大辞林によると、「環境保全を口実として全体主義・権威主義・人権抑圧などを正当化する思想」とある。
ここに、一歩まちがうと「エコ」には危険性を孕んだ意味があることがわかる。
しばし、「エコロジー」と「エコノミー」が重なる議論がある。
「エコ」が共通して頭につくからである。
そこで、「Eco-」の語源をたどると、ギリシア語の「Oicos=家」からできた接頭辞だという説明がある。
エコノミーの「-Nomy」は、やはりギリシャ語の「nomos=法・秩序」に由来するので、「economy」とは、「家の秩序」から「家の運営法」となって、いまの「経済」という意味になったという。
エコロジーは、1866年頃に作られた学術用語である。
接頭辞エコの後に続くのは、「logos=学問」からの「-logy」をつけて考案された。
なので、直訳的には、やっぱり「家の学問」になるが、「生態学」と翻訳された。
これは、「生物学」が生物の種別をすることを起源とする学問であったので、これとは違う、生物が棲息する環境やその相互作用の関係を考える学問が生まれたことが原因なのである。
つまり、学問の名前が後からできて、それが「エコロジー=生態学」となった。「研究が先、名前は後」ということだ。
わが国における「生態学」の始祖は、紀州が産んだ世界の大天才、南方熊楠である。
熊楠が柳田国男に送った、明治44年(1911)の書簡に、「昨今各国競うて研究発表する植物棲態学 ecology を、熊野で見るべき」(『全集』第八巻五九頁)とある。
「熊野で見るべき」とは、いまは保全のために立ち入り禁止となった、紀伊半島の「神島」や那智の森林環境の価値を指す。
この神島には、昭和天皇の御製『雨にけぶる神島を見て、紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ』の碑が建立されたが、直接拝見することはできない。
天皇の御製に個人名があること自体異例であるが、昭和天皇には熊楠をいれた御製がもうひとつある。
もちろん、熊楠といえば、神島の保全だけでなく、明治政府が推進した「神社合祀」反対運動で有名である。
鎮守の杜(天然)を守ることが、人々の融和も促進するとしたから、社会を守る運動でもあった。
その博識が世界にも認められた熊楠の行動は、ときに異常でもあったろうけれど、博物学者として当代一の知見から発生する「行動」に、私利私欲は微塵もなかった。
ナチスがドイツで支持を増したのは、「先進国」として、社会の分断があったという土壌ゆえである。
もちろん、「第一次大戦の賠償金」が、国家経済を圧迫していたこともある。
しかし、それ以上に深刻だったのは、皮肉にもプロテスタントの先進性が、人々をバラバラにしていたのである。
「自分の心で祈ればよい」という「キリスト教原理主義」が、当時最先端の自由を保障する『ワイマール憲法』まで用意した。
しかし、自分と他人の間に入るものがなくなって、隣人さえもどこの誰だか気にしなくなった。
この「すき間」に入りこんだのが、「全体主義」の「陶酔」だったのである。
その手段となったのが、「禁煙運動」からはじまる「健康対策」であり、「自然環境保護」の主張と施策だった。
そうやって、ヒトラーユーゲントは、ハイキングを最大の活動として、ときにフォークダンスをやっては、保守的なおとなたちに若者の健全なる成長をアピールしたのだった。
これをいまさら、別のいい方をすれば「緑の政治」なのである。
1962年に出版された、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』は、いまようなら「トンデモ本」ではあるけれど、当時は衝撃的な告発として取り上げられ、特定政治思想のひとたちにこぞって使われたし、いまもその筋には「古典」として礼賛されている。
この流れに、アル・ゴア『不都合な真実』という、デマゴーグがある。
80年代になって、ドイツで生まれた「緑の党」とは、はじめ「保守思想」のひとたちによっていたが、いつの間にかに「左翼思想」のひとたちにまるまる組織を乗っ取られた。
そして、「左翼運動」の絶対的行き詰まりとなった、ソ連東欧の崩壊を機に、「緑の政治」がポスト・左翼運動として主流になったことを意味する。
こうして、現在はあたかも「エコ追求」が、平和で持続可能で社会的に公正な新しい社会を目指す総合的な理念となったのである。
しかし、源流は「エコ・ファシズム」であることを、決して忘れてはならない。
つまり、「全体主義」なのである。
果たして、わが国も、禁煙運動が「禁煙条例」になって、世は「健康志向」真っ盛りである。これに、地球環境やら温暖化という、よくよく考えればなんのことだかわからない「エセ科学」が横行している。
そうやって、レジ袋の有料化も断行された。
そのうち、「少年団」が出てくるはずだと思ったら、滋賀県発の「こどもクラブ」が全国組織になっていると書いた。
社会が特定思想に冒されているのである。