だから、とっくに寿命だったろう。
21年目シーズンにしてうごかなくなった。
しかし、梅雨明け猛暑がはじまったばかりのタイミングなので、新規に注文しても設置工事までガマンを強いられる。

寝室のエアコンでなかったのは唯一の幸いである。
へたをすれば命にかかわるかもしれない。

それにしても、真夏にエアコンを購入する他人を、なんとなく冷たい目でみていたじぶんがいた。
わざわざピーク時に購入することもなかろうに、と。

けれども、暑くなってからしか運転しないから、動かない、と気づくのは「真夏のピーク時」になるのだ。
春先に試運転すればいいかもしれないとおもったが、あとの祭りである。

昨年までちゃんと動いていて、それから放置しているのだから、昨年のままのコンディションだという決めつけは、やっぱり無理がある。

そんなわけで、久しぶりに家電売り場にいった。
テレビ通販の大手がすごいのはなにか?にも気づかされたから、あながちムダにこわれたのではないと、ショックをやわらげるようにした。

エアコンを買い換える。
このとき、新しい機種選びはちょっとだけ楽しい気分になる。
しかし、表示されている価格は税抜きだし、「さらにお安く」とあるから、目星をつけたら店員をよぶしかない。

じっさいの価格を聞くが、送料および設置費用込みのばあいと別の機種では抜きのばあいがあるし、追加部品代込みの機種と別の機種があり、さらに既存の取外し費用込みの機種と別の機種がある。
共通なのは、廃棄にかかわるリサイクル費用だけだ。

ややこしい。

いわゆる家電リサイクル法は、正式には「特定家庭用機器再商品化法」といい、平成10年に施行された。
消費者目線だと、それまでは電気屋さん、じっさいは廃棄物業者が無料で引き取ってくれていたのに、おカネをはらわないといけなくなった。

自治体指定の特定業者の専任制度となったがゆえの、利権が生まれて、その負担を国民に強いる構造になっているから、地球環境うんぬんとは無関係だ。
「リサイクル」という余計なコストがかかることをほんとうにやっているのか?その結果報告が国民にない、やりっぱなし法である。

街をはしる「無料回収」をいうひとたちは、こわれた機器を輸出して、修理し、これを販売する、あるいは分解して今度の東京オリンピックのメダル製作のように貴金属類などを取り出して販売するという仕組みの最先端である。

「法」によれば「違法」だが、かれらの活動の方がよほど「リサイクル」の実績をあげているのは、「民間事業」だからである。
ただし、自治体指定業者であるはずがないから、貴金属類を得たあとのガラクタを国内で棄てるには不法投棄するしかない。

いわば、不法投棄を促進する法律になっている。
こういう法律をつくれる感性は、特定業者・業界優先の経産省と、環境問題に無関心の環境省というところの役人の特性になってひさしいが、これを制御するはずの政治家が皆無というのは、残念だが国民の責任である。

エアコンそのものの能力である容量(Kw)表示も、ぱっと見「畳数」なのは以前からだが、この表示も消費エネルギーと仕事効率という視点からすれば、素人にはわかりにくい。
単純に木造と鉄筋コンクリートという建物構造だけで「畳数」をみてはいけないからだ。

断熱構造かそうでないかが問題になる。
さいきんの住宅では、断熱性能の基準がさだめられたから、ちゃんとしたお店のひとにきけば、新築ならただしい容量をすぐにおしえてくれるはずである。

わたしは、1998年当時、ホテルの施設部の空調専門家にきいて、自室に適合する容量(Kw)の機種を購入した。
それが功を奏して、20年間ものあいだ一度も故障なく作動してくれたのだとおもう。
なので、今回もおなじ容量の機種にさだめた。

たまたま売り場にいたご夫婦は、ずいぶんと容量のおおきな機種のコーナーにいた。
ほんとうの「畳数」でみているにちがいない。
ならば、相当に「過大容量」になるはずだ。

店員がもっと少ない容量の機種がならぶコーナーに誘導していたから、この店は信用できる。
エアコン選びの最大ポイントは「Kw」という単位が重要なのである。

テレビ通販の大手に感心するのは、買い換えをちゃんと心得た「下取り」とか、運送費、取り外し費、設置料、部品代それと廃棄費用が流れるような説明になっていることである。

よくよく比較すると割高かもしれないけれど、よくよく比較する手間は面倒だし、それで万円単位でちがいがでるのか?といえばそうでもない。
こうした説明の構成をつくるには、そうとうの事前準備がいるだろう。
実店舗でのメーカーごと、機種ごとの付帯料金のちがいがつくる「ややこしさ」をテレビ通販はクリアにしている。

けっきょく、もろもろの付帯料金が込みという機種(お掃除機能つき)にしたのが売り手の術中にはまった感たっぷりだけど、まぁこんなものだろう。
どうかんがえてもこわれたものより性能がよく、なおかつむかしの記憶にのこる購入価格よりずっとやすい。

家電メーカーが儲からないということがよくわかるひさしぶりの買いものだった。

最後に店員から「消費税増税前でよかったですね」と声をかけられた。

そうめんを料理する

夏の暑さで食欲をうしなうと、それが深刻な夏バテになるから、そんなときは冷たいそうめんがたすけてくれる。
するするとしていて、独特のプツンとした歯ごたえがあるそうめんは、冷たいつゆと生姜という「冷と温」の組合せで、いくらでも腹におさまる。

製造工程で、麺どうしがくっつかないようにごま油や綿実油をぬるので、ああみえてじつはカロリーが高い食品である。
それに、つくりたてではなく箱に詰めて三年熟成させたものが高級といわれるのは他の麺類にはない特徴だ。

以前、小豆島の宿の再生を担当していたときに、つくりたてと熟成ものを比較して食べてみたことがある。
つくりたてはやや粉っぽい感じで、熟成ものはそれがすっかり抜けていたし、食感も微妙だがちがう。

ただ、値段は大違いだ。
地元のひとはつくりたてを毎日のようにたべているので、熟成ものをわざわざ店で注文するという感覚がないそうで、「あんなもんカネになりません」と飲食店でもメニューにない。

だから、観光客向けに「流しそうめん」をやるのだ。

そうめんの名産地は、奈良県の三輪、小豆島、播州、それに島原や熊本が有名で、三輪から小豆島支配にやってきた武将がそうめんをつくらせたのが小豆島そうめんのはじまりだという。
九州の小麦、瀬戸内の塩が大阪への中継地としても入手が容易だったのが理由だ。

それが、逆に伝わったのが島原、熊本らしいが、残念ながらご当地のそうめんを食したことはない。
そうめんのなかの独自進化があるというから、一度はいただいてみたい。

藩の財源として保護・管理されていたのが播州そうめんで、揖保川のほとりが産地だということから「揖保乃糸」という一大ブランドになっている。
わたしの住む横浜のスーパーでも「定番」にあたる商品だ。

その中心地、太子町に現存の「斑鳩寺」には、15世紀の記録に「そうめん」がある。
斑鳩寺とは奈良・法隆寺のことで、なんとこの地は法隆寺の寺領とされていた。町名も聖徳太子に由来する。

この町は姫路とたつの市(旧龍野藩5万3千石)の間にあって、たつの市が旧揖保郡の太子町以外と合併してできているから、町民の気概がしれるものだ。

龍野藩が奨励したそうめんの製造地はそんなわけで、たつの市にある。
ここの「兵庫県手延素麺協同組合」がつくるそうめんこそ「揖保乃糸」ブランドだ。

「そうめんの里」には、製造工程などの博物館もあって、手延べの実演と延ばした麺に触れる体験もできる。
見た目ではわからない微妙な太さのちがいが、触ることで確認できる。

当然にレストランもあって、そうめんのバリエーションが楽しめるようになっている。
なるべく珍しいものをと注文したのが、素揚げそうめんの油抜き野菜あんかけ、だ。

これまで食べたことがないもちもち食感は、揚げてから油抜きをしたからだろうが、まとわりつくような腰の強い麺と野菜あんかけがマッチして、満腹になった。

売店では、オリジナルのレシピ本が販売されていて、帯には「こんな食べ方があったんだ!」とある。

 

揖保乃糸には5段階にもわたるグレードがあって、ブランドとしては「太づくり」をいれた6種類となっている。
よくみかけるものは、最低ランクの「上級品」で赤い帯が特徴だ。
ひと束に「約400本」と説明されている。

最上級の「特級品」は「約480本」だというから、おなじグラム数にして2割も本数がおおい。
食感のちがいはあきらかだろう。
贈答品として人気があるのは、自家用としては高級すぎるからだろうが、もらってうれしい逸品だ。

たかがそうめん、されどそうめん。

ばかにはできない実力があるのは、白米とおなじである。

「藩」の管理という歴史があるからだろうが、「播州小麦」という「約280本」の太めのグレード品は、「兵庫県認証食品ひょうご推奨ブランド」になっていて、「縒りつむぎ」という「約400本」のグレード品は「五つ星ひょうご」に選定されている。

商品の「ブランド価値」と「自治体の認証」は関係ないが、関係ある、という「思い込み」があるのだ。
世界の有名ブランド品で、国家認証つきのものなどほとんどない。

「宮内庁御用達」とか「英国王室御用達」がせいぜいで、たとえあったとしても、たとえば「ソ連国家品質保障局推奨」ということで価値がたかまるとおもうひとはコレクター以外まずいないだろう。

一般消費者にとって、「兵庫県認証食品ひょうご推奨ブランド」と「五つ星ひょうご」のちがいすらわからない。だからといって、兵庫県はもっと広報・宣伝せよといいたいのではない。
わかるのは、食感と味のちがいからくる本人の「好み」であって、それを役所が評価することは余計なお世話である。

そうめんを料理する、という発想はすばらしい。
けれども、せっかくあるグレード別の提案が「ない」のだ。
それでは、つくりたてと熟成もののちがいに価値を感じないことに通じてしまわないか?

役所の「お墨付き」は、いまどきなんの役にもたたない。
じつは、ものがない時代の権威づけであった。
ものがあふれる時代に、役所に依存してもかえって価値を毀損する。
商品を選んでいるのは消費者だけである。

田舎のグルメ

こんな田舎にはなにもない。
地元のひとが口にする、全国共通の自虐用語だ。
田舎だから自然が豊富にある。
地元の観光協会をふくめた公務員系が口にする、全国共通の過大評価だ。

「自然」という概念が、唱歌「ふるさと」と関連付けられて教育された人為的・人工的ないいまわしで、都会への憧れを否定する用語にもなっている。
「自然」は、守備範囲がひろいことばである。

全国に広がる空き家で、とうとう100円均一という販売手法がでてきた。
べつに田舎にいかなくても、都会にも「自然」によって崩壊が懸念される空き家がある。

横浜市神奈川区という神奈川県の名前の由来にもなっている行政区で、JR東海道線にもちかい場所の所有者不明の空き家が、危険度という物差しで行政による取り壊しがおこなわれた第1号になった。
ひとが住まなくなると、家は急速に「自然崩壊」へとむかう。まさに「自然の驚異」がある。

前にも書いたが、よく手入れされた田畑をみると「ゆたかな自然がある」といい、数百年もひとが耕した「棚田」をみると感涙するが、耕作放棄された荒れ放題の元田畑にはなにも感じない。
むしろ、すさんだ自然がただの荒れ地にみえるからだが、どうして耕作放棄になったかをかんがえると、感涙すべきはこちらのほうだ。

都会と田舎のつき合い方が、どうも浅くて哲学ができていない。
経済成長とスーツで仕事をする都会が有利なのは、たんに「稼げる」からであるから、田舎の稼ぎ方に重要なポイントがある。

世界経済の構造変化にもかかわらず、いまだに田舎の役所が「工業団地」を誘致しようとするのは、ないものねだり以外の何ものでもないが、田舎の稼ぎ方をじぶんで稼いだことがない役人に期待すると、過去に他の自治体がやった成功体験である「工業団地」しかでてこないのは、有職故実だからである。

しかし、とはいっても田舎で安定した月給取りという現金収入が保証されているのが公務員と農協職員ぐらいのものだから、親にもっとも人気があるのはこの職種になる。
子どもを都会の大学にいかせる理由でもある。

広い庭に2台以上の自家用車が置けるようになっているのは、こうした職種の家庭なので、カーポートをみればどんな暮らしかがわかる。
だから、ちいさなカーポートしかない家をみると、どんな暮らしなのかがとたんに不明になる。

「名物にうまいものなし」という名言は、「伊勢うどん」が発祥ではないかとの説がある。
伊勢神宮の門前町には、かつておおくの参拝客であふれ、食事の提供がまにあわない。

それで、つゆなしの「タレ」をすっかりのびた腰なしのうどんにかけて出したのが、いつの間にか伊勢名物になったという。
大量にゆでたうどんがのびただけだったろうが、こんどはふにゃふにゃにしたうどんでないと伊勢うどんにはならなくなった。

関西人でなくても、一口食せばおのずと目を張る「まずさ」で、それを臆面もなく「名物」とするところにずる賢さと生活力の強さを感じる。
いわゆる「うどん」としては失敗作なのだが、失敗作を作りつづけることは、それはそれで「技術」になる。

寒天の世界シェア7割をこえる長野県の超優良会社「伊那食品」は、寒天の質的特性の研究でも世界トップランナーで、固まらない寒天を開発した。寒天は固まってこそだという常識がやぶられたのだが、本来からすれば失敗作である。
これが、「10秒チャージ」のアレの原料になっている。

大量に安定して「失敗作を作る」のは、やはり「技術」なのだと元社長の塚越会長が書いている。
製品裏面の表示をみても、寒天とはあるが伊那食品とはない。
おなじく、女性の口紅の色素を寒天分子で包んだ傑作化粧品にも伊那食品の表示はない。

鳥取県人は島根県とどちらが東西にあったかをまちがえられると立腹するのが常であるけど、ひとりあたりカレー消費では日本一という快挙をなしている。

日本人の国民食を代表するカレーを、日本で一番食べているのが鳥取県人だという発見は、なぜかにたどりついていないミステリーである。
ご存じの方にはぜひともご教示いただきたい。

そんなわけで、鳥取でカレーを食べた。
見た目になんの変哲もない色合いのむしろやや黄色がつよい、いつものカレーが特産のらっきょうと一緒にでてきた。
しかしながら、一口食せば「辛い」のである。

えぇって!いう辛さであるが、ただ辛いのではない。
じつに「スパイシー」な辛さで、そのスパイシー感がインドカレー専門店のものともちがう。
うまい。

またかともおもいながら、別の食堂でもカレーを食べた。
やっぱり「辛い」。
こんなカレーを食べたかった、という味である。
しかし、これを子どもに出したら都会ならクレームになるかもしれない。

とまれ、鳥取県人の味覚に万歳。

きっとこのカレーは全国区になれる。
あとは経営力であろう。
失敗のもとは行政が出てくることである。
だから、行政がなにもしない、ことを期待したい。

田舎のグルメは、地元特産品とはちがうものでも成りたつのである。

丸山ダムと大衆食堂

岐阜県八百津町は人口1万人程度のちいさな木曽川沿いの町である。
かつて、くだりは木曽の木材を、のぼりは木曽への生活物資を運送した集積地として栄えたという。八百は「たくさん」、津は「みなと」、という意味だ。
造り酒屋と栗きんとんのお店が繁栄を象徴している。

木曽川流域は、国直轄の河川工事が明治20年からはじまった。
本流最上流には味噌川ダム、恵那峡下流に大井ダム、東海道新幹線と東名阪自動車道のあいだに木曽川大堰があるから、木曽川をつかった水運は堰とダム間にかぎられる。
つまり、丸山ダムだけで八百津の水運が途絶えたわけではない。

伊勢湾にそそぐ濃尾平野の洪水問題や、なによりも深刻だった電力不足という社会問題解決のために、昭和29年に竣工したのが丸山ダムで、当時発電能力は全国二位であった。

ダム管理事務所には資料室があって、そこには自由に視聴できるDVDが二枚用意されていた。
当時の貴重な記録映像が収録されていた。
どちらも40分以上あるため、全編を視聴することができなかったのが心残りである。
それでも、1時間ほどは見入ってしまった。

こういうものをYouTubeに公開できないものか?

興味をひくのはダム建設の映像では、昭和18年に着工されたものの戦争で中断され、たった三年で発電が開始できたのは徹底的な「機械化」の成果であったことだ。
コンクリートにつかう砕石の製造から、石灰が水と反応して熱を発するのを防止するための冷凍機、それに急峻な谷間をたえずわたる資材運搬用ロープウェイ。
戦争に勝ったアメリカ式の建設は、静岡県の佐久間ダムが嚆矢だと解説があった。

しかし、記憶にのこるのは、生活史の映像である。
水没する集落のひとびとの暮らしの記録は、「反対運動」の映像と交差する。
当時の小学生は、まだ何人か生存しているのではあるまいか?
「その後」の人生をしりたいものだ。

移住のため集落を去るひとと見送るひとの映像は、一編の映画のシーンのようだった。
見送る夫人の振る舞いの所作が優美でもあるのは、「ど田舎」にあってなお育ちのよき日本人がいる。
さらに、トラック助手席の見送られる夫人の堅い表情と、手も振れずに別れいくすがたは、どんな演出家にも指導できるはずのない「せつなさ」がにじみでていて、走りだしたトラックを子どもたちがずっと追いかけるのだ。

ダム完成の瞬間は、最深部に鉄板をはめ込むときである。
二枚が一枚ずつはめ込まれ、ここに木曽川の流れがとまり、貯水されていくのである。
水量豊富な川は、見る間に水位をあげて記念式典の場所も水没する。
そして、とうとう集落にも水はやってきて、ひとびとはそれをじっと見つめるだけである。

およそ大陸のダムは、巨大な人工湖をつくりだす。
高低差がないからである。
エジプトのナイル川をせき止めたアスワン・ハイダムは、総延長500キロメートル、最大幅400キロメートルの「ナセル湖」となり、気候をも変えて古代の遺跡が「降雨」によって溶け出す珍事となってあらわれた。
また、肥沃な土の流入がなくなったから、農業に化学肥料を要するようにもなったし、川底が侵蝕されて農地への給水にポンプが必要になった。
ただし、人口1000万人をこえる首都カイロの街のまん中を流れるナイル川の洪水は、なくなった。

わが国の地形はそれをゆるさず、急峻なゆえに大量の土砂でダムが埋まる。
いわゆる「砂防ダム」が、まさに埋まってしまうのとおなじだ。
砂防ダムの機能については、「機能している」というはなしと「ムダ」というはなしがある。

洪水防止と発電、という二大目的の「丸山ダム」に、「新丸山ダム」建設がはじまった。
現在のダム下流47メートル先に、新しいダムをつくって、現在のダムもそのままに20メートル水没させる計画だ。
先につくったアスワンダムの上流にあたらしくアスワン・ハイダムをつくった手順と真逆である。
だから、いまのうちに「丸山ダム」を観ておかないといけないのだ。

はたして、大量のコンクリート資材を必要とするダムは「エコなのか?」という議論はさておき、あいかわらずなにかをつくらずにはいられない。
これも近代日本人の性なのか?

新丸山ダムによって、あらたに湖底に沈む集落がある。
はたして、65年前の優美な所作のご婦人につぐひとが残っているのか?
21世紀になっても、ダムに沈むひとが棲まう地域があることは記憶したい。

地元では「ダム」と「杉原千畝記念館」それに「五宝滝」ハイキングが自慢の観光資源なのだろう。
しかし、街のド真ん中に、これぞ大衆食堂という昭和8年創業の「三勝屋」がある。
お目当ては「パーコー定食」と「中華そば」。 

「パーコー」とは、ほんらい排骨(豚バラ肉)のことをいうが、このお店ではロース肉のカリカリ天ぷらをいう。
これを、餃子のタレにつけて食すのだが、なんともうまい。
「中華そば」は、東京ラーメンともちがって「かつおだし」の醤油ラーメンで、麺は一度冷水で締めたあとに湯がくから、もちもち食感のあっさりした逸品である。

宿での夕食に、お持ち帰りで「チャーハン」と「上カツ丼」を注文した。
「チャーハン」は中華の味ではなく、「焼きめし」。
「カツ丼」は、ふんわり卵が乗っているので、よくある煮カツの卵とじでもない。

なにを食べてもおいしいだけでなく、愛情を感じるのが不思議である。
きっとおそろしく強い愛情で調理してくれているのだろう。
ダムすらリニューアルが必要なのに、このお店には必要ない。

「愛情」は、永遠なのだと教えてもらった。

「道の駅」密集地

松江から鳥取をむすぶ国道9号線は、有料区域のほうが短くて無料区域がバイパスの役目をしている。
島根県から鳥取県にはいると、一般道の9号線にするかバイパスの9号線にするか迷うが、長い道中のためバイパスをえらんだ。
すると、なんだか「道の駅」がやたらに登場する。

国道沿いにラーメン屋が密集していると、それを「ラーメン・ロード」と呼ぶことがよくあるが、まるで「道の駅・ロード」状態で、「道」と「ロード」がかさなって節操がない。
おそらく、村々の行政ごとに補助金がでて、とにかく「道の駅」をつくることが「村おこし」とか「街おこし」になったのだろう。

ラーメン屋なら「味で真っ向勝負」することになるから、ラーメン・ロードに出店するのはそれなりの「自信」がなくてはならないし、出店後に予想外の逆風があったら、必死で味の改善やライバル繁盛店の研究をおこたらないだろう。

もちろん、ライバル繁盛店の研究とは、相手の特徴を分析し、真似ではない自店の特徴をアッピールすることである。
「おなじ」にしてしまっては、元も子もないとかんがえるのが「ふつう」だ。

ところが、行政がからむと途端に「ふつう」がちがった意味の「ふつう」になる。
「競争」という概念が欠落して、施設の「維持」が優先するからである。

一車線ごとの対面通行で法定速度が時速70キロメートルのバイパスに、数分もはしると次の「道の駅」の案内カンバンがみえてくる。
閑にかこつけて全店制覇をこころみたが、数店目であっさり挫折した。
どこに寄っても「おなじ」だからである。

それはそうで、こんなに密集していれば、海産物も農産物も、季節ものなら採れるものがおなじだから売るものもおなじになる。
ほかに特徴のちがいはないかと、客のほうが探す手間をかけなければならないが、よほどの目利きでないかぎり発見するのは困難である。

つまり、ものの数分毎に「おなじ店」が並んでいる。
この季節ならよくある、スイカ農家の直売店がロードサイドに並んでいる状態とそっくりなのだ。
「いつもの店」をしっているなら「いつもの店」に、そうでなければ適当に自動車が駐車しやすそうな店にとめるのとおなじ、つまり運転手の気分に依存しているのである。

日本の「はわい」で有名な、かつての「羽合町」にも道の駅はある。
せっかくだから「はわい」がはいったグッズを「探した」が、全国共通の国道標識キーホルダー類しかなかった。
アロハシャツを売っているのに、どうしたことか?

企画力の欠如というべきか?それともなにか道の駅には「規制」があって、特徴のあるものを販売してはいけないのか?とうたがいたくなる「貧困」がそこにある。
かつての社会主義国のひとたちを招待して、どうすれば特徴ある店づくりができるのかリサーチすればよい。

きっと、「競争だ」とこたえるにちがいない。
なんのことはない、ラーメン・ロードの店主たちの努力のことである。

しかし、そんなことをする必要がないから、こうしているのだ。

この「必要性のなさ」は、消費者にとっての「必要性のなさ」ではない。
あくまでも、関係者という一団だけの論理である。
消費者は仕方がないから立ち寄っている。

まして、はるばるやってきた身からすれば、日持ちのしない品物は購入したくない。
日持ちがする品物ほど、どこでもあるから、とくに触手がのびることもない。

道の駅密集地は、競争がない社会のつまらなさを教えてくれる教材であった。

足立美術館にいってきた

ふつう交通の便利な場所が人気スポットになるので、不便な場所につくるのは敬遠するものだ。
しかし、それが「目的地」となると、どんな場所にあろうが関係ないばかりか、「はるばる感」がうまれるからここぞとばかりに張り切るのがひとの心理である。

足立美術館は、その庭園美を追究した特異な美術館で、しかも、肝心の庭園は回遊式ではなくきめられた場所から鑑賞するという方式になっている。
窓枠が「額縁」になって、リアルな景色を「絵画」に見立てる趣向なのだ。
ために、庭園の借景となる山々もふくめ、庭園の美を構成するから、その山々も美術館で保有しているという。

したがって、この場所まで人間がやってくるしかない、という制限された条件がこの美術館にはある。
つまり、不動産そのものが「美術作品」なのである。

この驚嘆すべきアイデアは、いったいどういう理由でうまれたのか?

住所は「島根県安来市」となっているが、ほぼ田園地帯の一画である。
個人的だが、横浜の自宅から800キロメートル以上もある。
それは、美術館HPにあるいわれをみればわかる。
創設者、足立全康の生まれ故郷であった。

すなわち、故郷に錦を飾った、かつてのジャパニーズ・ドリームの体現者なのである。
仰げば尊しにおける「身を立て 名をあげ やよ 励めよ」を実践した人物が、実業の世界での成功をもって私財を投じてできた美術館なのだ。

しかし、この美術館の本旨は、来館者に日本画とくに近代の最高峰・横山大観の美を確と目にやきつけるための、前奏曲となる理想的な日本庭園の自然美を観た感動をもって、メインディッシュにむかう構成になっていることだ。
なんという壮大な「前奏曲」であろうか。

音楽や料理にたとえれば、そういうことだ。
これに、陶芸の河井寬次郎、北大路魯山人がくわわって、山からとれた土による芸術作品も鑑賞する設計がなされている。
魯山人館は現在建設中で来年秋の開館予定だ。

寬次郎も魯山人も京都のひとだ。
京都五条にある寬次郎の窯を訪問したことがあるが、島根でつながった。
ふたりの作風のちがいを、素人でもわかるように収集したコレクションの幅のひろさは、日本画もおなじであるが、あくまでコアとなるのは大観芸術である。

その意味で、この美術館には「狂気」すらある。
まったくの人工的造園技術の粋をもって、あたかも「自然」をつくり出す。
まさに、「自然」とはなにか?を哲学したくなるではないか。

本美術館の庭園がアメリカの専門誌で何年も日本一を獲得しているから、万年二位になってしまったのが「桂離宮」だ。
その桂離宮を「解体」したのが、井上章一『つくられた桂離宮神話』である。

この美術館は、魯山人的な「狂気」によってつくり出されているのだと気がついた。
もちろん、寬次郎でもかまわない。
しかし、世にしれた「こだわり」といえば、魯山人があらゆる方面で示している。
昨今、魯山人の著作は、電子書籍だと無料で読めるようになっている。

道路を地下道で横切る「新館」が、美術館の出口になっている。
ながい無表情な地下通路をとおると、美術館主催の絵画展で優秀とされた現代作家の作品群が出口まで誘う設計も、音楽にたとえればゆっくりとフェードアウトするような気分になった。

全康氏亡き後も、確実に本人の意志が継承されているのだろう。

四季の庭園があるからちがう季節に再訪したい、ではなくて、その時期にみあった大観作品の入れ替えがあるから、庭園も観てね、になっている。
120点もの大観作品のコレクションこそ、この美術館の真骨頂なのである。

さては、公共の美術館にはない魅力がある。
ほんらい、こうした美術館の存在こそが国民資産なのである。
公共の美術館に、狂気はありえないからだ。

国家が芸術を支配してはならないし、成功者が成功者として「恩返しする」ことを妨げてもいけない。
しかしながら、全康氏のような成功者がうまれない社会は、もっといけない。

いつかまた、かならず再訪したいものだ。

多賀大社の御利益

古事記と日本書紀のさいしょの記述のちがいは、伊邪那岐命(イザナギのみこと)と伊邪那美命(イザナミのみこと)による日本列島をつくり出したあとの「神産み」で、さいごに火の神を産んだことで伊邪那美命の局部がやけどして、これが原因で黄泉の国にお隠れになったのを、けっして来るなという約束をやぶった伊邪那岐命が、ほうほうのていで逃れた場所にある。

古事記は近江の多賀で、日本書紀は淡路島になっている。

どうしてちがうのか?ということは、どうして古事記のあとに日本書紀が書かれ、これら両書とも今日まで保存されているのか?ということにも通じるから、よくよく調べてみることをおすすめしたい。
なお、古事記をもって最初とされているが、ぜんぜんちがう伝承(口伝)があって、これらはみな廃棄され、伝承を強制的に禁止したという説もある。

世界の「神話」研究でわかったことは、文字による伝承がもっとも脆弱であることだ。
古代エジプトの象形文字解読に重大な役割をしたロゼッタ・ストーンのような、同じ話を複数の言語で書いたものがないと、後世に「解読できない」のが文字の特徴なのである。
むしろ「口伝」による伝承の方が、正確に伝わるとかんがえるのが「神話」なのだ。

さて、多賀に降りたイザナギのみことが、その後どうしたかはわからない。
けれども、この地に多賀大社ができたのは「事実」なのである。
その社は、忽然としてあらわれるから不思議だ。

豊臣秀吉が参拝してうんぬんという逸話も、現代人にして秀吉との近親感を得るのは、その時間差が大社創建時からと秀吉から現代までの時間とで、はるかに長いのが創建時からの時間だからである。
エジプトのピラミッドをみると、クレオパトラやナポレオンの存在と現代人が近親感を得るのににている。
おそろしく古いものとは、そこに「あるだけ」で、人間がかってに意味をもたせるものなのだ。

そうした「意味」と、存在していることの「意味」とが一体にならずに分裂しているのが日本の観光地の特徴で、門前町の風情のなさは、単純に町の衰退をあらわすだけでなく、参拝客からの「掠奪」によってなん百年も喰ってきたという貧困の絵姿になっている。

すなわち、「まちづくり」という行為が、行政に依存して、とうとう「権利」と共存できないために、住民による破壊が果てなく続いた結果なのである。
そして、価値がその場だけにかぎられると分裂して信じるがゆえに、たとえば多賀大社なら、境内の内側における静寂と、門前町の歯抜けがより鮮明なイメージとして参拝客の記憶にのこることが、ぜんぜんわかっていないのだろう。

ときに「強制」がよい結果をつくるのはヨーロッパ人の常識で、「グランド・デザイン」という価値を追求すれば、おのずと地価も上がることをしっている。
かつての日本人の歴史的支配者がもっていたはずの「グランド・デザイン(町割り)」が、現代人にない、ということこそ、都市衰退の原因なのである。

都市計画の「なまやさしさ」は、東京の旧汐留駅再開発にあたって、おなじ国鉄駅敷地再開発に取り組んでいたドイツ・ケルンを訪問した都の職員がみせたグランド・デザインに、ケルン市役所の職員からきっぱりと「これをわたしたちは都市計画とはいいません」といわれたが、その計画どおりに再開発したのがいまの汐留地区である。
日本の役人は、海外出張の成果を発揮しないなら、自腹で出張すべきである。

彦根城の天守からみえる街並みが、西の方向に特徴あるスカイラインでおなじ色の瓦屋根の連続をみることができることで、町割りが「保存」されていることがわかる。
こうした街並みが、天守に上がれたことの価値をつくっている。
かつての城主たちは、この景色からさまざまなことを想像したにちがいなく、現代人とてもおなじ感覚になれるのは、ひとつのよきことにちがいない。

しかし、残念なことに、彦根城にこの街並みの解説がないのである。
城の保存だけをすればいいとかんがえる「分裂」の症状が、ここにもある。

日本神話における「アダムとイブ」は、聖書の創世記でいう宇宙と地球誕生を命じた「神」の一週間にわたる仕事を、二人で実行する。
そのため、多賀大社は夫婦の神をまつっている。
はたして、この周辺の人々の離婚率は低いのかはしらないが、縁結び、ということにたけてはわが国一番のはずである。

東京の帝国ホテルが、わが国で最初のホテル婚礼をはじめたという「歴史」がある。
宗教をそのときの目的にそって選ぶのが、日本人の特徴ではあるが、最初のホテル婚礼は「神式」にかぎられていた。
信者でもないのにキリスト教式の婚礼をあげるのは、おそらく日本人だけではあろうが。

その帝国ホテルの神式場の主神は、多賀大社の分祀なのである。
まいねん、担当者が多賀大社に出張して、ご神体をあたらしくしている。

もう29年前になるが、わたしたち夫婦も帝国ホテルの神式場で挙式した。

これはこれで、御利益があった、ということだ。
そんなわけで、今回の参拝はお礼参りでもあった。

記念にもとめた夫婦守りは、わが家で鎮座ましますことになる。