「人間界」の日本人

「界」という漢字一文字で表現するとき、それが分類学での「生物分類」をさすときの概念は「最上位」という意味でつかわれてきた。
「自然界」にあっての「植物界」とか「動物界」の「界」である。
いまでは、「修正六界説」が最新だけど、学説的に統一されたまとまりがないので「諸説いろいろ状態」になっている。

「界」の上位概念に「ドメイン」ができたし、その上に「生物」がある。
これは、「博物学」でいう「鉱物界」があったからだ。
人間は、生物のなかで、二分される「真核生物」(もう一方は「原核生物」)で、「動物界」に分類される。

人類の発祥は、いまのアフリカ大陸西部であったことは、DNAが発見されてからの「大成果」になっている。
これには、遺伝子のなかの染色体の追跡からわかったことである。
なかでも、性別をきめるのは、「X」と「Y」の格好に似ていることから、それぞれ「X染色体」、「Y染色体」とよばれている。

卵子と精子にある染色体が結合することで、あたらしい生命が誕生する。
このとき、それぞれが持っている染色体の組合せで、あたらしい生命の「性」がきまる。
そして、「Y染色体」が取り込まれると、かならず「男」になる。

このことだけでも、「生命の神秘」がある。

どんなふうにして、こうなったのか?
21世紀になっても、「神の設計による」と信じるひとがいるのも理解できる。
しかしまた、「自然なのだ」という完全に受身の発想もある。

人間はかんがえることができる、いまのところ唯一の動物だ。
「記憶力」では、ぜったいに忘れないという「象」にはかなわない。
人気アプリ、「エバーノート」が採用したロゴが、象なのもこの意味の象徴だからだろう。

そこで、人間の分類には、生物としての分類のほかに、発想としての分類がでてくるのは、いかにも「人間らしい」ことだ。
他の動物界にはできないものだ。

これが、「人間界」という概念をつくった。

人間が生きる社会のことをいうけど、あんがいと「宗教的」だ。
とくに「仏教」において、「人間界」は重要だ。
また、旧約聖書でいう天界とか地獄、あるいは、キリスト教普及前のヨーロッパにあった、妖精とかもひとであってひとでない世界を意識していた。

ただし、生物としての分類があんがいと重要なのは、差別ではなくて厳然たる事実としての「人種」があって、様々な意味で特徴がことなる。
それは、もちろん見た目でわかる「肌の色」のちがいだ。
主に、太陽光線を浴びる量によって遺伝的に変化した。

大雑把にいえば、有害な紫外線量による。
光の波長で、可視光線の範囲をこえるのを「外」と書く。
短い方の「外」が紫外線で、長い方は「赤外線」という。
天然プリズムの「虹」は、半円状の外側が赤、内側が紫になる。

地球の公転と自転の傾きの関係から、それに「極」の特性で、緯度が南北に高くなると紫外線量も減る。
それでもって、アフリカからヨーロッパに移動した人類は、肌の色を白くして、目の色も薄くなった。

紫外線防禦のための、メラニン色素を節約したのである。
世界的ベストセラーになった、『鉄 銃 病原菌』でも解説された、アフリカからの人類の移動が主に「東への横移動」だったことに注目すると、中間帯に黄色人種が多数いる意味も、紫外線による。

これには、たまたま巨大に「横たわる」、ユーラシア大陸があったからで、気候がおなじ横移動が優先されて、南北への縦移動はそのあとになる。
また、太陽が昇る方向が東だから、「東」が憧れの地になったのである。
キリストの受胎告知に、「東方から賢人」がやってきたというエピソードは、この意味で納得できる。

もし、地球の陸地の形状がいまのような横長でなくて、縦長だったら、人類はどのようになっていたのか?
海の面積がおなじとしても、それがまた、海流にも影響するだろうから、魚もいまとはちがうかもしれない。

そんなわけで、おなじ人類でも、基本的な身体の構造がちがう。
これは、事実なのであって差別ではない。
メラニン色素をつくらなくて済むようになった分、我々からみたら白人は身体が巨大化した。

なので、白人とおなじ薬を服用するとき、黄色人種は少ない量で調整しないと、効き過ぎるのである。
「体格のちがい」の根源は、太陽光線を受ける量のちがいに由来する。もちろんそれが、食物にも影響して、生物学的にことなることになったのだ。

すると、人間界のなかでの発想もことなることになった。
西洋哲学と東洋哲学があるように、ぜんぜんちがう思考をするのだ。

「近代文明」は、あたかも西洋基準の世界普及であったかのようだったのに、残念ながら根本思想まで「西洋一色」になったわけではなかった。
それで、西洋人も『西洋の没落』をいいだしたけど、これも「西洋思想」のなかでの発想なので、東洋の勃興を意味するものではない。

 

東洋のなかでのユニークは、「日本文明」にある。
これを構築した日本人は、「恥の文化」をしっていた「文明人」としての日本人をさす。

恥の文化をわすれた、現代の日本列島に棲まう「自称・日本人」は、日本文明をつくった日本人ではない。
小数派になった日本人と、多数派の自称・日本人との決戦が迫っているのが、いま、なのである。

それは、あたかも多数派だった「縄文人」が、「弥生人」に取って代われたごとき状態だ。
けれども、現代日本人に縄文人のDNAは相当に継続・分布していることがわかってきた。

縄文人のルーツは不明だけれど、日本人のDNAはいつ目醒めるのか?

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