健康志向から、「サラダバー」があるレストランがずいぶんふえた。
野菜を食べると健康にいいというのが科学ではなく気分である証拠は、ドレッシングの選択にあらわれる。
ノンオイルならまだましだが、脂質たっぷりのドレッシングを大量にかければ、なにが健康的かがわからなくなる。
しかし、糖質と脂質という成分には、飢餓の時代がながかった人類にとって、「おいしい」という味覚の遺伝子が、ちゃんと機能するようにできている。
だから、野菜という低カロリー食品に、高カロリーの調味料をつかうのは、バランスがとれているのである。
そういうわけで、野菜を食べると健康にいい、ということにはすぐにはならない。
また、エグミというのは、からだによくない成分であることがおおい。
それで、苦く感じて注意を喚起するようにもなっているから、あんがい生野菜には温野菜にくらべて不健康な要素がある。
生野菜は基本的に食べない、というひとがいるのは、理にかなっている。
これに食べ合わせも考慮すると、食べ物というのは化学知識をようしないと理解できない。
中年をすぎて、尿管結石を何度かやったことがある。
その痛みたるや、表現できないほどのものだ。
主たる原因は、緑の野菜におおい「シュウ酸」が、血中のカルシウムと結合してできると医師から説明をうけた。
こうした野菜をとるときには、カルシウムもいっしょに食べると予防になるという。
たとえば、ほうれん草にはたっぷりのシュウ酸があるから、グラタンにして乳製品といっしょに食べれば、乳のカルシウムとすぐに結合して排出されるから、体内でわるさをしない。
伝統的な調理法には、そうとうの経験的知恵がつまっていることをしる。
「医食同源」とはよくいったものだ。
現代は、専門領域が深くなった分、範囲がせまくなった。
それで、「医」学、「薬」学、「栄養」学が、独立してしまった。
さらに、業界のためなのかそれぞれに国家資格ができたから、専門家は専門外のことをいえなくなった。
トータルで、医学の「医者」が、領域を超えても許されるようになっている。
しかし、むかしとちがって、患者の側の知識が向上した。
それで、家父長的である「ぞんざいな態度」を、医者がすることがなくなって、「インフォームドコンセント」や「セカンドオピニオン」があたりまえになった。
出版不況は深刻な状況になってひさしいが、一般人も一般書で知識を得ることが容易になったのは、なにもネットの普及だけが原因ではない。
たとえば、『マギー キッチンサイエンス』は、邦訳が2008年にでているが、アメリカでの出版は1984年である。
1984年といえば、レーガン大統領一期目で、米英ともにスタグフレーションに悩んでいた時代であって、わが国は『ジャパンアズナンバーワン』(1979年、エズラ・ヴォーゲル)の絶頂期だった。
この本は、そんな不況期の真っ最中のアメリカで大ベストセラーになったのだが、平成不況のわが国で大ベストセラーになってはいない。
いわゆる「グルメブーム」というのは,経済成長いちじるしいわが国あって、1975年スタートのテレビ番組『料理天国』が象徴的だったが、猫も杓子もになったのは、やはりバブル時代前後であろう。
そういう意味で,『キッチンサイエンス』は、「食」を食材と調理法という側面から科学(化学)的に解説したものとしての画期があった。
しかし、わが国の「軽さ」は、たんに豪華さをくわえた「美味追求」に終始し、それが転じて「B級」という分野に発展したから、ついに現在・ただいままで、「なぜ?」の領域にふみこんではいない。
残念だが、ここに日本がアメリカをとうとう凌駕したとおもったとたんに凋落がはじまり、アメリカが復活するメカニズムの一端をみるのである。
ちょうどこの本がアメリカで出版された頃、アメリカは国家プロジェクトとして、歴史上二度目の日本研究を終えていた。
一度目は戦時中、捕獲した「零戦」の解体研究だったが、このときは「日本経済の強さの理由」だった。
それで、かれらは「品質にこそ利益の源泉がある」という結論にいたったのである。
料理についても、食材と調理法を科学するというのは,品質の追求と同様ではないか?
これを追求した国と、怠った国が、気がつけばとても「凌駕した」とはいえない差になってしまったのは、当然の帰結である。
とあるレストランのサラダバーで、ドレッシングの種類説明のシールが一部はがれて丸まっていた。
これをみた、中年男性客がおなじグループのひとに、
「『ウザン』っていうドレッシングがいちばんうまいよ」とおしえていた。
「サ」が丸まっていたのだが、それをいわれたお仲間が、「へー、『ウザン』か、めずらしい」といって選んでいたが、「なんだ『サウザン』じゃないか」という声はきこえなかった。