国会や地方議会、知事やらの首長だけが「公職」ではないけれど、他の「公職」に関わる選挙が「ない」のがわが国である。
それで、「任命」という方法がとられているけど、「アンタッチャブル」も多数ある。
たとえば、公安委員会とか、教育委員会がそれだ。
公安委員会は、国家ならば「大臣」が国家公安委員長に就任するので、国会議員から選ばれたひとが入閣する形式をとっている。
けれども、委員長の他5人は、国会の「承認」が必要とはいえ、国民から誰かがなっている。
都道府県公安委員会になると、またちがっていて、当該する都道府県議会議員の「被選挙権」をもつ者で、任期前5年間に検察官や警察官といった職業的公務員でなかったひとを、議会の「同意」を得てから知事が「任命」することになっているから、当該住民の誰かがなっている。
なお、一般人にはなんだかよくわからなくて選ばれた、都道府県公安委員には、「リコール」制度もあって「罷免」できるようになっている。
また、国家も都道府県公安委員会も、「庶務」は、警察庁、都道府県警察が行うことになっているけど、警察庁長官も、都道府県警察の長も、基本的に「官僚」が、「組織内部人事」によって就任するために、「公職選挙」の対象にない。
これは、検察官も同様で、地方検察庁の長官(検事正)も、法務省の官僚に等しいから、「組織内部人事」によっているために、「公職選挙」の対象ではなく、検察審査会制度はあるけど、こちらも「有権者」のなかから「くじ引き」で選ぶことになっている。
委員長が「いない」委員会としては、教育委員会がある。
2015年(平成27年)4月1日に施行された、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律の改正」に伴って、教育長に統合されて「廃止」になっている。
こちらは、「首長からの独立」という設立趣旨からの大義名分があるので、あんがいと「強力」な委員会だ。
それで、議会承認の上の「任命」という方式がとられている。
一方で、「事務」は、「教育庁」が取り扱う。
なので、教育委員会の責任者は、上述の通り「教育長」という、役人になったから、やっぱり公職選挙の対象に「ない」。
なお、上記「法改正」は、安倍長期政権の成果のひとつだ。
つまるところ、「選挙」がない「公職」がたくさんある。
これには「言い分」があって、特定の「政治家」や「政治思想」をもつ者たちによる影響の排除があるとされている。
選挙でポストを奪われたら、社会の「事務」が滞って、国民や住民が迷惑する、というわけである。
けれども、役人任せなら、どうして「大丈夫」だといえるのか?という問題と、国民や住民が迷惑していても、「換えようがない」ということのリスクをどうするか?は解決できない。
すなわち、日本政府と地方政府の構造が、江戸幕府(幕藩体制)化しているのである。
困ったことに、日本人が鎖国のなかにあって、ほぼ全員が「貧乏」という「平等」であったので、あんがいと江戸幕府や各藩の「治世」が、まともだったことを基盤にして、「お上を信じる」国民性が、ここにきて「裏目」になってしまっている。
国民が「貧乏」になることは、政府依存を高めるから、家康がいう「百姓は生かさぬように殺さぬように」が、為政者にとって都合のいい「施政方針」になるのである。
もちろん、徳川家康は、専制君主であって、民主主義者でも自由主義者でもない。
ただ、「大衆」の「心理」はしっていた。
それが、「祭り」における「発散」を奨励したことの理由だともいう。
この意味で、「サッカー」や「野球」などの、大衆が熱狂する「興行」が、「ガス抜き」となって、たまに「暴動」になるのである。
しかして一方、上述の「選挙がない」制度をつくったのは、3段階のロケット状態で、1段目が江戸期まで歴史、2段目が明治政府がつくった制度、そして永久に廻る軌道に乗せた3段目が、「占領時代」の「日本改造」だったといえる。
すると、日本改造計画の策定には、おそろしく「綿密」な、日本研究の成果が使われているとしか思えない。
企業の「経営理念」を策定するとか、「経営ビジョン」を策定するには、当該企業の「哲学」を掘り起こして、「文字化する」ひつようがあるのとは、比較にならない「壮大な」掘り起こしをせずにして、「一国の改造」は不可能だからである。
すると、当時のアメリカ民主党の、得体の知れない「力(フォース)」を改めて認識するのである。
すなわち、「日本改造」は、まちがいなく「国家プロジェクト」だったと。
そうやって、アメリカの制度を注入する部分と、させない部分とに区分したにちがいない。
「公職」なのに、選挙の対象としない上述のわが国の例は、アメリカでは全部が「公職選挙」の対象だからである。
もちろん、「連邦制」という、まったくちがう国だから、全部がおなじ制度にさせる意味もないけど、副知事や事務方トップも選挙の対象だということは、日本人も意識していい時代になってきた。
生活に密着した公職が、選挙の対象となれば、住民の投票がいまよりずっと「重い意味」をもつことになるのは、当然だからである。
そして、選挙結果のリスクも、住民が負うことになるので、「他人事」では済まされない。
「自治」の意味をしらないで生きるかどうか?ということだ。