1963年10月7日から1982年3月10日まで18年半、794回放送された、長寿番組だった。
わたしが生まれた時(1961年)に、居間で記念に撮った写真には、大きなゲルマニウム・ラジオがあって、その上に真空管ラジオが乗っている。
それから、いつだかしらないうちに、ゲルマニウム・ラジオの位置に「布幕付き」のテレビが鎮座して、真空管ラジオもなくなっていた。
つまり、物心がついたときにあったのは、布幕付きの白黒テレビだったのである。
だけれども、どこかにラジオの音を聴いていたような感覚がある。
祖父がテレビを買ったとき、まだ近所では珍しかったので、人気番組を観に、近所のひとか集まっていたのも、遠くて薄い記憶にある。
なんだか賑やかな家だった。
細かい話だけれど、テレビを観るときには、「布幕」をめくって見終わるとまた布幕を降ろしていたし、大きな「水色レンズ」が画面にかかっていた。
その「初代」がダメになって、二代目になったときには、布幕もなくなっていた。
それで、わが家の三代目はカラーテレビになったのである。
カラーでテレビを観た人生初は、いまでも覚えている。
それは、土曜日の夜8時台の人気時代劇、『素浪人花山大吉』のレギュラー、焼津の半次が履いている股引が、「青かった」衝撃であった。
てっきり「らくだ」の股引だと思いこんでいたからである。
しかし、いまこの時代の番組を観て驚くのは、おおくの場面が「ロケ」による撮影で、道には「わだち」があるものの、よくぞこんな場所があったかと思うほどに、原っぱや電柱のない風景が拡がっている。
子供がやっていた「チャンバラごっこ」を、おとなが仕事でやっていた。
「総務省労働力調査」によると、1960年のわが国の就業人口は、4,436万人で、内訳は以下のとおりだった。
一次産業:1,340万人(30.2%)
二次産業:1,242万人(28.0%)
三次産業:1,854万人(41.8%)
こうしてみると、なかなかに「移動」ができないで、おなじ場所で働いていたと想像できるのである。
一次産業は、農地や山林それに所属する漁港が仕事の基点だし、二次産業だって工場に通っていた。
だから、地方ごとの文化がふつうに保存されていたのである。
これを、『新日本紀行』は記録していたし、「芸能文化の記録」としては、『ふるさとの歌まつり』(1966年~1974年)が人気だったのである。
東京に出てきた当該地方の出身者が観ていたばかりか、毎回紹介される、人生で行ったことがない地方の「祭りの光景」が、珍しかったからである。
これがまた、高度成長期の「旅行ブーム」を呼んだのだった。
「観光客」とは、生活が安定した「労働者階級」なくしては存在しない。
逆に、労働者階級というあたらしい職業人たちのかたまりが、そのときどき、その場所場所に「観光」にやってきたのである。
そうやって、全国各地に点在する「温泉街」が、「物見遊山」の「遊山客」を呼び込んで、これがまた、集団主義の「社員旅行」と融合した。
さらに、「家族サービス」になったのは、社員旅行のやり直しを「家族」でやるのに、父親が牽引したからである。
どこに行っても、「お父さんはよくしっているねぇ」と、専業主婦のお母さんが感心して、これを子供がみていたのであった。
「父権」と「威厳」があった時代の、「ふつう」だった。
それから、旅行会社の窓口に行って、教えてもらった通りに旅程を消化すれば「まちがいない」時代になって、「お父さん」の役割が低下した。
それで、あらかじめ作成されたパッケージ商品を買えば、有名観光地をかんたんに巡れたのである。
つまり、「お父さん」がリーダーだった時代の旅行は、かなりの「冒険」で、下手をすると旅先で詐欺や掠奪にあったのだ。
だから、余計な行動をしないで済む、旅行会社のベテランによる注意喚起の説明自体が「商品」となっていた。
『水戸黄門』だって、「寅さん」だって、あんなに気軽に旅に出られたのは、まったく真逆のキャラクターながら、「特別なひと」という共通がある。
そうやって、「地方」を廻ることが一般人には不可能な憧れであった。
しかして、『新日本紀行』は、もっと突っ込んだ「紀行」だったから、おいそれとは一般人がおなじ行動をできるはずもない「完成度」であった。
それは、「物見遊山」の「まじめ編」で、「地域学習」の教材であった。
ここに、NHKの公共放送たる矜持をみるのである。
『新日本紀行』は、横浜なら「放送ライブラリー」で試聴できる。
そこに現れる映像は、かつての、二度と帰らない日本人の生活の記録であり、これを制作したNHKの、いまはなき「まともさ」の記録なのである。
いまもNHKを信じるひとがいて、たいがいが「高齢者」といわれる理由が、『新日本紀行』やら、その他の「名作番組」を観たひとたちが、裏切ることなく存在しているからである。
なので、こうしたひとたちを裏切っている、いまのNHKの悪辣が、一層に「不道徳」なのだといえるのだった。