新聞社やテレビ局の経営が厳しを増してきた。
どういうわけか、どの社も同じ「理念」に取り憑かれているように見える。
それが、「社会主義」だ。
この「主義」が、ここにきて貪之神のように取り憑いているのである。
「商業主義」も批判の対象になって久しいけれど、もはや商業主義すらかなぐり捨てて、「社会主義」実現の夢を夢遊病者のように追いかけはじめたようだ。
だから、赤字をものともしない。
昔、盛んに言いふらしていた「社会の木鐸」とか、「啓蒙主義」は、ぜんぶウソだった。
民衆が拍手喝采する記事ばかりでも困るけど、瓦版のことを「読売」といった江戸っ子の、本質をついた言い方がなんだか正直の申し子という気にさせる。
買う側が言った「読売」を、売る側が言ってウソになった。
売る側が「権威」を意識したからである。
所詮「売文」だから、暇つぶしなのだという買う側の用途を忘れて、大上段から見下して「そら、すごいだろ、記者は優秀だろ」とひとりよがりに耽っていたら、とうとう読者が見切りだしたのである。
それがついに、魚の仲買人がネットではじめた「放送局」でおきた仲違いになって現れた。相手は、政治部一筋40年のキャリアをもって自認する「ご意見番」だ。
原発から出る水を薄めて海に流すと魚はどうなる?と、あろうことか仲買人本人に質問した。
それで聞かれた仲買人がブチ切れた、という次第である。
あまりにもあんまり。
自分の頭で考えろ。
しかしここで仲買人もハタと気がついた。
新聞記者は、自分の頭で考える訓練を受けたことがない動物なのだ、と。
ましてや、政府がいうことはぜんぶ「記者クラブ」という談合制をもって仕入れるから、取材とは、広報担当の役人が書いた紙をそのまま書き写すこととなっている。
こうして、一社が出し抜くことを「防止」しているのである。
だから、「ピューリッツァー賞」のような賞がない。
わが国の「新聞協会賞」というのは、お行儀がよい記者が選ばれることになっている。
読者からしたら、受賞歴のある記者ほど、質が悪いことを現するという皮肉がある。
例えば、救急医療についての取材で、若くして受賞した現・神奈川県知事のように。
そんなわけで、売れるなら何でも書く、という必死さがどの新聞にもなくなった。
「飽食の時代」とは、「文屋」や「聞屋」も絶滅させた。
ところで読者は、自分の意見と同じ記事を読みたいのである。
「正しい」情報がほしいのではない。
そんなものは、ネットにいくらでもある。
コロナでさえ飽きてきたのは、「どうも変だ」という感覚を追認させる記事がないからである。
おなじ系統の記事ばかりとなって、売る側のリスクは「売れない」リスクに変容してきた。
その「穴」を、ネットが埋めている。
ほんとうに、ネットが情報の入手場所になったので、ネットに公開している「新聞」も観る必要がなくなった。
まもなく、新聞の終わりがやってくるのは確実である。
おなじことが、「銀行」でおきている。
4月30日、みずほ銀行のHP更新で、今月17日より、全店舗で外貨両替の停止を案内している。
外国送金、トラベラーズチェックの買取等は、一部の店舗で継続実施するとある。
高級ホテルのフロント窓口で行ってきた、外貨両替サービスはどうなるのか?
お客から受け取った外貨を、ホテルは銀行に持ちこんで両替していたのだ。
メガバンク(都市銀行)にして、この体たらく。
全国の都道府県に一行ある、地銀のやばさは、半端がない。
銀行とはなにか?という定義の問題になってきたのだ。
経済哲学的な議論に基盤をおいて政策を立案し、実行したのが、サッチャー政権下のイギリスでやった「金融ビッグバン」(1986年)だった。
なにごとも「哲学的要素を欠く」のが、わがエリート官僚を育成する「最高難易度」といわれる大学である。
だから、教授陣ばかりか学生・卒業生に「哲学的要素を欠く」のは当然で、これが政策立案の元になっている。
すなわち、わが国の政策は、ことごとく哲学的要素を欠く、「その場しのぎ」か、外国事例を引きだして「流行に追随」することになる。
それが、「日本版」という「枕詞」がつくものになる。
古典でならう「枕詞」には、とくに意味はないと教わったけど、「日本版」には意味がある。
それは、「本家」と似ても似つかぬ「変化」を持たせた、「鵺(ぬえ)」のような変異をしたもの、という意味だ。
そんなわけで、1996年(平成8年)、本家イギリスに遅れることちょうど10年、わが国で「日本版金融ビッグバン」という、正体不明の政策が実施された。
これが、日本人が知っている「銀行」を定義している。
もちろん、イギリス人が知っている「銀行」を意味するものではない。
気の毒だけど、日本で銀行に就職すると、酷いめにあう。
「気の毒」なのは、自社のビジネスの根本理念を、自社で定義できないからである。
「日本版」を取り払わないといけないのだけれど、これがまた、貧乏神として取り憑いているのである。