わが国戦後史で、首相経験者が「国葬」になった事例は、吉田茂氏「だけ」であることに注目すると、安倍晋三氏の「国葬」とはなにか?は、「政治」としてかんがえておく必要はある。
「国葬」には、法的根拠となる「国葬令」があった。
GHQは昭和22年に「国葬令を失効」させているために、1967年に執り行わた吉田茂元首相の国葬が「例外的」に行われたのである。
もはや「例外」も使えないから、それ以降は首相経験者の国葬は一度もない。
つまり、「国葬令」をその後のわが国でどの首相も制定していないために、「国葬」自体ができない「法」の条件があるのだ。
だから、岸田首相が「国葬をやる」と言っても、なんらかの「立法措置」がないと「法治国家」としてはできないのである。
なので、今回の安倍氏の悲劇とは別に、「国葬」についての議論は不可欠なのだということは、国民も意識しておかないといけないのである。
「感情」で国家が執り行う「国葬」は語れないからである。
しかしながら、「大衆社会は感情的になる」というオルテガの指摘通りに、エリートなき大衆社会となった「わが国」の姿が現れたのだった。
念のためつけ加えれば、ここでいう「エリート」とは、「受験(偏差値)エリート」のことではなく、「ノブレス・オブリージュ」のある、高貴にして誇り高き人物をいう。
欧州では「騎士道」、日本では「武士道」をさす。
吉田氏の後は、「国民葬」と「自民党・内閣合同葬」がある。
格上の「国民葬」とは、政府と自民党・それに国民有志によるもので、費用はそれぞれが「分担」する。
「自民党・内閣合同葬」も同様に費用を「分担」する。
それでも、「国民葬」は一度だけ、1975年の佐藤栄作氏(生前にノーベル平和賞受賞)の例がある。
その後は、「自民党・内閣合同葬」である。
最近のは、2020年の中曽根康弘氏(生前に大勲位菊花大綬章:わが国最高位の勲章)で、その内閣(政府)負担分が巷間の話題になったことは記憶に新しい。
ついでにいえば、外国人で大勲位菊花大綬章の受章者に、ウクライナのロシア派大統領で「マイダン革命」(2014年)によってロシアに亡命した、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ氏(2011年)がいる。
今でこそ「プーチン派の悪玉」扱いだけど、日本政府の手のひら返しの態度は、なんなのか?
日本国民から授与したはずの「大勲位が泣く」とはこのことだ。
さてそれで、安倍氏の悲劇は、「殉職扱い」だということもいえる。
参議院通常選挙の「応援演説」で、凶弾に倒れたからである。
しかしてこれは、当然に「現職首相」ということではなくて、元総理総裁とはいえ、自民党の一議員としての政治活動だった。
なので、わたしは従来通りの、「自民党・内閣合同葬」がふさわしいとかんがえている。
「国葬」をやりたいひとたちとは、安倍氏の「立場の混同」があるとおもうからである。
この点、既存野党の「反対論」に説得力がないのは、安倍氏の首相としての「業績」についての「感情的」批判に終始しているからだ。
なお、「首相現職」で死去した、宏池会の大平正芳氏も、自らの「内閣」と「自民党・合同葬」だった。
すると、じつはアメリカの「ポチ」ではあったけど、たいした業績が見当たらない吉田茂氏の国葬だって、なんなのか?になるし、アベノミクスだって、日本経済を復活させたわけでもなく、むしろその社会主義性で、既存野党を丸呑みしたという「政治戦略」であって、「経済政策」とはまるでいえない。
それを、「国葬派」といってよい「保守層」が、「国会で民主的に指名された首相だ」という、これまた意味不明の「反論」をしているのである。
なぜならば、それなら、「自民党・内閣合同葬」が当然のところになって、どうして「国民葬」も飛ばす「国葬」なのか?の反論になっていないのだ。
しかも、前述のように「国葬」のためには、「法整備が不可欠」だという肝心要の要素がすっかり抜け落ちている。
すると、「国葬派」は、自民党が単独で、さっさと法整備すれば済む、という論を張るにちがいない。
これは、たいへん危険な発想だ。
こうしたことを「前例」としたならば、議論なくして多数派がなんでも決められることになる。
感情的に「混同」して、戦後初の「元首相暗殺」に対しての過敏な反応が、政府の思惑に一致するとしたら、「嫌な予感」しかない。
それで、「殉職」なのだという「勘違い」から、二階級特進の「国葬」に、国民は素直に応じて良いものか?ということをいいたいのである。
さらに、もう一つある「国葬」の理由が、「多数の外国からの問い合わせ」があるからだ、とプロパガンダしていることだ。
つまり、「弔問外交」をやりたい、ということなのだろうけど、「自民党・内閣合同葬」でどうしてダメなのか?の理由にならない。
そんなわけで、亡くなった安倍氏に「大勲位菊花章頸飾」が贈られて、雰囲気作りが進行している。
「検討氏」の岸田首相としては、素早い反応である。
「安倍氏の意志を継ぐ」といいながら、ぜんぜん主義主張の異なる「派閥」を維持しながら、安定の政権運営を得た「自信」なのだろう。
ここで海外に目を転じると、隣の大国では、安倍氏の悲劇を「祝う」ひとたちが、「祝杯」をあげていると「ニュース」になっている。
もちろん、プロパガンダなので、あちらの「党と政府」が認定・推奨していることに注目すべきだ。
そこにあるのは、「親中派」が、日本政府の中枢を占めるに至ったことの「歓びの表現」なのである。
老子のいう、「闘わずにして勝つ」ことの近年最大の成功事例になったことの「お祝い」なのだと、感情的にならずに受けとめる必要がある。
また、「憲法改正」論議すら、「親中派」の手中にあるなかでのことだから、あの国のポチである公明党が、いつ「賛成」するかわからないし、どんな「修正要求」をするかもわからない。
多分にあちらの国の「党」が、日本の憲法改正に積極的な節がある。
このこともあわせて、日本人は冷静に「国葬」をかんがえないといけないのである。
それはまた、安倍氏を慕うひとたちにもいえて、「死人に口無し」を平然とやる「冷徹さ」を、現在の自民党に感じないことの「愚」なのである。
それにしても、「国葬令」すらない戦後の日本という国を嘆くばかりなのである。
葬祭屋のYoutuberがライブ放送で国葬の話を取り上げていました。
アーカイブは以下です。
https://youtu.be/H1DKDMCusgA
今回の国葬は法整備なしで内閣府が執り行うようです。
1在任期間が最長だったこと
2選挙活動中の殉職
3弔問外交
の3つ条件が出そろっているので、国葬でいいんじゃないかということです。
それは自民合同葬から2階級特進という認識は同じですね。
コメントありがとうございます。
また、アーカイブ情報もありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。