世にいう「瞬間芸」の達人が動画サイトに登場した。
その名も「ちくわ【あるある】」という芸名である。
どうして「ちくわ」なのかも不明だし、【あるある】をカッコのなかにいれて、セットで芸名とするセンスからして最初から「おかしい」のだ。
ほぼ「秒単位」での「瞬間芸」を、およそ全部で2分ほどに何本もまとめて、ひとつのテーマで一貫させる手法を用いている。
さり気にはじめて、さり気におわるけど、その「構成」はあんがい練られていて、うっすらと「起承転結」もあるやにみえる。
出演するのは、本人ひとりだけ。
いまどきの芸人の芸のなさを嘆いたところでなんにもならないけれど、このひとの尽きない「アイデア」と「演技力」は、一流の域にあるかとおもう。
その基盤に、あまりにも「そのまま」の、世間を見る目があるからだ。
ここが重要で、ふつうすぎてわからないことにフォーカスしてデフォルメするから、日常が巨大な虫眼鏡によって拡大されたようにみせる。
「拡大図」ゆえに、「瞬間芸」となるのだ。
それが、何本も「波状攻撃」となってやってくる。
【あるある】というのは、「瞬間」を切り取ってみせることの「確認」と、その確認の連続を意味するのだろう。
では、「ちくわ」とは、穴があいている望遠鏡から覗いた世界をイメージしたのか?
本人に聞いてみたい。
記念すべき第一作は、「フェミ」への攻撃的な内容である。
演じる本人は、高校を出たてなのかわからないけど、うら若き女性であって、けっこう「かわいい顔」をしている。
そして、定番の髪型は、前髪をぜんぶ上げて、むかしの少女風にしているのである。
このシンプルさで、老若男女を演じるのだから、顔の表情はべつとして、あたかも「能」のような効果を出していて、衣装は着古したTシャツを定番にしている。
なお、ときに「めがね」と「キャップ」を小道具にして、表情にバリエーションを加えている。
つまり、あらゆる人物を、同じ髪型おなじ衣装で演じているのだ。
そしてそれが、「あるある」になる。
おそるべき「実力」なのである。
もとにある、「観察力」と、再現時の創意工夫に「狂気」すら感じる。
「本番」撮影前の「リハーサル」は、他人が見たらなにをしているのか?見たくなくなるほどの混乱状態があるにちがいない。
一本目の衝撃から、あたかも方向性があるのかと思いきや、新作を次々と視聴すれば、それがただの「ネタ」にすぎないことがわかってくる。
ただし念のために書けば、タイトルは「狂っているフェミニストのおばさん」なのであった。
本人の「常識」から、「狂っている」としたのか?それとも、世間からの「ズレ」をいいたかったのか?
おそろく、両方だ。
そこに、「毒」がある。
笑いにこそ真実がある。
アリストテレスの失われた『喜劇論』にある「はず」といわれている「名言」を、「毒々しく演じ」て一世を風靡したのは、世界の北野武こと、ビートたけしだった。
ちなみに「劇」について、アリストテレスの現存する著作は『悲劇論』だけなのである。
しかし、この恐れをしらない若者は、その「たけし」すら、なにをしゃべっているのか聞き取れないおじいさん、として「演じ」ている。
あるあるではなくて、そうかと納得、してしまう自分がいる。
テレビ・デビューから「同時代」のわたしには、「おじいさん」という感覚が抜けていた。
自分も、すでに「おじいさん」なのだ、と。
けれども、べつに不快にならない。
それは、にじみ出る懸命さがあるからだろう。
もうひとつの、賢明さもある。
くだらないことも、賢明に観察して、これを懸命に再現させ表現する努力は、やっぱりクリエイティブだ。
「大御所」をいじったら、およそテレビ界から相手にされない。
まごうことなき「忖度」がある。
しかしながら、ネット動画に投稿するという方法が、逸材を逸材のまま表に出せる。
暗い話ばかりの「世相」を笑い飛ばすことが、いまほど重要な時期はめったにない。
彼女のアイデアが尽きないことを祈るばかりなのである。