「道の駅」密集地

松江から鳥取をむすぶ国道9号線は、有料区域のほうが短くて無料区域がバイパスの役目をしている。
島根県から鳥取県にはいると、一般道の9号線にするかバイパスの9号線にするか迷うが、長い道中のためバイパスをえらんだ。
すると、なんだか「道の駅」がやたらに登場する。

国道沿いにラーメン屋が密集していると、それを「ラーメン・ロード」と呼ぶことがよくあるが、まるで「道の駅・ロード」状態で、「道」と「ロード」がかさなって節操がない。
おそらく、村々の行政ごとに補助金がでて、とにかく「道の駅」をつくることが「村おこし」とか「街おこし」になったのだろう。

ラーメン屋なら「味で真っ向勝負」することになるから、ラーメン・ロードに出店するのはそれなりの「自信」がなくてはならないし、出店後に予想外の逆風があったら、必死で味の改善やライバル繁盛店の研究をおこたらないだろう。

もちろん、ライバル繁盛店の研究とは、相手の特徴を分析し、真似ではない自店の特徴をアッピールすることである。
「おなじ」にしてしまっては、元も子もないとかんがえるのが「ふつう」だ。

ところが、行政がからむと途端に「ふつう」がちがった意味の「ふつう」になる。
「競争」という概念が欠落して、施設の「維持」が優先するからである。

一車線ごとの対面通行で法定速度が時速70キロメートルのバイパスに、数分もはしると次の「道の駅」の案内カンバンがみえてくる。
閑にかこつけて全店制覇をこころみたが、数店目であっさり挫折した。
どこに寄っても「おなじ」だからである。

それはそうで、こんなに密集していれば、海産物も農産物も、季節ものなら採れるものがおなじだから売るものもおなじになる。
ほかに特徴のちがいはないかと、客のほうが探す手間をかけなければならないが、よほどの目利きでないかぎり発見するのは困難である。

つまり、ものの数分毎に「おなじ店」が並んでいる。
この季節ならよくある、スイカ農家の直売店がロードサイドに並んでいる状態とそっくりなのだ。
「いつもの店」をしっているなら「いつもの店」に、そうでなければ適当に自動車が駐車しやすそうな店にとめるのとおなじ、つまり運転手の気分に依存しているのである。

日本の「はわい」で有名な、かつての「羽合町」にも道の駅はある。
せっかくだから「はわい」がはいったグッズを「探した」が、全国共通の国道標識キーホルダー類しかなかった。
アロハシャツを売っているのに、どうしたことか?

企画力の欠如というべきか?それともなにか道の駅には「規制」があって、特徴のあるものを販売してはいけないのか?とうたがいたくなる「貧困」がそこにある。
かつての社会主義国のひとたちを招待して、どうすれば特徴ある店づくりができるのかリサーチすればよい。

きっと、「競争だ」とこたえるにちがいない。
なんのことはない、ラーメン・ロードの店主たちの努力のことである。

しかし、そんなことをする必要がないから、こうしているのだ。

この「必要性のなさ」は、消費者にとっての「必要性のなさ」ではない。
あくまでも、関係者という一団だけの論理である。
消費者は仕方がないから立ち寄っている。

まして、はるばるやってきた身からすれば、日持ちのしない品物は購入したくない。
日持ちがする品物ほど、どこでもあるから、とくに触手がのびることもない。

道の駅密集地は、競争がない社会のつまらなさを教えてくれる教材であった。

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