「宿命のライバル」がいるひとは幸せである.ライバルと認める存在が,自身に適度な緊張をあたえてくれる.それで,自分の成長が促進されるからだ.だから,突然,ライバルが目のまえから消えてしまうと,自分のいくべき方向がわからなくなって,混乱し,低迷してしまうことがよくある.そういう意味で,ライバルは互いに鏡のような存在である.「よきライバルこそよき友」といわれるのは,このようなことからだ.それは,また,よきライバルをもったことがあるひとにしかわからない.
経営者の役割をだれがチェックするのか?
企業活動のなかでかんがえると,経営者の鏡になるのは従業員である.よき経営者が経営する企業には,よき従業員があつまってくる.ところが,よき従業員たちだったものが,悪しき経営者のもとでは不良化することがあるからだ.あたりまえだが,従業員も経営者も,ひと,である.だから,会社をはなれて家に帰れば,それぞれが一介の家庭人になる.
しょせんは「仮のすがた」なのだ.
とすれば,世の中は演劇でできている.だれしもが「仮のすがた」をよそおって生きている.たまたま割り振られた役柄を演じていることになる.ここで,ちょっとした意志をもって,もっといい役回りがほしい,として自分から行動したひとは,それなりの役が回ってくるが,ハッピーエンドになるか悲劇的な結末になるかは,「運命」が左右することもある.
「運命」を「神の御業」とかんがえるひとと,「運命」は「コントロールするもの」とかんがえるひと,いや,「運命」には「だまって流される」のをよしとするひとと,演じてによってシナリオがことなるのが,実際の演劇とのちがいだ.しかも,これらのかんがえが,同じ演じての人生のなかで,コロコロとかわる可能性もある.だから,すべてのひとは,すさまじく無限大の選択可能性のなかから,シナリオを絞って生きている.
たまたま割り振られた役柄として,経営者の役をこなすひとには,だれが演出するのか?といえば,ふつうは「株主」とこたえたいところだが,「ものを言う株主」が注目されるわが国では,「ものを言わない株主」のほうがふつうだ.事業に失敗して「再生」モードになった企業のばあいが,スポンサーという他人に演出をゆだねることになる.
ところが,このスポンサー役を公務員が引き受けることがある.「支援」という大義名分をもって,政府が介入するのだ.もっとわからないのは,カネを出さないのに口だけ出すばあいだ.「監督官庁」というものがいる.不祥事をおこした企業のトップが,役所にいって頭をさげる.国民の目からみれば,「監督不行き届き」で罰せられるべきは「監督官庁」のほうである.しかし,「監督官庁」の役人が怒ったような顔で,おまえらのおかげで仕事がふえた,どうしてくれるのだ!という気分を演じている.仕事をしている振りを演じてきたから,それが「振り」だったとバレることに怒っているのだ.笑止,である.
労働組合という役割
べつに不祥事だけではないが,ふだんから経営をチェックできるのは企業内にあっては,「労働組合」だけだ.ところが,残念なことに「労働組合」が特定の政治活動に没頭しすぎたために,労働者からも忌み嫌われるようになって,組織率は低下するばかりである.労働者も会社をはなれて家に帰れば,それぞれが一介の家庭人になることをわすれてしまった.
それで,おおくの企業内に「コンプライアンス室」ができたのだ,と疑っている.もちろん,表向きの経緯はちがう.しかし,監査役が役に立たないのを承知で,「コンプライアンス室」をつくるのは,まさに屋上屋を架すことではないか.ほんらいは,労働組合に期待できる機能だ.「コンプライアンス室」ができた企業は,それなりの規模か法的なしばりがある金融系の会社だ.一般にいう大企業のばあいは,伝統的に労働組合があって,さらに「コンプライアンス室」もあるだろう.すると,組織内のよからぬ情報は,労働組合ではなく「コンプライアンス室」にむかう流れになるから,さらに労働組合の位置づけがあまくなるはずだ.
経営者と労働者は,それぞれ目的がちがう.しかし,資本論やらに脳ミソをおかされたままだと,そのちがいの本質がみえなくなる.とくに,日本の経営者は,エリートとして資本論の教育をしらずにうけてきた歴史があるから,勘違いの度合いは格段にちがう.すなわち,「経営者=資本家」という勘違いだ.だから,社員から経営者に「昇格」したとたんに,「俺の会社」になってしまう.歴代の「先輩たち」もそうしてきたから,本人にはなんの疑問もないだろう.草葉の陰でマルクスが笑っている.
「所有」と「占有」の区別がつかないのは,近代社会の成人としてかなり深刻な精神病理である.他人から借りた本を返さない文化も,この病理からなる.他人の所有物を借りてきて占有すると,いつの間にか自分のものになってしまうから,返却しなくても気にとめない.つまり,占有状態がつづくと所有に変化するのだ.これは,貞永式目(御成敗式目)にある土地占有が所有に変化する期間を20年と定めた文化である.じっさい,21世紀のわが国の民法でも,これは変更されていない.
経営者は,企業に「利益をもたらす」ための諸策を立案・実行する役割がある.一方,労働者は,自分の「労働力」を売ることで,その対価である賃金を得る役割がある.たんなる宗教書である資本論を無視すれば,経営者と労働者は,労働力の売買という点において対等である.
だから、賃金交渉こそが労働組合の本分だ.その「賃金」の源泉は「付加価値の創造」にある.なんとなれば,付加価値に人件費は含まれるからだ.すると,経営者の利益を出すという目標と,労働者の正当な対価としての賃金の受け取りとは,「付加価値」という一点でかさなるのだ.要するに,おなじ船に乗っているということだ.そして,それは同床異夢でもないことに注意したい.
経営者が上述の勘違いをあらため,労働組合が特定の政治活動から本分に回帰すると,双方にとっての「安全弁」になる.これこそが,生産性向上のための基盤である.付加価値を人数で割ったモノが生産性だからだ.「働き方改革」とは「働かせ方改革」でもある.
経営者と労働者は宿命のライバルであって,ほんらい「敵」ではない
旅館には労使協議会があっていい
「労使」といっても団体交渉でもなく,労働組合を相手にするものではない.経営者と従業員代表(過半数を代表する)による協議である.労働組合ではないので,争議権はないが,時間外労働に関する「36協定」などの労使協定を結ぶことができる.この仕組みを広義の経営参加の場にすることも一案である.