「お目こぼし」の裁量

人口の8割以上が農民だった江戸時代、「年貢」こそが「税」の根本だった。
この意味で、完全消費者の「武士」を除くと、都市部に住んだ「工・商」に対する税収は大きくはない。

ただ、支配者たる武士も貧乏だったのは、「格式」という「強制」で、「石高」に応じた「家人」を雇わなければいけなかったことによる。
この家人が、いざというときの「お伴」になるのであるから、武士として拒否できるモノではない。

この「制度」の「設計思想」が、世界にも稀な「権限と責任の合致」だったのである。
つまり、武士は政権を担うだけでなく、責任も担うことを「公然のこと」とした。

これを集大成したのが、『武士道』だったから、絶対的権力者たる徳川将軍家をして、ヨーロッパのような「絶対王政」を、自らすすんで不可能にしただけでなく、自分の上に朝廷を置いて、これを崇めたのであった。

これにはまた、世界にはない日本独特の歴史があった。
それは、古代より天皇が詠んだ歌にある、「大御宝(おおみだから)」としての国民があったからである。

このことを、庶民でもしっていたのは、「和歌集」の「御製」にあるからで、家康が農民を「百姓」といったのは、大和言葉を漢訳した意味でのことだったのではないか?

「おほみたから」は、漢字で、「百姓」「蒼生」「衆庶」「人民」「民」といった字が当てられたのである。
つまり、「百姓」とは、蔑視語ではぜんぜんなく、むしろその逆で「リスペクト」の表現だった。

すると、幕府の位置づけは、朝廷と庶民の間にあって、朝廷に代わって「大御宝」を預かるという意味になる。
朝廷と庶民をつなぐのが、各地の「神社」だったので、寺社奉行の地位が高かったのは、支配の機構として重要このうえないことがわかる。

あの織田信長が、「弾正台」の家系を自慢したのも、朝廷の組織にあって、行政の中心たる「太政官」を弾劾できる地位にあったからである。
それは、天皇直属で、太政官の政治が、「大御宝」への統治に失敗したときの保険機構であったのだった。

これが、信長絶頂期にあった、弾正にして右大臣という地位の意味である。
上司に当たる、左大臣と太政大臣を、いつでも断罪・罷免できることの重みは、現代にはない「スーパー権力」なのである。

しかして、そんな信長が、「楽市・楽座」を敢行した意味も、「大御宝」に通じるものだったとかんがえれば、まったく筋が通っているのである。
それがまた、安土桃山時代という、絢爛豪華な時代の背景となる経済繁栄のおおもとにある思想なのだ。

そんなわけで、勘定奉行の配下にあった「お代官様」は、幕府直轄地における「税務署長」であったし、各藩においてもおなじであった。
ただ、支配される側として、なんだか、天領が上で藩領が下とかんがえる思考構造におかしみを感じるのである。

それがわかりやすいのが、京都から電車で10分の大津だ。
詳しくは書かないが、この街を歩いていると、天領という自慢と藩領という後ろめたさが同居しているのである。

さてそれで、年貢の納め時は、代官屋敷に米が運ばれてきて、これを一升枡で計測しながら、あたらしい俵に米を入れていく。
あたらしい空の俵が、「税収袋」になるのである。

このとき、代官は立ち会って作業をみているのだけれども、手慣れた配下の役人が作業のたびに、土間の床に米をこぼすのである。
このこぼれた米は、「穢れた」ことになるので、あとから履いて集めても税収袋には入れずに、農民に持ち帰らせる。

これが、「お目こぼし」だ。

豊作のときにはお目こぼしも増えるけど、不作のときはどうしても厳しくなる。
それで、代官はふだんから管轄地をくまなく見回りして、収穫予想を上司に報告する。

そうやって、勘定方では税収予測をたてないといけないし、代官の側はお目こぼしの許容量を決めていたのである。
なので、地元からしたら「堅物」が赴任してくると困ったのである。

いまは、「大御宝」という概念が政府からすっ飛んでしまった。
これは、戦後教育の成果なのである。

どのくらいの日本文化破壊をやられたのか?もはや想像もできないけれど、古代からの「大御宝」の喪失が、国民生活を苦しめるもっとも基本的な「問題」なのである。

日本政府の役人は、朝廷の役人であることを「失念」したので、誰のための「裁量」かも忘れて、もっぱら役人たちの都合によるから、一般国民を虐めてもなにも感じない。

これを、かつては「悪代官」と呼んだのである。

しかも、代官には「監査の目」が厳しく、まさに「目付」から監視されていたし、その「目付」も、「大目付」から監視されていた。
それでもって、もしも不正が発覚しようものなら、たちまちにして切腹を仰せつかるだけでなく、家門の廃絶という処分を受けた。

もちろん、この「不正」とは、私腹を肥やすという意味だ。

すると、いまの役人は、切腹も家門の廃絶という処分もないので、自由気ままなのである。
たとえば、国家の教育制度を司る役所の事務方トップを務めたひとが、法律違反をして解職されたことを逆恨みして、テレビ放送に出演する不思議がこれである。

これゆえに、末端の「木っ端役人」すらも裁量権を振り回す。
法律のどこに書いてあるのか?と質問しても回答はない。
勝手に立法するなといっても、自身の「解釈」を曲げないばかりか「脅迫」もするのである。

江戸時代が、高度文明社会であって、かくも「退化」したと嘆いても、悪代官様はとりあってくれないのだった。

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