「感動工学」の教科書

人間を科学する、といえば、まず「人間工学」がうかぶ。
これは、人間という動物の骨格やら筋肉のつきかたから、どういう座面にすると疲れずに長時間快適にいられるか、といった側面を「工学」したものだから、物理的なのである。

大学の学部には、「人間科学部」というのもできて、こちらは心理学などを応用して、感情を科学するというアプローチもくわえている。
現代では、いかに人間をストレスから解放するか?という問題は、社会的ニーズがたかくなっているし、「心とからだ」を「総合・統合」しないとわからないことばかりだと気がついた。

もちろん、むかしからある「医学」も、人間を科学する学問だし、経済学や政治学だって、人間がわからなければこたえがみつからない。
そんなことをいったら、文学も芸術も、法学も、どれもこれも人間を理解しないとつうようしないから、哲学はむだではないこともよくわかる。

いまは、どの学問分野も専門によって細分化されてしまった。
だから、伝統的な学問分野の名前だけをみると、おそろしく深い世界にはいりこんでいるようにみえるが、ひとりの偉大な人物がその深堀をしているわけでも、指揮をしているわけでもない。

無数の「専門家」が、その専門部分をまるで一本の針でつついているような姿でいるのに、おおざっぱな目には、ある分野の深掘りがすすんでいるようにみえるだけだ。
つまり、新聞などの写真印刷のように、部分ではちいさな点(ドット)でしかないものを、遠目からみれば画像として認識するようなものである。

ほんらいの「教養」が「教養」でなくなったのは、こうした細分化が原因で、専門家には、専門外のことになると、とんとわからぬ世界になってしまった。

さらに、わが国の教育には、世界に類例をあまりみない、「系」という区別があって、「普通科」の高校生を「文系」と「理系」にきめつけて「専門化」させているのは、「総合・統合」への「反逆」をつづけていることとおなじだ。

オルテガがいう「大衆」とは、そんな「専門家」のことを指す。
だから、いわゆる労働運動などでいう「大衆」とは、ぜんぜん意味がちがうから、このちがいを意識しないと議論が混乱する。

むかしのテレビCMで、「わたしつくるひと、ボクたべるひと」というのがあった。
当時ですら、決定づけられた男女の役割分担に批判があったものだが、企業活動が「モジュール化」した現代では、すでに役割分担がはっきりしてきている。

たとえば、店舗づくり、という場面では、それが「商店(スーパーマーケット)」であろうが「旅館(ホテル)」であろうが、コンセプト・メーキングにあたっての自社社員が「いない」ということがおきている。

典型的なのは、いまなにかと話題の「コンビニ」で、はたしてオーナーがどれほどじぶんの店の「店舗設計」にかかわれるのか?ということすらかんがえることもないだろう。
それがまた、「本部」の存在意義にもなっているからである。

上述の、「商店(スーパーマーケット)」であろうが「旅館(ホテル)」であろうが、というのには、大手であろうが個人経営であろうが、も条件にくわわる。
つまり、たとえ「改装」や「改修」であっても、設計を他人に丸投げして、できあがった店舗を「運営」するだけ、ということができるようになっているのである。

ところが、ここにおおきな落とし穴がある。
店舗の工事「設計図」が他人まかせということには、まさに、「営業コンセプト」もふくまれるから、コンセプトから設計まで一貫しての「他人依存」という意味になる。

すなわち、じぶんの店の「根幹価値の創造」を他人にまかせることになっている。

もちろん、優秀な「請負人」は社内や社外にいるもので、こうした「プロ」にまかせれば、じぶんや自社での負担がないようにみえるから、まるで「リスク軽減」ができているようにもみえる。

しかし、この店舗で「稼いで」、その結果として生きていかなくてはならないのは、あくまでも「じぶんたち」なのだから、どうやって「コンセプト・メイキング」をするのかは、そのときに専門家におしえてもらっても、次からは自分たちでやる、という気概があっていい。

にもかかわらず、それも面倒だとすれば、それは、自社で不動産を所有する意味がないビジネスモデルになりさがる。
これを、「経営と運営の『分離』」というなら、おおいに異議のあるところである。

毎日、お客と接しているので、その声からどういった店づくりがよりよい価値をつくるのかを検討するのは、当然すぎることなのに、それを放棄しては元も子もないはなしになるとおもうからである。
つまり、前述したオルテガのいう「大衆化」が、ここでもおきているのだ。

そんなわけで、上に紹介した書籍は、情報通信という業界のはなしを例にしているが、「統合化」という方向に逆ブレしていることに注意したい。

具体例が、ハイテクのむずかしい産業だから、じぶんたちとは関係ない、とかんがえるのも「大衆化」である。
主張の「パターン」を読みとれば、じぶんたちに「おおいに関係がある」のものだと気づくはずだ。

すると、本業はなにか?
という「原点」にかえれば、お客を「メロメロにさせる技術」が、問われるというあたりまえにもどることになる。

個々のサービスの瞬間は録画でもしないと記録できないが、そのための「舞台」となる施設や設備が必要になるのは、サービス提供をおこなうものの宿命である。
だからこそ、これを他人まかせにする、ということの「あやうさ」をいいたいのだ。

そこで、そんなかんがえをたしなめるためにも、『感性商品学-感性工学の基礎と応用-』(海文堂、1993年)あたりをご覧になってはいかがかとおもうのである。
バブル崩壊後の苦しい時期に、王道追求の教科書がでているからである。

あたかも、ものづくりのメーカーさん向けにみえるかもしれないが、はたしてそうなのか?

この春の、サービス業の新入社員にもよい教育カリキュラムになるはずなのである。

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