真夏の妄想である。
世界史に滅多に類例がないのに、あんがいと日本人はこれを、「自慢しない」のは不思議である。
それが、いまでは身分制度ではないとされる「士・農・工・商」とセットになった、「士族の給与体系」が「米」であったことである。
初代将軍、徳川家康がどのような意図で「年貢と給与」を直結させたのか?はここでは議論しないけど、これが、「太平」の270年の礎になったことは間違いない。
貨幣経済が未発達だったから、という論もあるけれど、武士たちは「札差」という指定認可業者をもって換金していたので、本当はもっと進んでいた。
もちろん、「現物」は大阪に運ばれていたけれど、「先物」も世界で初めて取り引きされていたから、「権利書類」と「現物」と「現金」は、「三面等価」だったのである。
しかも、大阪で広く流通した「銀」と、江戸の「金」での交換レートもあったから、あたかも「外国為替」のようなシステムができていた。
まさに、「飛脚」が小さな箱を結んだ棒を肩にかけて運んだのが、「為替」だったのである。
これを、大阪と江戸の商人は、「大福帳」で管理していた。
現代の最新経理システムは、すごく進化したとはいえ、何を隠そう「電子」がつく「大福帳」に変わりはないのである。
天下人も、各藩の大名家も、全部が「米」をもって収入(給与)としていたから、稲作のための田んぼの「開墾(新田開発)」がいまでいう電子通貨の「マイニング」にあたる。
ところが、後に米が余って米相場が暴落したら、途端に「塗炭の苦しみ」が武家を襲うことになった。
八代「暴れん坊将軍」吉宗が、生涯悩まされたのが米相場であった。
いかに将軍といえども「米よ値上がりせよ」といってもそうはいかない。
それで商人に罪をきせても、やっぱりそうはいかないのである。
為政者が困窮した生活を強いられる、という画期的な体制だったのである。
これは、いつもいう「野蛮な欧米」の発想にはない、ばかりか、あり得ない。
彼らは、「独り占め」することが、支配者であり為政者の「権利」とかんがえたからだ。
なので、絢爛豪華な城にて贅沢三昧に暮らしたのである。
この意味で、わが国は、足利義満の時代と安土・桃山時代の「二大ピーク」で絢爛豪華を「卒業」してしまった。
しかもなお、「工・商」のうちの「商人」には、絢爛豪華を許したという不可思議がある。
すなわち、「権力」と「財力」の分離をしたのだった。
最上位にある天皇の「権威」も権力と分離させた伝統があるから、すさまじき「三つの力(権威・権力・財力)」の分離を目論んだのである。
それが、「親藩」と「外様」にも応用されて、石高がなくても幕閣として権力をふるう親藩に対して、石高が高くても常に冷や飯を食わされる外様とに分けたシステムにもなった。
こうして、権力と財力を分離させたことで、社会の安定を得たのである。
この構造を作ったのが、最高権力者であった「徳川家康」だったから、もう欧米の野蛮思想ではついていけない。
ただ「分離させた」のではなくて、権力者には財力を与えず、財力を持つものには権力を与えなかったのである。
欧米への盲目的憧れで逆転し、野蛮化をすすんで実行したのが「文明開化」だった。
だから、欧米知識人が褒め称える「日本人のすごさ」に気づいた日本人がいなかった。
この痛恨事は、明治の元勲たちが求めてしまったのである。
下級武士たちの「育ち」が、残念ながら「貪欲さ」を隠せずに、権力と財力を合体化させた。
しかし、それでも役人の給与は「薄給」としたのは、国が貧乏だったからである。
職業として安定しているけれども、薄給であることがバランスだった。
高級官僚は、薄給だけど国家権力を行使できた。
ところが、行政の肥大化が国富の蓄積と共に発生したら、薄給を取り返す貪欲さが芽ばえて、これを制度化した。
こうして、「役人天国」の国になったのである。
旧社会主義国では、優秀な学生をリクルートし、また、学生も望んだのは、「並」なら公務員であって、「優」なら党員資格であった。
そして、党本部における「官僚」になれば、確実に特権階級になれる。
この特権階級を、「ノーメンクラツーラ」というのである。
なお、同時期のアメリカには、「WASP:ワスプ:白人 (White) ,アングロ・サクソン系民族 (Anglo-Saxon) ,プロテスタント (Protestant) の3条件を満たすエリート特権階級たち」がいた。
この反動が、「反白人」になっているとTVのコメンテーターはいうけど、そんな単純なことではないので念のため。
そんなわけで、わが国の高貴なオリジナル文明においては、権力と財力の分離を図ることが、もっとも国民に理解と支持がされやすい「政策」なのである。
ならば、「サラリー:塩」で給与を払うとか、「扶持米」に戻すとかするとどうなるか?
「産業の米」である、「ICチップ」にしたら、もっとまともな半導体をつくるために、民間まかせが一番だと気づくかもしれない。
すると、優秀な官僚がいなくなる、という「心配」をするひとが出てくるのだろうけど、ぜんぜん心配の必要はない。
むしろ、役人は優秀でなくて良い。
それが、国民と国民経済のためなのだ。
優秀な人材は民間こそに必要なのである。
なぜなら、民間しか国富を増やせないからだ。
公共部門とは、巨大な消費機関でしかなく、新たな価値を決して作れない。
公共部門に国民が欲するのは、優秀な役人ではなくて、優秀な政治家なのである。
これら政治家にも、財力を与えない、とすれば、よほどの私財と決心がないと立候補できない。
組織をもった政党の出番になるから、ようやく近代政党が生まれる可能性も高くなる。
ついでに、議員は一代限り、とすればもっといい。
財力を失えば、世襲もできなくなる。