「職域奉公」という体質

戦中の昭和17年(1942年)にでた,橘樸「職域奉公論」によると,近衛文麿の大政翼賛会ができた当時にはやりだした用語であるという.
だから,ちょうど昭和15年(1940年)ごろにあたる.
国家総動員法ができたのは昭和13年(1938年)で,第一次近衛内閣のときだった.

すなわち,「職域奉公」とは,すべての職業が国家の戦争遂行という目的に協力することをいうから,これがわが国職業人の「道徳」になったのだった.

このころにつくられた「戦時体制」が,21世紀の今日にも連綿とつづいていることを告発したのが,野口悠紀夫「1940年体制」だった.
いまの戦後最長になりそうな総理がいう,「戦後レジームからの『脱却』」というフレーズが,じつは「戦後レジームへの『回帰』」だとわかる本だ.

もっといえば,戦後体制とはおどろいたことに,戦時体制の延長にすぎない.

 

この本は初版と増補版とがあって,初版+増補版最終章で全部読めるようになっている.最終章が差し替えられているので,増補版一冊だけでは漏れが生じるので注意したい.

さて,政府がすすめる「働きかた改革」に財界アンケートでも半数が「迷惑」と回答したのがニュースになった.
その「働きかた改革」の浅はかさとは,戦時体制としての「職域奉公」を,政府が押し進めたことを忘却しているからである.

ところが,民間は,それがすっかり道徳として「血肉」になってしまったから,両者のズレは二重らせん構造のようにからみあっている.

たとえば,わが国を代表する証券会社である野村證券の創業の精神には,「証券報国」,「職域奉公」がはっきりとうたわれている.
これを,現代風の「事業ドメイン(領域)」として解釈しているのは,必然であろう.
あえて意地悪くいえば,だからNOMURAはゴールドマンサックスのようになれない,のではないか.

ゴールドマンサックスは,その経営幹部が歴代,アメリカ連邦政府要人になるほどであるが,社が掲げるものに「証券報国」も「職域奉公」もあるはずがない.

この例からもわかるように,戦前からつづく伝統的なわが国の企業は,いちように「職域奉公」という思想をかかえたままでいる.
あたかも,それは日本人の宗教心のように,ふだんはほとんど意識することはない.しかし,ことなにかあるときに,忽然と信心深くなって,効きそうな神社仏閣にお参りするようなものだ.

組織では,「職域」が「聖域」になる.
だから,他部署の人間は,そこに足をふみいれることすら許されない.
これをパロったのが,2008年の映画「ハッピーフライト」における,航空会社の地上職が機内に入るシーンだった.

しかし,現実は,当事者間でけっして笑えない問題だ.
よしんばこれが,社内不正を調査する場面なら,おなじ社員同士が検察と容疑者のような関係になる.
だから,もし,事件が収束しても,部署間の軋轢はけっして緩むことはなく,それは個人間の恨み辛みになるものだ.

「第三者委員会」という調査機関による調査は事実上の経営放棄だとまえに書いたが,そうでもしないと上記の軋轢をマイルドにする方法がない.しかし,あくまで「マイルド」だ.
つまり,まじめな企業のまじめな部署ほど,「職域奉公」の意識が高く,自分たちの職場を「聖域化」させることで,一体感という精神の安定を得ようとするのである.

もちろん,ここにはもはや「お国のため」という意識はないだろうが,「会社のため」に変容しただけで,なにが会社の利益になるのかが不明なまま,経験と勘で「奉公」してしまう.
それででてくる職場の概念が,現状維持,なのである.
頑迷な「守旧派さがし」をしても,ピンとこないのは,こうした事情があるからだ.

むかしながらの方法を盲目的に維持する.
それがもっとも「間違いない」と信じることで,会社に貢献できると確信する.
こうして,職場の改善はすすまないから,生産性に変化はおきない.
むしろ,生産性に変化をおこさないことが,「聖域化」した職場をまもることになっている.

経営者は,それではこまる.
それで,改革に「聖域はない」といってはみるが,どうしたらよいのか打つ手がみえないから,もっともらしく「全社一律」という落としどころにおとす.
できもしないことをわかっていても命じるのが仕事と自己欺瞞して,結局できないのを部下のせいにする.

会社の利益とはどんなことで,職域奉公では達成できないとトップが説かないと,現場は理解できないことを理解できない.
しかし,そのためには,どんな仕組みが必要なのかをかんがえて,その仕組みを用意しなければならないから,現場にいうまえに経営者がやるべきことが山ほどある.

伝統的企業の従業員から昇格した経営者ほど,自身が職域奉公に染まっているのだと,最初に認識しないと,やるべきことも見えないで任期をおえるだろう.
それをまた,後任や後輩,あるいは新入社員が黙ってみているのである.

マニフェスト・デスティニー

訳せば「明白なる天命」という.
アメリカ人の西部開拓「正当化」の標語だった.
このことばで,「インディアン」の虐殺が正当化されたことは,歴史のしめすところである.
いま,「ネイティブ・アメリカン」と呼んだところで,かれらに土地を返還したことはいちどもない.

大西洋と欧州旧大陸には関与しないのが,「モンロー主義」でしられるアメリカの引きこもり政策だから,西海岸のその先における太平洋について,「モンロー主義」は対象範囲ではない.
それで,ハワイを落とし,フィリピンを落とした.

西へ西へ,とにかく西へ.
ベトナムをこえてイランからアラブ中東に向かって,アフリカのリビアにたどりついたとき,地球は丸いことに気がついたのか,ここでアメリカの西方移動の動きが止まった.
リビアの悲惨は,イタリアによる支配からはじまる.

この映画「砂漠のライオン」は,史実に基づいていて,ずいぶんと長い間イタリアで上映禁止になっていたから,観ておいて損はない.
イタリア人のなかに,ムッソリーニがどれほど残っているのかを聞いたら激怒するだろうが,戦勝国になった戦後も政治的判断が優先できる国であった証拠のひとつである.

あのカダフィー大佐がイタリア訪問したときに,史実だから主人公の写真を衣服につけ,主人公の子息を同伴したというエピソードまであるが,はたしてこの物語の主人公がカダフィーに与したかは疑問である.

そんなアメリカと正面から戦った「西方の国」は,「インディアン」をのぞけばこれまで日本だけだったが,ここにきて中華人民共和国と貿易戦争に突入している.
先月9月26日,ニューヨークにおいて安倍首相とトランプ大統領の首脳会談でだされた,7項目からなる日米共同声明の6番目には,日米が欧州も味方に巻きこんでこの貿易戦争に立ち向かうことがかいてある.

「第三国の非市場志向型の政策」というかきかたは,外交文書として直接名指しはしないものの,あきらからに国名が特定できるから,かなり踏み込んだものになっている.
過去,日米貿易戦争をしかけられたわが国からすれば,どんな方法が「痛い」のかを知っているから,今回ほぼ名指しされた国からすれば,かなり嫌な感じのはずである.

それでか,こまったときだけ擦りよる性格の彼の国が,やっぱり擦りよってきたのか,韓国済州島での国際観艦式に「旭日旗」問題で不参加としたわが国にあわせるように,理由不明なまま不参加とした.
まさかとおどろいたのは,韓国側だったろう.
あちらの外交部は,先月の日米共同声明を読んでいなかったのだろう.

弱小国として,外交の重要性は軍備以上であることは常識であるから,残念をとおりこした状態だといえるだろうが,それが「国民の要請だから」ということなら,だまって受けいれるしかない.

結局,アメリカは第二次大戦の日本との戦争理由になる,中国市場がほしいのにままならぬ,という状況がいまでも解決されないことにイラついている.
だから,その北に鎮座するロシアがじゃまで,価値感がことなる中共をいじめるのである.
この状況は,この150年間,おおきく変化していない.

変化したのは,唯一,わが国がしゃしゃり出ない,ということだ.
清国が中共になったのも変化に見えるが,軍閥という目線での変化はないからだ.
しかし,今回の共同声明では,ずる賢いことをアメリカに指南する役になったから,陰湿なわが国官僚にとっては,薄笑いと舌なめずリしたくなるようなステージが用意されたわけである.

おそらく,中国に入れ込んでいるドイツが,日米に反抗する素振りをみせるだろう.
ドイツ銀行の筆頭大株主は,中国企業だからだが,その中国企業の資金はアメリカに預けてある.
アメリカがこれの凍結をほのめかせば,ドイツは喉元のとげが抜けて万々歳なので,日米欧の連携が強化される素地はある.

これから年末にかけて,さまざまに入り組んだドラマが展開される.

デパートは本当に不要なのか?

国内だけでなく外国でも「デパート」という業態が,ネット通販におされて苦戦を強いられてひさしい.
ずいぶんまえから「斜陽産業」といわれてはきたが,ここにきて国内大手が地方都市の店舗閉鎖をあいついで発表し,「不要産業」とのレッテル化がすすんでいる.

本ブログでデパートを最初に書いたのは,昨年,旅館の売店との比較を論じたときである.
「欲しいものがない」という状態を共通とした.

それは,デパートが自分で商品を仕入れることを忘れて,売り場面積を売るという不動産業化した時点で,「デパート」というカンバンを自分たちで降ろしたことにはじまる.
これに,「消化仕入れ」という日本ローカルの商慣習が,デパートを仕入れ先支配の構図において,一方的有利な「商売」を可能にしたから,ちゃんとした競争にさらされなかった.

一時期,有利だと誰もが信じた商習慣が,市場の実態から遠ざかる原因となって,真綿のようにじっくりとやさしく時間をかけて首をしめつけられれば,確実に死ぬ,というおそろしさである.
まさに「ゆでがえる」.
デパートの凋落は,他業界の経営者に,大変貴重な教訓をあたえてくれるものだ.

国内大手の縮小均衡がどこまで続くのか?をかんがえると,意外な意思表明をしているのは最大手の「三越・伊勢丹」である.
他社が,従来のやりかたのまま縮小をつづけているのに対して,自社仕入れを増やす,という方針をあきらかにしているからだ.

これは、買い物客として期待したい.

そこで,「再生」という視点でもかんがえてみたい.
「万年赤字」という状態は,市場から遠ざかったことを意味する.
だから,経営理念というその企業の存在理由(最上位概念)にさかのぼって再考するのが「再生」のセオリーである.

なんのために百貨店は存在するのか?
生活者の豊かな生活を実現するための,物質面からの支援であったはずだ.
だから,ものがない時代,自動的にデパートは繁栄した.

それから,人々の所得がふえると,より質の高いものを「高価」という代償を負担して追求するひとと,コモディティ化した物品ですませるひととに分化して,圧倒的有利にたったのが総合スーパーだった.

ところが,高品質のものも,コモディティ化した物品も,その範囲が拡大して,ものがあふれる時代になると,「選択」という手段がとれるようになって,さらに,生活時間の拡大から,コンビニが成隆する.
ものだけでなく,時間も選択できるようになった.

そして,ネット通販という究極があらわれた.
物理的な商品展示スペースを必要とせず,あらゆるものが揃うようになったのだ.
しかし,ここにきて,その巨人であるアマゾン.コムが,リアル店舗を開店させている.
これはどういうことか?

リアル店舗での買い物とは,ネット注文である.
だから,リアルなこの空間は,人気商品の展示場なのだ.
その「人気商品」とは,ネット販売におけるデータから分析されたものだろう.
訪れた客は,現物をみて納得できれば「ポチッと」スマホから購入する.

すると,あらためて既存デパートの「自社仕入れ」とは,どうするのか?気になるところである.
もしかすると,階毎にちがう売り場になっている概念から変えるのか?
根本的見直しなら,そんなことが起きてもおかしくはない.
むしろ,生活シーンにあわせた高品質な提案があっていい.

もっとも,大型雑貨店という業態もすっかり定着しているから,その困難さをおもうとデパートの苦難はつづくだろう.

身も蓋もないはなしだが,わが家には思わぬ金額のデパート商品券があることに気づいた.
デパートがなくならないうちに,なにかと交換しなければとおもいついた.
それで,家内と何年かぶりにデパートに出かけた.

お目当てはハンディーなコーヒー・ミルである.
旅先や出張先の部屋で,くつろぎながらお気に入りのコーヒーを飲みたい,というのが当面の一致した要望だったからである.
それで,当然にネット検索し,事前知識をもって出かけたのである.

電車賃を払って,横浜を代表するデパートに向かった.
生活雑貨フロアーは,面積は広大だが種類がどこまでのバリエーションなのか?
たどり着いたコーナーには,5,6種類のコーヒー・ミルがあって,そのうちハンディーなタイプは2種類だった.

たったこれだけ?
事前知識が崩壊する.
もしかして他の場所にもあるかもしれないと,係のひとに聞いてみると,やはりこのコーナーだけだった.

結局,大型雑貨店に足が向いた.
エスカレーターからいきなり目に飛び込んだのは,ハンディーなコーヒー・ミルの納得の品揃えだった.
ここでは,デパート商品券がつかえない.しかたなく,現金での購入だ.

我が家のデパート商品券は,デパートという業態があるうちにつかいきれるのだろうか?
家内は,地下の食品売り場でつかう手があると冷静だった.

口に入るものではない.
なにかいいものはないのか?
デパートのバイヤーにエールを送りたい.

優秀な役人は火事場太りする

静岡県の銀行がしでかした「不正融資」問題に,金融庁というお役所が「(一部の業務に対して)業務停止命令」をだした.
「不正」をしていたやからが,創業家をふくめ多数排除されたものの,不正ができた土壌をキレイにするまで,不正に関係した仕事をしては「いけない」,と犬に命令するようなことがおきている.

たしかに,監督官庁の「行政」として,当然のことのようにみえる.
しかし,これとて釈然としないのは,不正をして「損をしたのは誰か?」ということをかんがえると,貸したカネが回収できなくなった銀行と,甘い見通し(ここにも不正がある)で借りたカネで事業をやって儲からなかったひとではないか?
銀行の損は預金者と株主という出資者に対してどう責任をとるのか?という問題であって,一方,不正で借りたひとの損は自分でなんとかするのが「おとなの社会の掟」である.

だから,銀行の損はやらかしたやからたちが,私財をもってその損害を賠償するのが筋だ.
つまりこれは,「民事事件」である.
それで,銀行という会社組織に対しての「不正行為」そのものは,「刑事事件」として罰するのが筋だ.
釈然としないのは,この「民事」と「刑事」がいまだに曖昧なままだからだ.

それに,当然だが、企業としての銀行に対する社会的責任も問われる.
一部の経済誌では,金融庁に廃業命令をだすように期待する記事まであるが,まったく見当違いもはなはだしい.
どうして,国家に依存するのか?

こういう記事が書ける記者の脳内構造が,政府を「御上」とみる前近代の価値感に犯されていると自己分析すべきだ.
預金者が預金を別の銀行に移したり,株主が株を売却したり,別の銀行が借入をしている取引先に営業をかけたりして,結果的に立ちゆかなくなって「破綻」すれば,それまでのはなしである.
自由主義における「市場」からの「制裁」,という機能を機能させずに,国家が制裁機能をもつほうが異常である.

つまり,利用者が自由に判断すればよくて,国家が決めることではない.
よしんば,この銀行だけに取付け騒ぎがおきても,それがわが国の金融システムに決定的ダメージをあたえることはない.
むしろ,こんなことで役人に万能な廃業の権限をあたえることが,わが国金融システムの健全性にきずをつけるだろう.

こんな「依存体質」が国民にあるから,金融庁という役人集団(長官も政治家ではなく役人である)が,やけに張り切って,この夏に代わったばかりの長官が,本件の「反省」の弁を述べた.
それはそうだろう,このひとの昇格まえは「検査局長」だったのだから,事前に「内部告発」が役所にもたらせれていたのにこれを活かせなったのは直接的な「落ち度」にちがいないからだ.

この銀行の不正が発覚したのは,ことしの年初だった.現長官にとって,アリバイはない.
マスコミはここにツッコミを入れて,いつもの「責任問題」にするのかとおもったら,あんがい「冷静」で,きもちが悪い.
長官を「泳がせ」て,より強力な金融機関支配をやらせようというのだろうか?

10月9日の報道によると長官の発言は,

何が金融庁に欠けていたのか,改めて体制を構築する.
第三者の目で取締役会の議論を確認し,経営者の目指す理念や戦略が営業の現場で生かされているかも検証していく.

である.

まさに余計なお世話だ,というよりも,企業のガバナンスそのものを信用しないという態度は,まったく資本主義の制度の無視ではないか.
金融庁のどこに,こんなことができる権限があるのか?
「欠けていた」ものが問題なのではなく,「有り余る権限」が問題なのだ.

株主から委嘱された個々の取締役と,その取締役で構成される取締役会の決定事項が,社内に浸透するかしないかは,取締役およびそれをささえる各種役職者の業務そのものである.
これでは,まるで「ゲシュタポ」ではないか?

  

金融は経済の要である.
これを自由に民間が経営するのが,資本主義の基本中の基本だが,国家がこれに介入し,役人が経営責任をとる仕組みもないまま,勝手に監視し,命令をくだすのが許されるというのは,資本主義の放棄である.

その証拠が,金融庁が銀行の監督官庁なのに,不正をみつけられず(ちゃんとタレコミがあったのに握りつぶして),その責任を一切とらないばかりか、担当責任者が昇格するのである。
まさに火事場の焼け太りではないか。
そして,責任回避のために企業を痛めつける構図は,原発事故の始末とまったくおなじである.

そして、資本主義を憎み、国家転覆による社会主義化・共産主義化をもくろむ左翼マスコミがこのお先棒をかつぐ姿は、絵にかいたようなグロテスクである。

内閣どころか、国の自由経済体制がひっくりかえるような無謀な論に、だれも反対しないのか?

こんな原理原則が平然と蹂躙されて、なにが景気対策で、なにが消費税問題なのか?
とうとう、政府が役人によってむき出しの社会主義(全体主義)経済体制への舵をきってしまった。
じつはこれとて,いまにはじまったことではない.

平成時代とは、将来、日本国が資本主義の矛盾という歴史的必然によって、流血革命をせずに「維新」という民族の歴史的知恵をもって社会主義を選択した、人類史上画期的な偉業をなしとげた、と絶賛されるのだろう。

ほんとうは、担保価値しか融資の判断にできない前資本の「質屋」を、近代的資本主義下の「銀行」と呼んでごまかしていたところに、マイナス金利という人類史上初めての「厄災」と呼んでもいい事態打破のために、無駄に貸し付けることを選択しただけのお粗末を、資本主義の矛盾、といって熱狂する奇人たちのファンタジーである。

そして、もちろん,わが国の金融機関を近代的銀行ではなく,「質屋」のまま進化させず固定させる方策を推進したのがノーパンしゃぶしゃぶにうつつをぬかした旧大蔵省銀行局であって,金融監督庁から今につづく金融庁そのものである.

この根底に,役人からみた愚かな国民がいるのである.能力がないから質屋のままでいろ.あとは,なんとかしてやるから,という発想だ.
だから,マスコミがいう,「護送船団方式」は放棄された,ことはなく,役人が面倒をみれなくなったら廃業させて,関与した役人たちに責任という被害がおよばないようにしただけである.

しかし、こんな歴史解釈もないままに、日本経済は二度と復活しない社会主義(全体主義)経済を選択してしまった。
どん底まで落ちて、その後,東欧自由革命のような変革が起きればいいが、その保証もいまはない。

陛下が退位をご希望されたのは、こんなこともあったのではないかと、畏れ多くも拝察するしかない。
次の時代の困難は,かつて経験のない過酷なものになるだろうことだけは確実性がたかまっている.

「2円」のために失う「自由」

「仰天するニュース」というのは,天変地異いがいめったにあるものではないが,消費税率を10%にしたばあいの「軽減税率」適用のために,コンビニなどのイートインコーナーを廃止せよという命令を国がするという記事をみた.
目を疑うとはこのことだ.

100円の飲料なら,いまは8%の消費税率だから,「108円」.
10%になっても,飲食料品には軽減税率が適用されて,いまの「8%」がそのまま据え置かれることになってる「はず」とおもっていたら,「飲食する場所」によって税率がちがうという「珍奇」なことを政府が本気でやるという.
差額は「2円」である.

つまり,店内のイートインコーナーで飲食したら,軽減税率の適用はしない,というお国の嫌がらせである.
どこの誰が思いついたかしらないが,精神を病んでいるひとの仕業としかおもえない.
レストランとの違いを「区別できない」というのは,ふつうではない.

こんな馬鹿げたことを想定した問答集を,国税庁がちかくだすというから,わが国の生産性が上がらないのである.
国税庁職員の業務のムダに,イートインコーナーのスペースのムダ.
もし,このスペースを改修するなら,店舗を一時閉鎖しなければならない可能性もふくめてのムダもある.工事費と工事中の売上機会損失である.

しかし,そんなことよりも,あきらかに大問題なのは,レジをとおして支払が済んだものは,購入者に絶対の所有権があるはずで,それをどこでどう処分(この場合は飲食)しようが,所有者の勝手である.

もちろん,他者の迷惑をかえりみないような「処分」ではいけないが,それが店内であろうがなかろうが,所有者の自由であることにかわりはない.
ましてや,この議論の対象は,飲食スペースとしてすでに店が用意したイートインコーナーなのである.

なんのどんな権限で,営業の自由ともいえる範囲に命じることができるのか?
たとえ税を徴収するという,崇高な目的であっても,自由の侵害が許されるものなのか?
そんなことはありえないだろう.

ふだん,国防上のことで意見がかまびすしい「憲法学者」は,どんな見解なのかうかがいたい.
本件は,他国からの侵略や自衛についてかたる以前の,「国民の自由」にたいして国家権力の介入そのものではないか.
日本国が保障する「基本的人権」が,風前の灯火状態になっている.
まさに,あってはならない暴挙である.

弁護士資格を有する野党第一党の党首は,「景気悪化懸念」を第一の理由にして消費税率の引上げに反対すると発言しているが,とんちんかんも甚だしい.
ちゃんと法律の勉強をして,本当に司法試験に合格したのか?を問いたい.
あんたの専門は経済じゃなくて,法律だろうが.

人権について熱心な,日弁連もどういう見解なのか?あらためてうかがいたい.
イートインコーナーの廃止命令は,あきらかに人権問題ではないか?
社会的弱者や,不法移民の擁護が対象ではなく,一律,日本国に住む「人間の自由」の蹂躙である.

消費者は負けてはいけない.
バカにするな,と.
「2円」を惜しむ貧乏人は店外で食え.
イートインコーナーは,レストランか?日本から「豊かさ」がうばわれてゆく.

食品は,生活必需品のトップである.
150年前の日本なら,8割以上の国民が農民だったから,食べ物は自分でつくっていた.
いまは,たったの5%が一次産業従事者である.
だから,どこかで購入しないと,生活が成り立たない.「食っていけない」とは,食品を買うことができないという意味になった.つまり,生活ができない.

そんな食品だけは特別にしよう.
これが,「軽減税率」の趣旨だったはずだ.
繰り返す.
購入した食品は,購入者本人の自由処分の対象である.
それを,どこでならよくて,どこでならダメだと,役人が決めて命令するはなしでは絶対にない.

これを「馬鹿げている」と阻止しない国会議員は,自由を憎む全体主義者である.
まさに,本件以上の「踏み絵」はない.
なにがあっても,反対しない議員は,次の選挙で落選させなければならない.
日和った者も同罪である.

こんなことが許されるなら,「蟻の一穴」となって,わが国は地獄に落ちてしまう.
なんと恐ろしいことか.

とうとうこの国は,政府によって基本的人権が犯されるまでに追いつめられた.

政権は,憲法改正を「悲願」というが,いったいどこをみているのか?
民主主義・主権在民の憲法とは,「『国民から』国家・政府への『命令書』」なのである.
これをもって,憲法を「最高法規」という.
だから,憲法を守らなければならないのは,唯一「公務中の公務員」だ.

命令書をだした主権者たる国民は,公務中の公務員の仕事を監視する役目を最高裁判所にあたえた.

このままでは,この国は,「三権分立」してはいないことがバレてしまう.
すなわち,「近代国家」ですらない,ということだ.

わたしたちは,とんでもない国に住んでいる,かもしれない.

360億円のヨット

報道によると,ロシアの富豪が所有する全長119m,5959トン,乗組員50人のモーターヨットが,台風25号を避けるため,天橋立がある京都宮津に寄港した.家族は,内部にあるクルーザーに乗り換えて上陸し,丹後の海の幸を楽しんでいるという.

ありがたいことである.
外国の「超お金持ち」が,わが国を訪れることはめったにないから,こうしたニュースにもなる.
訪日客の「人数」ばかりを,なぜか「目標」にしている観光行政にかかわる役所の存在価値がいかにないかの示唆でもある.

日本の沿岸には,2866の漁港があるが,「漁港」なので,プレジャーボートの入港はできない,と思いがちだが,水産庁はこれを否定しているし,公益社団法人全国漁港漁場協会で「フィッシュアリーナ」という漁港をレクリエーションの場にしようという試みがおこなわれている.

しかし,以上のはなしは建前で,個別の漁港では,漁協が事実上の管理をしていて,つまり,裏を返せば役所が管理を漁協に丸投げしていて,おいそれと利用できないのが実態のようである.
事前に申し込めば,根拠不明な利用料が請求され,入港時に「現金での支払い」をその場で要求されて,領収書もくれない,などということがあるそうだ.

税金でつくったコンクリートのかたまりである堤防をふくめた漁港は,いったい誰のものであるのか?をかんがえると,占有者が所有者になる,という鎌倉時代の習慣がそのまま残っている.

また,高圧的態度で接するから,楽しいはずの入港がだいなしになるとも聞く.
一方,漁協の言い分にも一理あって,ボートオーナーの我が物顔での横柄な態度や,業務に差し障る場所への勝手な立ち入りなどがあるというから,ある意味どっちもどっちであるが,ボートオーナーの全員が対象者にはなるまい.

それで,これを「分離」するための,「フィッシュアリーナ」ということなのだろうが,これも例によって例の如く,建設予算がつくから,「事前の利用ルール確立」による,紳士的でおだやかな利用をいたしましょう,というお金をかけない「おとな」の発想がない.
さすがは「子どもの国 ニッポン」である.

だから,特定の漁港しか利用できないように仕向けているのは,役所の方になる.
水産庁のHPは,自己矛盾も甚だしい.
こういうのを「マッチポンプ」というのだ.

入国のための交通手段で,主たるモノが航空機になってひさしいが,そのなかでも贅沢なのは「プライベートジェット」といわれる,小型のジェット旅客機だ.
ホンダジェットが,販売開始してすぐに100機の注文があったというのは有名なニュースなったが,どんなひとが注文したのかの突っ込みがない.

一機3億円以上する「自家用機」だから,陸を走る超高級車が10台以上買えるお値段である.
しかし,自動車のガレージは自宅にも持てるが,飛行機の格納庫を自宅に用意できるひとは,すくなくても日本ではいないだろう.飛行機だから,動かすには飛行場が必要だ.
だから,結局どこかの飛行場に用意しないといけない.

すると,駐車場ならぬ駐機のための費用もばかにならず,運転免許ならぬ操縦免許だって,取得するには大変な訓練を受けなければならないし,そもそも,オーナーはプライベートジェットの客室に乗ることを想定するから,運転士ならぬ操縦士を雇わなければならない.
ビックリするほどの維持費がかかるのが,プライベートジェットだから,高級車のオーナーがちいさく見えるのも納得できる.

外国人の成功したビジネスマンは,「見せびらかしの消費」のために,こぞってプライベートジェットを購入するという.

 

ところが,スピードでは亜音速の最新大型ジェット旅客機にぜんぜんかなわないから,太平洋を横断して日本に来るには,それ相応の割増時間をかけてやってくる.

それでも,たとえファーストクラスをつかっても,一般人扱いされる入国審査とはちがって,プライベートジェットには国賓向けの特別室の利用もできるから,この「特別感」がたまらないのだという.用意した自動車が玄関に待機しているから,人目につかずにすばらしく快適な入国,および出国ができるというのは,たしかに特権である.

ところが,羽田や成田の駐機場がいっぱいで,なおかつ駐機料がこれまた「日本特別価格」で高いから,さすがのオーナーもひるむそうだ.
そこで,東京に用事があるオーナーが降りると,機体は「富士山静岡空港」にむかうという流れができた.

この飛行場も県知事の鳴り物入りでつくられたものだが,定期便がほとんどこないので,格納庫に空きがあったのだ.
いまでは,プライベートジェット用の格納庫があるというから,収入という「カネ」は重い腰のはずの行政だってかんたんにうごかすのだ.

あるとき,オーナーが機長に,どこに「駐車」しにいくんだ?と質問して,「SIZUOKA」とこたえたら.「Where is(Izu) SIZUOKA?」となって,地図をみた.
地元にくわしくなった機長が,「ONSEN」があると言ったから,たちまちオーナーがくらいついた.

伊豆半島の修善寺には,むかし修善寺町営の有名な「菖蒲園」があったが,菖蒲が咲く季節だけでは勝負にならないと,第三セクターという破滅的な組織で「修善寺虹の郷」というテーマが不明のテーマパークをつくった.

先に「修善寺町」が合併で行政地域として消滅したが,ふつうの「町名」になって残った.
パークの方はいじらしく,いまも営業している.
それで,第二駐車場をヘリポートにして,静岡空港からの連絡便を飛ばしたのは正解だった.

こうして,修善寺の高級温泉旅館は,プライベートジェットのオーナーが常連客になったので,一般客をとらなくなった.
超お金持ちの「一組」に全力をかけて接遇すれば,一晩で十組以上の売上よりも得るものがおおきいからだ.
正しく,楽して儲ける,とはこれをいう.

これが,生産性革命になる,ということを政府は絶対にみとめない.
たくさんの数を,いかに「効率的」にさばくかが「生産性向上」だと,高度成長期の製造業(大量生産大量消費)しか頭にない.
その製造業はとっくに,多品種少量生産に移行したのをしらないのか?

半世紀前の製造業の成功を,サービス業でやらせようと躍起になっている姿は,じつにお気軽で,しかも邪魔である.
その政府の介入を受け入れようと努力する「業界」も,どうかしているとおもうがいかに?

仕様なのか?バグなのか?

うまくいかない,どうしよう?
とかんがえたとき,その理由を追求するのがふつうで,犯人さがしは感心しない.
それは,犯人を排除すれば問題が解決する,という問題ならば,それは「バグ」であるだろうけど,おおくの場合,「バグ」の排除だけですむことなどめったにないからである.

たとえば,組織で「不正」があって,それを実行していた「犯人」がいるとして,その犯人を排除すればもう不正がなくなって問題が解決する,にはならないことでわかる.
不正を可能にした「仕組み」を,できない仕組みに改善しなければならない.

仕組みとは「仕様」にふくまれる.
そうなると,やっぱり重要なのは「仕様」だと気づく.

ひとりで事業をやっているなら,「仕様」は経営者のあたまのなかにあればいい.
ところが,二人以上の「組織」になると,経営者のあたまのなかにあるものを形にしないと,だれにも理解できなくなる.
それで最初につくるのが「経営理念」の表示になるのがふつうだ.

だんだん従業員のかずがふえてくれば,就業規則や退職金規程などのルールを書いたものがほしくなる.
いらぬトラブルを避けるためだし,賞罰のかなめになる.

経営者としては,初期のころには思いつきでよかった「賞」も,だんだん公平を期すようにしようとすれば,やっぱりルールが必要になって,たとえ経営トップでも,これらルールを曲げるわけにはいかなくなる.

だから,規模拡大の「踊り場」あたりで,じっくり考え直したくなるのは人情というものだし,組織の要請でもある.
こうして,経営の構造と仕様がセットになって再構築され,その後も何度か見直しの対象になるのは,実態とシンクロさせる必要があるからだ.

こうした進化の過程をへた企業組織は「強い」.
めったなことで「負けない」からである.

では,これらのことを「やる」エンジンはなんだろう?
それは,組織を公平に維持し,結果,業績の向上をしたい,という「意志」である.
つまり,端的にいえば「儲けたい」という欲望にいきつく.
すなわち,しっかり儲けつづける「強い」組織は,内部的にはちゃんと仕様が設計されて,その仕様どおりちゃんと動く仕組みができている.

だから,こうした組織を真似れば,即席にできるかといえば,そんなものではない.
むしろ,慎重につくられたことがわかればわかるほど,簡単ではないことに気づく.
そんな気づきがあればこそ,時間をかけてでもやらなければという「意志」が重要なのだ.

にもかかわらず,おおくの企業組織が病んだままでいるのがいまの日本になってしまった.
「儲けたい」という意志が弱いのではないか?
あるいは,むき出しの「儲け主義」と見分けがつかなくなってしまって,自社の「儲けたい」を隠そうとしていないか?そんな態度が,いっそう意志薄弱にみせるのだろう.これを「草食系」というかもしれないが,本物の食欲旺盛な草食動物に失礼だろう.

むき出しの儲け主義の特徴は,「バグ」を排除すればそれで済ませるという意志がみてとれることである.
しかし,この方法では,短期間で業績をあげることができても,長期間ではかならず無理が生じる.

社内に,「排除」の論理という文化が根づくからである.
すると,かならず人間関係がギスギスしだして,内部崩壊をおこしかねない.
まるで,巨星が自分の膨張圧力と重力のバランスが崩れて大爆発をおこすようなものだ.
つまり,それは「物理法則」であって,「運」ではない.

だから,短期で稼げる,と判断できたら,こういう組織にいる意味もあるが,それはふつう「処世術」の習得というもので,トップではなく部下としての生き方の選択の問題だ.
未来永劫,組織の繁栄を意図するトップであれば,残念だが愚かな方法である.
自分の組織を内部崩壊させた人物に,次のチャンスはめったにこない.

さて,さいきんは,自社の根幹に関わる業務を「委託」する企業が役所も含めて続出している.
この国は人手不足という慢性病をかかえてしまったが,他社に委託すれば人員募集の手間が省けるという考えがあるというからおどろいた.
つまり,「人手不足」という実態がある大問題をなんと,「バグ」だとみているお気軽があるのだ.

人手不足による人件費上昇圧力は,時間とともに高くなるだろうと予想できるのは,出生率からも想像できる.「バグ」であるはずがない問題だ.
そこで,これを「仕様」として考えるなら,ポイントは二つあることに気づくだろう.

1.上昇する人件費を吸収する売上をどうするか?
2.おなじ人件費で,結果をだすひとと,だせないひとの区別をどうするか?

1.は,欧米先進国が経験済みで,販売単価を上げる,ことに徹することになるが,過当ともいわれる競争下で,自社だけ値上げはできない.だから,品質向上による単価増しかない.
2.は,結果をだせないひとを「バグ」扱いするのか?という問いに,「排除」の論理がつかえるのか?という二重の問題がある.排除した欠員を募集しても応募があると期待できないなら,いっそ結果をだすひと,になってもらうしかない.そうすれば,上記1.と連結する.

もはや,人材育成のための「仕様」が,絶対に必要になっているのである.
かんたんに真似はできないが,せめて,以下の書籍を参考に,かんがえ方だけでも,日本一世界一の会社から学んでみてはいかがだろう?
それは,自社の「生き残り戦略」そのものである.

 

かくもフランス女性とは

フランスの往年の大女優カトリーヌ・ドヌーヴ(74歳)が,アメリカ・ハリウッドで起きた有名プロデューサーによる女優たちへの「セクハラ事件」について,男性擁護の発言をしたら,グローバル化で袋だたきにあってしまった.

「男性には女性を『口説く』自由がある」

批判を受けて,彼女は「セクハラを擁護したわけではない」と謝罪することになった.
ところが,これに続いてブリジット・バルドー(83歳)も被害者を名乗る女優たちに「売名行為」だと言い放って物議をかもしている.

「プロデューサーをその気にさせて、役をとる女優はたくさんいる。話題になるために、後になってセクハラされたと言いだす」と辛辣だ.

そういえばフランス語には「セクハラ」にあたることばがない.だから,概念がない.

ブリジット・バルドーは「セクハラに遭ったことなどない」,「男性にかわいいお尻だと言われるのは、気分がよかった。こういう褒め言葉をかけてもらうのは快感」と言い切る.

ひるがえって,カトリーヌ・ドヌーヴの発言には,100人の賛同した署名者がいたというし,セクハラ告発の行き過ぎは「女性を保護が必要な子どもにおとしめること」と評したことは,なかなかかんがえさせられる.

これを婆さんたちの世迷い言といえるのか?

ヨーロッパは「おとな中心の文化」が主流だ.
レストランも劇場も,どこもかしこも,おとなのためにあって,子どもは相手にされない.
だから,「自己責任」が問われるのではなくて,さいしょに「自己責任」は当たり前という前提があるから「おとな中心」なのである.
「はやくおとなになりたい」というのがヨーロッパの子どもの言い分なのは,これからきている.

ところが,社会全体が「子どもでいたい」のが日本になった.
全国の自治体などがつくった「ゆるキャラ」を,「子どもだまし」だと発言するのはヨーロッパ観光客の率直な意見だ.
彼らがゆるキャラとのツーショットをうれしそうにとる光景は,たんに珍しいからで,その主旨に全面的に賛同しているわけではない.

「保護が必要な子ども」であれば,楽である.
その「楽」のなかにずーっといたい.だから,おとなになりたくない.
成長によって身体はおとなになっても,頭脳のほうは子どものままでいたいと欲求するから,強いものに守られたいに変容する.

寄らば大樹の陰.
こうして,国家依存の下地もできる.

そのむかし,いまでは当たり前になっている普通選挙権をもとめる政治運動がさかんだったころ,フランスでは女性の参政権付与問題に対して,パリのシャンゼリゼ通りが100万人の女性デモ隊で埋め尽くされたことがあった.
これが,なんと参政権を要求するのではなく,拒否する主張だったのだ.

「政治なんていうズルくて小汚いものに,子どもを産むことができる神聖な女性にかかわれとは,女をバカにした男の身勝手な主張にすぎない.そんなものは,男だけでやれ.」

もちろん,わが国も含め,たいがいの国は,「男尊女卑」だったから,女性の参政権がなかったのは,女は劣るもの,という男のかんがえ方があったからである.
しかし,これを逆手にとったのが,当時のフランス女性たちだった.
これを「エスプリ」といって済ませられるのかといえば,そうはいくまい.なにしろ,女性だけで,100人ではなく100万人の大集団があつまったのである.

「男女同権」という価値感に,小気味よくもある反論の主張ではないか.
「近代」の当たり前の価値感が,ちょっとまえの歴史にさかのぼってみたときに,脆弱でうつろい易いものではないかとおもえる.
いまでは,さらなる逆転で,フランス女性たちの政治参加があるから,やっぱり能動的なのだ.

「男にまかせるとロクなことはない.」

「文化」というれっきとした下地があるところに,女性あっての男だと,フランス女性の矜持をみる.
女性からの保護の対象が,いくつになっても男性なのだ.

そういえば,ジュディ・オングの大ヒット曲「魅せられて」(作詞:阿木燿子)には,「女は海」というテーマがあった.
阿木さん,さすがあなたはわかっている.
いまさらながらに,日本女性の矜持もみた.

論理ではなく情緒が好き

わが国では,子どもの時分からめったに「ディベート」をやらない,というよりやらせない.
議論として対立する論点をえらび,自分が賛成であろうが反対であろうが,クジなどで賛成側や反対側の一員になって,論をすすめる「訓練」である.
本当は賛成なのに反対側になるとか,反対なのに賛成側にたったりするから,これは「複眼的」なものの見かたについて学ぶカリキュラム(教科)になる.

自分「だけ」が大事である,というかんがえ方では,自由も民主主義も成立しない.
それで,このような複眼的思考の訓練をして,勝手気ままな動物ではなく,社会的な動物に仕立て上げようという「人間教育」になるのである.
つまり,自分と同様に相手のことを尊重できるように鍛えるのである.自己主張もするが,相手の主張も認める.
そうやって,自由と民主主義の社会を維持しようという決意が,社会の道徳にもなるのである.

果たして,こういった「決意」が,わが国の社会にあるのか?と問えば,疑問におもえる事態がたまたま発生した.
わたしは読者ではないが,「新潮45」という雑誌の休刊(実態は「廃刊」と噂されている)にいたった経緯がそれである.

最後の号に寄稿したひとが,「自分の論文を読んでいないひとからの批判ばかり」と反論する記事を別にネットでみつけた.
わたしも当該雑誌を読んでいないけれど,これは,なかなか興味深い反論である.
日経BPから2016年にでたハイエクの名著に,ハイエク全集編集責任者ブルース・ゴールドウェル教授の序文を思いだしたからである.

このなかで,教授は,「当時の英国知識人は,読まずに批判していた」と書いている.
この文章でいう「当時の英国の知識人」とは,社会主義に傾倒していた「リベラル」を指す.
これに関しては以前書いたから,そちらを参照されたい.

「リベラルな知識人」というひとたちの思考と行動パターンは,かつての英国と現代の日本に共通点があることがわかるのが,「興味深い」のだ.
そして,「読まなくてもわかる」という態度で批判を展開するのは,かつての紅衛兵の「造反有理」もおなじ思考法であろうと推測できる.赤い表紙の毛沢東語録を振り回して,殺人にまで手を染めた.

ところで,教授が指摘する「当時の英国」とは,ハイエクが発表した当時のことだから,1944年(昭和19年)頃のことである.
紅衛兵が組織されたのは,いまでは東大があしもとにも及ばない大学ランキングでアジアナンバーワンの精華大学で,1966年のことだったから,「読まずに批判する」思考方法は,20年かけて地球を半周した.

その紅衛兵たちが跋扈した文化大革命に,わが国知識人たちが心寄せたことは,稲垣武「『悪魔払い』の戦後史」(文藝春秋,1994年からの復刊,PHP研究所,2015年),

「『悪魔払い』の現代史」(文藝春秋,1997年)に詳しい.

こうした人たちの「言論」が,文字になって残っているから,あとから証拠になって本にもなるが,テレビやラジオといった媒体では,音声中心だからそれがなかなか難しい.「たれ流し」といわれるゆえんである.
将来,これらも,検索の対象になれば,すこしは無責任な言動がへるのではないかと期待したい.
けだし,マスコミは揚げ足取りの言葉狩りも本業だから,文脈を確認する態度は受け手には必須であることにかわりはない.

今回は,たまたま新潮社という老舗かつ大出版社のできごとで,突然と社長のコメントが出た先の「休刊」決定だった.
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い,と,雑誌本体や出版社が批判の対象になったようだが,雑誌や出版社は「場」の提供だけだとして,誌上で大議論が展開できないのは「危険の兆候」ではないかと,読者でなくても心配だ.

「休刊」を,消極的でも支持するひとは,積極的に支持するのとはちがうといいたいだろうが,「支持」は支持である.
おおくが,今回議論となった,社会的マイノリティーに対する「差別はいけない」から,という理由を挙げているのも金太郎飴のような特徴である.

言論の「場」と「差別」というのは,いまにはじまる問題でもない.同和問題が解決しない理由のひとつでもあろう.「タブー」にして済ますはなしになっていないか?
むしろ,いま,「差別」という誰にも反論をゆるさないことばをもって,「場」の存在を葬ることが正しいのかをきちんと議論してもらいたい.

きちんと,というのは論理的に,ということだ.
「情緒」は美しくもあるが,依存すれば「醜悪」にもなる.

会社組織という,ちいさな社会にあって,情緒に依存するから「ハラスメント」が起きるのである.
ましてや,国家おや.

一部の作家が「場」の消滅を批判している.
わたしは,そうしたひとの読者でもないが,論理として正しいとおもう.

人情とまさかのキャッシュレス化

中央計画経済の計画策定をめぐる困難さは,1921年に創設されたソ連の「ゴスプラン(国家計画委員会)」がどうなったかでわかる.こたえは,国家の崩壊であった.
しかし,その創設一年前の1920年にミーゼスが発表した「社会主義共同体における経済計算」という論文で,その「不可能性」がはっきりと指摘されていたことにもっと注目すべきである.

青山学院大学の故吉田靖彦教授の「社会主義経済計算論争再考」(1991年)に詳しい.
また,ミーゼスの著作なら「ヒューマン・アクション(人間行為の経済学)」(春秋社,2008年)が,大著だが読みやすい.しかし,古書で50万円の値がついているから,電子書籍版か図書館に頼ることをおすすめする.

わが国における「経済学」が,マルクスに脳髄を冒されたまま,なんとかの一つ覚えよろしくいまだに先進国のなかで唯一ケインズ一辺倒を維持しているのは,ある意味いじらしくもある.
完全な勘違いにもかかわらず,経済官僚たちによる戦後経済復興の「成功体験」という幻が,夢うつつのまま忘れられないからだろう.

あのサムエルソンの有名な教科書「経済学」は,米ソが「対等に」対峙していたという,これもおおきな勘違いだったことの前提から,「混合経済」という資本主義と社会主義を「混ぜた」いいとこ取りを提唱するという「猛毒」だった.

ところが,訳者であって,わが国経済学会を牛耳っていていたマルキスト都留重人が,これを東大で積極的におしえたのが効果てきめん,各大学の教師と官僚がみごとに染まってしまった.
いまだに大学の経済学部にはいるのに,受験で数学を要しないのは,マルクス経済学という「文系」を前提としたからである.

そういう意味で,さいきんになって再評価されてきている上述したミーゼスが代表する,オーストリア学派(ウィーン学派ともいう)の「経済学」は,なるべく早い時期に取り込んでおけば,免疫力をたかめるワクチンでもあるし,もし「発病」しても解毒剤としての効能もおおいに期待できるのである.

だから,影響力のある大学の先生や経済官僚を自負する人たちやその予備群には,はやくミーゼスなりのオーストリア学派を飲み込んで,自浄作用を期待したいのだが,そうはならないのがわが国の宿痾である.

その病気が,「キャッシュレス化推進」という政策にあらわれて,経産省さんのお役人たちが中国で普及したという「バーコード式」に飛びついて,これを使えと民間に命令しようと準備をはじめた.
命令はムチだが,例によって補助金というアメも用意する,いつもどおりのワンパターンである.

ところが,これまで景気を気にして優柔不断を繰り返した「消費税率」の問題が,いまだにはっきりしないから,レジと連動したクレジットカードの処理端末すら普及しない.
もちろん,税率変更に対応したレジの更新もしないのが民間における経費削減のすさまじさである.
補助金をやるやから「やれ」と命令したが,正式に決まるまで動かないのは「人情」だ.

静岡県の銀行の不祥事や,九州の県をまたぐ地銀の統合問題の公取委の判断など,AIだけでなくこのところ銀行をとりまく話題が豊富だ.
将来をみれば,人口減少とAIが脅威となるが,足下はなんといっても日銀の「異次元緩和」というむちゃくちゃで,マイナス金利という人類史上はじめてがとびだして久しい.

銀行があまったお金を日銀に預金すると,利子をくれるのではなく手数料をとられてしまうから,誰かに貸さなければならないが,金融庁が「担保をとれ」と命令するから,不動産でうまい貸出先はないかとさがしたら,でてきたのが「かぼちゃのばしゃ」だった.

誰でもいいから貸さねばならぬが高じたら,てきとうに書類をつくればいいことになったのだろう.
それで,不正がばれたら,こんどは金融庁が,不動産融資を「監視する」というむちゃくちゃで,銀行の稼ぎはどうしたものかになって今がある.

半沢直樹のドラマのような展開で,自己目的化した役所に振り回されるお気の毒な銀行だが,その後始末はかならず一般国民がかぶることになっている.
それで,10月から銀行だけでなく郵貯も,キャッシュカードの取り引き手数料を「値上げ」して,小銭を稼ぐことになった.

預金者は気がつけば,自分のお金を引き出すのにお金がかかる事態になる.
そんなバカな,と防御策をかんがえたら,キャッシュレス化がもっとも合理的だ.
クレジットカード系,流通系,交通系も,携帯だって,つかえばポイントをくれるから,現金を引き出す手数料との差額分が「お得」になる.

主幹の役所がやろうして命令してできないことが,別の役所の命令から「まさか」のキャッシュレス化がすすむに違いない.
それが「人情」というものだ.
ミーゼスのいう「人間行為の経済学」がとっくに教えてくれている.