アメリカFDA(U.S. Food and Drug Administration:食品医薬品局)の広告宣伝費のことである。
いまさらだけど、アメリカ合衆国は、人類が創った「人工的」な国としての「世界史上初」であるだけでなく、それが「共和国」としての「初」でもあった。
イヤイヤ、「共和制ローマ」がある、というご指摘はもっともながら、「共和制ローマ」だって、「最初から」そういう国を創ろうとしてできたのではなかった。
日本もそうだが、「なんとなく」勢力が集まって「国ができた」という歴史が「ふつう」なのである。
もちろん、「決戦」があったかもしれないが、それも「なんとなく」できた勢力同士の戦いなので、もともとの話は、やっぱり「なんとなく」なのだ。
こうして、「国」ができると、国内には支配者と非支配者ができて、支配者の勢力が、外国と争った。
それが、武士であり騎士だったので、「国民」が兵力になるのはずっと後のことである。
野蛮な血が濃い英仏は、島国なのに大陸にちょっかいを出したのは、王様の出自がフランスだったからである。
その点、わが国は、なるべく大陸には深入りしないという戦略で生きてきたから、「国内」での身分の別がカッチりできたのである。
「天皇家騎馬民族説」なる与太話が、戦後日本の学会を席巻したのは、政治思想による「反日」のためだったけど、縄文人のDNA解析という決定打で、完全に粉砕された。
稲作だって、日本から朝鮮に伝播したことがやはり米のDNAから確定している。
この「身分の別」が、幸か不幸か、日本人大衆を無防備にしたのは、日本人の為政者たちの「道徳・倫理」が、野蛮な外国とは比較にならないほどに、高かったからである。
だから、国内のできごとにフォーカスしたらでてくる「理不尽」の数々も、これをたとえば欧米の歴史と比較しようものなら、たちまちにして、欧米の被支配者たちによる「悲惨」とは比較にならない。
どうしてこうなるのか?といえば、日本には天皇という「権威」が存在し、武家の「権力」と分離させることに成功したからである。
そして、天皇の権威が非支配者たちからの「支持」による構造なので、権力者たる武士が、欧州の貴族からでた「王家」のように、「絶対君主」になれなかった。
これには、宗教観としての「穢(けが)れ」があったので、朝廷は自ら武器をとって「血を流す」ことを嫌って、その「汚れ役」をもっぱら武士にやらせた。
江戸時代、公儀介錯人も町奉行所の同心も、「穢れ」の思想から、「一代限り」という建前をもって、実際は家業とさせたのも、武士が貴族化した事例のひとつだ。
彼ら「同心」は、「武士」ではなく、「与力」以上をもって武士とした。
その与力とは、逮捕現場の監査役なので、自らは決して下手人を触りもせずに、観ているだけ、というお役目だったのである。
天皇が、自然崇拝から生まれる「信仰」の大元であったので、何人といえども天皇の権威を損ねることができなかった。
つまり、明治憲法の条文になるはるか以前から、「神聖にして侵すべからず」の存在であった。
天皇を、「おかみ:御上:御神」と呼ぶのに、将軍は「うえさま:上様」で、幕府を「おかみ:御上」と呼んだのは、天皇から任命された政権が「幕府」だったからである。
「おかみ:御上」のいいなり、とは、天皇(御神)の意向に沿う「政府」のことをいう。
そんな天皇がいるから、日本人は「政府を信用する」という、世界でも稀に従順な国民になっている。
それゆえに、天皇の政治利用とは、ややこしいことになっているのである。
天皇の権威を貶めることは、イコール政府・体制批判にもなるけれど、本音では絶対権力を持ちたい現代政府も、じつは天皇の権威を貶めたい。
そんなわけで、わが国では、あっさりと「玉体」にmRNA型ワクチンを打ってしまったし、陛下は陛下で「国民のため」という本業から、進んで打たれたのであった。
政府からしたら、これ以上の天皇の政治利用はないから、内心の喜びは最高潮に達したはずで、もう「玉体」に得体の知れないことをするな、と絶対阻止をいう愛国者も絶滅したことがわかったのである。
下血が止まらない昭和天皇という「玉体」に、誰のものか「得体の知れない」輸血をすることが大問題になったのと「隔世の感」がある。
まさに、明治どころかとっくに、昭和は遠くになりにけり、になった。
そんなわけで、水が高いところから低いところへと流れることを「自然」というなら、わが国の「高尚」な文明は、とうとう「自然落下」して、欧米並みになったのである。
しかし、その欧米の悲惨な歴史から生まれた(再生した)のが、アメリカ合衆国という、最初から意図された共和国なので、わが国は、アメリカのはるか「下」まで落下して、ヨーロッパ並みになってしまったのである。
アメリカは国民が創った、という「国」であるので、国民に奉仕するのが国家の役割だと発想するのが「共和制」の本質である。
これは、国民をして「国家に依存することを拒否する気質」のあらわれだ。
けれども、建国「後」に、悲惨を舐めたヨーロッパからやってきた移民たちは、共和制の本質よりも、「国からなにかを得る」ことに重きを置いた。
それがアメリカ民主党の本質だったけど、ルーズベルトの「ニュー・ディール政策」で「アメリカを完全破壊」してから、あんまりみんなが国に依存するので、業を煮やしたケネディが、「国のためになにができるか?」と、共和制の本質も一緒に背負い投げでぶっ飛ばしたのである。
すなわち、共和国としてのアメリカにはぜんぜんそぐわない、当時の言い方なら「ナンセンスな演説」に、建国の父たちの理念を忘れた人々が「熱狂した」のが、戦後の(社会主義を愛する)アメリカ(がまた再生)「誕生」したのである。
もはや「神話」となった、ケネディの「あたらしさ」とは、ここにある。
これを、「分断」といわずになんというのか。
だから、建国の精神をもつ一方のアメリカ人が、けっして銃を捨てない理由とは、国家に依存することの明確なる「拒否」なのである。
しかして、ケネディのこの有名な演説が、日本人の琴線に触れるのは、まったく「逆の国の成り立ち」からのことなのだ。
日本人の美徳は、天皇が国民の代表として政府の上にいるから、「お国のため」になる。
しかし、ケネディは、政府からの「お国のため」を要求した。
ぜんぜんちがう「お国ため」で、日米が「一致した」のである。
古いタイプのアメリカ人は、国家・政府をつねに疑うのが習性なので、情報公開請求もふつうだ。
日本でこの制度ができたのとは、やっぱり事情と意味がちがう。
それで、FDAがマスコミにばらまいた1000億円の広告宣伝費とは、コロナにおける「お注射促進」のためだったことが判明した。
もらった報道各社は、一社たりとも「もらったこと」を記事にしなかった。
これがばれて、「経営と記事とは別」と言い訳発表したのは、「左派」で有名な新聞であったが、その他はいまだに「沈黙」している。
なるほど、「沈黙は金、雄弁は銀」なのだという、建国以来の伝統「だけ」は生きているようである。