科学者の武田邦彦教授が解説してくれた、「水素」を得る方法が「科学的」なので、忘れないように書いておこうと思う。
まず、地球に水素はあるのか?を考えると、これは前にも書いたけど、少なくとも空気中には存在しない。
地球の引力が弱いので、空気中に水素があれば、すぐさま宇宙の彼方へ飛んでいってしまうのだ。
なにせ、原子番号「1番」の水素は、軽いばかりかちいさい。
それで、水素ガスをいかなるタンクに留め置きしようとしても、そのタンクを構成する金属やらの「壁」をやすやすと「通過」してしまうのだ。
だから、「水素ステーション」なる場所からも、ここに運び込むためのタンクローリーからも、水素は宇宙に逃げている。
すると、地球を「宇宙船」に例えれば、貴重な資源を永遠に失うことになっている。
これを、「サステイナブル(持続可能性)」というのは、言語的にも意味不明であるばかりか、「うそ」だとわかる。
「水素水」が「炭酸水」のように販売されていたことがあったけど、高価でも身体に良いという触れこみだった。
しかし、今年の3月30日、消費者庁は水素水生成器の販売・貸出事業者に景表法に基づく「措置命令」を出している。
これは、「健康への効果なし」ということであった。
けれども、もっと前の2016年12月15日に、国民生活センターは、「水に溶けている水素ガス(水素分子)は、容器の開封後や水素水生成器で作った後の時間経過により徐々に抜けていきます。」と指摘している。
あたかも炭酸水の気が抜けるのと同じようにみえるけど、水素分子は容器を「通過する」から、栓から抜けるのとは違うのだ。
もちろん、抜けた水素は宇宙へと逃げていく。
では、工業的(大量)にどうやって水素を得るのか?
二つあって、(1)石油から得る方法、と、(2)水から得る方法だ。
最初に、石油から得ることを考える。
石油には、1割ほどの水素が含まれているのだ。
では、石油から水素を抜き出すと、残りの9割は何になるのか?
それは、「炭素」なのである。
あれれ、「脱炭素社会」を目指すのではなかったのか?
ならば石油から水素を抽出してはならない、ということになる。
さらに、二酸化炭素を出すので、石油を燃やすのもやめたい、というのだから、これでは、石油を使ってはならない、という話になる。
もちろん、プラスチックもダメなので、「レジ袋有料化」をしたのだった。
ならば、われわれの文明生活をどうするのか?
二番目の方法は、いわずと知れた「水の電気分解」で水素を得る方法だ。
この電気は、どこで発電するのか?
太陽光パネルによるとするなら、例の「奴隷労働」が引っかかってくる。
それに、その地域でしか採れない「希土(貴重原子を含む土)」を大量に必要とする。
さらに、発電効果が劣化してきたら、このパネルの廃棄には更なるエネルギー・コストをかけないと、土壌汚染とかの「環境問題」が出てくる。
むかし、ブラウン管テレビの時代に、ソニーのトリニトロンに対抗して、日立が作っていたのが「キド(希土)カラー」だった。
そんなわけで、石油から水素を燃料として利用できるように取りだすためのエネルギーは、水素を燃料として使える「5倍」のエネルギーをかけないといけないし、水を電気分解するなら、「10倍」のエネルギーをかけないといけない。
これは、「化学」の自然原則なのである。
すると、「水素・エネルギー」というのは、「夢の」をつけないといけない。
あくまでも、「現実」ではない。
石油の代わりに使おうという「燃料」が、10倍の石油を使わないと取り出せないなら、ふつうは、「ナンセンス」というのである。
しかし、ここにまた、原子力発電が出てくる。
しかし、その原子力もまた、「夢の」だったのである。
50年代から60年代、「夢の原子力発電」といわれたものが、つぎつぎに誕生し、その「クリーン」さと「安全性」が自慢の種だった。
「クリーン」さとは、電気自動車のように「走っているときだけ」なにも排出しない、というだけの子供だましを政府が唱えていたのだ。
これは、「水力発電」のダムにだっていえる。
しかし、水力も原子力も建設に関わるエネルギー・コストをいわないし、腐った水を流して環境破壊をするダムの「負の面」を評価対象に「しない」ということが慣習化した。
さてそれで、川崎重工が「(夢の)水素エンジン飛行機」を、「SDGs」の一環として開発するという。
三菱重工が、「ふつうの旅客機」に失敗して、屋台骨が傾いたのを経営者はどう思っているのか?
飛んでいるときに排出するのは「水だけ」というけど、一回飛ばすのにどのくらいのコストがかかるのか?
これらの開発に、またまた税金が投じられるけど、経産省という名の「日本経済破壊工作省」が、口も出す。
三菱重工の二の舞を自ら進んでやる、という経営陣を株主は黙って見ている。
それは、既存事業でコスト吸収をはかる、という意味になるから、既存製品の利用者にも重大なコスト増となるはずだ。
わが国の「重工企業」の終わりがやってきた。