日本学術会議は、わが国の「国立アカデミー」である。
「会議」だから、「議員」がいる。
これら議員は、特別職の公務員とされ、任期は6年で3年ごとに入れ替えとなるけれど、210人の会員は再任できず、2000人の連携会員は2回まで再任できるから、回数が決まっている制約付きの参議院のようなもの、だ。
まぁ、なんであれ「公務員」なのである。
学者たちの「会議」だから、さぞや「論文審査」を経てのことだとおもったら、あんがいちがう。
いまは、内輪の学者たちが「お仲間」を推薦しているし、「成果の評価」も、内部事務局が行っている。
「いまは」なので、「前は」論文があるすべての学者が、会員選挙の「投票権」を有していた。
この変化は、「学者」といえども「欲望」にまみれた人間だということで、それが「権威主義」となったことを伺わせるから、なんだかちょっと「チャーミング」なのである。
「権威づけして偉くなりたい」
要は、学会で威張りたい、という幼児的な感性のリニアな表現を、研究者という立場を超えて実現できる、政府がつくった「飴」なのである。
この「飴」に、血相変えて群がる姿が、あまりにも人間的だから、「チャーミング」といったのだ。
けれども、こうした欲望まみれのひとたちだから、権威のためならなんでもやる、という傾向がむき出しになるのも必然だ。
それが、学術研究予算への関与である。
こうして、学者の世界にピラミッド型のヒエラルキーがうまれる。
年寄りによる、若手へのイジメ、すなわち「ハラスメント」製造装置と化すのである。
発足は1920年の「学術研究会議」をはじまりとし、戦後の1949年に「日本学術会議」となった。
学術研究会議は、第一次大戦による連合国側がつくった国際組織として「万国学術研究会議」への参加を目的に、加盟各国の国内に設立要請されたことにある。わが国は、当時、連合国側の「戦勝国」だった。
つまり、「敵」として抜けたドイツとオーストリア外しの一環が、「万国学術研究会議」という「国際機関」だから、ぜんぜん「万国」ではない。
看板を変えたのも、昭和にすれば24年のことだから、GHQによる占領中のことである。
すると、なんとなくモデルは、「ソ連科学アカデミー」ではないかと想像するのである。
その「ソ連科学アカデミー」は、ときの独裁者スターリンにおもねった、遺伝学者のルイセンコが仕切る暗黒があったと前に書いた。
彼の政治力は凄まじく、スターリン批判をしたフルシチョフ政権によっても安定した権威を保てたが、その後のブレジネフ時代に追放される。
何人の科学者が、ルイセンコによってシベリア送りになったかは不明だけれど、少なくとも「遺伝学」では、ロシアは50年遅れていると、いまでもいわれる元凶である。
彼が、権力者に好まれたのは、その「遺伝理論」にある。
社会主義の農夫と社会主義という環境は小麦を成長させるが、資本主義の農夫と社会環境では小麦は育たない、という「理論」である。
そんなばかな、と学会で発言でもしたら、突然逮捕されてシベリアに送られたのは嘘ではない。
このたび、日本政府が会議からの推薦を無視して、6人を拒否したのは、いかなる理由であるかと大騒ぎになって、あたかも「研究の自由を奪う」という話になっているけど、研究の自由を奪ってきたのがこの「会議」なので、ルイセンコのアカデミーによく似ている。
国立大学は、国立大学法人になって、良くも悪くも「稼ぎ」がひつようになった。
その「稼ぐ」ためのマネジメントが学者にできないものだから、相変わらず「象牙の塔」のままである。
ならば、いいかげん、こんな「役立たず」の会議を廃止して、完全民営化する方向を目指すのが、「今様」である。
国家があらゆる部門の研究を支配する、という発想が古すぎる。
研究の自由を第一義とするなら、むしろ、国家から距離を置くべきなので、今般の任命から漏れた「6人」こそ、誇り高く「職」と「会議体」の存在を「否定」して筋が通るというものだ。
にもかかわらず、任命されなかったことの「不名誉を不満」として、政府批判をするとは、論理として成り立たない。
つまり、自分を「公務員にせよ」と、政府に要求しているからである。
果たして、国民として、これら呆れた輩をみて、「任命しなかった」政府を褒めることも感心しない。
そもそも、研究の自由をいうなら、学者が自ら研究の自由が保障される組織をつくってからいって欲しい。
こうした組織を運営するにはカネが要る。
それを、政府におんぶに抱っこしておいて、ノーリスクでできると信じることが学者らしくなく、甘いのである。
すなわち、政府とは関係なく、「寄付」による金集めを必然とすることで、その立場を主張できるというものだ。
もちろん、そうやってかんがえれば、文部科学省なる行政府の機能も、不要なのである。
政府に全面依存しながら、自由な研究などできるはずもない。
わが国を代表する学者たちが、これを「しらないはずもない」。
ならば、やっぱり「権威がほしい」という、世俗にまみれたひとたちの集団だということが、国民の結論になるのである。