企業の新卒採用でよくいわれる「即戦力」がほしい、というのは、一体どういうことなのかをかんがえる。
企業内で「職業訓練を必要」としない、人材のことを「即戦力」というのなら、そもそもそんな「人材」は存在するのか?
いるとしたら、学生アルバイト経験が長く、その企業にそのまま採用された人材ということになる。
ならば、学生アルバイトに「職業訓練」をしているといえるのか?
いえる場合といえない場合がある。
いえる場合とは、現場での経験を通じての「慣れ」と「コツ」の習得がある場合で、いえない場合とは、「慣れ」と「コツ」の習得だけで企業の幹部候補としていいのか?と。それで、そうはいかない、と考えるときである。
もちろん、学生アルバイトから「昇格」して、正社員に全員がなれるなら話は別だ。
けれども、それだけでは数が足りないし、いくら長く働いてくれても、「不適切」となれば、そのまま採用されることはない。
すると、企業による価値判断として、「優秀な人材」の定義が各社それぞれにあって当然である。
各社それぞれが、おなじ業務をしているのではないから、そうなる。
しかし、各社がまとまった業界団とか、もっと大きな経済団体とかになると、「優秀な人材」というひと言で共有されるのも事実だ。
ところで、上記の例で「不適切」というのはどういうことか?
企業側の判断と本人の判断がある。
上記の例での文脈なら、企業側が「不適切」と判断したから、正社員としての採用はしないという意味になる。
しかし、学生本人の判断で、このまま一生ここで働きたくないという意味での「不適切」もあるだろう。
単純作業のアルバイトの場合、この傾向が強くなると予想できる。
つまり、お互い様の関係である「相互主義」になっているのだ。
これを忘れた議論が、企業側からの一方的な「優秀な人材がほしい」ということではないのか?
しかも、その中身の定義である、「優秀な人材」とはなにか?が相変わらず曖昧なままであるとすれば、ただの「ない物ねだり」になってしまう。
もしこのことに、学生アルバイトの方が先に気がついてしまったら、「不適切」とされるのは、企業の方になるのである。
さんざん「人手不足」と騒がれてから、コロナ禍の「自粛」によって、1974年1月の石油ショック以来の求人率の落ち込みとなった。
「ひと余り」になるということを示しているかにみえる。
もちろん、コロナ倒産をふくめ、失業者が世にあふれるだろうから、「ひと余り」にはなる。
ならば、現役社会人のなかから発生する失業者に、いかほどの「優秀な人材」がいて、このひとたちの争奪戦にならないのはなぜか?
情報の「ミスマッチ」があるのだ。
すなわち、従来の「求人情報」では、わからない、のである。
なにがわからないのか?
失業者が、求人情報をみても、そこにある求められるあたらしい仕事が、どんな人材としての要求をされているのかがわからないのだ。
べつに、ハローワークを批判したいのではない。
むしろ、自社がどんな企業で、どんな事業をやっていて、期待する募集人材がどんなひとなのかが、募集企業側に「ない」のだから、役所のデータベースや掲示板に、書いてあるはずがないのだ。
そんなわけだから、コロナ禍によって職を失った、おそらく、企業内でそこそこの高評価を得ていたひとたちも、ハローワークに足をはこんで戸惑っていることだろう。
しかも、そうした過去の「高評価」が、かえって嫌われる傾向すらあるのだ。
その理由に、自分たちより優秀だと困る、という感情がある。
ましてや、従来のペースをこわされて、バリバリ仕事をされてしまったら、迷惑だという発想すらある。
すると、本音では「そこそこ」でいいのである。
だから、こういう場合の「即戦力」とは、「そこそこ」の実務ができるひとのことを指す。
ところが、コロナ禍は、特定の産業に徹底的にわざわいした。
それが、いわゆる接客をともなう「人的サービス業」や「旅行業」である。
従来の職探しとちがって、おなじ業種の企業が採用してくれる可能性がとてつもなく低くなった。
業種内で、倒産が競争になってしまって、早いか遅いか程度になったからだ。
いま生きのこっている企業すら、人員募集の余裕はない。
すると、他業種に移るということになる。
これが、今回の「特徴」で、過去になかった「初めて」なのだ。
石油ショックは、経済全体に影響したのを思いだせばよい。
他業種への転職で「即戦力」とはなにか?
これを自己主張できるひとはそういない。
むしろ、自分は即戦力になると主張するひとを、他業種が率先して採用するのか?
「即戦力だって?」
「役立たずだろ」
とその場でなるのが「オチ」である。
どんなひとが欲しいのか?
従来以上に、採用する企業は、明記できるかが問われていて、採用される側はそれを確認したいという要望が強くなる。
逆にいえば、明記のない企業に優秀な人材は集まらないということだ。
人材の産業転換がはじまる、という意味が重要なのである。
だから、あたらしい「踏み絵」になったのである。