あまりにも影響を受けたのに、日本人がしらない「1494年」の出来事は、スペイン帝国とポルトガル王国が結んだ「トルデシリャス条約」の締結だ。
きっかけとなったのは、この2年前、1492年にコロンブスが「インド」を発見して「帰還」たことだった。
それで、スペインとポルトガルで、「新世界」への冒険航海が盛んになったのである。
貪欲で白人以外を人間だと認識していないひとたちだから、この「冒険」の意味は「征服」なのである。
それでまた、「新地」における「布教」という大義名分が、教皇庁の利益にもなったので、新領土所有権に教会がお墨付きを与えることに介入した。
こうして教会は、「教皇子午線」を地図上に設けて、スペインとポルトガルとに事実上の「境界」を与えたのだった。
しかし、「不利」を感じたポルトガル王からのクレームで、スペインとの間に設けたのがこの「条約」になった。
それから教皇が代替わりした1506年に、この条約を教会も認めたのである。
すなわち、スペインとポルトガルが見つけた「新地」への「領有権」に対するローマ教会の権威づけだから、勝手に領土宣言されてしまう「現地民」には、理解不能のルールをただ押しつけられることになったのである。
まさに、「天から」おしつけられた。
これに不満を持ったのは、ローマ教会を信じるフランスだったし、そもそもプロテスタントの国は、はなから相手にされていない。
それで、フランス、それからスペインの飛び地だったけどプロテスタントのオランダやイギリスとかのヨーロッパ諸国が、「領土争奪戦」を繰り広げることになったのである。
ただし、繰り返すが、カソリックだろうがプロテスタントだろうが、これら「現地民」が人間だという認識を持っていないことの傲慢は、いかんともしがたい。
まさに、「貪欲」で血に飢えた白人たちが、アメリカ大陸に押し寄せて、それからインドを目指してアフリカ大陸に食指を動かした。
ブラジルを先に手にしていたポルトガルは、この「条約」によって、南米をあきらめて、挙げ句に日本まで来たのである。
人口が少ないポルトガルは、植民地支配に本国人を投入できなくなって、スペインが優勢になり、そのスペイン無敵艦隊がイギリスに負けたことで、インド支配の権利も取られる。
ただし、これらは支配者の争いで、被支配者には無関係だった。
宣教師を「植民地化」の先遣隊としたスペイン・ポルトガルのパターンに気がついて、豊臣秀吉が1587年(天正15年)に発したのが、「バテレン追放令」だった。
おおくの日本人が、奴隷として東南アジアにいた白人に売られたことが、秀吉を激怒させたという。
なお、現代スペインに、日本人の末裔が万単位でコミュニティを形成しているのは、「天正の少年使節」たちの子孫だ。
日本が本格的に「鎖国」できたのは、ヨーロッパからやってくる当時の艦船の武装では、わが国幕府の武力にかなわなかったからだ。
この意味で、「鎖国」とは、「完全中立」ともいえる。
だから、「黒船」の装甲と武装に、幕府側が「歯が立たぬ」と驚いたのである。
これはこれで、武器についての知識が幕府にあったからだった。
さてそれで「明治維新」となるけれど、明治新政府がヨーロッパ諸国とすでにできていた巨大金融資本の「傀儡」だったことは、さいきんになって明らかになってきた。
各国と結ばされた「不平等条約」には、領事裁判権すらないことでしられているけど、そんな国は「植民地」なのに、「独立していたアジアで唯一の国」と自慢している。
ヨーロッパのパワーバランスの都合で、ロシアに鉄拳を喰らわせたいイギリスが仕掛けたのが、「日露戦争」で、その戦費を「貸し付け」したのが、ロンドン・シティの国際金融資本家たちだった。
ヨーロッパのパワーバランスの都合で「亡国」したポーランド人は、宿敵ロシアさえなかったら、「我々の隣国は日本だ」と明言している。
彼らは、地図の不要部分をシワをよせるように圧縮して観る感覚をもっている。
結局のところ、この日露戦争の莫大な借金を返すことが、「日本イジメ」の材料にもつかわれて、第二次大戦の原因になったともいわれだした。
それがまた、第一次世界大戦の莫大な賠償金を抱え込んだドイツとの連携となった、と。
そのドイツは、「信号機内閣」というウルトラ連立で、左派から右派まで取り込んで組閣したら、ウクライナ危機を利用して、あらたな軍事大国になろうとしている。
つまり、アメリカの影響力をヨーロッパから除きたい、という「戦後秩序」の変換をあからさまにしている。
内政・外交・軍事ともに、「大失敗中」の民主党バイデン政権の「弱み」につけ込んでいるやにみえる。
一方の敗戦国、わが国は、そのバイデン政権のいいなりをやっている。
「支配されることの歓び」=「奴隷の幸せ」の追求をしているのだ。
そんな日本政府の奴隷になった国民は、やっぱり「植民地」のなかに住んでいる。