沼津市役所の設計思想

旅人は、旅先の役場を訪ねる目的をもっているわけではないけれど、街の中心部にあるのが「役所」なので、観光の便利さから駐車場やトイレのために寄ることはある。

なにも新幹線だけが原因ではないだろうけど、「駅建設」に大反対して隣町の三島に新幹線は停車することになったのだった。
前は「こだま」しか停まらなかったけど、「のぞみ」ができて「ひかり」が急行扱いになった三島には、たまに「ひかり」も停まるようになった。

それに、三島には新幹線の車両基地もできた(開業当初は静岡)から、「終電」は三島止まりになるのである。
名古屋と東京の中間地なので、企業が三島に注目したのは工場だけでなく、「研修所」の設置であった。

そんなわけで、北口にはご本家JR東海の研修所があり、その先にはホテルと見間違えるほどの、東レの研修所がある。
ここで、五日間×2回の「公認MTPインストラクター研修」を受講した。
当然だが、東レは会社ぐるみでMTPインストラクターを自社養成するにも、この施設を使っている。

三島と沼津は近接している街ではあるけど、それゆえに歴史的にも「仲が悪い」ので、平成の大合併で一緒になることはなかった。
ついでに、警察も、三島署と沼津署は別々である。

数年前に、沼津商工会は、かつての「新幹線駅反対運動」を反省して「詫びた」ことがニュースになった。
詫びたのは、反対運動に熱心だった経営者たちの「孫」である。
隣の三島の発展に対して、沼津の衰退が止まらないことが背景にある。

たとえば、「駅前デパート」の経営者は、新幹線ができたらみんな東京のデパートへ買い物に行ってしまう、と本気で心配したようだ。
たしかにご心配ごもっとも、と言いたいけれど、停車する電車の本数や料金を「コスト」としたら、そう易々と沼津市民が東京にお買い物に行けたはずもない。

だから、「杞憂」だったのではあるが、市内の産業が三島にシフトして、購買力を失う問題になってしまった。
それに、自動車の普及があるし、高速道路もある。
残念ながら、この反対運動は、市民のため、にはならなかった、ということだ。

暴れ川として有名な、狩野川の河口に位置する沼津市は、大堤防に守られている「要塞都市」でもある。
この地形を利用したのが、沼津城であったけど、反幕府の明治政府によって無価値とされて、「競売」に出されるという事態となった。

それから、東海道線の駅と駅前大通りになって、城地はかつての見る影もない、という「観光」ができる。
『荒城の月』よりも、はるかに悲惨な近代の「遺産」なのだ。
これは、「平和」がなしたものだという意味で重要だ。

そんなわけで、城を背に狩野川を渡れば、現代の沼津城としての市役所がある。
こぢんまりとした建物は、好感が涌き出るけれど、なんだか様子がおかしいのだ。

以下は、全部「見た目」であって、しかも、「観光客目線」だから、役所を利用する住民目線ではない。
なお、新築された横浜市役所を自慢する気は毛頭ない。

さてそれで、どこが「変」かといえば、正面の車寄せを含めた広場が、広さの割に閑散としているのである。
看板をみたら、公用車などの関係者以外は入るべからず的な内容であった。

はは~ん。

「秘書課」が頑張って、市民を追い出したのか?それとも、現職以前からの市長か議長かはわからないけど誰かが命じたのか?それとも、議員にへつらう「議会事務局」なのか?
要は、市民を追い出したことは間違いない。

市のHPにある市の歴史で、「新庁舎が完成」をみると、
「人口30万人を想定して昭和41年(1966年)に建設された。この建物は、狭い敷地を有効に利用するため、高層建築(8階)とし、市民広場の性格をもったピロティ(基礎杭)を議場棟の下に設け、前庭的なゆとりをもたせている。

またその内部は、市民の生活に一番関係の深い戸籍・住民登録・証明・小中学校の転出入・保険年金などを取り扱う市民課や国民年金課などの窓口部門を1・2階に集約するなど、市民へのサービスを重視したものとなっている。」

とある。
だから、当初設計の「市民広場」から、市民を追い出したことがはっきりわかるのだ。
「市民へのサービス重視」という文言が、「軽い」のである。

なお、「人口30万人を想定」とあるけど、沼津市の人口は平成7年に21.7万人をピークとして減少し続け既に20万人を割り込んでいる。
イケイケの高度成長期の予想だったのであるから、新幹線駅反対運動との理論的「連携」があったと推測できる。

当時も今も、御用学者が建設委員会にいて、「人口推計」を都合よく書いたことがよくわかる。

ところで、自動車でここを訪問したら、道路を夾んで向こう側の自走式立体駐車場へ行かないといけないのだが、この駐車場の入口と出口は、同じ路面1カ所だけで、入庫・出庫方向も1方向しかない。
これは、「どんな設計」なのか?

しかも、沼津市を歩いていて気づいたのは、歩道橋のある交差点に横断歩道が「ない」のだ。
よって、この立体駐車場は、2階と歩道橋が直結しているので、市民はここを通るしか市役所に行けないが、エレベーター等の設置はない。

どこまでも、市民は横に置く、「新・沼津城」なのであった。

妄想の「自民党改革」

「できっこない」ので、「妄想」である。

総裁候補が「改革」をうたうのを、企業に例えたらどうなのか?
企業なら、従業員がいきなり「社長」になることは少ない。
だいたい、既に取締役になっていて、そこから選ばれる、という段取りが日本企業の「ふつう」だ。

昔の自民党は、一応「党三役(幹事長、総務会長、政調会長)」という役職を経験したか、「大蔵(財務)大臣」を経験しないと、その「実力」が認められなかったものだから、民間企業の役員と似ていた。

しかしながら、民間企業で「役職」があって、自分がトップになるかならないかのときに、「改革の構想」を言うようでは、ぜんぜん「遅い」のである。
それなら、今の立場(既に重職)で改革を考えも、やりもしなかったのか?と言われてしまう。

だから、民間企業でも、トップ交代時に、引退して会長になる人物を横に、「これから改革をします」という新社長の体制で、その改革をまっとうできたひとがいないのも、「なってから考える」という他人ごとでやってきたひとに、たまたま社内のパワーバランスから選ばれたしまった不幸なのである。

民間企業ならほとんどが、その影響力の範囲は一国の政府ほどではない。
なので、その不幸は、その企業のステークホルダーには及ぶけど、それ以外では何もない。
けれども、これが、「政権党」ともなれば話は別である。

すると、「筋論」からしたら、現職の政調会長だったひとが最も後継者として相応しいはずだけど、なにせ候補者の全員が「党改革」を言い出したから、話の筋が通らなくなった。
役職があるときに言わないで、候補となったら言うのでは遅い。

それに、役職経験がないひとが候補になっているけど、このひとたちも「ふだんから」党改革の必要性を唱えていたわけでもない。
さらに、総務会長とかを経験はしたけれど、結局は実力がなくて交替させられたひとは、その後もこの経験を活かして、党改革に何等かのイニシアチブをとってきたわけでもなく、「実力者の腰巾着」になってしまった。

さて、わたしの妄想である。
最大の改革ポイントは、「近代政党になる」ことだ。
何度も書いたが、近代政党の条件とは、
・綱領
・議員
・組織 の三条件が全部あることだ。

自民党改革の最大の問題点でかつ、実現不可能なのは「組織」とそれに連なる「議員」が、ない、ことと、いない、ことだ。
組織が「ない」とは、第一に「全国組織」のことで、いまの「議員の後援会組織」のことではない。

第二は、「党独自のシンクタンク」という組織を持つことだけど、伝統的にこれを「官僚組織」が引き受けている。
なので、政治が「官僚のいうがまま」になるのだ。

もちろん、派生的に、地方組織でも「予備選挙」がふつうに実施されないといけない。
選挙区ごとに、党内予備選挙での勝者が「本選挙」に出馬する方式だ。

よって、党員には党費納入の義務だけでなく、予備選挙での投票義務と、他の選挙区における「お手伝い」の義務も生じる。
本選挙における投票の義務は言うまでもない。

こうなると、都道府県・市町村議会議員選挙から、市町村・都道府県首長選挙、国会議員選挙に至まで、全部の候補が予備選挙の勝者で行うことになる。

面倒なようだけど、欧米式の「近代」選挙とは、こうした方法がくまなく実施されている現実をみれば、面倒ではない。
逆に、これを、「面倒だから実行不可能」というなら、わが国は絶対に「近代民主主義・政党政治」が不可能だというに等しい。

つまり、「妄想」になるのである。

不可思議なのは、「啓蒙主義」がだいすきな、わが国の大手マスコミが、この「妄想」の実現を推進しないことだ。
その何故?を考えるという「妄想」もある。

おそらく、野党がついてこられないのだ。

その野党の最大のスポンサーは、いつでも「労働組合」であったし、おそらくこれからも変わらないだろう。
けれども、労働組合という組織では、ちゃんと「選挙」をやっているはずである。

そうやって、選ばれたはずのひとたちが、どういうわけか「近代政党」としての選挙ができない政党を支持している。
むしろ、近代的な政党よりも、ただの「社会主義者」を選べば、労働組合員という「管理職以外のひとたち」の生活が向上すると、伝統的な骨髄反射をしていないか?

すると、わが国の「保守本流」とは、このような発想をする「左翼の皆さん」のことを指すことになる。
それがまた、吉田茂という「グローバリスト」の流れをくむ集団を、自民党内で「保守本流」と言ったから、意味が合致する。

本当は、岸信介が満州国で成功させた社会主義の筋からしたら、よほど吉田と張り合ったかがわかるのだが、巣鴨での「取り引き」で、サラリとアメリカ民主党(CIA)の手先になった。
そんなわけで、「清和会」も、見た目でわかるグズグズになったのを、一刀両断で両派を破壊しつくしたのが、田中角栄の天才だった。

死せる孔明、生ける仲達を走らすのごとく、角栄の「困った思想」が、いまだに、いや、永遠に自民党を近代政党にさせることはなく、どんな「改革」も無意味にするのである。

しからば、最後の「妄想」とは、自民党が、「超新星爆発」のように解党するしかないのである。
これがタイミングは、外国からの侵略が決定的となる「前」でなければ意味がなく、アメリカが安定の共和党政権でなければならなかった。

すると、手遅れ、かもしれないのである。

みずほ銀行の国営化

渋沢栄一が設立した、「第一国立銀行」は、明治の「国立銀行条例」によっていた。
だからきっと、この条例をつくるときに本物の銀行も作ってくれといわれて作った銀行だ。

それが、「第一銀行」になって、「勧業銀行」と合併して「第一勧業銀行」になった。
バブルの後始末から、「富士銀行」と合併したけど、これに、まさかの「興銀(日本興業銀行)」という異質がくっついてきた。

そんなわけで、三行の社内システムがバラバラだったけど、リテール・バンク事業をやったことがない興銀が大いばりして、システムの統合がうまくいかないので、2回も「業務改善命令」をくらってしまった。

ならば、仕方がないから全部を最初から作り直す、という「決断」をした。
ちなみに、最初のシステム障害に遭遇したときのトップは、現NHK会長の前田晃伸氏で、富士銀行出身のトップである。

全部を最初から作り直すのに大変な時間と労力(つまりはおカネ)をかけたもので、総額は4000億円ともいわれている。
このプロジェクトは、結局19年を要し、システム開発に関わった企業は、1000社以上だ。

できたシステム名は「MINORI]という。
みずほ⇒瑞穂⇒新米⇒実り、ということだろうけど、この秋の「実り」は、やっぱり「システム障害」となって、3度目の「業務改善命令」をくらうはめになった。

そこで、「異例」の金融庁と「共同」で、システム管理をすることになったという。
銀行のシステムを金融庁という役所にいる役人が、管理するというのは「異例」を通り越して、「違法」ではないか?

事実上の「国営化」を意味するからである。

なんだか、福島原発の事故を、作業服は着ていたけれど、本当は(保安院といっても)「事務官」が仕切ったことの再現ではないのか?と思えるのだ。

中学校の数学で習った「相似形」は、「幾何」の話ではなくて、論理的な思考をすれば、役人の「やり方」に見られる特徴なのである。
一見して「違う」ようにみえるけど、本質的は「同じ」という意味である。

そんなわけで、みずほ銀行は、金融庁に「システム」を仕切られるという方法で乗っ取られたことは間違いない。
しかして、今後、金融庁様が乗り出したのに、再度システム障害が発生したら、お役人様方はどういう言い訳をするのだろうか?

いや、こんな「リスク」を背負ったからには、よほどの「危機感」がお役人様にあるに相違ない。
とにかく、上から目線で命じることはしても、絶対に責任をとることになる方法は採らないのが常だからである。

すると、一体全体、何がその「危機感」の根源にある危機なのか?

実は、「2025年の崖」という問題がある。
これは、世界の金融機関が「デジタル・トランスフォーメーション」にシフトしているなかで、旧態依然としたシステム環境に依存している、わが国の金融機関に総じていえる隠れた大問題なのである。

つまり、稼働後初めて障害を発生したものの、「MINORI]は、まだ「まとも」ともいえる。
障害なく稼働している、「他行」の(旧)システムの方が、よほど「やばい」のだ。

これが、「地銀統合」の大きな理由にもなっている。
「MINORI」の4000億円とまではいわなくとも、「それなり」の大金を投じなければならない「宿命」に、体力的に一行独自で対応できる地銀はもう存在しない。

今年5月の「銀行法改正」で、ゴールドマンサックスが日本国内で「銀行免許」を取得した意味は、銀行システムに踏み込んだ銀行営業をするのか?という疑問がある。
彼らは、「出資規制の撤廃」における、投資をしたいだけではないのか?

本来ならば、中央銀行たる日銀がもっと前に出てこないといけないのに、なんだか穴倉に隠ったまま出てくる気配もみせない。
国内各銀行(メガバンク、地銀、信用金庫、信用組合)にとって、実は最大のネックが、日銀の決済システムなのである。

たとえば、わたしたちは、他行へ振り込みをするときに、この日銀システムを「無意識」に使っているのだ。
A行からB行に振り込む(資金移動させる)とは、ATMを使っていても、A行のシステムから日銀システムに接続して、これを介して、B行のシステムに振り込んでいる。

自分のおカネがB行に移動するのではなくて、A行の日銀勘定(当座預金)から振込額分が引かれて、B行の日銀勘定がその分増えるのである。
それでもって、B行の内部システムが、A行からの「口座指定情報」を受信して、振込相手先の預金が増えるように書き込まれるのである。

すると、今回の金融庁の「共同管理」とは、(最新の)民間銀行から日銀システムを垣間見る「チャンス」ということになる。
それでなにがしたいのか?

勝手に想像すれば、「デジタル円」の導入におけるシミュレーションではないのか?と考えるのである。

このぜんぜんちがう「目的」に、システム障害を利用したのは、「デジタル通貨」の普及における、「早い者勝ち」的な国際競争があるからで、「極秘裏」にやっておきたい、と思うのだ。
しかも、政府は濡れ手に粟となる「通貨発行権限」を将来も独占したい。

あるいは、もっと妄想を膨らませれば、もしや「MINORI]には、デジタル通貨発行機能も用意されていたのかもしれない。
ハイエクが言う「通貨発行自由化論」をみれば、「誰が」発行しようが、「便利」で「匿名性」があるものが勝利する。

「ビットコイン」が先駆的なのにいまいち普及しないのは、「発行主体がない」ことと、「匿名性」はあるけれど、「便利さ」に欠けたからである。
すると、みずほ銀行のもしやの野望は、金融庁という国家機関に、体よく踏みにじまれたことになる。

株主は黙って見ているのか?
というのも、妄想か?

そんななか、24日、中国人民銀行(中央銀行)は、仮想通貨の全面禁止を発表した。
恒大集団のデフォルトとの関係もあるけれど、果たしてこれは、デジタル・人民元はじまりの「スイッチ・オン」ではないのか?

医者じゃない政治家が診断する

病気の「診断」は、医師の特権事項であるから、医師以外の人間が「公に決めつける」ことは、「医師法」に違反する。

西洋医学という「最先端」が、わが国に輸入されたのは、「長崎の出島」時代の「蘭学」をはじまりとするけれど、これが一般に広がったのは、「開国」あっての出来事である。
つまり、「文明開化」のなかに、「西洋医学」のいう文明も入っている。

それだから、「西洋医学」の特殊性は、「非文明」とされた「漢方」を排除して、その特権を文字どおり「特別」にするために「国家資格の医師免許制度」ができたのである。

わが国の歴史で、はじめて「医者」が「医師」になったのだ。

ようは、それまでの「医者」には、免許制度がなかった。
だから、「ニセ医者」もいない。
ただし、医者を名乗って病気を治せないなら、原始時代だっていつでも効力を発揮する、「経済原則」が機能して、「淘汰」されるだけなのだ。

逆に、どんなに難しい病気でも、たちまちにして「治す」となれば、「奇跡」のひと、となって、宗教家にまで昇華する。
その典型が、イエス・キリストなのだ。
『聖書』にある、さまざまな「エピソード」がそれを「証明」している。

よって、医師免許制度とは、一度「資格」を得れば、よほどの事情がないかぎり「免許剥奪」されることはないので、経済原則とは別の制度になっている。
この意味で、自動車運転免許とか、教員免許と同じだ。

結局のところ、すべての「国家資格」が、経済原則とは別にある。
ただし、その資格を取得するまでは、学校選びを含めて経済原則が機能しているのである。
免許取得に有利な学校選択には、競争の原理が機能するからである。

たとえば、ワクチン大臣が若いひとから質問を受けて、これに答えている動画が繰り返し出てくる。
この質問とは、「どうしてワクチンは二回打たないといけないのか?」である。

これに、「二回接種することで免疫力が上がるから」とさも当然のように答えている。
このやり取りは、医師免許制度とは直接関係ないけど、「ワクチンの素人」のはずの行政府の担当大臣が答えることの意味は、「宣伝:プロパガンダ」に過ぎないと言うことだ。

だから、このようなやり取りを見聞きして、真に受けるのは「バカ」であると分かれば、なんの事はない。
今の時期なら質問すべきことは、「どうしてワクチンは効かないとわかっているのに打たなければいけないのですか?」なのだ。

そして、「変異株が~」と答えたら、「病原体としての新型コロナウィルスを特定したひとがいない(論文もない)のに、変異株ってなんのことですか?」と畳みかければよい。
これに回答できるはずがないのだ。

よくある、コロナウィルスの電子顕微鏡写真とは、今回の病原体としての「実物」でもなんでもなく、その辺にふつうにいるコロナウィルスの顕微鏡写真だし、ひどくなると「精密な絵」だったりもする。

ところで、データ解析の基本は、材料となる「データの信憑性」だ。
どんなに素晴らしい、「解析手法」を知っていても、元データに「ゴミ」が混入していたら、そのデータ全体が「ゴミ」になる。
そして、ゴミデータをどんなにいじくっても出てくるものは「ゴミ」なのである。

ちなみに、ここでいう「ゴミ」という言い方も、「統計解析の用語」であるから、知らない統計学者はいない。
さらにいえば、こうした「ゴミ」を、さも「ゴミでない」ようにして発表したら、その統計学者が「ゴミ」と評価されても文句はいえない。

そこで、横浜市で10代初の死者が出た、というニュースには、「そもそも呼吸器を患っていた」という一言が付言されていた。
だから、「もしやガセでは?」と疑うのが、最初の信憑性に関する「警戒感」だ。

昨年12月2日の参議院での厚労省統括審議官の答弁から、PCR検査陽性だからといって「感染者」とはいえない、の意味が「法的」にある。
アメリカのCDCも、PCR検査ではインフルエンザを区別できないと明言した。

しかも、その厚労省は、「事務連絡」として、厳密性は問わないから遺体へのPCR検査でも陽性者を「コロナが原因の死者として報告するよう」にしている。
このことの「欺瞞性」を、「データのゴミ化」として批判もせずに、「そのまま」分析につかう「ゴミ学者」が蔓延しているのである。

そのなかで、政治家に転身したのが「新・横浜市長」になった御仁だ。

少女の死は残念だけれど、市民としとは市長が「ゴミ」だと知れた残念をあぶり出した価値がある。
その意味で、亡くなった少女の死を、市民全員が悼むべきことになったのである。

このひとに投票した市民は、そうしなかった市民に詫びるべき事態だけれど、きっと「欺された」と弁解するにちがいない。
何度でも欺されてきて、いつまで欺されつづけるのか?
恥を知れ、といいたい。

そんな人物を「推薦」した、政党は、少なくとも横浜市の党組織を解散すべきだ。
それが、命を張った少女への、せめてもの罪滅ぼしであって、欺されて投票した市民への、責任なのである。

なお、こんな責任もとらないことを確認したうえで、投票をしなかった市民は、次期国政選挙で、これらの政党とその候補に投票しないことを「誓う」のであった。

「減税」はお好き?

少年には理解が難しい、大人の「女心」、しかもフランス人という得体の知れないひとの話だから、どうもしっくりこない物語だった。
これを、出版社が自社文庫本の『100冊』に挙げていたので、順番に読破しようと試みて、全体が崩壊したことにつながった。

読者層として、10代前半には、やっぱり難しいけど、しっくりこない理由の大きな前提が、まず「離婚している」ということと、互いに干渉しないという約束の意味が、ほぼ半世紀前の少年には無理だった。
今ならどうか?と問えば、「追いついた」一種の不幸がある。

フランソワーズ・サガンの小説『ブラームスはお好き』のことである。
発表は1959年、日本で文庫になったのは、わたしが生まれた年の1961年である。
なお、同じ61年に映画化されたタイトルは、『さよならをもう一度』。

 

イングリッド・バーグマン、イヴ・モンタン、アンソニー・パーキンスという顔ぶれもいいけれど、ブラームスの交響曲第3番第3楽章の「甘美な曲想」が、なんとも言えず印象に残る。
ブラームスの四つの交響曲は、奇数が「明」で偶数が「暗」であるけど。

そんなわけで、わたしは、ブラームスはお好きである。
いわゆる、「ドイツの3B(バッハ、ベートーヴェン、ブラームス)」は、確かに「安定」の凄みがある。

とはいえ、西洋音楽とはドイツ音楽のことではない、というもっともな主張があるのは、「バランス」という点でもありがたい。

ついでにもう一つ、フランスとドイツの「犬猿の仲」を考えると、妙にストイックなフランス人が、そのストイックさをとんがらせたのは、映画『無伴奏シャコンヌ』(1994年、フランス、ベルギー、ドイツ合作)であった。

なんだか、山本周五郎の『虚空遍歴』のストイックさと似ているから、フランス人はあんがいと日本人に発想が似ているやもしれぬ。
潜水艦が売れないからと大使を召還するのも、気分は戦前の日本人と同じだ。

「英米」との異質感がここにある。

 

ソ連が崩壊するまでは、「近代経済学(近経)」と「マルクス経済学(マル経)」が、バランスよく「対峙」していた。
わが国の「大学受験」で、経済学部入試に数学がないのも、経済学という業界でマルクス経済学者たちが君臨していた「おかげ」であった。

そんななかで、颯爽と登場した数学の天才、ポール・サミュエルソンは、経済学に「数理モデル」を持ち込んで、数々の理論を打ち立てた。
これで、経済学は一種の「応用数学」ということに陥ったのである。
それで彼の業績は、「新古典派総合」に集約されて、社会主義と資本主義のいいところどり、に行きついてしまった。

「ノーベル経済学賞」という賞はないけれど、サミュエルソンを顕彰したいというひとたちがいて、「スウェーデン国立銀行経済学賞」をつくってこれを「ノーベル経済学賞」と言っている。

そんなわけで、サミュエルソン以降の経済学は、「アメリカ経済分析学」ということのみならず、「数理モデル創作学」になって、アメリカ以外の国の一般人の役に立たないものに変容した。
これを、ストイックにフランスの経済学者トマ・ピケティは皮肉っている。

しかしながら、そのフランスは、若き社会主義者マクロン氏を大統領に選んで、フランス革命の恐怖を再現しているし、庶民はますますフランス革命の間違いに気づき始めた。

翻ってわが国では、「お上」とか「お国」という、江戸時代から敗戦までの感覚がみごとに残存している。
「産業報国」の概念が経済界の正義だから、「滅私奉公」こそ言わないけれど、これを「よし」として企業経営をやっている。

一般人は、「お国」こそ忘却したが、却って「お上」の言うことに従順なのは、経営者の安易を見抜いてその救済を期待するからである。
しかし、「お国」という実態ができることは、「予算配分」でしかない。
つまるところ、おカネの使い方、だけなのだ。

本来ならば、政治家が政治として差配するものではあるけど、日本では優秀な頭脳の役人が緻密な配分を計画するので、政治家の出る幕がなくなった。
ならば、そんな使い方でいいのか?となると、誰にも、どうにも止まらない、山本リンダの歌のようになっている。

そうなると、庶民がこれを制御する方法はただ一点。
「減税要求」に絞られる。
役人が使える予算を、最低でも「税収を減らす」ことで、削減する試みだ。

それでもって、こないだの横浜市長選挙では、8人の候補のうち1人だけが「減税」を公約していた。
しかし、横浜市民は、「減税はお好き」ではなくて、むしろ「増税」を予感させる野党候補を選んだ。

実際に、「減税」を主張した候補の得票は、7位であった。

横浜市で減税とは?というひともいるかもしれないが、当然に地方税のことである。
かつて、社会党飛鳥田市長時代に、「増税」をして、港があったことからの貿易会社などが、本社を東京に一斉移転させて、横浜市の「空洞化」が実行された。

こんなことを知っている横浜市民が小数派になって、東京のベッドタウンとしての、稼ぎは東京人が横浜にたまたま居を構えている状態になった。

では、国税も、「減税はお好き?」と聞いたら、もしや年金のための増税がいい、と言い出しかねない。
その分を、自分で積み立てることを億劫がるのだ。

役人天国になるわけである。

アメリカのテーパリングは?

米東部時間22日午後2時(日本時間23日午前3時)、連邦公開市場委員会(FOMC)声明と最新の四半期経済予測を公表し、その後の2時半からパウエル連邦準備制度理事会(FRB)議長が記者会見すると予定が公表されている。

ここでの注目は、従来からの基本的な政策に加えて行っていた、コロナ対策を含めた、「金融緩和」についての継続か終了かを巡る「結論」が発表されるのではないかという憶測に、どう回答するのか?ということに尽きる。

大方の「予測」は、「テーパリング(出口戦略の発動)=緩和策の終了」に伴う、年内の「利上げ」であるけれど、一部の投資家はバイデン政権の「不安」を重視して、テーパリングの延期を予想している。

もはや左翼応援団に成り果てて、信用のおけない日本のメディアが報じないことが、国際的にも重要な情報になってきている。
バイデン政権の不始末は、アフガン撤退だけでなく、AUKUS(オーストラリア (AU)、イギリス (UK)、およびアメリカ合衆国 (US)の三国間の軍事同盟)での原潜配置のトラブルで、なんとフランスが駐米駐豪大使を召還してしまうという不始末が起きている。

オーストラリアが「フランスに発注した」通常型潜水艦の建造をキャンセルして、米英の「原子力潜水艦」へと、突如乗り換えたからである。
わが国の「そうりゅう型」もいっとき契約になりそうだったけど、大使召還まではしなかった。

わが国が本気で売り込もうとしていたのかもわからないけど、オーストラリアの防衛危機感は、とうとう「原子力」にまでエスカレートしたということだろうし、無意味とされた「英連邦」が復活をはじめている。

さらに、「内政」では、日本人には「まだやっている」感がある、昨年の大統領選挙の「不正」がいよいよ顕在化してきて、アリゾナ州では「選挙人投票の見直し」という、建国以来の初めてがはじまりそうで、ジョージア州、ペンシルベニア州でも「法科学的監査」がはじまる。

これは、バイデン政権の正統性が問われる大問題で、もはやアメリカ人の半数以上が政権に対する不信感を抱いている。
つまり、「合法的大統領ではない」ということだ。

なので、不自然な政策がとられていることの不信感も、共鳴の原理のようにだんだんと膨らんできている。
国境では、すっかりトランプ政権の政策を転覆させたが、経済政策ではあんがいと継承しているのだ、

公立高校の男子トイレにも「無料の生理用品を配置する」というような、「先進的政策」は、連邦政府の仕事ではなく、民主党が支配する「州」における政策だから、同じ民主党政権といっても混同してはいけない。

さて、以前に、「用意周到なトランプ政権」のことを書いたけど、先日は、中国が「TTP加盟を申請」した。
「アメリカの陰謀」だとして「TTP反対」を論じていたひとたちは、トランプ政権が発足するやいなや「離脱宣言」をされて、以来沈黙してしまった。

トランプ氏は「包括的な貿易協定」を好まず、「二国間協定」をやりたがるという特徴があった。
「関係者」を少なくして、自国の自由度を確保したい、ということだろう。
しかし、「北米」という地域の特性から、カナダとメキシコとの「三国間協定」は、従来のものを「巻き直し」て締結した。

さてそれで、アメリカが抜けたTTPは、日本が最大の取り引き国となっているけど、新規加盟には「既加盟国全一致」がないといけない「規定」がある。
この申請に、さっそくマレーシアが「賛成」を表明したけど。

しかし、一方で「台湾」も申請を準備中だ。

ここで、北米の「三国間協定」が効いてくる。
カナダとメキシコはTTP加盟国なのである。
そして、「三国間協定」には、「中国排除」の条項があって、これを「裏切る」とアメリカが「脱退」することが盛り込まれているのである。

アメリカは自ら加盟せずとも、こんな「仕掛け」を仕込んでいる。

「外堀」が「国際協定」にあるので、うっかりバイデン政権も動けない。
これに、「予定通り」中国の不動産バブルが崩壊したら、人民元の暴落だってあり得るのに、アメリカが「利上げ」したらこれが加速する。

さらに、「リパトリ」の時期をどう見るのか?ということも重なる。
これは、「リパトリエーション:repatriation」のことで、本国への資金還流のことを指す。

アメリカ企業が本国に資金を戻す、というのは、「決算対策」でも行われることだけど、中国不安と米国内の不安との「不安合戦」になっている。
日本での「総選挙中」というタイミングに、さまざまな「噴火」が起こりそうな気配が濃厚なのである。

ついでに書けば、アメリカのテーパリングの時期が、韓国の再びの「デフォルト」を誘発する可能性もある。
ウォンが売られてドル買いの「リパトリ」に似た状況ともなれば、日韓スワップ協定もないからといって、わが国へ飛び火しない、ということでもない。

そんな事態ともなれば、来年3月の韓国大統領選挙がどうなるのか?
「揺れ戻し」がはじまるのは、悪いことではないけれど。

カジノはどうなる?

全国に3カ所作るとしたなか、有力候補だった横浜が反対を公約した市長の誕生で事実上脱落したので、逆に「絞り込まれた」感がある。
どちらも関西圏で、大阪府、和歌山県、長崎県が残っている。
国への「申請」は、10月1日から来年の4月28日までだ。

もしや、東京都が突如手を挙げるかもしれないハプニングもあり得る。

しかしながら、コロナによる訪日観光客の復活の目処が立たないなかで、計画だけを先行させるのか?という疑問があるのも事実だ。
たしか、主たる想定客層は、外国人観光客だった。
このことの違和感は、その外国人とは誰か?という区分けで、「アジアの富裕層」があがっていたからである。

しからば、アジアにカジノはないのか?といえば、そんなことはなく、既にラスベガスを抜いて売上世界一位になった「マカオ」を筆頭に、シンガポール、韓国にもカジノは営業している。
つまり、これらの既存施設と、真っ向競合して「日本だから勝てる」という意味不明の自信にあふれているのだ。

「一国二制度」という、最初からのインチキがとうとう破たんして、香港の自由経済は終わりを迎えた。
それで、香港繁栄の礎である「国際金融業」はどうしたかといえば、もちろん、「東京には来ずに」シンガポールへ大挙して移転した。

東京が選択肢として、「検討すらされない」のは、日本が「自由経済ではない」からである。
だから、大阪府や市がいう、金融センターになるには、織田信長が「堺」につくった「楽市・楽座」という「特区」にしないと不可能である。

なのに、ビジネスをやったことがない役人は、見た目で立派なビルを建てると、金融資本がよろこんでやって来ると思いこんでいる。
中共の末端党員だって、こんなバカなことを言わないし、言ったら党籍を剥奪されるかもしれない。

つまるところ、共産主義者未満の資本主義理解というレベルなのである。

さらに、大阪府の知事は、「ギャンブル依存症防止」という、精神病のドクターになったような物言いをして、あたかも正義ぶる悪い思考をする癖がある。
弁護士としての訓練ができているから、他人ごとと割り切れるのであろう。

九州の候補地は、カウンターパートにオーストラリアの「国営カジノ」を選定している。
オーストラリアのひとには申し訳ないが、どうして「国営」企業が相手なのか?という日本人としての疑問がある。

国鉄も郵便も、国営でやってうまくいく事例は世界にないことを、まだ気づかないのか、知っていて選んでいるならその意図はなにか?
選定にあたったはずの「外部専門家」に聞いてみたい。

自民党幹事長にして親中派の親玉が仕切る和歌山県は、どうなっているのか?
中華系のカジノ事業者と組むなら、それはそれで予想通りではあるが、その中華系に異変が起きている。

マカオのカジノは、ポルトガル領の昔から有名だったけど、「返還後」は、香港と並んでマカオも、江沢民派の拠点であった。
これを、ぶっ壊すのが習派の政治課題だから、香港が「ああなった」のである。

それでこのほど、「新法」ができて、マカオのカジノ営業免許の「制度」が大幅に変更された。
取締役に「党」の誰かを就任させないといけないし、江派がやった免許分割での複数会社への利権(自身にも)付与が、元に戻された。

それでもって、マカオのカジノ事業者が持つ「資本」が、シンガポールに忌避して移転しているという。
だから、和歌山県がもしもマカオのカジノと組むなら、習派と組むことを意味するし、シンガポール系なら江派と組むことになる。

実に興味深い、「親中」の区分がわかる「踏み絵」となっている。

それでも江派が絶えないのは、一派に与えた利権の「うまみ」がじつに「おいしい」からである。
カジノ利権とは、「マネロン(資金洗浄:マネーロンダリング)」にある。

露骨に中央銀行を利用するようなことをしないで、「賭け」という隠れ蓑を利用した方が、よほどスマートなのだ。
しかも、「上得意客」になれば、チップを保管してもらえる。
日本のパチンコで言う、「貯玉」の巨額版だ。

そうやって、江派は13億人のうち1億人を大金持ちにした。
日本人の「お金持ち」のレベルではない富の源泉を、部下たちに与えたのである。
おそらく、教科書は「田中角栄のやり方」だったろう。

そんなわけで、和歌山県を仕切る自民党幹事長は、田中派の生き残りだという意味も理解できるのである。
対する習派は、「清貧」ならぬ「独裁」が欲しい。
そのために、経済が痛んでもいとわない。

こんなことが、「空中戦」で行われていて、わが国のカジノは習派が言う以上に、「ガチガチの規制」を課したから、ラスベガスからもヨーロッパからも、手を挙げる業者がいなくなったのだ。

すると、わが国政府は、共産党右派的な思想だと理解できる。
これを許した、「カジノ議連」なる国会議員たちの頭脳構造もかなり「やばい」のだ。

総裁候補にちゃっかり立候補しているから、神経だけは図太いといえる。

フラフラのワクチン接種

基礎が無い状態で、物事を押し進めるとどうなるかは、「砂上の楼閣」としてこれを戒め(いましめ)てきたものだ。

島崎藤村の『破戒』には、主人公の、出生の身分に関して誰にも言うな、という戒めを破ることでの「自己の確立」という決心を表して、住みにくい日本を捨てて、「テキサス」に移住することを決めたことが描かれている。

中学3年生の夏休み、この「課題本」をようやく読破したものの、どうして「テキサス(州)」なのかが、突如出てきて分からなかった。
幼稚なわたしの頭では、「あゝアメリカか」としかこれを理解できずに、そのまま放置してほぼ半世紀が経ったなか、昨年の大統領選挙をウオッチしていてようやくにして「その謎」が解けた。

アメリカ合衆国の歴史を知らないで生きてきた「つけ」ともいえる。
よくよく考えると、あの大戦争の主たる敵にして、敗戦の憂き目をくらい、その後は「同盟国」という言い方での「属国」になったので、実は日本人は、アメリカ合衆国を詳しく教わることもなくスルーさせられている。

もちろん、「わが国の敵」は、今の国連安保理の常任理事国(中国は除く)の4ヵ国(米、英、仏、ソ)であったし、これにオランダ(蘭)が加わる。
ただし、台湾が「中華民国」として加盟していた時までは、これら5ヵ国が「敵」であったことは言うまでもない。

国際連合とは、対日独戦争の「戦勝国」の「組合」だからである。
日本軍と一度も直接戦闘をしなかった中共が、ちゃっかりと国民党時代を「引き継い」で、あたかも反日をアッピールするのは、その「非正規性」を払拭して、「正規の組合員」だと主張したいからなのである。

それで、どうしてこれらの国と戦争をしたかといえば、米:フィリピン、英:インド、セイロン、シンガポール、マレーシア、ビルマ、仏:俗に「仏印」という、ベトナム、ラオス、カンボジア、蘭:インドネシアが、「植民地」だったからである。

これら「南方」の天然資源が欲しかったのは、列強からの「経済封鎖」を受けていたからで、戦後にマッカーサーが上院外交委員会の公聴会で、「日本の戦争目的は自衛のためだった」と証言したことの理由に当たる。
もちろん、この「証言」を常識とした教育も、報じる機関もないままだけど、その機関をマッカーサーが作った皮肉もある。

しかしながら、当時の日本国内では、経済封鎖だけが理由ではなくて、「アジアの植民地解放」という政治目的が「大義」とされていて、この両方を国民は支持したのだった。
日本人は、こうした講談調の「大義」がだいすきなのだ。

戦後から今に至るまで、おそらくしばらくは将来も、上述の「理由」は封印されて、「侵略戦争」だということになっている。
もちろん、「植民地」を保有している側からしたら「侵略者」だけれども、現地の住民からしたらそうは見えない。

それが、東条内閣で実現させた、「大東亜会議」の成功だった。
これら植民地の、「非合法政府」の代表が、東京に集結して行った、「自由と解放」の算段に合意したことの意義は、戦後の「独立」となって実現したのである。

このように、「土台」から積み上げると、戦後の言い分が突如曲がっていることに気づくから、あと1世代か2世代もして、まだ日本国が存在していたら、元の話に戻ることになるだろう。
そのためには、戦後の「洗脳」をくらった世代が、いなくならないといけない。

中国の「史書」が、王朝滅亡後100年後に編纂を開始するという伝統は、人心の落ち着きを前提とする「心理」からの「真理」なのだ。

そんなわけで、「土台」となる「真実」は、ただの「必要性」ではなくて、「前提」となるものだから、建物でいえば「土地」にあたる。
土地の上に建てることをしない建物が存在しないように、人間社会にも「土台」が必須なのである。

18日、日経新聞夕刊の「米、65歳未満「推奨せず」 ファイザー製3回目接種 FDA第三者委」という記事が、「土台がない」事例の典型なので、(歴史の証言として)保存に値する。

各国の対応が「バラバラ」な様子も、一覧表にしている。
ただし、アメリカ合衆国という国は、「合州国」でもあるので、「州知事」の判断で、180度も違う政策が行われるのだ。

マスク強制もロックダウンもしないのに患者数も率も少ない、サウスダコタ州とか、同様な政策をとるフロリダ州やテキサス州の「平穏」なことには触れないで、厳しい政策を実施したニューヨーク州やカリフォルニア州では、知事が辞任したりリコールされようとしている。

これらの規制が厳しい州の富裕層が、フロリダ州やテキサス州に「大移住」という人口移動までもが発生していることも言わないのだ。
残された他州に移住ができない人々が、「民主党支持者」とすれば、ニューヨークやカリフォルニア州の民主党の「安泰」が保障される。

これを、「アメリカの分断」といえばその通りのことになるから、コロナとは案外とではなくて端から、「政治利用」のネタになっているのである。

それでも、第三者委員会は、「データが乏しい」ことを理由に判断を留保した。
専門家の委員会として、「データ不足」は、判断留保の十分な理由になる。
「わからない」ものを「わからない」とするのが専門家の良心だ。

この点でも、わが国の専門家会議における「データ無視」と、「エビデンス無視」は、言語道断だと批難されてしかるべきである。
おそるべき「知ったかぶり」を専門家がやって、これを政治家が真似ている。

しかしながら、当のファイザー社が出した声明の方が、よほど重要なのだ。
「将来の承認に向けて引き続き追加接種データの収集を続ける」と。
これは、「今は治験中」ということの読みかえを要するけれど、重要な「土台」を言っている。

「治験中」だから、「データの収集を続ける」のは、当然といえば当然だけれど、相変わらず、「病原体としての新型コロナウィルスの存在は確認されていない」という、最重要な「土台」についての記述がない。
それに、FDA傘下のCDCが発表した、「PCR検査はインフルエンザと区別できない」も、セットで語られることがない。

つまり、「空中に浮かんだ楼閣」であって、まさに『天空の城ラピュタ』というファンタジーが、あたかも「現実」のようなことにしているのである。

果たして人類は、このファンタジーを、100年後に認識できるのか?
それとも、もっと早く、その「適当さ」からと「副反応の実態」とでの責任の所在を明らかにしようとするのか?

あの大戦争では、わが国だけで300万人が亡くなっているけれど、今回の「新薬」では、一体どのくらいのひとが亡くなるのか?も、不明なままである。

ただし、悪魔的なことを言えば、戦後の「洗脳世代の排除」が目的だとすれば、ほんのわずかな「理」はなきにしもあらず。
あくまでも、老人対応であって、子供にはいけないけれど。

時間経過が教えてくれる、にしたら、あまりにも無責任なことなのである。

「恒大集団」の衝撃に備えよ

世界経済にどのくらいの衝撃になるかは計り知れない。
もちろん、地元の「中国経済」に密着している「日本経済」への衝撃は、もしや「リマーンの比ではないかも」とも想像できる。
また、これが引き金となって、軍事衝突にもなりかねない。

物騒な事態が迫っている。

改めて、「恒大集団」とは、広東省深圳市に本拠を置く不動産開発会社で、会社の事業規模が「巨大」なことで知られている。
少なくとも決算書が、全部「兆円単位」で表せることでわかる。
その超大型企業が、いま「破たんの危機」に直面しているのだ。

簡単に言えば、「借金が返せない」という話であって、決算書を信じれば、典型的な「黒字倒産」の危機ということになる。
現預金に対して、借入金と支払債務が超過しているのである。
もちろん、「借入金」では、利息の返済もままならぬ状態に陥った。

さらに、この会社は、創業者の家族経営で有名だ。
すなわち、家族が「株式」を半数以上保有していて、よいときの「配当」が大盤振る舞いであった。
会社のおカネを家族に分配していた、ともいえる。

そんなわけだから、この一族の大金持ちぶりは半端なく、あたかもファンタジー・ドラマのようなことが現実化したようでもあった。
こちらも、資産が「兆円単位」での富豪たちなのである。

前にも書いたが、毎日100万円を消費して、1兆円を使い切るには、2740年ほどの時間がかかる。
受け取り利子をカウントしないで、だ。
さほど大金が、1兆円なのである。

明日(9月20日)、この日が期限の最初の支払債務がデフォルトすれば、信用不安が急拡大すること、間違いない。
負債総額は、3000億ドル(約30兆円以上)であるから、わが国の一般会計予算に匹敵する。

しかし、この企業は、投資家ばかりか社員にも「社債」を購入させていた。
社員にはノルマがあって、家族や親戚友人にも「販売した」という。
社債がデフォルトして、投資家たちは本社に押しかけて、警官隊と衝突し逮捕者まで出ている。

社員たちの分もデフォルトしたら、どんなことに発展するのか?
もちろん、この会社から不動産を購入したひとたちも、マンションなどの建設工事が止まってしまったから、既に「被害者」になっている。

住宅ローンを出した銀行は、融資実行したのだから、当然に「返済」を求めているという。
つまり、銀行も「やばい」ことになっている。

いわゆる「連鎖倒産」が起きる可能性が大きいのだが、その連鎖の「倍数」がいかほどなのかは、誰にもわからない。

この事態に、政府はどう対応するのか?
わが国なら、マスコミが大騒ぎして、政府による援助・救済を促すことは間違いない。

中央銀行の人民銀行は、150億ドルの直接支援をしたけれど、「足りるはずがない」規模なのだ。
「デジタル人民元」での世界経済支配どころか、「人民元の暴落」にもなりかねない。

ところが、社会主義を標榜するこの国では、とっくに「経済評論や論評などでの政府批判を禁止」しているから、誰も「書いたり」「発言したり」はしていない。
不気味なほど「静か」なのである。

しかも、「毛沢東主義」に回帰する現政権も、不動産投機を警告して「自分が住まない不動産はいらない」という「国家主席」のお言葉を宣伝していた。
このことが、政府による援助も救済もないのではないか?ということになって、濡れ手に粟を夢見て失敗した人々を蔑む雰囲気を醸し出している。

一方で、「終身主席」を狙う側からすれば、政敵の排除こそが最大の仕事になるので、いわゆる経済を煽る勢力に対しては、「政治的」な対応になることは、覚悟しないといけないのがこの国の「作法」なのである。

はた目には、政府から何からの組織が、何がどうなっているのかわからないし、当該企業の決算だって信用できるのか?
さらに、この国の「空き家率」は、すでに「3割」という水準に達しているという「統計」もある。

計画経済の国の統計が信用ならぬから、改革開放したのだという理屈も立つけど、「少子」という現実も住宅需要を一巡させたという。
それにしても、「3割」という空き家率を「異常」というなかれ。
わが国では、とっくに山梨県がこの水準に到達した。

残念ながら、山梨県の統計は信用できる。
いっとき話題になって消えたけど、47都道府県の廃統合問題は、わが国の「少子化」と「人口減少」で、そのうち現実化するだろう。
足元の自治体は、「平成の大合併」で歴史的に馴染んでいた地名も消えた。

美濃部都政でやった、郵便番号とからめた町名の統合は、江戸の名残を破壊した「文化革命」であった。

それならそれで、「ご本家」では、どんな「第二次文化大革命」をやるのか?と、今回の「大破たん」は、セットなのかもしれない。
いわゆる、「中華不動産バブル」というけれど、わが国90年代のものとは、規模が違うのだ。

これが破裂の衝撃は、第一に「消費不況」となって、彼の国を襲うにちがいない。
その巨大な消費の磁力をもって、わが国企業が現地にいるのだ。
だから、ほぼ同時に日本経済も衝撃波をかぶる。

金融の世界で起きた「リーマンショック」とは、「別次元」であることに違いはない。
金融鎖国をしていた分、わが国の金融機関は世界的には安全地帯にいたのだ。

ただし、この大揺れで、「国境」の安全保障も揺れる可能性がある。

慌てふためく日本政府と財界。
総裁候補者がこの大問題を、「発言しない」のは、官僚からの情報が提供されていないからだろう。
自分の頭と情報網を持つひとが候補者になっていない不幸がここにある。

「静かに見守る」とかなんとか、逃げ口上だけは骨髄反応できる訓練はやってきた。
これを、「無責任の譜系」と呼びたい。

庶民には、なるようにしかならないけれども、政府依存は将来に禍根を残すことだけは確かである。

動画サイトの「政府広報」

このところ、しつこいくらいに出てくるのが、「ワクチン接種を勧める」政府公報の動画だ。
冒頭、短い画像をパタパタと出すのは、「サブリミナル効果(洗脳)」となるから、地上波放送では「禁止」されているけれど、ネットなら許されるのだろうか?

「オウム」で有名になった、あれである。

これを、「政府広報」がやるのか?
たいへん不愉快にさせるものの、つぎに、テレビ広報でもおなじみの国立感染症研究所の「医師」が登場して、いつもの「ワクチンは安全だと言われています」と言っている。

誰が安全だと言っているのかが不明な、それでいて自信たっぷりの物言いをするこのひとは、ワクチン大臣の「デマ発言」同様に、もしもワクチンの真実として、その効果どころか「毒性」が明らかになったときに、どういった「責任」をとるのか?とらないのか?

せめて、医師免許剥奪ということでも「軽い」と思うのは、被害者の「想い」が許さないと想像するからである。
その意味で、自民党総裁選に出馬した河野氏が、この秋の衆議院議員総選挙で「落選」でもしたら、と期待をしてしまう。

データを隠蔽して偽装するのは、「大本営発表」とNHKがやっていた歴史の事実があるけれど、これをリアルに聞いていた世代(90歳代以上)がほとんどいなくなったので、再び同じ手法をやっても、気がつかない国民の方が多くなった。

もちろん、「近現代史」を教えない、という学校教育の方針が貫かれているからという理由も大きいが、「歴史とは何か?」も「歴史」で教えないのだから、よほどの「変わり者」か、「なにかに気づいたひと」かだけの特殊世界が、「真実」への渇望をしているに過ぎない。

しかしながら、こうした人たちが僅かでも存在しているので、なんとかなっている、ともいえる。

それが、「別の動画」になっているけど、こちらは「削除」という手段で、プラットフォーム側が「規約違反」を盾に、容赦ない言論統制を実施している。

ソ連や東欧圏の、「反体制派」が、夜中に「禁断」の短波ラジオを、密かに聞いていたことを思い出す。
短波ラジオを所持していること「だけ」が見つかっても、立派な逮捕理由になって、「自由剥奪刑」をくらったものだ。

人間の生存欲求の「自由」を剥奪する、という刑の「非人間性」は、中世の「拷問」から進化したのではないのか?と疑いながら、これを「開発したひと」と「執行人」の異常性を確信する。

サラッと書けば、生存欲求には、食欲、睡眠欲、排泄欲などがある。
これらの「自由」を剥奪する、という「刑」なのである。
もちろん、外部の情報も遮断されるので、今は昼なのか夜なのかも分からないから、収容されて何日が経ったのかもわからない。

それは、「ひどい目にあう」こと確実で、死刑判決より厳しいと言われたものだ。

ならば、そんな刑を受けることなく安穏と暮らしている今は幸せかといえば、「情報遮断」のなかに住んでいる、という点に注視すると、なんだか急に、「知る自由」を剥奪された「まずい状態」だとわかるのである。

まさに、「籠の中の鳥」のような、一種の軟禁状態のなかで生きている。

しかしながら、ちょっと努力すれば、この「籠」をすり抜けて、外部世界を垣間見ることは可能なのである。
だから、これを、「しない」という行動こそが、「やばい」のである。

このブログでよく例に出す「犬」の場合、室内でも「クレート」をハウス代わりさせる訓練がある。
嫌がってなかなか入らないけど、そのうちに「クレート内」が、「穴倉」という野生の本能を思い出させると、とたんに「快適」という判断をする。

すると、あんなに嫌がっていたものが、今度はなかなか出てこなかったりするものだ。
これを、人間相手に「仕込む」という訓練をさせられている、と考えると、思い当たるふしがたくさんあるのである。

そんなわけで、無気力にされた個人や企業(経営者)は、自分から「籠」を出ようともせず、むしろ「守られている」ことに感謝して、籠の中にずっといることの喜びを味わう。

まさに、「奴隷」の心理である。

その心を育む、政府広報が動画になっているのである。
なお、同様に「禁煙」をしつこく言う動画での広告も目に付く。
こちらはこちらで、さまざまな「データ」をもって、「科学的」に喫煙の危険を主張している。

まさに、典型的「エセ科学」だから、どこがどう「エセ」で、その「騙しの手法」を知るための教材としては役に立つ。
わたしも個人的には、「やめ喫煙者」なので、いまではタバコの煙は苦手である。

しかし、だからといって、神奈川県の松沢成文知事(今年の横浜市長選にはめでたく落選した)がやった、「禁煙条例」のごとくの、「禁煙ファシズム」には絶対反対の立場である。

政府がやっているのは、同じ構造の「ワクチン・ファシズム」なのだ。
「今の日本には強い首相が必要だ」という主張も、危険極まりない。
そうではなくて、「ちゃんとした議会」のための、「ちゃんとした議員」が必要なのである。

そうやって、自民党総裁候補を眺めると、全員落選させたくなるのは、どうしてだろう?と。
もっとひどい野党が、この体制を支えてもいる。

つまり、自民党総裁選よりも、はるかに地元での選挙の方が重要なのである。