赤の他人に対して声をかける。
かけられた方も、ふつうに対応する。
むかしの日本人は、こういうひとたちだった。
たとえば、クーラーがまだない電車の蒸し蒸し状態で、窓側に座っているひとに、「窓を開けてください」とふつうにいえたし、そんなこといわずにも窓を開けてくれた。
赤ちゃんを抱っこしている母親に、しらない男性が「かわいい坊ちゃんですね」と声をかけて、「いいえ娘です」、「これは失敬」とは実話である。
それで、なんだか経済状態がよくなってきたら、だんだん他人との距離ができて、しらない女の子に声をかける、「ナンパ」だけが生き残っている。
他人に道を聞くのもはばかれるものだから、スマホのマップでナビしてもらうことにもなった。
それは、むかしの映画にたっぷり残っていて、時代劇も現代劇も違いはない。
すれ違った登場人物が、ふつうに他人に声をかける。
けれども、いいことばかりではなく、あんがいお節介もある。
町内には、世話好き、というひとがかならずいた。
下町の「人情」といえば情緒があるけれど、見ようによっては面倒なひとでもある。
他人の家に上がり込んで、説教をはじめたりするからである。
ところが、上がり込まれた家でも、追い返すどころかお茶を出したりして、ちゃんと話を聞いている。
時間に余裕があった、ということであるし、一応は聴く耳もあった。
いまなら、玄関先で追い返されることもない。
チャイムのボタンで、モニターに映る姿を確認すれば、簡単に居留守ができる。
それでも入って来ようものなら、警備会社か警察に通報される。
「個」が「個」として確立すれば、これを、「アトム(原子)化」という。
「個」は他人との接触を避けるきらいがあるので、磁石の同極同士が反発するように、距離を置く。
その意味で、むかしは「個」が主張していなかったから、磁石の対極同士でくっつきたがったのだろう。
いったん「アトム化」すれば、なかなか元にはもどれない。
けれども、人間はやっぱり「孤独」が嫌なものだから、なんらかのコミュニティに参加したりする。
それは、隣家や町内をかんたんに越えた、別空間でのコミュニティであることがおおい。
町内だと、「反発力」が残るからで、距離があっても趣味や価値感がおなじ他人とのコミュニティだと居心地がいい。
こうして、居心地のよいコミュニティに、政治が侵入してきて、それも居心地のよさを提供すれば、たちまちに強大な勢力になる、と警告したのは『全体主義の起源』を書いた、ハンナ・アーレントである。
彼女の描いた「モデル」は、20世紀の全体主義(ドイツやソ連)だった。
すると、他人との距離感と時間の概念が、適度に「緩い」社会が、じつは「健全」なのだということになる。
夏目漱石の『草枕』冒頭。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。」
明治にしてこれかと想う。
発表は明治39年(1906年)だから、日露戦争のころの作品である。
もう100年以上も前になる。
いまは、「コロナとの闘い」と、「米中の闘い」が併存している厄介な時代になった。
すでにこの頃にして、「西欧化」が「胃痛」の種なのである。
すると、とっくに西欧化どころか西欧になったいまの「住みにくさ」は、当然といえば当然である。
裏返せば、漱石にして「日本」を懐かしんでいる。
草枕の冒頭には、次の一文が続く。
「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」
果たして、いま、詩や画は生まれているのだろうか?なにも、主人公が芸術家の設定だから、だけがこの文を書かせたわけではないだろう。
漱石のいうとおりなら、まだ「悟っていない」ということになる。
「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」
「人でなしの国」とはどこか?
当時は欧州列強、いまなら米中の「どちら」なのか?
どちらも、「人でなしの国」ではないのか?
この中に、わが国だって、うっかり入ってしまっていないか?
「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊い。」
名言である。
「寛容(くつろげ)て、束の間まの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」のは、本来は政治の仕事でもある。
「規制」ばかりで、国民を締め上げるいまの政治は、なっちゃない。
一方で、「人の世を長閑(のどか)に」するのは、国民の側である。
「個」の自己主張ばかりでは、「のどか」にはならない。
「のどか」だから心が豊かになるのである。
東京メトロが、抗ウイルス・抗菌処置を実施しているのを、「ばかなことはおよしなさい」といえる社会がいい。
そんなことはぜんぜん「重要」でないし、費用を負担するのは利用者なのだ。
世の中で、地下鉄「だけ」が抗菌とは、笑止である。
走っているとき「だけ」が電気なのを、「ゼロエミッション」というのとおなじだ。
その電気は、どうやって発電しているのかをかんがえない。
くつろいでかんがえれば、子どもにもわかる。
秋分を過ぎたから、もう「秋の夜長」である。
今日から10月。
今年もあと三月でおわる。
のどかな気分で、『草枕』でも読みましょう。