「愚かさ」と「思考停止」はちがう、と指摘したのは、『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』での、ハンナ・アーレントであった。
このブログでの「初出」は、もう2年以上前になる。
そのときのタイトルは、「官民あげて,という発想が生産性を低くする」だった。
つまり、「官民あげて」という発想が、「愚か」というのではなく、「思考停止」なのである。
ところが、「世人」がこれに気づいていない。
だから、いまだに「官民あげて」と聴いても、読んでも、「無反応」なのだ。
むしろ、「官民あげて」取り組むからこそ、「効率がいい」と発想するし、このように「即座に」反論するにちがいない。
「官民あげて=効率がいい」という、「刷りこみ」ができているのである。
これには、「官は民より優秀だ」という、「刷りこみ」ができていて、そのまた根拠に、「東大神話」があるのは、「衆知の事実」である。
「衆知の事実」のなのに、「神話化」しているのは、「偏差値教育」という、「刷りこみ」があるので、とりあえず「東大合格」の事実が、「神話」にまさるのだ。
これは、自分の劣等感を逆手に取った、一種の「ほめ殺し」のような、また、「ねたみ」のような、ゆがんだ感情が「一般人の思考」の背景にあることを示してもいる。
つまり、ここに「思考停止」となる、「原因」がひとつ浮かび上がるのである。
そしてそれが、自身の「劣等感」から生まれるという、「愚かさ」なのだ。
ところが、これが、「社会現象」になるのは、圧倒的多数のひとたちが、こうした「劣等感」の持主だということを知っている、小数のひとたちが、「刷りこみ」を画策して、成功すると、こうなる、という仕組みを作っている。
すると、このばあい、「東大に合格すること」は、たいしたことではなし、自分の人生とは関係ない、という別角度からの「刷りこみ」がないと、「解毒」できないことに気づくのである。
興味深いことに、むかしから「東大神話」を「否定」するひとが、「東大卒」という学歴だったことだ。
これには、いくつかの「タイプ:型」があって、ひとつは、自分が東大卒だとひけらかしたいひとだ。
あるいは、「被害者」もいる。
それは、「受験」とその後の「現実」との「狹間」で葛藤せざるを得なかったひとたちで、「東大だから」という他人の目が、驚くほどのプレッシャーになって、「できなかったとき」の反動をいう。
こうしたことは、「凡人」には発生しないから、「いじめ」の要素もある。
しかして、「東大だから」という他人の目が、一層の頑張りを本人に与えて、「やっぱり優秀だ」というパターンだってある。
けれども、いじめにあいたくない、という方向からの無理した頑張りなら、その心理は本人にしか分からないとはいえ、これがまた、「被害者」という意識にもなる。
すなわち、社会からの過度の期待、ということになっているのだけれども、社会が過度の期待をしたのは、優秀なひとたち、という暗黙の前提条件を疑わない「信頼」があったからである。
そしてそれが、当然、として、よくその信頼に応える努力もしたのが、優秀なひとたち、だった。
ところが、社会から「信頼」という概念が壊れはじめた。
世界で一番強固な道徳社会だった、わが国をしてそうなったのは、わが国よりも「低くて軟弱な道徳社会」だった、ヨーロッパを崇拝してしまったことの報いなのである。
ヨーロッパは、科学と技術に秀でていた「だけ」だったのに、社会全部が秀でていると、無邪気にも信じ込んで、つねに「わが国は遅れている」という劣等感にさいなまれたのだ。
この「劣等感」を、あろうことか、「東大のひとたち」が持ったものだから、あたかも日本人全員に伝染させられた。
そしてその「感染力」が、「東大の利権」に変容したのである。
これが、東大教授というひとたちの利権になるのは当然なので、偏差値をもって、「学会」でも「序列」を構築し、その挙げ句に、学会を統括する学術会議も牛耳ることになったのである。
原動力が、「利権」ゆえに、「予算」をコントールする欲望に駆られるのである。
こうしたさまざまな「矛盾」が、地下にマグマがたまって、それがとうとう爆発・大噴火を起こす物理現象になるごとく、社会にも似たようなエネルギーがたまって、いつか爆発する。
このエネルギーを抑えているのが、「道徳社会」なのだったけれど、タガが外れるように、社会から道徳が溶解しているのである。
そしてそれが、ドロドロになって「混沌」となる。
「低くて軟弱な道徳社会」のヨーロッパで起きている、ウクライナでの出来事は、その「混沌」を先行例として見せているといえるのである。
けれども、そうは見せたくないひともいて、それを信じる「保守」がいる。
これを、思考停止族として、区別するときがやってきている。