昨日の、「資本家は資本主義者ではない」の続きである。
江戸時代から明治末までの日本が、世界史的というよりも人類史的な価値があるのは、幻想でない資本主義が、「現実にあった」からである。
だから、マルクスの幻想をもって、「資本主義を批判」し、これを、終了させて「共産主義・全体主義」にしたいと目論むひとたちは、「封建的身分社会」という側面を強調して、けっして評価しない、させない、努力がはらわている。
これを、一般的に「洗脳」とか、「プロパガンダ」というのであるが、その方法が巧妙なために、なかなか気づかないのである。
幸か不幸か、資本主義は道徳的だと喝破したアイン・ランドにして、「来日」した記録が見あたらないし、彼女がどの程度の「知日」だったかもわからない。
むしろ、日本についての知識があれば、「資本主義は未来のシステム」とした、その「未来」が、かつての日本にこそあったことをしって、かならずや一文を書き残したはずである。
それに、天涯孤独だった彼女は、アメリカでの生活を棄てて、日本に移り住んでいたかもしれないと思うのは、未来を日本の過去にみたならば、それをもっと深掘りしようという衝動に駆られたはずだとおもうからである。
そして、そのあまりの「個人主義を絶対」とする寂しさを、日本人が癒やしていれば、もしやこのひとを再度インスパイアさせて、あらたな境地を書いてくれたのではあるまいか?と想像してしまう。
このことの「痛恨」は、彼女本人だけでなく、また日本人だけでもなく、いまや全人類にとっての「痛恨」になっている。
もちろん、日本人への痛恨とは、上に書いた「個人主義を絶対」とするひとと、彼女が嫌悪する「利他主義」を善としてしまう現代日本人への接触で生まれる葛藤と、日本人への「利他主義批判」の教育が、それぞれにあたらしい境地を発見させることへの期待である。
つまり、アイン・ランドには「個人主義の幅」を、日本人には「利他主義の誤解」を発見させることである。
なお、利他主義こそが共産主義・全体主義へ人々を導く、悪魔のささやきだ。
「他人のためにある美しい自分」が、「他人のために死になさい」となっても、逆らえないからである。
利己主義と混同される個人主義は、個人を重視するから「他人の個」も、尊重する。
これが、自分しかない利己主義と決定的にことなるのである。
ただし、利他主義と利己主義には、妙な親和性があって、「他人のためにある美しい自分」を追及したひとが、社会的安定を得ると、利他を説きながら利己(いまだけ、カネだけ、自分だけ)に落ちるのである。
これを、一般的に「偽善」と「保身」という。
さて、江戸期にどうして「資本主義」が、しかも、人類史上初の出現をしたのか?をいえば、「道徳社会」が確立していたからである。
このときの、道徳とは、ほぼ儒教によるものだ。
すなわち、四書五経にある教えをさす。
「四書」とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四つで、 「五経」とは『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』の五つをいう。
仏教典の「お経」のことではない。
さらに、江戸幕府が推奨したのが、「朱子学」だったから、支配階級の武士には、その教育の中心に四書五経があったし、これが、町民の経済力の蓄積と浪人の増加で、必然的におおかたの身分へと普及した。
とはいえ、「儒教」を宗教とすることなく、あくまでも「教養」と「道徳」(武士道の基礎)としたことの特殊性が、日本と日本人にあるのだ。
これが、表面的に世界的に高い「識字率」の根幹をつくったのである。
江戸期には「貸本屋」なる商売が繁盛して、戯作者なる大衆文学作家が出現するという、欧米にあっては考えられない文化的高度さだった。
江戸の庶民は、世界にさきがけて「文化消費生活」をしていたのだ。
それゆえ、欧米では産業革命による労働者階級(大衆)が誕生するまで、観光事業は存在しなかったのに、わが国ではずっと前の、五街道の整備を経て、とっくに庶民に旅ブームがはじまった。
その結実が、幕末に完成したという講談『水戸黄門漫遊記』だった。
しかして、おなじころ、日本を訪問したシュリーマンは、「我々のしらない文明国」と書いたように、江戸末期から明治期の外国人知識人はこぞって、日本を絶賛するのは、彼らの国ではありえない「道徳社会」だったからである。
これを、日本人は入浴習慣があるから「清潔」だという評価をするのは、表面的な話にしたい、という戦後日本人たちの変な目論見がある。
わが国が、なぜに欧米以外で唯一、「近代化に成功したか?」の最も重要な点に、この「道徳社会」だったことが挙げられる。
そうでないと、「資本主義」が成立しないからだ。
すると、明治期までのわが国にあった、「道徳社会」が、第一次大戦の「大戦景気」で破壊されるまでが、人類史上初にして最後の「資本主義が出現した」社会だったのだといえる。
敗戦後の高度成長は、このときの「匂い」をしっている世代による、「真似っこ」をもって成功したとかんがえれば、「その後」の衰退も理解できるのだ。
この大きな流れを、故橋田壽賀子が、「意図的」に残してくれている。
それがあの、『おしん』の物語なのである。
彼女のシナリオとして珍しく「出版」された前書きに、「明治の母たち」の記憶を残したかった、と書いているのだ。
橋田壽賀子が書いたドラマには、資本主義の精神があって、花登筺が書いた「ど根性物ドラマ」には、前資本の「儲けることが目的」がある。
たとえば、作品名『銭の花』は、ドラマ『細腕繁盛記』になったけど、舞台となった温泉宿の繁盛と衰退ぶりは、いまならリアルに想像できるだろう。
「道徳社会」が失われると、経済の衰退が必然となる。
資本主義の精神を体得したおしんは一切ブレない。
一方で、特攻の価値観から180度転換した価値観の崩壊(GHQの政策による)によって精神に深く傷を負った息子が、花登筺的「前資本」(とにかく自分が儲かればいい)になってしまうことを、親子の確執として描いている。
利他から利己の保身に落ちる構造を、息子に託して書いた橋田の鋭さを、もっと評価していい。
そしてまた、利他にはまりこんだ夫の最期が、世代としてのさらなる対照をつくっているのだ。
このことの意味を、DNAで覚えているはずの人類が、やっぱり唯一日本人なのだと思い出せば、復活のためにすべきことがみえてくるのである。