むかし、日本興業銀行(興銀)というエリート集団がいた。
おなじ業界(いわゆる「銀行業界」ではない)には、日本長期信用銀行(長銀)と、日本債券信用銀行(日債銀)という会社もあったけど、ぜんぶ潰れた。
興銀には東大卒、長銀には京大卒が多数いて、とくに業界筆頭の興銀は、「東大にあらずんば人にあらず」という、まるで「平家」のような「社風」にまみれていた。
なので、いつ、どんなことを理由として滅亡するのか?と思っていたら、バブルの泡に露と消えた。
でも、興銀のなかのひとたちは、興銀が潰れるときは日本経済が潰れるときだ、とおもっていたので、自分たちは「絶対安泰」だと信じていた。
つまり、これぞ「エリート(選民)意識」の塊だった。
しかし、「バブル経済の崩壊」とは、「日本経済の崩壊」であったので、彼らがいうことは「正しく」て、それで自分たちも潰れた。
それから、「銀行再編(このときの「銀行」とは、「市中銀行」)」になって、あろうことかずっと見下していた富士銀行と第一勧業銀行に合併させられた。
わが国の商業銀行は、渋沢栄一が設立した「第一国立銀行(その後「第一銀行」)」をもって始まりとする。
「国立」が名前についていたのは、「発券機能」があったからである。
つまり、「お札を刷れた」のだ。
いろんな意味で「統制」が強化されている香港には、お札を刷っている銀行が二つある。
「自由経済」なら、もっとたくさんのお札を刷っている銀行があっていいけど、たいがいは「国家」がこれを独占して、配下の中央銀行にやらせている。
その点で曖昧なのがアメリカ合衆国で、「連邦準備銀行」という「民間事業者」たちが、各地で「ドル紙幣」を印刷している。
本当は発行元がちがうのに、印刷するお札のデザインはまったく同じ、という奇妙なことをやっているのだ。
そんなわけで、天下の興銀も、大蔵省銀行局には逆らえず、東京都の金庫番だった富士銀行と、ただデカくて宝くじをやっている第一勧業銀行とに吸収させられたのであった。
想像するに、なかのひとたちは、おそらくこの逆で、自分たちが富士銀行と第一勧業銀行を合併したのだ、と思い込んで威張っているのだろう。
これが、「システム問題」になって、いつまでたっても解決できないことの根源なのである。
しかしながら、上にも書いたように、東大の同級生だった「大蔵省銀行局」にはかなわない。
じつは、「同級生」といっても、「学年だけ」のことで、かたや「経済学部」かたや「法学部」ということになっている。
もちろん、「東大経済学部」で習う「経済学」とは、基本的に「マルクスのそれ」だから、世界の「実経済」を相手にしたら、ぜんぜん役に立たない。
それに、「東大法学部」で習う「法学」も、基本的に「マルクスのそれ」だから、国民に「奉仕する」のではなくて、あくまでも「統治する」ための方法になる。
なんだ、それなら「興銀マン」の自負とは、井の中の蛙そのものではないか?といえば、まったく正しい。
しかも、「ゆでガエル」なのだから、やっぱり「平家」なのである。
東大受験で「平家」のことを暗記したのは、どんな人物と年代「だけ」だったのか?源氏に負けたのは、戦闘力のちがい「だけ」だと思っているやもしれない。
このことは、「法学部」だって同じなのだけど、大蔵省に入れば、もっと強大で巨大な「井の中」に入り込む。
一般的にこれを、「タコツボ」という。
そんなわけで、若くして官僚を途中で辞めるばかりか、最近では、そもそも応募しない、という現象があるのは「希望の光」となっている。
「優秀な人材」は、価値生産的(=クリエイティブ)な職につくことが、経済の繁栄の役に立つ。
価値「非」生産の典型が、いわゆる「民間部門」に対する「政府部門」であるから、政府が巨大化することは、そのまま国家の衰退を意味する。
わが日本政府も、とうとう牙をむきだして国民を支配する方針を露わにしている。
たとえば、昨夜(23時59分)に締め切られた、「ワクチン・パスポートに関するパブリックコメント募集」だって、何人の国民が知っていたものか?
こっそり募集して、アリバイをとりたい。
こんな姑息な方法を、東大法学部のだれが教えているのか?
それとも、受験テクニックで習得するものなのか?
情報化社会にあって、政府がパブリックコメントを募集していることを知らない国民が悪い、という理屈なのだ。
ただし、「政府広報」という「撒き餌」にむらがるマスコミは、「募集中」だということを一切報じない。
さてそれで、政府の官僚たちが「正しい」のは、「国民はバカだ」という一点にある。
この一点にも気づかないでいるから、「国民はバカ」なのだ。
だから、どんなふうに痛めつけてやるか?をかんがえるのが楽しいのだろう。
もはや、日本国憲法なんて関係ない。
国民からの命令である、憲法を無視する態度の一般化は、国民国家の終わりである。
わが国は、すでに「人民共和国」に移行して、「官僚たち」による集団指導体制が完成した。
ここには、「政権党」たる政党すら無用なのである。
選挙がむなしい理由でもある。