事実は小説より。。。
そうではなく、事実は小説のような「勧善懲悪」にはならず、むしろおおくのひとは「悪の繁栄」のなかでひっそりと暮らしている。
だから、「大団円」のうちになんか物語はおわらない。
いわば、『必殺シリーズ』のヒーローたちがひとりもいない状態が「ふつう」なのである。
ならば、「無法地帯」となってしまう、ということでもない。
人口の8割以上だった、農民のなかでも没落した水飲み百姓なら、5割もの「年貢」のために、とにかく食うや食わずで一生を過ごす運命だったとはいえ、あんまり、ということになれば「逃散」という手もあった。
藩の国境を突破して、隣国へ逃げてしまう。
時代劇だと、ここで大量殺戮となるのだが、貴重な労働者を殺してはなんにもならない。
だから、隣国側は、その貴重な労働者を歓迎したのである。
もしこれが、「天領=代官所管轄」で起きたのが上位者にしられたら、時代劇なら悪いことしかしないお代官様の身の上に大変なことが起きてしまう。
よくて切腹、わるければお家断絶の処分がくる。
だから、領民はくれぐれも大切にしないといけなかった。
この精神が、日本企業の「社員は家族」という感覚として残っていたのだった。
バブル経済という、一億国民が「カネの亡者」になりはてたことが、「戦後の絶頂」でもあった。
それこそが、貧乏からの脱出であり、だれかれに迷惑をかけずとも、カネさえ儲ければそれでよし、とした価値観の絶頂であった。
しかし、「経済のたちまちの崩壊」から、残余していた伝統的古き良き価値観も一緒くたにして藻屑と消えたから、そもそもの価値観がはっきりしない時代にとうとう30年も暮らしている。
「歌」がなくなったのも、時代の価値観を共有できない時代になったからである。
そんなわけで、身分制のために採用しなかった「科挙」を、日本史上ではじめてやった明治から、とうとう、「勉強虫=ガリ勉」が支配する世の中になった。
小学校からかぞえれば、15年間ほど、勉強すると「晴れて高級役人」になれるのだ。
『パーマン』だって、『ドラえもん』だって、主人公は高級役人を目指していない。
むしろ、高級役人を目指す子どもは、これらの作品にめったに登場なんかしない。
ありえるのは、集団でのイジメだからだ。
しかし、そんな障害を乗り越えてこその、高級役人だから、いつかみていろよ、というサイコキックな精神状態に追いこまれることもあるだろう。
アメリカだったら、『キャリー』(1976年)になった。
日本だと、晴れて高級役人になって、順番どおり偉くなれば、これ見よがしの意地悪を「政策」として発揮するようになるのだ。
観光客を呼び込むために使ってきた予算やら人的資源やらを、風邪にうつるかも、という理由で排除するのが「正義」になった。
県境に、「こないでください」と電光掲示板をだすのは、江戸時代の「逃散」の真逆なのである。
それでいて、他県からの「移住」を「募集」するということに、大金をつぎ込むのだ。
そんなことより、暮らしやすい街づくりをせよ、といいたいが、そんなことは「全国一律」だから、特徴をだすのがたいへんだ。
それで、たまたま香川県は、「ゲーム禁止条例」というものを思いついた。
地元弁護士会の抗議に、県は「罰則もなにもない」と返答し、地元高校生からは、「憲法違反」だと提訴されかかっている。
さて、この返答をした「県」とは「誰か?」ということがわからない。
「県議会」なのか「行政府」なのか?
たぶん、議会に反論なんかできっこないから、議会の「事務局」発でも「県」になるのだろう。
緊急事態宣言には法的根拠はあるし、それで都道府県知事に権限が委譲された。けど、「罰則はない」という建て付けからすれば、「ゲーム禁止条例」の導入理由で「県」の主張には「筋」が通っている。
地元であろうが全国であろうが、「弁護士会」が、風邪の蔓延におののいて、肝心の発信をしなかったのが「痛恨」だ。
ところが、「世界ゲーム大会」という一大イベントが毎年開催されていて、この勝者は、歴代、世界中で「神」あつかいになるほどの有名人になるのだ。
その最強国が、わが国なのである。
参加者はネット対戦をいれて「億人単位」だと、香川県議会の議員たちはしっているのか?
数億人のなかからの「頂点」だから、わるいが「囲碁」や「将棋」の比ではない。
おそるべし「ゲーム」なのである。
日がな一日ゲームに耽っては、将来が危うい。
しかして、保護者がいうならまだしも、県の条例としていかがか?
おそらく、「むかしは誰の子にでも、地域のおとなが叱ったものだ」というのだろう。
いま、これを言ったらどうなるか?
家庭内に行政権力がおよぶのを許さない、「高校生がいる」ことを、自慢した方がよほど健全というものだ。
イジメの精神で、あらゆる方面から、個人への「介入」をしたがる高級役人には、くれぐれも気をつけたい。