奇跡的に無能な経営者

デービッド・アトキンソンさんの単刀直入ないいかたは,もしかしたら日本人だったら「毒舌」でもすまされないかもしれない.
しかし,事実は事実としてみとめることも「大人」のうちである.
または,それが的を射るにあまりにも適切だから,ショックでぐうの音もでないが,しばらくすると怒りがこみあげてくる,というのも「無能」ゆえなのかもしれない.

経営者が無能でも業績がよい,なんてことはあるのか?
こたえは,ある,だ.

単純モデルでかんがえるのは,経済学の基本だ.
たとえば,リカードの比較優位説は,りんごとミカンの貿易モデルで証明できる.
だから,単純モデルで経営をかんがえたとき,経営者が無能なら,業績は悪化するのは当然だ.
しかし,単純モデルのまちがいも経済学はみつけだした.
これを,「合成の誤謬」という.

本来は,たとえば,インフレが多額のローンを持つ個人にはありがたい意味をあたえるが,社会全体では困りもの,というように説明されるものだ.
一企業として,経営者が無能でも,その社会や国がおかれた条件によって,経済成長することはありえる.

もちろん,ここに「優秀な官僚」もひつようない.むしろ,「官僚は無能」なのがふつうだから,このモデルに官僚のでばんは最初からないのだが,経済成長が官僚のおかげであるように仕向けた城山三郎のような作家が,「国家依存」というおそるべき勘違いを社会に埋め込んだ.この罪は相当に重い.

明治以来の日本経済は,資本蓄積がほとんどない状態からの出発をよぎなくされたから,世界を相手にした日本側の努力は,低賃金と長時間労働しかなかった.
つまり,低賃金で長時間労働をさせることが「経営」であったから,「経営者」は自社においていかに低賃金で長時間労働をさせることができるかをかんがえ,実行すればよかった.そして,いまとちがって,この時代は資本蓄積がないから,経営者は資本家たりえた.つまり,オーナー経営者の時代で,サラリーマン経営者の現代とはちがうことも注意したい.

「女工哀史」という有名な本がある.
おおくのひとが勘違いしている本でもある.それは,生糸の生産における女工たちが,いかに搾り取られたという酷い話だと思い込んでいるからだ.
たしかに,おおきなテーマはその通りなのだが,個別のはなしになると映画やテレビドラマのような「プロレタリア文学」の世界ではない.

世界遺産の「富岡製糸場」にも説明があるが,工場内には最新の医務室があり,そこには国籍をとわず,当時としては一流の医師や看護体制があった.
女工が病気になっては,生産量が減るからである.だから,健康管理にはたいへんな気をつかった.つくられた映像の強制労働的な表現は,作りばなしである.

また,近隣の村々から,女工を募集しなければならないから,強制労働のうわさがたてば,とたんに応募がなくなる.すくなくても,初期の製糸場では,後世の常識ではないことが常識だった.
成績優秀な女工には特別手当が支払われたから,ひとりの優秀な女工が成績をあげると,実家にはいまでいう「御殿」が建った.それほどの報酬が支給された.
これは,品質とスピードという競争の結果である.

しかし,これらの努力よりも,おおきな効果をかんたんに生むことが遙か遠い欧州で起きた.
それが,第一次大戦だった.
「大戦景気」という「努力」とは別の次元でおきたことで,奇跡的にうまくいく.
つくればその場から売れていく.夢のような事態であった.すなわち,バブルである.

このときの「景気」による資本蓄積が,重化学工業化を促進させ,「列強」としての格付けに貢献することになる.
大戦中の四年間で,わが国貿易額は4倍になった.年率にすれば,40%以上の成長率である.昭和の高度成長期でさえ10%超までだったのだから,その迫力はいまでは想像も困難だ.
都市労働者が吉原の郭から工場へかよった,という逸話は真実だった.

これを支えたのが,女工であった.
景気に目がくらんだ愚かな資本家=経営者は,とうとう女工を奴隷のように扱って,国内に結核蔓延の下地をつくった.農村の疲弊で,娘の口減らし先を選べなくなってもいた.

大正から昭和の初めは,大戦の終了と,関東大震災,それに,天保以来の大飢饉という「自助」ではどうにもならない三段波状攻撃を受けて,わが国は別の国になる.

「持たざる国」が,「持てる国」たちと同格の競争に負けまいと,「持てる国」を真似た国策を追求した.
このあたりの事情は,戦後GHQでわが国労働法の基礎をつくりにやってきた,ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡 日本』にくわしい.また,本書の冒頭にあるように,マッカーサーが日本語版を「発禁」にしたことでも有名になった本である.なぜに,発禁とされたのか?は読み進むとわかるだろう.

ちなみに,マッカーサーの副官でもあったウェデマイヤー将軍の,『第二次大戦に勝者なし』は,「勝者の目線」での分析でありながら,じつにむなしくせつないことが,淡々と綴られている.この本の出版が,原著の出版からいかほど「遅く」日本語となったのか?をかんがえることも,戦後日本の言語空間についてのひとつの思考実験になるだろう.

 

敗戦で丸裸になっても,朝鮮戦争と,東西冷戦という世界構造,それに安い石油がくわわった,三段波状の奇跡的ラッキーで,わが国経済は拡大の一途を辿る.これに,西ドイツ経済もおなじくするところが,「戦後世界経済」の肝ではないか?全体主義的敗戦国が,西側の「優等生」になる.
日独ともに,空襲で焼け野原になった工業地帯の復興は,最新設備の導入というラッキーをもたらし,空襲で焼けなかった戦勝国の設備より必然的に有利になってしまったのだ.

もちろん国がすすめた「傾斜生産方式」が,民間設備投資の自由を奪うじゃまをしたが,戦後の混乱が行政機能もマヒさせたから,傾斜生産方式が「打ち出される前」に,奇跡の準備はできていた.
このラッキーをいう専門家がすくないのは,商工省から通産省になった役所からの「配分」が減らされる恐怖からではないかと疑う.
戦後復興の栄光ある経済政策,傾斜生産方式をやりとげた通産省・経済官僚の勝利,とは,たんなる「神話」=「ファンタジー」である.

まさに,「奇跡」は,戦前という時代にも,戦後という時代にもやってきた.
その戦後の奇跡をつくった,東西冷戦も,安い石油もいまはない.のこるは,朝鮮戦争の残滓である.
西ドイツは「東」の負担を背負ってなお欧州をけん引しているから,なにごともなかったわが国の凋落こそが,真の「実力」となってあらわれている.

平成不況の真因は,バブル崩壊でもなんでもなく,「奇跡の時代のおわり」に対応できなかったことであろう.
しかし,いまだにおおくのひとが,あれは「奇跡」だったとおもっていない.
「勤勉」はなにも日本人の特許ではないが,世界で一番働いたのは日本人「だけ」だとうぬぼれた.この勘違いこそが現代の「奇跡」であり,「無能」の証拠である.

労働生産性が先進国でビリなのは,今に始まったことではなく,高度成長期すら,である.
たしかに当時の日本人もよく働いた.しかし,その働き方は,いまと同様「能」がなかったということだ.ムダによく働いた.
すなわち,これは「働かせ方」の無能がさせたのだ.

それを隠そうと厚化粧で誤魔化したのが,官僚の「優秀」さと勤労者の「勤勉」というからくり方便で,数えるほどしかいない「名経営者」が華を添えた.
そうやって,勤労者は,よいしょされてコロッとだまされて久しい.

実力をとわれる時代になったがゆえに,低賃金で長時間労働という,この国のなりわいである本当の顔がおもてにでてきた.
それを,「優秀な政府・官僚」が法律でなんとかしようとするのは愚かであるとだれもいわない.
そこで,英国人のアトキンソンさんが登場した.

これは「奇跡」なのだろうか?

人生のバランスシート

「幸福」をいかに計測するか?という問題は,ひとの「心もち」次第だから,じつはうまくはかれない.
おなじひとでも,あるときは「幸福」で,あるときは「幸福でない」とかんじるだろうし,その度合いが「浅い」ときと「深い」ときがあって,組みあわせは無限だし,いちいち記録できないから,なにげなく生きていれば気にしたりなどしない.

ブータン王国が,GDPでは世界最貧国レベルにあるにもかかわらず,国民幸福度では世界最高だったときが生前退位した前国王の時代にあった.
いまでは,ブータン本はたくさんあるが,その前国王が国王として来日し,話題となったのは昭和天皇の御大葬だったから,もう30年も前になるが,地方自治体の公立図書館として最大級クラスの横浜市立図書館で3冊しかなかった,と記憶している.

どうして覚えているかというと,そのとき,わたしが勤務していたホテルに国王陛下一行が滞在しており,接遇担当していていたのが,わたしの敬愛する先輩で,もう故人となったその先輩から直接ご一行の興味深いエピソードを聞くことができた.それで,どんな国なのかと図書館にいって「ブータン」で検索したことがあるからだ.

ご一行は,公式行事がないときも,旺盛なパワーで日本をリサーチしていた.
ある日,国王から直々に,「日本の通勤風景を観察せよ」というご下命が出て,おつきのひとを先輩が案内して,東京駅丸の内口に立ったことがあった.ちょうど,中央郵便局あたりだという.
そこで,3時間以上「観察」していたというから,その熱心さにもおどろく.

ホテルに戻り,国王に報告するから一緒に謁見することになったそうだ.
「だれもがこわいかおをして,無言であるいており,たくさんの靴音だけが聞こえる不気味さだ」と報告すると,直接の会話をゆるされた先輩に国王が,「おまえは幸せか?」と突然質問され,即答できずにこまったといっていた.

たしかに,外国の国家元首からいきなりそんな質問をあびたら,かんたんに「わたしは幸せです」とこたえられるものか?かといって「不幸です」ともいえない.だから,英語が達者だった先輩でも,返答に窮して背中に汗がながれるのを感じたとはなしてくれた.それで,「おまえは幸せか?」とわたしに質問するから,わたしも相手が国王でなくても「なるほどこたえられない」ことをしった.ふだん,かんがえたことがない質問だからだ.
そんな質問をする国王がいる国はどんな国なのかと、図書館に行ったのだ.

国連がしらべたという「国民幸福度」で,日本は世界の中位よりやや上ぐらいで,GDPがおおいからといって,その割には日本人は幸福ではない,ということが話題になったことがある.
どんな調査をしたのかという問題は話題にならず,なんとなくわかったような調査結果を,もっともらしく報道していたから,おぼえているひともおおいだろう.

当時のブータン王国は農業国家で,食料自給率は100%をこえていたから,「飢えることはない」という前提があった.自給自足の生活にちかいから,だれもが「貧乏」だということで,羨望の先がない.それが,「幸福感」を生みだしていたろうから,江戸時代の日本に似ている.
しかも,70年代まで,「鎖国」していた.

じつはみんなあまり幸福ではない,ということで妙な安心感をえる.
これが,日本人なのだ.
それは,江戸時代の感覚が,いまだにのこっているのではないか?ともおもえる.
そこで,よくいわれるのが.「臨終」にあたっての「幸福感」である.

どんなに貧乏でも,お金持ちでも,臨終のときにめぐる感覚を「バランスシート」にすると,ほとんどのひとの「バランス」は一致する(=つまり帳尻はあう)という説がある.
だれがどうやってしらべたのかしらないが,一種の「願望」という「観念」であろう.

ヒマラヤの高度差を利用して,ダムをつくらずに小川にも小型発電機をおいて,ほとんど工業がないから,あまった電気を周辺国に売電して外貨を得ているのがいまのブータンだ.
これを,「持続可能社会」とか「再生エネルギー」とかいうのは勝手だが,ブータン人の研究は,後進性を逆手にとって,先進国の失敗の研究を怠らないところにある.

たとえば,日本の植林の失敗(杉ばかりを植えた)から,ヒマラヤの生態学研究で得た,多様な植物を植林することを学び実行している.

だから,かれらは「観念」で生きてはいない.
「リアリティ」を理解したうえで,「観念」に還元しているのだ.それでも,豊かさをしったブータン人は,もう過去にはもどれない.かれらの国の問題はあんがい深刻だろう.バランスシートがバランスしなくなったからだ.

ここが,日本とちがう.いまの日本人には「観念」の目線しかない.
いまの日本人にはバランスシート(複眼でみる)という感覚がないのではないか?
つまり,これは「人生の『単式簿記』」である.
だから,「損益計算書」だけの人生になる.
それが,国家の経営にも,企業の経営にも反映される.

残念なことだ.

インスタうけという価値

ネット社会も,インターネットが珍しい時代から,あっという間にSNS全盛に進化した.
これは,技術的な進化にはちがいないだろうけど,文化的にはどうなのだろう?
見た目が勝負,ということの意味は?と,インスタうけ優先を横目からみると,無邪気によろこんでいいものかうたがいたくなる.

それは,内容ではなく「外観」がすべて,になってしまう危うさをかんじるからである.
ちょっとまえに指摘されたのは,「ランキング」だった.
情報があふれて,どんどんやってくるし,ネットで検索しても,似たような情報がたくさんある.
だからといって,それらの情報が,「正しい」のか「間違っている」のかの判断が,個人ではわからないことがふつうになった.
そこで,「ランキング」が重視される世の中になった.

その,「ランキング」も,むかしのように百位とか五十位からのスタートではない.
十位すら冗長で,トップ三しか数えない.
四位以下は,あっさり切り捨てられてしまうのだ.
それで,消費者向けの商品のおおくは,寡占化することになった.
だから,たいがいの商品は,みんなおなじものを持っている(コモディティ化)ので,極端なニッチか超高額なブランド品がいよいよ目立つようになった.

大メーカーは,あいかわらずの大量生産志向がやめられない.
それで,たいそうな「ビッグデータ」解析という趣向をもって,「マス」のうごきをつかもうとしている.
しかし,その「マス」自体が,「ランキング」に依存してとっくに流動化しているから,「過去分析」をいくらやっても傾向はつかめないだろう.

だれかが,「ランキング」にたいして新しい方向を示して,それを多数のひとがフォロアーとなって動けば,あっという間に流れがかわってしまう.
これは,想像以上に危険な世の中である.
「ちゃんとした」ものやことが,「ちゃんと」評価されるとはかぎらないからである.

すると,「ちゃんとしよう」ということのインセンティブがなくなってしまうことだってありうる.
ふつうに「正直者が馬鹿を見る」なら,それは、「不道徳な社会」である.

商売人が,売るために「インスタうけ」を意識するのは「本能」ともいえるだろう.
これに,まんまとはめられてしまうのか,知っていてそうなのか?
つぎのステージで,「本物を見分ける目」が,もっと注目されることになるはずだ,と期待したい.

ハラスメントは個人の資質か?

さまざまな「ハラスメント」が顕在化してきた.
ちょっとまえには,そんなことばを聞いたこともなかった.
「概念がない」と,「言語にならない」のは,言語が文化であることの本質だろう.
すくなくても,フランス語には「セクハラ」に相当することばがない.彼の国の「文化」になじまないからだ.それを,有名女優が発言したら,世界は「文化」を否定した.

こうなると,どちらが「ハラスメント」なのか?ということになって,始末がわるい.
もちろん,そうはいってもフランスにも「セクハラ」を認識して,いやがるひともいるだろうから,正確さをとわれれば,かんたんに全部を一緒にできない時代になった.
すると,こんどは容易に発言できなくなるから,やっかな世の中だ.

「ハラスメント」の基本判断は,「本人が」嫌だとおもうか?にある.
つまり,自分とはちがう他人の気持ちのなかにある.
だからか,「空気を読む」ことからはなしがはじまる.
すると,いつもその場の空気でさまざまなことが決まるこの国で,「ハラスメント」はさぞやすくないかといえば,これもちがう.

では,「おもてなしの精神」が自慢のこの国で,と問うても,「ハラスメント」はふえるばかりだ.
いやいや,「おもてなしの精神」は,お客様にたいして発するのであって,「内輪は別」だといわれるだろう.

すると,「内輪」という感覚が,日本の「ハラスメント」をつくっていることになる.
これは,家長主義(パターナリズム)ではないか?
いわゆる,「上から目線」である.
これは,あんがいこの社会のあらゆるところにある.

それでか,日本の学校は,パターナリズムから子どもを離す,のではなくて,慣れさせる,という方針が貫かれているようにみえる.
だから、子ども社会における「いじめ」を,おとなの教師が発見できないか,もし見つけても,それに「耐える訓練」とおもえば気にならなくなるのかもしれない.

こんなことで,わが子を殺されてはたまらない.
しかし,被害者は家族もろとも「埒外」にされてしまう不条理さがある.
これが,学校という社会から,本物の社会に浸透してきているのだろう.
企業組織のなかで発生すると,本人には逃げ場がなくなる.

なにも残業などの長時間労働だけが,問題なのではない.
「疎外感」こそが,問題である.
だから,「内部統制」だけでは対処できない.
緊急避難所も必要だが,どうすればよいのかをかんがえる場も必要だ.

それは,はたらきやすい職場をつくる,ということである.
「つくる」のだから,自然発生的なものでなく,意識的な行動がなければならない.
誰にか?
経営者にである.

その経営者が「ハラスメント」を誘発している事例もあろう.
従業員はどうするか?
いろいろなシナリオを,かんがえてみることをおすすめしたい.

生産性向上のための労働協約

人口減少や少子で人手不足がすさまじいから,生産性向上というはなしが,さかんになった.
そのために,最低賃金を大幅にあげるとよい,という議論まであるようだ.
たしかに一理ある.
そうすれば,売上単価をあげなければならなくなるから,生産性は向上するだろう.

しかし,単純にそれができない.
その理由は,経営者の無能にあるというひともいる.(わたしもそのうちのひとりだ)
ところが,もっと困ったことに,無能なひとほど他人のはなしをきかない.
それゆえ「無能」なのだ,とはなしがループする.

そこで,目線をかえたい.
そもそも,なんで貧乏なのか?というはなしだ.

「日本人は総じて貧しい,だがかれらは高貴である」と評したフランス人がいた.
このフランス人は,日露戦争がはじまることがいよいよ迫って,高貴なる日本人が地上から滅亡してしまうと嘆いたのだ.まさか,あの大ロシア帝国との戦争に,日本が勝つとはおもっていなかった.

このはなしよりも前,幕末にあの有名なシュリーマンが来日している.
「シュリーマン旅行記 清国・日本」は,かれがトロイの遺跡を発見する「前」のはなしだから,それだけでも興味深いが,横浜の港に着くところからはじまっている.

 

当時の船旅は,引っ越しをするようなものだから,とてつもない荷物がある.へんなヘアースタイルで,みすぼらしい木綿のスカートのようなものをはいた役人が,おそろしくゆっくりと丁寧な所作で,荷物検査をはじめたから,彼はどこの国でも役に立つ「袖の下」作戦をこころみるが,そんなことをしたら「ハラキリだ」といって相手にされなかった,というエピソードからはじまる.
「わたしは西洋人がしらない文明国にやってきた」と感嘆する.

だから,日露戦争までの開国期,日本人は上から下まで,「総じて」貧しかったのである.
しかし,この貧しさはずっとつづいて,ヨーロッパが第一次大戦で疲弊したとき,大戦景気で「成金」が雨後の竹の子のようにでたが,戦争がおわるとみごとに破産して,やっぱり貧乏になった.
これに,シベリア出兵が引き金で全国に米不足の不安で米騒動が起きるから,当時の世相はいまとはぜんぜんちがうとわかる.

政府は不足の米は補助金蒔いて朝鮮で開墾させた.このとき蒔いたのが「亀ノ尾」で,この米の曾孫が「コシヒカリ」だ.それで,安くてうまいと評判になって,首都圏流通の四割が朝鮮米の亀ノ尾になる.東北の米はまずくて高いが,東北出身の工場労働者が故郷のためにと購入した.
それから,関東大震災で首都が壊滅し,この復興にとんでもない費用をようしたが,アメリカで株が暴落し,世界恐慌になったらなぜか円と金の交換を再開して昭和恐慌になる.

昭和恐慌は,米の凶作とあわせて東北は深刻な飢餓になり,娘の身売りが風物にもなった.これが軍をしてクーデターへの行動となる.
ちなみに,震災のときの朝鮮人虐殺事件は,朝鮮米の怨みを東北出身者が晴らしたとのはなしもある.

日本では食えないと,ハワイ移民がはじまるのが明治18年,南米は明治32年だが,昭和4年に震災の後始末(ひとあまり)もかねてブラジル移民がはじまる.昭和7年に満州国が成立すると,やはり移民政策がはじまる.もっとも,明治元年には,ほとんど奴隷として日本人が連れて行かれている.それより前,慶応3年に,後の総理大臣,高橋是清はオークランドで奴隷の身でいた.
「狭い日本にゃ住み飽きた」とはいえ,食えないほどに貧しかったのだ.

ということで,資源のないわが国のひとびとは,国内においても低賃金であることを前提にして生きてきた.それで,なんとか外貨を得た.だから,長時間労働もふつうだった.
低賃金,長時間労働は,近代日本国の「国是」だった.
これが,資本主義発祥国の英国という島国と,決定的にことなる点である.かれらは,先行者有利のなかで,自国に資源がなくても,海外植民地からの収奪によって富を得ることができた.

余裕の資本主義国は,社会主義からの批判と攻撃で,自国労働者の権利が確立していく.それは,海外労働者の犠牲によるものではあったが,可能な福祉を享受できたのは事実だ.
英米の労組が,わが国とちがって職業別になっているのも,「資源国」のなせるわざであり,戦後本格化するわが国の労働組合結成が企業別になったのは,企業ごとに労働条件がちがいすぎたし,とにかく社内で結束しなければ,食えなかったからである.
これが,わが国の薄っぺらな豊かさの原因であり本質である.

英米とは,前提条件がちがうのである.
そこで,現代日本における生産性向上の策は,労働協約をきちんと締結させることではないかとかんがえるのだ.
「36協定」の意味さえしらないで働いているひとがたくさんいるのだ.

そんなことをしたら「事業が成り立たない」と叫ぶ経営者もたくさんいるだろう.
しかし,「事業」とは「ビジネス」のことである.
労働基準法を遵守したらビジネスが成り立たない,と正々堂々といえるものなのだろうか?
つまり,それは「ビジネス」ではない.

さらに,勘違いされてはこまるのだが,なんのための「労働協約」なのか?ということをちゃんとかんがえたい.
それは,真の労使協調を意味しなければならないとおもうからだ.
「法」は最低限である.だから、好調な企業は,法の基準のはるかうえの条件をはたらくひとびとに提示できるのだ.

人手不足が恒常化する人口減少時代,企業の競争力は顧客獲得競争よりも,優秀な従業員獲得競争に転移する.なぜなら,富を生み出すのは人間だけだからである.
従業員がいない会社は存続も存在もできない.
こんな条件ではたらけるものか,といわれるのは,なにも賃金だけではないだろう.
「労働協約」すらない企業に,だれが就職するのだろうか?

だから、政府は余計なことをやるまえに,現行法でもじゅうぶんだから,労働協約を締結させることをすればよく,労働団体は,中小零細企業の従業員に,教育,というサービスをおこなうべきである.
かんたんにいえば,政府は企業の採用活動に,労働協約の有無や内容,労働組合の有無や加入基準についての表示義務を課せばよいのだ.金商法や不動産賃貸契約でさえ細かい規定になっている.
労組は,かつての政治闘争を「教育」サービスに加えてはならない.だから,労基署の入口にかいてある,所管地域登録の社労士を講師に依頼すればよい.つまり,労組による労働教育ファンドの立ち上げだ.労働協約から労働組合設立にまでいければ,ファンドにお金が還元できる.

はたらくひとは自分が「はたらいて稼ぐ」ということの意味を,はたらかせるひとは,「他人の労働力を買う」ということの意味をきっちりかんがえることができるようになる.
これが,生産性向上のための重要な条件ではないかとおもう.

逆にいえば,このままでは,低賃金・長時間労働という明治以来の「国是」が変わらないし,それではわが国の繁栄は,百年ほどのつかの間の「奇跡」という「人類の歴史の一部」になってしまうだろう.
大企業ばかりが企業ではない.
むしろ,大企業をささえる中小零細にこそ,一見厳しくても変化が必要なのである.

隠蔽体質という文化

民間企業には、「コンプライアンスを強化せよ」と命令し,方向違いの手間を多分に強制してコスト高を押しつけながら,自分たち役人の仕事は隠す.
別にいまに始まったことではないが,これを大陸中国のメディアがかき立てるから,ここでも話しが混乱する.

日本政府を嗤う体をよそおいながら,あんがい自国の共産党政府を皮肉っているかもしれないからだ.
それは役人というものの本質で,重要情報は教えない,ということでこその存在意義でもあると,昨日役所に就職した新人でも知っている.

役人のもっとも大切な仕事は,社会の役に立たないのに,なにかやっているように見せて,たいそうな予算を複数年,できれば未来永劫獲得することに尽きる.
役に立たないで,なぜ予算がつくのか?などという野暮なかんがえを思いついてはいけない.役人も,予算を決める議員も,みんな税金という他人のカネなのだから,真剣にかんがえるものはいない.もし,真剣にかんがえている,というなら,そのひとは芯からのうそつきだ.

だいたい,世の中の役に立つことには,だれかにとっては都合が悪いことがおおいから,そんなことをしていたらうらみをかう.役人も,議員も全方位からほめられないと都合が悪いので,世の中の役に立つことには,ついにはだれも関心がなくなるのだ.
真剣に世の中に役立つことをかんがえたら,役所の予算では足りないからそのひとは破産するだろうし,だれかに命をねらわれることになる.

こうして他人のカネを,世の中の役に立たないことに使えば,だれからも文句なく,関係者の全員がハッピーでいられた.
地方都市に行くと,町外れなのか町の入口なのかにある巨大看板「核廃絶都市宣言」もそのひとつだろう.「持っていないものを捨てる」と他人にむかって表明するものに,予算がつく.それでいて,原発でつくった電気を気にせずにつかっている.
民主主義の暗黒さがここにある.
黒澤明の「生きる」が突きつけたものだ.

しかし,現実は映画ではない.
昨今吹き出した,中央官庁の隠蔽事件は,ついぞこないだ連発した大企業の不正事件と地下茎でつながっているようにみえる.
大企業の不祥事は,「日本経済の危機」と言っていたから,今度は「国家の危機」になるのだろう.

「奇跡的な無能」と経営者を嗤う,デービッド・アトキンソンさんの新著「新・生産性立国論」は,なにも民間企業経営者だけのはなしではない.
「国家の経営」がおかしくなっている.

それは、オルテガの「大衆の反逆」を地で行く国家になったことでもある.
日本という国は,大衆が支配する国になった.
それを過激に解説したのが,摘菜収「日本をダメにしたB層の研究」である.

  

この本でいう「B層」とは,小泉純一郎政権のとき分析を依頼した民間会社の定義によるもので,横軸に「構造改革への賛否」,縦軸に「IQ」をおいた十字状(四象限)の図における第Ⅳ象限をさす.つまり,「構造改革に賛成で,IQが低いひとたち」のことである.
この「構造改革に賛成」を,「マスコミ報道に流されやすい」と置き換えても,「自分でかんがえず他人の意見に従う」としてもいい.

この分析を応用して,自民党は郵政選挙に大勝し,その後民主党もまねて政権奪取に成功したという実績がある.
IQが低いB層には,「単純なフレーズ」のくり返しと,「二者択一」の提案が効く.
与野党ともに成功体験があるから,おそらく,むこう数十年は選挙のたびにこの手法がつづくだろう.
これは,政党による「顧客戦略」なのであるが,たんなる人気とりだけが目立つようになるのは,むずかしいことをかんがえることが嫌いなB層には政治志向もないからである.

つまるところ,官庁のエリートも,企業経営者も,一般人も,オルテガのいう「大衆」すなわち「B層」になってしまったということだ.それで,ゆとりと称した教育で若い国民のIQもさげる努力をしたから手が込んでいる.日本は特別だという,傲慢な思想が生んだ,民族集団自殺の準備だ.
しかし,これはいまに始まったことなのだろうか?

明治の自由民権運動も,日露戦争での日比谷焼き討ち事件も,大正時代の米騒動も,関東大震災の朝鮮人虐殺も,そして、米英との戦争を求める民衆デモも,じつは時々の「B層」のしわざではなかったか?

そもそも,明治維新とて,いまでは水戸学が役に立たなかったという常識が定着しているが,幕末水戸学の代表的学者,会沢正志斎のベストセラー「新論」では,倒幕後もこの国の支配者は武士階級でなければならない,としている.じっさい,明治政府とは藩閥というれっきとした武士政権であった.
下級武士も武士階級に属すことにかわりはないが,これを隠蔽して現代的価値感で再構築したのもを「大河ドラマ」と称し,国民から料金を半ば強制的に徴収してたれながしている.

明治体制が国家的自殺の敗戦でおわったら,戦後もGHQというお墨付き機関があった.
「占領」が終わって念願のはずの「独立」を果たすとき,離日する軍事独裁的支配者に「ありがとうマッカーサー元帥」と大見出しで書いたのは日本を代表する新聞であった.
まるで支配の継続を望むようでもある.これを,日本的事大主義というのだろう.隣の半島国家だけが事大主義ではない.

ついでに,日本には日本が世界の中心だと勘違いする「小中華思想」もあるから,隣と本家争いをして不仲になる.どっちもどっちなのであって,わるいことしか生まれない.
お隣の国が大好きな新聞社系民放局が,主に白人の外国人から褒められて日本を自慢する番組をつくるのは,まさに小中華思想であおるマッチポンプをやっているのだ.
そんな局のニュース番組では,そもそも,アメリカと日本が対等・同格だと信じているひとたちばかりが出演して,えらそうな発言をしている.
これらを「B層」のしわざといわずしてなんというのか?

まちがってもいいから,自分でかんがえることだ.
だから、なるべくテレビは観てはいけない.ラジオも聴いてはいけない.
新聞も見出しだけの流し読み程度で良いので,通勤電車のなかでじっくり読んではいけない.
でないと,しらずにマインドコントロールされてしまう.

隠蔽体質という文化の本当のおそろしさは,政府が隠蔽することではなく,だれかに対する「憎悪」を強要され,しらずにそれと一体化してしまう自分自身ができあがることである.
ジョージ・オーウェルの「1984年」にある,全体主義国家で国民が義務として参加しなければならないのは,双方向テレビにむかって罵詈雑言を吐く「二分間憎悪」の時間だ.ちゃんと憎悪をしているかを当局がチェックするための双方向なのだ.もし,憎悪の態度が甘いとされたら,自分が反逆者にされてしまう.

 

もう,技術的にはこれができる時代になっている.

千葉の◯の乳搾り,とは?

ずいぶんまえ70年代のギャグである.
ストレートコンビという漫才師がはやらせた.
このフレーズ,子どもにはどういう意味かはっきりしないが,大人は吹き出して笑っていた.

その千葉県は,全国四位の農業県(北海道・茨城県・鹿児島につぐ)だが,生乳の生産では全国三位である.
それで,牛の乳搾り,のイメージが強かったのかもしれない.

しかし,一説には,朝早くからはたらくのを苦とせず,嫁をとるなら千葉のひと,というくらいの評判で,しかも千葉県人は「巨乳」揃いという前提が知られていたというから,なるほど「乳」がかぶっている.当時の大人が笑った理由がわかろうというものだ.

農業全国トップは北海道が一桁ちがいで圧倒しているが,二位茨城と四位千葉,三位鹿児島と五位宮崎という組合せは,奇しくも隣接県同士だから,これらをまたぐ観光はおよそ「食」についていえば,全国水準を相当に高いレベルで超えているはずだから,旅行者は格段の体験ができるはずだ.
だから,農協をふくめた「県」単位という行政の枠で競争(という足の引っぱりあい)をすると,方向をまちがえるだろう.

生乳の取引価格は政府が決めている.
飲用からさまざまな加工用で価格がかわる.なかでも飲用がもっとも高い値段設定(公定価格と事実上の取引価格も)になっているから,酪農組合は飲用で売りたい.
すると,チーズやバター向けの生乳が不足するようになる.

もとの生乳が物量的に不足しているのではなくて,加工用に売ると安くなるから売らないという仕組みが原因だから,政府の政策介入が「失敗」しているという典型例になる.
これを,「政府の失敗」という.(政府の恣意的な経済介入政策は,自由な市場をゆがめるからかならず失敗する,というのがいまや世界標準の「新自由主義」だが,日本人は戦前から「大嫌い」で,政府の介入が大好きだ)
これが,わが国でバターが入手困難になるおおきな理由ではないかといわれている.

それで,国産バターが「不足」すると,外国から輸入するのだが,これがまた「国家貿易」になっている.
農水省HPで,いぜんは1ページをつかって,「わが国は国家貿易をしています」とあっただけだったから,それにくらべると「説明」がふえた.

しかし,ひろく国民に知らしめよう,というこころを感じる書き方とはいえまい.
しかも,「国家貿易」として自由でない「輸入」が全国民にとっての問題なのに,「輸入」の方に説明の重心を置くという「姑息さ」である.
「参考」としてとぼけている「輸入」国家貿易をじっくりみてみよう.

「枠外輸入につきマークアップを徴収」とは,ありていにいえば,たとえばバターを緊急輸入しようとしたとき(枠外あつかい),「入札」をおこなって,もっとも安い値段で(政府が)買って,もっとも高い値段で(民間に)売ることで,国が利益(マークアップ)を得ますよ,ということだ.

なお,このときの「政府」とは,ちょっとまえの「畜産振興事業団」のことで,いまは「独立行政法人農畜産業振興機構」という.
だから,この「機構」が,自動的に大儲けできるようになっている.
日本は,21世紀になっても「輸入」の「国家貿易」をして,消費者という国民に負担を強いることを原則としている国なのだ.

かれらが儲けた分は,国民が世界価格より高く買わされることで負担している.
生乳のはなしにもどると,むかしとくらべてさまざまな飲料が販売されるようになったから,牛乳が牛乳として飲まれなくなった.

くわえて,少子で人口も減っているから,飲用牛乳の需要も減っている.
それで,一部の生乳産地では,値段がつかないから生乳を捨てることで価格の維持をはかったりしている.
この方法は,生産者とてやるせないだろう.

食生活がちがう,とはいうものの,欧米諸国を旅行すれば,ホテルの朝食でふんだんに出るチーズやヨーグルトなどの乳製品やハムなどの畜産加工品が,どうなっているのかとおもうほど豊富だし,パンのお供はバターに決まっている.
コーヒーミルクも本物のクリームで,椰子油を「コーヒーフレッシュ」とはいわない.
食品店にいけば,「本物」のその安さにおどろくものだ.

すると.欧米人が豊かな生活をしているのは,「物価」にも原因があると気がつく.
さいきんなぜかいわれなくなった「内外価格差」というダムが,日本市場にはあった.
戦前からの政府の産業優先策で,日本人の消費者は世界価格より高い値段を負担していた.
わが国で,先進国唯一のデフレがつづいているのは,このダムの決壊がつづいているからではないか?

とにかく,日本はどうなっているのだと思いたくもなるが,あんがい千葉に光があるかもしれない.

トルコのイスタンブールは,地中海から黒海につながる場所に位置して,ヨーロッパとアジアにまたがっている.この境目がボスポラス海峡である.
フェリーしかなかった時代から,長大な橋をかけて,海底トンネルも掘ったしまだ新しいのを掘っている.
日本は援助で橋とトンネルを一本ずつ完成させている.

東京湾は湾だからどん詰まりだが,これを横断すると,ボスポラス海峡のような気分があじわえる.
神奈川県側の工業地域が,千葉県側の田園地域とつながるからだ.
アクアラインを通って,圏央道で房総半島を横断すれば,あっという間に太平洋側にでる.

そこに,いすみ市という街がある.
かつての「夷隅郡」の一部だが,この街にはいま五軒のチーズ工房がある.
筆頭格で,チーズ作りの指導員でもある駒形氏のはなしによると,市内の酪農家にもチーズ製造指導をしていて,すでに弟子は400人をこえるという.
だから,チーズ工房の数は,もっと増えること確実である.

不思議なもので,共産中国において鄧小平がはじめた改革開放政策で,目玉だったのが「経済『特区』」であるが,なぜかそれが自由主義ニッポンで政権の目玉政策になっている.
日本が社会主義国である証でもあるのだが,だれも指摘しない.

だったら,いすみ市に,「チーズ特区」ができてもいい.
これを真似れば,どこかに「バター特区」もできるかもしれない.
さすれば,アクアラインで酪農大国千葉県に,買い出しにでかけるひとがふえるにちがいない.

いすみ市には,いすみブタという畜産資源もあるし,じつはたいそうな米どころでもあるから,ヨーロッパのような食生活ができるしかもしれないし,飽きたらバッチリ漁港直送のごはんもある.
買い出し旅行で,そんな宿泊経験もしてみたい.
ああ,夢はふくらむ.

残念なのは,市が標榜するキャッチフレーズが,「人と自然の輝く 健康・文化都市 いすみ」という,「いすみ」を入れないとどの町なのかさっぱりわからない凡庸さである.
まぁ,これは全国津々浦々でいえるのだが,もっと「田舎」や「田園」を売りにだして「いすみ」オリジナル感がほしい.どうしてこうなるのだろう?

それにしても,千葉の◯の乳搾りは,ますます忙しくなるかもしれない.

大先生のネタ本発見?

いぜんこのブログで書いた,ガルブレイスの「新しい産業国家」(1968年)のネタ本?をみつけたかもしれないので記録しておく.
この本は,企業経営が従業員である「テクノストラクチュア」と呼ばれる専門家集団によって簒奪されるメカニズムについて解説しているのだが,おもな対象は日本であると思われることから,昨今の大企業不祥事の原因ではないとかんがえた.

しかして,そのネタ本?とは,大河内一男「戦後日本の労働運動」(岩波新書1955年)である.

 

戦時中は,わが国には労働組合は存在しなかった.
それが,「GHQの民主化」によって,労働組合がゆるされると爆発的に組織されることになった.ことに,財閥系をふくめた大企業での組織化は早く,じょじょに中小企業と地方にひろがるという図式になる.

日本人の「事大主義」によって,「お上(GHQ)のお墨付き」がある,ということが,「爆発的」になった原因で,初期段階では,「従業員」として経営者以外の部課長といった経営を補助する役職者も組合員に構成されていた.これは,事務職と職工が同一の組合,すなわち企業内組合を結成するという,欧米にはみられない形になった理由とおなじで,とにかく「食えない」という戦後の貧困が生んだ日本的な労働組合の形式となった.

なぜ役職者も組合に加入したかは,「食えない」からだったが,このことで,経営側との交渉は組合有利になる.そして,事務職・職工といった職分にもこだわらなかったのは,協力しないと経営側との交渉が不利になるとかんがえられたからだ.

なお,「食えない」とは,戦後の食糧不足と,戦時国債の償還不能(政府の財政破綻)による強烈なインフレ(年率600%ほど)が主たる原因であったが,これに,空襲による生産設備の壊滅的打撃がくわわるから,経営側にも支払原資がないといった,社会混乱が背景にある.
それで,昭和22年の全官公庁関係の組合は,「最低賃金制」と一時金を政府に要求して決裂にいたる.
ここでいう「最低賃金制」とは,配給による「一日2400キロカロリー保証」という意味であるから,現在の「最低賃金制」とはまさに隔世の感がある.

それで生まれた闘争方法が,「生産管理」方式という,「経営権」への侵蝕とその占領だったから,経営者は自分の「経営権」を防衛しなければならないと思うほど,企業を脅かすものになった.
資本家的要素をもった経営者たちが,ときに子供じみた嫌がらせともいえそうな手段や態度で組合と対峙したのは,「経営権」防衛ということだったといえそうだ.

これは,「テクノストラクチュア」が経営権を奪う工程とおなじである.
しかし,上記は,組合設立初期段階でのはなしだから,これを幼児体験として発展したのが「テクノストラクチュア」だろう.
日本の企業内組合は,ユニオン制を原則とするから,組合員が「育つ」と管理職になる.その管理職から経営陣にはいるので,時間がたてば浸透するしくみになっている.

ところで,日本型の労働組合形式=企業内組合は,欧米型の職業別組合とはまったくちがう.
これはなぜか?という疑問も本書は解明している.
それは,労働市場のなりたちのちがいであるという.

欧米の歴史では,「食えない」と家族ごと移動してあたらしい土地に定着するのが常だった.だから,生まれ故郷に痕跡をのこさない.
日本には,幸か不幸か「ふるさと」がある.「食えない」から異動したのは次男以下だった.長男は,しっかり土地に根づくようになっている.
つまり,なにかあれば「ふるさと」に帰ることができるというのは,広い意味で「出稼ぎ型」なのだ.

むかしは,都会の企業に出稼ぎでくるのは,なんらかの人的関係(社長の「ふるさと」)からであることがおおかったから,労働条件は個々の企業ごとにちがうという背景ができた.
出稼ぎ型労働と企業別組合の関係は,地縁血縁になっていたから,じつは都会といえども定着した労働人口が欠如していたという事情がある.

だから,日本における労働組合の形態が欧米型に変化するには,都市における労働人口の定着=「ふるさと」からの決別,がなければならなくなる.
人口減少社会は,「ふるさと」の崩壊がはじまるから,欧米型に変化する可能性はいぜんより高くなったろう.

また,すでに100万人規模になっているともいわれる中国系の事実上の「移民」は,「ふるさと」を捨ててきている可能性がある.
すると,これらの人びとから構成される労働力を生かすには,欧米型の労働組合が適しているだろう.

戦後日本の労働組合も,大転換の時期がひたひたとやってきている.
すると,戦後日本の経営も,当然ながら大転換しないと,ついていけなくなってしまう.
いま,日本の経営者で,どのくらいのひとがかんがえているのだろうか?
もはや「テクノストラクチュア」に経営を簒奪されてひさしいから,大企業ほど適応できないかもしれない.

これはこれで,日本の危機だといえるだろう.

害虫被害がやばい

宿泊業は,基本的に「旅館業法」の免許がいる.
その管轄は,保健所だから,旧厚生省が主管している.
これに,ことしの6月から「民泊」がはじまる.
根拠法は,「住宅宿泊事業法」で管轄は観光庁だから、国土交通省が主管しているのだが,省令になると厚生労働省も顔をだしている.

いろんなひとが出入りするのが宿泊施設なので,衛生,という側面はたいへん重要だ.
ホテルや旅館でチェックインのときに書かされる「レジストレーション・カード(宿帳)」記入義務も,伝染病発生時のトレーサビリティ確保がそもそもである.

役所の肩をもつ気はさらさらないが,公衆衛生,というしごとは,当面役所の存在意義がありそうだ.
もっとも,日本の役所はどこも「産業優先」というDNAをもっているから,「公衆衛生業界」を行政が優先する悪癖には注意したい.

近年では,2002年から翌年にかけて東南アジアで発生した「SARS」が記憶にあたらしい.
このときは,裕福なかなりの人びとがわが国に避難してきた.これで,高級ホテルはずいぶんと部屋が売れた.
しかし,なかには感染者がいるかもしれないから,とくにフロントと客室清掃係のひとは,予防に注意をはらったものだ.

宿泊業や飲食業にとって,なにより困るのは害虫と害獣である.
「食」に関していえば,これに「菌」がくわわる.
営業停止処分にもなりかねないから,対策をしていないなどということはないだろうが,残念な事故は毎年発生している.

ここにきて,これまでなかった「敵」があらわれている.
トコジラミ(南京虫)である.しかも,「スーパー」が頭につくのが最近の特徴で,市販の殺虫剤に抵抗性を持つようだから,たいへん厄介である.

日本での被害は,外国人観光客が持ちこんだことから発生している.
そもそも,「南京虫」は,戦後のDDT大量散布などにより,わが国では撲滅していた.
近年,ニューヨークでの大量発生が報告されてから,日本に上陸しているので,ルートはアメリカと中国系になるという.
それが,主に旅行カバンや段ボールの隙間にくっついてやってくる.

この昆虫は,吸血することでエネルギーを得る.
卵を産むには,最低一回は吸血しないといけないらしいが,産み出すと日に6個程度を生涯産み続けるから,爆発的に増殖する.

成虫になると,5分から10分かけて吸血するというから,一回でかなり大量の血を吸う.
血液にはそうとうな栄養があるらしく,一度吸血すると,そのご一年以上生存できるというから,たいへん省エネルギーな虫である.
また,こまったことに,天敵があの「ゴ◯ブリ」なので,天敵をつかって駆除するという手がつかいにくい.

何カ所か刺されるのは,満腹になるまでやめないからだ.時間がたってかゆくなると刺されたとわかる.吸血を旨とする生きものは,ヒルやコウモリも吸血のあいだ相手には気がつかないような工夫をもっている.

生涯ではじめて刺されたひとは,抗体がないからかゆくない.
二度目以降は,はげしいかゆみとなって,そのへんの虫刺され薬では効かないことがしばしばだ.
それで,とある宿泊施設で全身の複数箇所を刺され,かゆみとむくみで仕事ができなくなったひとが訴訟をおこしている.

被害者もお気の毒だが,被害をだした宿もお気の毒である.しらないうちに,どなたかが持ちこんだとしかいえない.
この虫の根絶には,困難をともなうから,時間と経費がかかる.
たいへん扁平な形なので,せまい隙間にかんたんにはいれるし,夜行性だから昼間はいないようにみえる.くわえて,上記のように繁殖力がすさまじい.
とくに外国人観光客がふえてきたという宿は注意がいる.

予防方法は確立されていないが,被害がないうちに専門家へ相談するといい.
発生したときの根絶にかかわるリスク,訴訟リスク,ネットで書き込まれるリスク,などなど,やばいことだらけになる.
少しでも予防措置をすることが重要だろう.

どうしてこうなるのか?

世の中には,「不思議」がたくさんある.
なかでも,役所主導の人為的な「キャンペーン」ほど「不思議」で「不気味」なものはない.
「都市鉱山からつくる!みんなのメダルプロジェクト」というのをご存じだろうか?
ご丁寧に,英語とフランス語のページもあるが,中国語(北京語や広東語),韓国語も,スペイン語も,ロシア語もない.どうして英語とフランス語なのだろう?

それで,「東京2020参画プログラム」というものにリンクされていて,上記キャンペーンはこのプログラムの一環であるということがわかる.
しかし,このページには,「Collections are within Japan only. See the Japanese language page for details.」とあって,詳しくは日本語のページを見よ,となっている.
不親切さもここまでくると,芸術的である.

このプログラムにすでに日本の良民200万人が登録し,「参画」しているというのが「ホーム画面」にいけばわかる.
しかし,なぜか,わたしには「ベルリンオリンピック」や「ナチス党大会」を彷彿とさせる不気味さがある.

必要なメダルは,5,000個とある.
これを,「都市鉱山」という不要な携帯端末から採取するらしい.それで,NTTドコモが主催者に名前をつらねているが,あとの携帯キャリアや製造メーカーの名前はない.
好意的に,なぜか?をかんがえてしまう.

電子部品につかわれる貴金属が,「都市鉱山」として回収され再利用されるのは,それが「貴金属」だからであって,「持続可能社会」などという寝ぼけた理由からではない.
どうして「持続可能社会」などということが「寝ぼけている」のかといえば,こちらが「価値」の上位概念になると,「経済合理性」という価値の上に君臨してしまう可能性があるからだ.

つまり,「損」をしてでも,なにがなんでも「回収」して「再利用」しなければならない,という「原理主義というイデオロギー」に陥ってしまう危険があるのだ.(すでに陥っているとしかおもえないが)
その「損」はだれが負担するのか?といえば,国民である.
ほんとうに,この国の国民はみんな,その「損」を背負ってまで,「持続可能社会」という「原理主義(=イデオロギー)」をよしとしているのだろうか?

オリンピックのメダル5,000個が,ふつうに製作されたばあいと,このキャンペーンによって作成されるばいいとで,いかほどの違い(損が)があるのか?
あるいは,「都市鉱山」を精錬するために,いかほどのエネルギー消費の違い(不効率)があるのか?
このキャンペーンを進める役所は,いっさい示しはしない.

すると,これは「オリンピック」という美名のもとに,国民の富を強制的に浪費しようという試みではないのか?
だから,「世界初」のことになる.
これまでの開催国(旧ソ連もふくめ)が,かんがえもしなかった愚策ではないのか?

もはやこの国は「ルイセンコ型の科学」が蔓延しているのではないか?という恐怖すらおぼえる.
「科学」が「政治」に支配されると,おぞましい結果になる.
それを,善意の市民を動員して実行しようというのは,悪魔のくわだてにひとしい.
「持続可能社会主義」は,設計主義の形態そのものだから,これすなわち,あたらしい共産主義である.

さいきん,元スポーツ選手だったひとびとから,「オリンピック廃止論」がいわれはじめている.
選手への過大な期待と,そのための過酷な練習の強要.
女子レスリングメダリストにかかわる,パワハラ問題とて,この譜系のなかにあるのではないか?
これにくわえて,際限のない商業主義.選手は生産しないから,とてつもないカネがかかる.

このキャンペーンを推進する女性知事は,なぜかこのての話には積極的である.
都民は,どうして平静でいられるのか?
偉大なる無関心,なのだろうかと思いたいが,200万人も登録しているから,やっぱり不気味である.

こういう「良民」が,戦前・戦中は暗黒だった,ときめつけるにちがいない.
じぶんたちがいま,何に協力しているのか?
もう,かんがえる力もないのだろう.
どうしてこうなるのか?

じつは,深いところでだれも過去の歴史を反省していないからだ.
近隣国から,歴史問題という政治カードをつきつけられ,それを消せない理由もきっとこれだ.
かれらの主張の中身はともかく,「日本人は反省していない」という一点においてだけ,真実がある.

広義の「自業自得」か.
まことに不甲斐ないはなしである.