ビッグテック企業への批判は、アメリカ本国における「情報プラットフォーム」としての「免責特権」を得ながらも、巨大化して、まさに「情報インフラ」としての本来機能を確保してから、「一転」して「情報統制」を開始したことにある。
各国政府が最初に「無能」をさらけだしたのは、「課税問題」であった。
相手企業が、一国政府よりも巨大な範囲と深さでのビジネス展開をしているので、「課税根拠」を確定することができなくなったのだ。
つまり、巨象と化した民間企業に、蟻の政府が課税するとき、巣穴がことなる蟻同士で「獲物」を争ったのである。
そして、各国の国内法における「言論の自由」が「蹂躙」されたとき、さらなる「無能」を政府たちはさらけだしてしまった。
もともと言論の自由がなく、言論統制に躍起の外国政府への協力が問題になったときも、本社を置くアメリカ合衆国政府をもってして、自由を守らせる意味の「統制」がスムーズにできたとはいえなかった。
それよりも、ユーザーに「検索させない技術」のほうが先に完成した。
さらに、「検索させない検索用語」の「検索を試みた」ユーザーが誰かを特定し、逮捕までできるシステムの構築は、もともと言論の自由がなく、言論統制に躍起の政府にとっては、垂涎の的となる「技術」であった。
こうした、「言論統制」に、技術がなくて、しかも、国民を監視するシステムに莫大な費用をついやした「ソ連」が、政府ごと転覆したのだから、「時間」と「タイミング」の重要性が、より明確に理解できるというものだ。
歴史に「もし」は禁物とはいえ、80年代にいまのビッグテック企業が持つ技術があれば、ソ連はいまでも存在できたやもしれず、東欧圏もそのまま「衛星国」であったろう。
すると、いま、この技術導入で生き残ったアジアの大国は、果たして巨大経済力に発展できたのか?
すると、「世界の工場」は、あいかわらずわが国でいられたかもしれないし、欧州の「冷戦構造」の継続はよりわが国に有利だったろう。
しかし、そうはいかなかった。
むしろ、「旧・冷戦」が終結して30年も経っているのに、いまだに「そのまま」の感覚でいることの方が、「驚き」なのである。
一方で、コロナで判明したことは、歴史は繰り返す、を思いださせる「全体主義」が「効率的」にみえる、「錯覚」の再来なのだ。
まったくのデタラメだったのに、スターリンの「五ヵ年計画」が、当時のインテリに鮮烈な印象を与えたことの、一種のカルチャーショックのような「憧れ」が、「デタラメ」を忘れさせたごとくである。
そして、本気で「ソ連になりたい」とかんがえた。
支持者獲得競争におけるマーケティングで、どちらもおなじ左翼思想という支持集団にアッピールしたから、激しい争奪戦をもって犬猿の仲になったのは、全体主義の両巨頭・スターリン対ヒトラーだ。
ヒトラーの「天才」が、まっ先に採用したのは、ケインズの「有効需要」で、当時の常識的「財政均衡論」をぶち壊したのだった。
つまり、財政赤字を無視して、強烈な公共事業投資をやった。
すると、疲弊しきっていたはずのドイツ経済が、「復活」したのである。
それでもって、わが国は「選択肢」として悩んだ挙げ句、ドイツと同盟することにした。
わが国経済官庁が、いまだにケインズを国家経済運営の基本に置くのは、100年続く馬鹿の一つ覚え、なのである。
しかし、そのさらなる深さに、スターリンの「五ヵ年計画」がある。
だから、ケインズの公共事業が後退しても、国家が計画するスターリンの手法を決して曲げない。
これが、「馬鹿の一つ覚え」の本質なのである。
そんなわけで、70年代、謙虚でういういしく見えた(日本経済の発展に奢りがあったのでなんども騙された)、人民服を着たひとたちを応援すべく、さまざまな投資をやって半世紀が経ったら、「やどり木」に栄養を吸い取られて、やどり木を切ったら自分が死にそうにまでなってしまった。
すると、自分を痛めつけるやどり木のやり方に憧れるという、「ストックホルム症候群」を発症して、「言論統制」の「効率」が、たとえようもない「魅力」になった。
そのためには、憲法を改正しないといけない。
おおかたの「保守派」は、「国防」に気をとられて「賛成」し、これにいつもどおり「反対」する左翼をバカにする。
しかしながら、左翼全体主義の巧妙は、皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を切るのである。
コロナ対策の厳密さ実行(戒厳令)の邪魔が、憲法の「自由の精神」だという批判は、まさに「これ」で、あたかも保守的言動のひとたちが推進を試みていることだ。
ありえない強権を政府に与えよ、と。
だから、自由の本家アメリカやイギリスでの重要な出来事を、日本語で検索できなくても、こうした「エセ保守」は、ぜんぜん気にしないで、「知らなかった」と、とぼけるのである。
なぜ検索できないのか?には一切触れない。
かつて、新聞が書かないニュースは、事実ではないという時代があったけど、いまは「ネット検索」に出てこない事象に取って代わった。
検索に出てこないなら、事実はなかったのだ、が現実になった社会に住んでいる。