むかしはこうだった。
年寄りがよくいうセリフである。
かんがえてみればあたりまえで、齢を重ねれば誰だって記憶の厚みが増すものだ。
「齢(よわい)」とは、記憶の重なりをいうのである。
だから、人生経験がたかだか10年とか20年では、「むかし」といってもたいしたことはない。
ご本人には気の毒だけど、1992年のバルセロナ・オリンピックの水泳でいきなり金メダルを獲得した、岩崎恭子氏(当時14歳)が、「今まで生きてきた中で一番幸せです」といって失笑を買ったのは、その人生の「薄さ」であって、だれも「若さ」を笑ったのではなかった。
しかしながら、今年43歳になる本人が、おなじセリフをいったなら、もうだれも失笑なんてしない。
それよりも、アスリートのアスリートたる時間の短さとその頂点の瞬間に、ひとびとの想いが重なるであろう。
ここには、人生の「時間」の意味がしみじみとにじみ出るのである。
そして、「時間」とは、あんがい残酷なものだと。
万人に容赦なく平等に流れる時間は、いっさいの妥協なく一方通行で戻ることは決してない。
若い時分に、時間は残酷だといっても、その意味を理解はできない。
むしろ、ありあまる時間をもてあそぶのがふつうなのだ。
この感覚が、若者文化をつくりだす。
いまの年寄りも若い頃がそうだったように、である。
それで、たまにやってくる「戦争」が、若者にありあまる時間の感覚が間違いであることを教えた。
そうかんがえれば、オリンピックが4年に1度なのも、オリンピックをめざす若者には、時間の感覚を正しく教えるにちがいない。
だとすれば、上述の若き岩崎恭子氏の発言は、オリンピックへの出場準備からの「管理された時間」をおもえば、本人なりの率直な言葉になるのは理解できるし、「平和の祭典」の意味もわかるというものだ。
小学校でも当時の学童日本記録をだしている。
すると、中学1年で100m・200m平泳ぎで「2冠」を達成してから、彼女はおそらく「強化選手」になって、管理の対象になったのではないか?
だとしたら、同級生たちが時間をもてあそぶときに、それどころか時間に追われる毎日だったと思われるのだ。
以上が、すでにひと世代30年ほど前の「昔」の日本の一コマである。
さてはもっと前ならどうなのか?
わたし自身の人生を通過させて、その前をみるのなら、いまや「日本人の記録」となっている古い映画のなかでも「名作」のセリフを参考にしてみようかとおもう。
監督 小津安二郎『長屋紳士録』 昭和22年(1947年)4月完成の松竹映画。
未亡人役の飯田蝶子が語るラストシーンだ。
「考えてみりゃあたしたちの気持ちだってずいぶん昔とはちがってるよ。
自分一人さえ良いきゃいいじゃすまないよ。
早い話が電車に乗るんだって人を押しのけたりさ、人さまはどうでもてめえだけは腹いっぱい食おうって了見だろ。
いじいじして、のんびりしてないのはあたしたちだったよ。」
いまでも相づちをうつところだ。
すると、74年前のひとのセリフといまが一致する。
一体全体、日本人が日本人らしかったのは、いつのことだったのだろうか?
このセリフからみえるのは、「戦中」かその前の「戦前」だ。
当該の場面で、相づちをうちながら聞き入っている登場人物は、目の前の長屋に住まう役の小沢栄太郎と、同居人役の笠智衆のふたりである。
作品中の設定年齢は不詳だけれど、生年が飯田蝶子は1897年(明治30年)で50歳、小沢栄太郎は1909年(明治42年)で38歳、笠智衆は1904年(明治37年)43歳たちのかけ合いだ。
全員が明治生まれだから、やっぱり近代日本人は、明治の頃を原点にして、それ以前を「昔」として感じていたのだろう。
だとすると、夏目漱石の頃の人間模様が、がぜん興味深い。
そこで、『坊ちゃん』を詳細に時代考証した研究成果を発見した。
『「坊ちゃん」に見る明治の中学校あれこれ-国民的名作を教育史から読み直す-』藤原重彦、2019年、である。
版元が「ウニスガ印刷」となっているけど、電子出版されてから紙の本となったものだ。
「中学(5年制)」というところがミソなのだ。
本文に説明があるけれど、当時中学校に進学できたのはおよそ1%。
義務教育の「尋常小学校」は、いまの4年生まで。
その上の2年制の「高等小学校」でさえ、なかなかいける時代ではない。
飯田は高等女学校(中学校に相当)へ入学するも、すぐさま中退した。
小沢は中学校で胸を病み、笠は東洋大学印度哲学科を中退している。
つまり、このひとたちは、当時の「エリート」だったのだ。
演じた庶民は、そのほとんどが小学校の10歳、あるいは高等小学校(いまの小学校)の12歳で社会に出ていた。
だから、「昔は」というときのおおくは、小学校を出てからの社会をいったのだ。
どうやら、学校教育だけで教育されていたのではないことは確かなのである。