世紀のデマ。
これが、「コロナ禍」の真相である。
しかし、おおくのひとが聞く耳を持たなくなっている。
デマであろうがなかろうが、「安心」を最優先させる思想が、日本人の心を支配するからである。
一方、5月にボチボチはじまってはいたが、今月1日から大規模化したドイツ・ベルリンで発生した「反コロナ対策デモ」が止まらない。
一昨日の29日には、3万8000人が参加し、そのうち暴徒化した300人が逮捕されたとBBCが伝えている。
暴徒と化すのは感心できないけれど、政府による「規制に反発する」という態度は、「自由の侵害」という基準からすれば当然である。
かつての「同盟国」ドイツ人は、どのような思想で戦後を生きてきたのかがわかるデモでもあるのだ。
すると、反対に、日本人はどのような思想で戦後を生きてきたのか?
「自由と民主主義」という用語が、なんだかむなしかったのは、「空っぽだった」からだと確認できることになった。
むしろ、いま、日本人は自由と民主主義を「無視する」ことを、あたらしい日常といっていないか?
政府の失敗をいろいろ指摘しているひとたちはたくさんいる。たとえば、国境封鎖が遅れたとか。
けれども、第一に、政府は失敗するものだという「前提」がある。このことを忘れて、コロナ対策だけを間違えているというのは間違いである。
いつものことの「一部」にすぎないのである。
一連のコロナ対策で、このブログで指摘している政府の失敗は、緊急事態宣言を出して、終息宣言を出したら「元に戻る」とかんがえたことだ。
すなわち、法律の定めによって、巨大な権限を首相=政府から、各都道府県知事に「委譲」したのが緊急事態宣言だったけど、終息宣言をしてもその権限が元に戻る「ことはない」ことを予測できなかったことにある。
これは、地方の反乱なのである。反乱の予測ができない中央の傲慢さ。
いわば、廃藩置県以来の、中央集権国家における地方政府たる都道府県が、「藩」に戻るという現象を起こしてしまったのだ。
このことの重要さがいわれていない。
たとえば、中央政界を仕切るのは、圧倒的多数の与党である。
本人がこの与党の党員であったり、与党が支持・支援して当選した知事たちが、天領のお代官さまでいるのでもなく、ちゃっかり政府に対抗している。
その筆頭が都知事であるけど、だれもこれをとがめない。
その原因は、自由と民主主義を前提とする「法治の建て付け」が、もともと空虚だったからである。
さらに、わが国最大の政権与党が、「近代政党ではない」という大欠陥を露呈していても、国民がこの欠陥にぜんぜん気づかない。
さらにこれを気づかせないように、このタイミングで辞任表明した首相は、この一点だけで、歴代最高の総理大臣であるのは確かである。
政権与党の最大の欠陥を身体を張って、とにかく隠蔽することに成功させた功績は、与党にとっては100年に一人の逸材であったといえるからである。
ただし、このほかは、長期政権だったということ以外、ほとんど功績がないという特徴がある。それは、後継者がいないということでもわかる。
トップの責任には、後継者づくりがあるからだ。
わが国を長期衰退させたのを、功績と評価する外国はあるだろうけど。
都道府県知事は、内閣総理大臣と「ちがって」、住民による直接選挙で選ばれるから、「おらがお国の大将=藩主」になりえる。
これを、中央政府による、さまざまな「規制」と「制約」によってつなぎとめていたのもを、緊急事態宣言で中央政府が自らこの糸を断ち切ってしまったのだ。求心力ではなくて、遠心力となったから、物理法則である。
西洋風にいえば、「パンドラの箱」を政府が自分で開けたのだ。
パンドラの箱とは、全知全能のゼウスがパンドラに、あらゆる災いを封じ込めて人間界に持たせてよこした小箱のことで、これを開けたために不幸が飛びだしたが、急いで蓋をしたため希望だけが残ったという話だ。
ギリシャ神話ならすぐさま閉じて「希望が残った」けれど、日本政府はなにもしないから、とうとう希望も失せた。
知事たちの反乱に、政府は為す術をもたなかったのではなくて、上述の「建て付け」が狂って、締めようにも締まらなくなったということだろう。
すなわち、自由と民主主義でもないのに、それを装って「法治国家」だと言い張ってはいたものの、とうとう戦後のバラックづくりの建物が、ちょいと一本木材を抜いてみたら、音をたてて崩壊してしまったようなものである。
さらに、まちがったリスク管理もある。
いつの間にか日本人は、「リスクは避けるもの」がこうじて「リスクは絶対に回避するもの」になった。この「回避」には、「逃避」という意味もある。
だから、徹底的にリスクを嫌う。
しかし、リスクあっての「利益」であるから、リスクはあくまで「コントロール」すべきものなのである。
コントロール(制御)するのは人間だから、ひとが主体になってリスクに立ち向かう、というイメージになる。
リスクに立ち向かうことができなくなったのは、バブル崩壊による「ショック」(精神病理)による。
これは、「心的外傷後ストレス障害」であるので、30年前に罹患した病気が治癒しないばかりか悪化しているのである。
さらに、75年前の敗戦・占領というショックからも立ち直っていないから、日本人の心の傷による病は、年輪のように重なっている。
以上のように、一見複雑そうにみえるけど、あんがい解きほぐしてみれば、めちゃくちゃ複雑でもない。
コロナ禍とは、こうした日本人がつくる「社会が生みだした心の病」なのである。
だから、感染症の専門家が正しい情報を提供しても通用しないし、政府の専門家会議のトップが「収束に向かっている」と発言しても、知事という医学の素人が平気で否定できて、そんな知事たちの支持率が高いのである。
こうしてみれば、精神医学か社会心理学の専門家による「教導」が必要なのだけど、それがまたデマだと目も当てられない。
ならば、原点に立ち返って、「自由と民主主義」の本質を確認するという態度が、どうしても必要なのである。
ドイツでのデモが、それを教えてくれているのだ。
ただし、この報道にも「極右」という用語が埋め込まれているから、報道を装った誘導に注意したい。