ついぞむかしは、近所の商店街にある魚屋でお造りを依頼していた。
そこそこの価値がある大皿が、各家にあったのは、みすぼらしい皿を魚屋にわたして恥ずかしいと、思ったからだった。
魚屋は、その盛り付けを、取りにくるまで店頭で他の客たちに、発注者の名前を書いて見せびらかしていたものだ。
「うちにはろくな皿がないから。あのような(お金持ちの)家なら、すごい皿だよ」と、近所の主婦は語り合っていた。
上に乗っている刺身のクオリティを観察なんかしていない。
知識がなくとも、鑑定士の目で皿を見ていた。
ただし、見えるのは「縁」だけだった。
そんな皿が、ご近所の目に披露されるのは、「お祭り」での神輿の休憩所として提供した路上につくったスペースで、担ぎ手の若衆たちに酒を振る舞うときと、葬式の精進落としだった。
もちろん、自宅での「婚礼」は、「晴れの日」の典型だったけど、都会の狭い家ではどうにもならず、大正期にはとっくに「ホテル」での披露宴が「ふつう」になっていた。
残るは、「盆暮れ」ならぬ、正月やらの親戚を集めた内輪の宴会だけが、お披露目の場になった。
戦後、「三種の神器」といわれたのは、「洗濯機、冷蔵庫、テレビ」だったけど、おなじころに「大皿」を買って、「小皿も揃える」ということもした。
そうやって、ご近所と「横並び」したのである。
これも高度成長のおかげであった。
夜泣きそばのチャルメラ・ラアメンでも、鍋が汚いからと遠慮していたのが、当時の生活感であり、「遠慮=自粛」の行動原理だった。
自分が屋台のオヤジに差し出す、鍋が汚いことを「恥じ」て、お金があって空腹でも注文行動すらしない。
このときの「汚い」とは、決して衛生的に汚いという意味ではなくて、焦げがとれずにボコボコにへこんだ鍋をいうのだ。
衛生をいうならば、屋台のラアメンの方が、よほど衛生的ではなかった。
そんな鍋を、鍋としてまだ使っている自分の生活を「汚い=みすぼらしい」とおもうから、屋台のオヤジにさえ見せることがはばかれた。
すると、ここにあるのは、凄まじい「向上心」なのである。
自分はこんなはずじゃない。
こんな鍋を使いつづけるのは、「本来の」自分ではない。
だから、それがたとえ相手が屋台のオヤジでも、他人には見せたくないのである。
そんなわけだから、夜泣きチャルメラ・ラアメンを買いにでたのは、パジャマ姿の「子供」であったし、家にある「一番いい鍋」を持たせたのである。
さてそれで、買ってきた鍋入りラアメンをどうやって食べたのか?
当時の日本人は、鍋から直接食べることはしなかった。
「犬・猫じゃあるまいし」という矜持があった。
なので、これを、「どんぶり」に移したのである。
麺を「すする」という食べ方は、ズルズルッと音がする。
なので、欧米人はこれをやらないし、あんがいやろうとしてもできない。
しかし、その欧米人が、フォーク・ナイフをつかうようになったのは、「さいきん」のことなのだ。
ずっと、「手づかみ」で食べていた。
イタリアはフィレンツェの大富豪、メディチ家は、ルネサンスの大パトロンとして、芸術家たちを支援していた。
そこのお嬢様が、フランス王家に嫁ぐときの「嫁入り道具」に、フォーク・ナイフがあったので、以来、フランス王家では「手づかみ」をやめたと記録にある。
どういうわけか、日本人には「自分の箸と茶碗」があって、家庭内ならどんなにきれいに洗っても、絶対に自分用以外の家族の箸も茶碗も使わない。
これは、「人類学」で指摘される「珍しい風習」で、世界には日本以外で朝鮮半島の一部地域にしかないものだ。
それだから、日本人が「手づかみ」で食べるのは、珍しい食材か、箸では食べにくい場合に限られる。
もちろん、咀嚼するときにクチャクチャと音を立てるのは、日本人でも嫌うから、子供時分に直さないと、おとなになってから「お里がしれる」大恥をかくことが約束される。
あゝそれなのに、麺「だけ」は、すするのである。
さいきんでは、麺はすすることで「美味しくなる説」がある。
一方で、「ヌードル・ハラスメント」として、不快な気になる日本人もいるらしい。
「美味しくなる説」をもって、日本通の外国人は、「すする練習」をしている。
その反対に、なんでも欧米が優位というひとは、「ハラスメント」をいうのである。
興味深いのは、こうした「かぶれ」が、あんがいといまでも「マイ箸」を携帯していたりする。
それにしても、マイ箸・マイ茶碗はあるのに、マイ皿はない。
これはいったいどうしてなのか?
ご存じの方には是非ともご教示いただきたい。