お客様は神様の神様とは誰か?

オリンピックのチケット抽選がはじまって、つぎは大阪万博だという気分の盛り上がりは、担当する役人にはあるだろうが、あまりの手続きの面倒さに、チケット抽選申込みをあきらめたわたしはいま、かえってしらけている。

過去の栄光に「しがみつく」日本経済を象徴するのがこのふたつのイベントの現代的意味であろうけど、それにしても無頓着な大盤振る舞いは、おカネが天から降ってくるとしか想像できない役人ならではである。

これに「地元経済界」がいっしょになって盛り上がっているすがたをみせるのは、まるで学校の文化祭でお化け屋敷をやるときめて張り切る側で、一般人は、なんで文化祭でお化け屋敷なのかがわからない側のようである。

経済成長まっただ中だった前回の大阪万博のテーマは「進歩と調和」という社会主義の栄光がうたわれたから、ちゃんと「ソ連館」もできた。
だから「全方位外交」の成果なんてことではなかった。
冷戦期のあだ花のような祭典だった。

これを企画した通産省の担当官は、堺屋太一だったから、わたしは彼の発想をずいぶんと疑っていた。
こんどの担当官はだれで、どんな発想の持ち主なのだろうか?

ただただ、快晴の青空に抜けるような三波春夫の「こんにちは、こんにちは♪」だけがいまも耳の中できこえる。

その三波春夫といえば、「お客様は神様です」という名文句がある。
彼の歌手(エンターテナー)という商売からすれば、舞台を観に来てくれたお客様をうらぎったら、どんなことになるのか?という意味だったかにおもえるが、あまりのわかりやすさに、例によって言葉の上っ面だけがひとり歩きしだしてしまった。

それで、どちらさまも、「お客様は神様です」といわないと、なんだかすわりがわるくなった。
ところが、そこがことばの本質で、ことばにしていっているうちに、だんだんと意識が同化してしまう。

そして、日本語でいう「神様」とは、八百万神のことを指すので、神頼みすると、人間のいうことをかなえてくれる感覚ともかさなるようになる。
だから、お客様の要望なら「無条件」にききいれれば、そのお客様がじぶんたちの願いをかなえてくれる、と信じたのである。

いっぽう、お客様の側も、さいしょはなんだか気恥ずかしかったが、だんだんと持ち上げられてきて、それが「あたりまえ」になったら、正々堂々とクレームをいうことが当然になってしまった。

こんなことから、神様と持ち上げる → だんだん神様になる をくりかえして、とうとうほんとうに「神様」になってしまった。

ところが、いぜんとしてその神様たちから願いごとの御利益がやってこない。
きがついたら、所得移転してしまって、提供者が貧乏になった。
この提供者に、材料を提供しているひとも、理不尽な値下げ要求に屈したから、やっぱり貧乏になった。

それがしゃくにさわるとおもった流通業が、レジ袋を有料にしたのだろう。
「環境問題」というあさってのトンチンカンで、流通業を後押ししてくれる役所は、流通業からなんとおもわれているかしらないが、レーニンふうにいえば、「役にたつ白痴」ということだろう。

英国で発祥して米国にも移転した資本主義は、キリスト教的清貧の精神が転化したものだという論がある。
よくみれば、アメリカの有名大学のおおくは私立大学で、そのまたおおくがキリスト教系ばかりなのである。
そんな学校が、世界のMBAを養成している。

キリスト教も、ユダヤ教も、イスラム教も、旧約聖書をおなじくするから、「神様」といえば、これらのひとたちからすれば「おなじ神様」しかうかばない。
この神様は、絶対神だから、人間のいうことをきいてくれることはほとんどない。

神様がかってにきめたことのなかに、たまたまいくつか人間にも都合のよいことがあっただけだ。
だから、「あゝ神様、神様はどうしてこんなにも神様をお慕しているわたしのいうことをお聞き及びにならないのでしょう」となげいても、せんない相手なのである。

そうすると、三波春夫のいう「神様」だって、「そっちの」神様のことではないか?

だから、御利益など最初から期待してはいけない。
一歩引いてみないといけないのだ。
すると、たまに神様と一致点があるかもしれない。

ならばこれを、たまにではなくて「いつも」に近づけたい。
これが、マーケティングの発想である。

三波春夫は、自身のマーケティングとして、「お客様は神様です」をやったのであって、全員がまねしてはいけないものなのである。
いいかえれば、マーケティングの「三波春夫モデル」となる。

げに恐るべき大スターではあった。

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