地球の歴史で有名な、「カンブリア爆発」とは、カンブリア紀に生命の分類構成における「門」が爆発的に増えたことをいう。
分類学では、生物ードメイン-界-門-綱-目-科-属ー種、と分けられていて、その中の「門」で多様性の爆発的発生があった。
これをもじって、「立法爆発」という現象が、わが国の1998年(平成10年)あたりから顕著になっていて、平成時代の30年間を通じてならすと、それまでの「倍」の法律ができているのだ。
よくぞ国会議員は頑張った!とはならないのは、わが国の立法は、原則、「内閣提出法案(=略して「閣法」あるいは、「政府立法」という)」がおよそ85%にもなっていて、諸外国とくにアメリカでは、議員立法「しかない」のと、みごとな対照となっている。
すなわち、わが国の国会は、「国権の最高機関」ではなくて、ただの「承認機関」に成り果てているのである。
逆にいえば、内閣提出法案とは、全部が内閣法制局を通過した時点で、ほぼほぼ法律になる、ということでもある。
その内閣法制局とは、各省庁の高級官僚が「出向」してくる機関だ。
ややこしいのが、わが国のばあい、東京大学法学部が、「三権」全部に卒業生を送り込むから、その卒業成績序列が、「同期」のなかで認識されていることだ。
なので、国家公務員の「総合職試験」に合格したひとと、「司法試験」に合格して、裁判官になるひとと、検察官になるひとと、弁護士になるひとたちの間で、同期卒の序列ができて、このなかからまた、国会議員になる構造なのだ。
裁判官が常に「首席卒業」でトップなら、司法から行政府を監視できるというものだが、この序列が、国家総合職にいくと、ほぼ一生の序列になる習性から、行政府の独走がとまらないのである。
これは軍人もおなじで、士官学校やら防衛大学やらの卒業序列が一生ものとなることと似ている。
採用後だと評価基準が複雑になってしまうから、学校の卒業成績の序列がもっとも「公平」というわけだ。
もちろん、東京大学法学部卒業以外は、さいしょから論外なのが、公務員の世界なのである。
しかし、ごくたまに、「以外」でも次官になることもあるから、全員がぶら下がったニンジンを目指して走らされることになっている。
役人の人事は、基本的に事務次官という役人がやる。
裁判所は、最高裁事務総局長という役人で、最高裁判事ではないのだ。
ただし、内閣法制局長官やら、官房副長官(旧自治省の事務次官だけ)の席は序列で決まることになっている。
その東大卒が、国家総合職で「半減」しているのは、国民にはよいことではないのか?
願わくば、東大卒は採用しない、という「区別(差別ではない)」が日本を救うことになるのではないのか?とおもう。
国家予算をたんまりかけて高等教育をほどこした人材は、防衛大学とは裏腹に、「(民間へ)任官せよ」といいたい。
ただ、肥大化する行政の典型に、「首相官邸」という役所があって、すでにここに3000人(役人と民間からの出向が半々)が勤務しているのである。
わが国の「戦後史」とは、じつは「被征服の歴史」でもある。
だから、高度経済成長も、その後の衰退も、ぜんぶが「征服者:DS」の意向で決まっている。
ついこの前までなら、「陰謀論」としてお笑い種になったろうけど、事ここに至っては、ただの「陰謀」であったことがはっきりしてきた。
その辺にある、「戦後史」とは、ほとんどがこれらの「陰謀」を隠匿するための、プロパガンダである。
さて、平成10年といえば、ちょうど小渕恵三内閣(7月30日)が発足した年である。
その前は、第二次橋本龍太郎改造内閣だった。
このハニトラ疑惑の首相は、なんといっても驚きの「村山富市内閣」の次なのだ。
「55年体制」が、本物の茶番、自民・社会両党の談合だったことが露わになったのである。
その前が、細川・羽田内閣という、初の非自民政権だった。
日本国民をして、日本新党・日本社会党・新生党・公明党・新党さきがけ・民社党・社会民主連合・民主改革連合というグダグダを選択せしめたのが、その前の、宮沢喜一内閣で、あたかもバブルが完全崩壊したからだった。
要は、宏池会のなかでもハト派の、元大蔵官僚、宮澤喜一とは、いまの岸田氏同様に、DSのいいなり、をみごとにやって、シナリオ通りわが国経済を破壊した。
当時のDSは、彼らが作った毛沢東の中国をしばし眠らせてはいたけれど、江沢民・朱鎔基と日本の財界に日本からの「経済移行」を命じたのである。
そのために、日本を自ら縛るための方策が、「立法爆発」なのである。
これで、世界における経済活動の自由度を下げることに成功し、わが国の凋落がはじまったのである。
つまり、わが国が30年間も衰退しているのは、わが国政府によるものだけど、そんなバカなことができるのは、DSからの指示・命令によるからである。
一方で、積極的にDSに従うことが「お利口さん」たる受験エリートなので、東大では、彼らにはたっぷりと「最高の知性」とたかが二十歳前後の子供をおだて上げて、「設計主義」をたたき込むのである。
あたかも政府は、万能である、という思想である。
優秀な官僚が制度設計すれば、愚かな国民を指導できる。
この「設計」に、「計画」が内包されていて、それがまた、「計画経済」という思想なのである。
けっして、「経済計画」ではなく、計画経済とは、共産主義・全体主義の本質である。
そうやって、わが国は、戦後GHQに種まきされた共産主義・全体主義が、バブルとバブル崩壊で芽吹いて、平成時代に花が咲いた、というわけだ。
令和のいまは、その花の実が落ちて、共産主義・全体主義が隅々まで蔓延しはじめたのである。
これを根本的に枯らせるための農薬とは、残念ながら、「脳薬」になるので、あらためて勉強するしかないけれど、自主的にはムリならば、DSの自壊に期待するしかない。
いや、他力本願ではなくて、いまや、「ここ一番」の最後のチャンスなのである。