「コミュニケーションの難しさ」を感じるのは、ある程度の年齢になってからの学校や部活、それに会社という「他人がたくさんいる場所」で経験するものである。
やっと隠居の身になっても、もちろんならなくても、町内会や自治会でも、コミュニケーションの難しさを経験するから、あんがい一生のテーマなのである。
ある程度の年齢にならないうちは、コミュニケーションがとれていなくても、互いに互いの世界で満足するから気にならない。
海軍のレーダー兵だった父は、戦後一時期アメリカ軍の基地で電気工として勤務していたことがあって、アメリカの独立記念日に何度かその基地に連れて行ってもらったことがある。
父にすれば、休日の職場の祭りに家族で参加するという気分だったろう。
「日本人」という意識が希薄な幼児期なので、かすかな記憶になるけれども、会場内を運行していた機関車型の連結バスに興奮したし、初めてバーベキューを食べて、生まれてからたった数年の経験しかないのに、その生活水準の違いすぎる違いに気がついたものだ。
あまりにも、うまかった、のである。
めったに食べないから、その味がはっきりしないはずの「牛肉」を、子どもながらにたらふく食べて、シェイクを飲んだり、本物のアイスクリームが山盛りできて、溶ける速度に食べるのが間に合わず、そのへんがベシャベシャになった。
幼児たちの遊び場では、金髪の子たちと一緒に遊んだけど、どういうわけかコミュニケーションが取れていたのは、互いに母語が未完成だったからだろう。
積み木を一緒に組んで、なにかをつくって遊んだのを覚えている。
そんなわけで、翌年は、なるべくアイスクリームを注文せずに、もっぱらシェイクにしたし、バーベキューでも、選り好みをした。
父はどうして、より高級なアイスクリームを食べないか不思議がった。
でも、その量が、やっぱりという山盛りだったのである。
前年に一緒に遊んだ子たちはもう誰だかわからなかったものの、やっぱり一緒に遊んでみたら、少しだけ何を言っているのかわからなかったから、わたしの日本語が上達していたのだろう。
数年後には、完全にわからなくなって、いまに至る。
1973年から放送されたドラマ、『走れ!ケー100』をあんまり観なかったのは、基地内のバスの経験があったからだろう。
おとなになると、自分の言葉が他人に通じない、ということを経験する。
もちろん、どちらも日本人だから、言葉が通じないと、あんがいといきなり「不信感」が芽ばえることになる。
これは、日本人に「言霊」信仰が完璧に浸透していることも原因だ。
ふだんまったく意識しないから、信仰として「完璧」なのである。
だから、どんな組織内でも、不満のはじまりは、言葉が通じないことによる。
すると、これは話し手(発信者)と受け手(受信者)における、日本語能力にギャップ(どちらかが高く、どちらかが低い)があるか、あるいはどちらも低いか、となる。
どちらも低いばあいは深刻で、通じないことの理由を自分の側に認めることができないから、いちどできた溝は深まるばかりとなる。
ひとりで悩むのにガマンできなくなると、おなじ仲間が集まるという物理現象がかならず起きる。これを、「類は友を呼ぶ」という。
ここでいう、「類」は、日本語能力が低い「たぐい」のことなので、仲間ができるとエネルギーを得て、まずは内輪での愚痴大会が、そのうち自己主張をはじめて「勢力」となるものだ。
そして、相手も日本語能力が低ければ、いずれ衝突が発生する。
これを、日本語能力が高いひとが見ると、「どっちもどっち」になるのだけれども、「上司」なら、衝突前に解決すべきことになる。
ということは、日本語能力を高めないと、将来「上司」になれない。
かんたんにいえば、「出世できない」のだ。
さてそれで、こんな「問題」を解いてみよう。
・一年おきに大会が開かれる。(X年に1回)
・一年ごとに大会が開かれる。(Y年に1回)
X=?
Y=?
こたえは、
X=2
Y=1
どうだろう?
ややこしいのだ。
しかしながら、日本語の文法で明確な「決まりがない」ことにより注意がいる。
例1:「おき」⇒「ごと」
町内の行事開催が、昨今簡素化しているために、以下のような会話がある。
Aさん「この行事は、来年から2年おきに行います。」
Bさん「3年に1回ということですね?」
Aさん「いえ。2年に1回です。2年ごとに開催します。」
例2:「ごと」⇒「おき」
集合住宅の防災訓練の準備で、その実施手順を印刷して配布したなら、非常ベルの鳴らしかた、が反省会で「大紛糾」することがある。
Aさん「『5分ごとにベルを1分間鳴らしてください』って書いてありますよね。」
Bさん「はい、だから、5分に1回鳴らすんですよね?」
Aさん「いえちがいます。1分鳴らしたら5分休みます。だから、6分おきに1回鳴らすということじゃないですか!」
Bさん「えっ?」
愚直に「確認すること」が、救いの道である。