日本における「経済通」のほとんどが、資本主義がきらいで社会主義がだいすきだ。
だから、自由主義も新自由主義もきらいで、政府がなんでも仕切るように要求する。
このひとたちの学歴がそうとうに「高い」特徴もおなじなのは、わが国の最高学府における経済学部のおおくが「マルクス経済学」を研究・教育主体としたからである。
そのため、経済学は「文系」というくくりになっていて、受験に数学は必要ない。
早稲田大学が経済学部の受験に数学を課す、というのが「事件」になるのはこのためである。
ただし、ほんとうにアメリカ主流派経済学者のいうように、世の中の経済法則が「数学」抜きに語れないかというとかなりあやしい。
この本で、著者の数学者は、数学が表現できるのは、論理、確率、統計の三分野でしかないといい、現代数学は幸福の数値化ができるようにできていない、ともいっている。
すなわち、経済学が人間の幸福を追求する学問だとすれば、数式だけで表現できないという限界に、かんたんに突き当たるという意味になる。
だからといって、マルクス経済学が人間を幸福にすることはなく、おそるべき不幸にすることだけが、歴史をもって証明された。
これがちがう、というなら、そのひとこそが「歴史修正主義者」だ。
こういう奇妙な土壌に日本人は住んでいるから、あたかも政府に依存すればよく、自分がおもうとおりにならないのは政府のせいにもできる。
ほんとうは、政府が余計な口出しをするからうまくいかないのだから、政府がわるい、というフレーズだけは誰にとっても正解になるようになった。
その奇妙な「経済通」のひとたちは、資本主義の時代がおわったといいたがる。
では、どんな時代がくるかというと、それには一言も触れない。
じつは、資本主義が情報革命によって「進化」してしまったのだ。
これを認めたくないひとたちが、従来型の資本主義をして「おわった」といっているにすぎない。
だから、半分当たっていて、半分おおはずれなのである。
それではどんな進化なのかといえば、ネット空間という別次元に資本主義の本体が移行してしまったといえるのだ。
ここでいう「資本主義の本体」とは、「金融=資本調達機能」のことである。
従来型の資本主義では、現実に店舗をかまえる銀行や証券などの金融機関であり、資本市場である株式市場や為替市場が欠かせなかった。
ところが、ネット空間上で、これらに替わる機能が提供されだした。
すると、わざわざ資本市場に自社を上場させることすら、ムダにみえてしうものだ。
たとえば、株主への情報提供に重きをおいたため、上場企業には膨大な報告書類の提出が義務づけられた。
残念ながら、これらの書類を四半期(三カ月)ごとに提出し、発表したところで、企業業績自体が伸張することはない。
だから、株主たちはこれらのコストを、自分の配当が減ることで支払っている。
非上場企業の経営者からすれば、バカバカしいほどのムダに見えても仕方がないだろう。
それに、東芝のような企業でみられたように、上場を維持するために、優良子会社を売却するということまでしている。
ほんらいの資本主義の原則からすれば、継続して利益を出しつづけることの方が優先順位が高いはずだが、これと逆のことが起きるのである。
従来なら、バカバカしいと思うけど、非上場企業が上場することで得られる「社会的信用」のほうに魅力があった。
ところが、いまは、これすらも余計なものになりつつある。
ネット上で信用が維持されれば、自社の業務は安泰だからである。
いま、パソコン本体の値段は数万円で、かんたんにいえば、パソコンとネットにつながる通信手段さえあれば、起業しようとおもえば起業できる。
資金は、クラウドファンディングで十分だ。
それよりもなによりも、なにをするのか?が重要なのだ。
こうした無数のアイデアに、資金を投じるという「目利き」こそがあっての経済になった。
すなわち、仕組みでいえば、ほんらいの資本主義となんら変わっていない。
むしろ、特別なひとが起業するのではなくて、だれでもにチャンスがあるという、広がり、こそがいまという時代の特徴になった。
なにをするか?を見つけて、それが利益を生む仕組みであれば、巨額の資本金を要しないのが現代の資本主義である。
「論理力」と「論理を構成する力」のふたつが求められている。
すなわち、これは読解力を基本としているのである。