「ろば」、「ロバ」は、「驢馬」と書く。
われわれのご先祖は、どういうわけかこの動物を家畜にしなかった。
それで、いまでもわが国に「ろば」はめったにいない。
だから似て非なる、「ポニー」と混同されることもある。
記録としては、『日本書紀』にある、「ウサギウマ」が最古という。
ろばの耳は、身体に比して長くて大きいからである。
ただし、このとき百済からやってきたのは1疋だけだから、「初代」で絶えてしまったのだろう。
それからも、何度も海を越えて運ばれてきたけど、やっぱり日本人は「ろば」を家畜にしなかった。
農耕のための家畜にしたのは、「馬」と「牛」だったのだ。
なぜか?
勝手な想像だけれども、「一体感」とか、「信頼関係」あるいは、「主従関係」の構築が困難な動物だからかもしれない。
「ろば」は、あんがい「従順でない」のだ。
気に入らないとなると、なにをしても一歩も動かない。
これが、日本人の気性に合わなかったのではないか?とうたがうのである。
松尾芭蕉の『奥の細道』における傑作のなかに、馬と一緒に人間が住まう家での、こっ酷い経験を詠んだ句がある。
蚤虱馬の尿する枕もと(のみしらみ うまの◯◯する まくらもと)
「尿」をどう読むかが問題の一句でもある。
和歌や連歌ならば、「しと」と読むところだけれども、国語教師の臼井吉見氏によれば、「ばり」だという。
現地奥州の方言を優先させれば「ばり」で、雅な「しと」ではないはずだ、と。
けれども、あえて「しと」と読むのも「おもしろい」風情となる。
粗っぽい現場イメージとのギャップがたのしめるのだ。
はたして、言葉の名人、芭蕉はどちらを選んでいたのか?
漢字で表現したのは、どちらでもよく気分次第という意味か?
はなしを戻すと、人馬が一つ屋根の下に住む奥州人の心根は、おそらく唯一の財産である「馬」を、とにかく大切にしたことにある。
馬がいなければ、生きていけない切実さがみえる。
しかし、馬はひとの心を理解する動物でもある。牛も同様だ。
結局、「飼い犬」とおなじで、「信頼関係の成立」こそが、日本人の気性に合致するのである。
この感覚が、他地域、他国にはない。
他地域、他国は、「機能」を重視するのである。
この価値観が、日本人にはなかった。
「ろば」は、馬や牛に比べれば、体格は小さいがじつはタフである。
それになにより、粗食に耐える。
つまり、維持費がかからないという経済性がある。
ただし前述のように、性質が、「頑固」なのだ。
しかも、基本的に「群れ」すらも嫌う。
だから多頭引きもできないので、ろばさん馬車といえば、1頭引きしかできないのだ。
もっといえば、協調性がないゆえの頑固なのである。
なんだか「嫌な奴」なのだ。
なるほど、われわれ日本人の先祖たちが、「ろば」を家畜にしなかった理由がわかるのである。
このことが、「わかる」とは、現代のわれわれも「日本人だ」ということなのである。
すると、家畜としての「ろば」の分布をみれば、わが国以外の全世界で、ふつうに家畜として役務に励んでいるのがわかる。
とくに、中東・北アフリカでは、小型トラックの代わりになっている。
「燃費」がかからないで、黙々と荷物を引く「ろば」は、自動車よりも利便性があるし、子どもでもあつかえる。
気性が荒いラクダとは一線を画するのは、ラクダが長距離向きなのとの違いだ。
一生のほとんどを使役される「ろば」を、使う側のひとびとはバカにする。
「おまえは、ろばのようだ」というのは、もっとも厳しい罵倒になっている。
だから、いうことをきかない子どもには、「ろばにしちゃうぞ」と脅かすのである。
すると、どんなにやんちゃでも、「ごめんなさい」といって泣き出してしまう。
あるいは、ろばを指さして、誰々はあのろばになった、といって嗤うのである。
中東地域から地中海をはさんで北に広がるヨーロッパでも、「ろば」は嘲笑の対象だ。
高貴な者は馬に乗り、最下層はろばに乗ることも禁じられる。
このことの「裏」を書いたのが、『新約聖書』で、「主」であるイエスのエルサレム入城に、子ろばの背に乗ったとある。
このエピソードは、4つの福音書の3つに記載されている。
それで、「あいつはエルサレム」といって、嫌な奴への「あだ名」をつけることがある。
婉曲に「ろば」をさす、「ばか」という意味である。
こどもの時分に読んで聴かされたり、絵本を読めるようになったりしたら、定番の外国の「童話」には、だいたい「ろば」が登場するけど、みたことがない動物だった。
それで、やっぱりいい役回りはないのだけれど、印象に残らない。
日本人は、心が通わないろばを、物語の題材にもしなかった。
「擬人化」すらできないと判断したのであろう。
それが、日本人の日本人たるゆえんなのだ。
けれども、どんどん「日本」が風化して、これを、「欧米化」と呼んで喜んでいる。
そうしたら、ふつうの人間関係も壊れだして、ろばどおしの関係のようになってしまった。
ろばが愚かなのではなくて、人間が愚かになっているのだ。