数学者は論理的ではない、という議論のつづきである。
今日は、「情緒」の「価値」を深掘りすることがテーマだ。
情緒を最重要としたのは、前回も紹介した、二十世紀わが国を代表する数学者だった岡潔だ。
言わずと知れた1960年の文化勲章受章者である。
岡潔は、物理学者をして名随筆家だった寺田寅彦をいたく尊敬しながら、みずからも名随筆家であった。
このほかに、寺田寅彦の作品は、いまでは電子書籍ならかなりのものが無料化されているから、まったくいい時代になったものだ。
前回紹介した以外に、岡潔の随筆はまだある。
本格的な春にはまだ早いが、こころがポカポカとするから、いつでも読んでいいとおもう。
この本に、情緒の教育が書かれているから、藤原正彦氏の主張は、これを読めばわかる。
そういう意味で,藤原氏は数学の系統ではなく「情緒」の系統として、寺田寅彦-岡潔のながれをくむのだろう。
それは、古きよき日本人のすがたでもある。
ノスタルディックに「情緒」をどのように取り戻すのかをかんがえても、うまくいかない。
いったん失われた教育の修正には、その教育をうけた世代をあきらめて、次の世代に注入しなければならないから時間がかかる、と岡はいう。
「あきらめる」というのは,残念だが「切り捨てる」という意味だ。
すると、年功序列を否定する社会環境が重要になる。
あとから修正された教育をうけた世代が、残念な教育をうけた世代を飛び越えて社会の指導者にならなければならないからだ。
年長者を敬う、という文化の一時的なモラトリアムが必要になる。
これは、いったん日本的伝統秩序の破壊のようにみえるが、そうではない。
なぜなら、年長者ならだれでも後輩から無条件に敬われる、ということは思考停止だから、敬われるべきひとが年長者におおい、ということであればよいからだ。
ぎゃくにいえば、若年者であっても、立派なひとは年齢にかかわらず社会から敬われるということでもあるから、フェアなのだ。
ただ年齢をもって、中身をみずにフィルターをかけて「若輩者」ときめつけるほうが卑怯な社会である。
さて、『春宵十話』の冒頭に、教育、とくに幼児教育や義務教育について書かれている。
ちなみに、この本は文化勲章3年後の1963年の毎日出版文化賞だ。
このなかで岡は、「人」を抜きにした教育を批判しているのだ。
「人」に対する知識の不足を、こどもの教育にないと嘆いている。
まさに、本末転倒という指摘である。
「人は動物だが、単なる動物ではなく、渋柿の台木に甘柿の芽をついだようなもの、つまり動物性の台木に人間性の芽をつぎ木したものといえる。それを、芽なら何でもよい、早く育ちさえすればよいと思って育てているのがいまの教育ではあるまいか。」
「すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原則だとおもう。」
そして、人たるゆえんについては、
「一にこれは思いやりの感情にあると思う。」
「いま、たくましさはわかっても、人の心のかなしみがわかる青年がどれだけあるだろうか。人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ、つまり対象への細かい心くばりがないということだから、緻密さが欠けるのはいっさいのものが欠けることにほかならない。」
これは、たいへんな指摘である。
たんに、心理学をいっているのではない。
すなわち、「情緒」である。
だから、「情緒が頭をつくる」と稀代の数学者は断言する。
「頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい。」
「単に情操教育が大切だとかいったことではなく、(中略)情緒の中心が実在することがわかると、劣等生というものはこの中心がうまくいってない者のことだから、ちょっとした気の持ちよう、教師の側からいえば気の持たせ方が大切だとわかる。」
「(副交感神経が)活動しているのは、遊びに没頭するとか、何かに熱中しているときである。やらせるのではなく、自分で熱中するというのが大切なことなので、これは学校で機縁は作れても、それ以上のことは学校ではできない。(中略)こうしたことが忘れられているのは、やはり人の中心が情緒にあるというのを知らないからだと思う。」
その気にさせるのは、陽明学の得意とするところである。
「情緒の中心が実在する」とは、最新の脳科学が解明しはじめていることだ。
そして、副交感神経の興奮をうながすことが、じつは情緒の中心を鍛えるのである。
さいきん、脳にダメージをあたえる「ミネラル不足」の指摘があるのは、食品栄養成分からおどろくほどのミネラルが欠乏しているからだ。
キレる子どもにミネラル強化療法をほどこすと、症状が改善されるのは、半世紀前に大数学者が指摘したはなしと合致する。
やっぱり、数学者は論理的なのだ。
むしろ、それを変人とする社会に論理が通じない。
ビジネスも論理である。